タバコをくわえたその先を、犬が通り過ぎた。放し飼いだろうか。新興開発されたと聞くこのあたりに、最近とんと見ない野良犬がいるというのもおかしな話だ、と思う。
今夏、僕は久々に故郷へ戻ってきた。人通りこそ少ないものの、きちんと整備された歩道はゴミも少なく、歩いていて不快な気分にはならなかった。
「久しぶりじゃないか」
向こうから歩いてきた人に名前を呼ばれる。どういうことなのか、一瞬だけ考えて思い出した。彼はたしか高校の同級生だった、柵原茂樹。
「茂樹?」
「ああ、ちゃんと覚えてたのか」
久しぶりに再会した級友は、手を振りながら小走りで近づいてきた。顔つきは随分と変わっていたから、きっと僕だったら彼だと気づかなかったと思う。
「今は何やってるんだ」
「自営業。・・・本当、久しぶりだよな。立ち話もなんだし、茶でも飲もうか。おごるからさ」
僕としても暇をもてあましていたところだったので、まるで同窓会のように思い出話に花を咲かせるのは、最適な暇つぶしにほかならなかった。店内には最近流行しているらしい音楽が流れ、僕達のほかにも何人かの客がいた。どこにでもある、平凡な喫茶店だった。
「そう言えば、お前は東京の大学行ったんだよな」
片肘をつきながら、茂樹は言う。
「うまくやれてるのか」
「そこそこ」
僕が会社に勤め始めてから、もう十年は経つ。当時の級友達の中では成績の悪くない部類だった僕は、教師に薦められるがままに大学に進んだ。足を棒にして歩き回り、やっとのことで内定を手に入れた会社で、今は働いている。
「そっちはどうなんだよ、自営業なんて言っても」
「まあ、そうだけどな。繁盛してるよ、常連さんもついてるし」
彼の実家は魚屋を営んでいて、彼自身も高校卒業と同時に、父親のあとを継ぐことになっていたらしい。本人からそのことについて、相談されたことがある。『進学すればいいのに』と僕が口を出したら、『そんな金無いんだって』と不機嫌に答えていたことを思い出す。あの頃に比べれば、自分の仕事に強烈な不満を持っている訳ではないようだった。歳のせいで性格が丸くなった、ということもあるのかもしれないが。
「でもなあ、最近はここらへんに、ほら、スーパーとかが出来ちゃって。そっちにお客が取られてるんだよな」
この不景気に参るよ、と肩をすくめて、彼はタバコを口にくわえたが、ライターを先端に近づける前に、
「お客様、当店は全面禁煙です」
近くにいたウェイトレスにとがめられる。
「え。この前来たときは、ここ、喫煙席でしたよね」
「今月から喫煙席を撤廃しました。申し訳ございません」
無表情な店員の声をうけて、彼はしぶしぶ火がついていないそれを、箱にしまった。確かに、辺りの席を見ると煙一つ立っていない。
「タバコが吸えない喫茶店って、ありかよ。そんなの」と不満げに彼が愚痴をこぼす。僕が吸ったことが無いから分からないと告げると、溜息をついてみせた。
僕達は、様々な話をした。
もともと小学校から高校生に至るまで同級生だった、腐れ縁とも呼べる仲だ。話すことはいくらでもあった。文化祭、体育祭、修学旅行、その他にも行事は山ほどあった。それに教師につけていたあだ名だとか、面白いエピソードだとか、・・・とにかく、時間をつぶすのには最適だった。
そうしている間に時計の針は進み、気がつけば午後三時頃になっていた。店からしたら、多分二人は居座り客の見本のようなもので、かなり煙たがられていたのかもしれないが。
「そういえばさ」
コーヒーの味に飽きて注文したオレンジジュースを、ストローでかき混ぜながら、僕は彼にたずねた。
「間宮、いただろ。あいつどうなった」
「どうなったって・・・さあ」
案の定柵原は、口をつぐんだ。彼女のことなど話したくはない、ということなのだろう。そもそも彼女の存在自体、楽しかった思い出とは絶望的に離れた位置にあるものだ。それは、僕も柵原も同じだ。
僕が間宮可南子と出会ったのが、いつだったかは覚えていない。僕の幼馴染として、物心つく頃には、僕のまわりにいた存在だった。
僕と柵原と間宮は、仲が良かった。お互いが近所の遊び仲間で、それは幼稚園の頃から、高校三年生の夏まで変わらなかった。誰かの家にゲームソフトを持って上がり込んだり、空き地で僕ら二人に混じって、彼女が野球をやっていたことも覚えている。
「別に忘れたわけじゃないさ」
柵原が呟いた。
「ただ、話したらお前も気分悪くなるかな、と思って」
やりとりは鮮明に覚えている。
「将来のことって考えてる?」
彼女が教室にいた僕に話しかけたのは、終業式の後だった。
「先生は東京の大学行けって」
「そうじゃなくてさあ」
そういうこともあってか、普段は鬱陶しくて仕方がないこの暑さも、何故だかこの日だけは清々しく感じられた。窓から校庭を見下ろせば、下校していく大勢の生徒が見えた。
「公園のハトみたいじゃん、あの人達。まあ、そんなことはどうでもいいんだけど」
セミの鳴き声と彼女の呟き、その残照が耳にまとわりついて離れない。
「あんたもあたしも柵原も、みんなもどこかに埋もれて見えなくなるんだろうね」
彼女の奇妙な比喩につかみどころを見失い、僕はとりあえず無難な切り返しを考える。こういうとき、僕は大抵頭が回らない。
「お前、いつもあのグループに入ってるだろ」
そう言って僕は、校門の前で固まっている女子の集団を指差した。窓が開いているので、本当のところを言えば蚊でも飛んでこないか心配だったのだが。
「そりゃそうなんだけど、仕方なくっていうか、やっぱりほら、やりにくいじゃない。だから」
そう答える彼女に、僕はありふれた溜息を吐きながら、
「まあ、言い分は分かるけど」と付け加えた。
それから僕は惜しげもなく黙った。わざわざほこり臭い校舎に居残る理由もなく。退屈に思ったらしい彼女が、ポケットからおもむろに知恵の輪を取り出す。いつだったか、旅行先の土産屋で買ったのだと聞いたものだ。僕は最近買った入試用の問題集を取り出した。
田舎に住んでいた祖父は、僕が七歳のときに死んだ。曽祖父、曾祖母が船に乗り込み、よろよろとしたレールをたずさえた汽車に乗り込んで、とうとう行き着いた先の原野に鍬を入れたのは、明治時代のことらしい。祖父も一緒に連れて行かれ、そこで人生を謳歌した。当時はいわゆる国民学校がなく、村民がお金を出して私立の教育所を建てたこと。煙を撒き散らす鉄にゆられて、未開の地で希望を抱きながら死んでいく人たちを見送ったこと。やがて金鉱が発見され、駅前にはカフェや映画館が立ち並び、賑やかになったこと。それからしばらくして、父が生まれたこと。
僕はよく、黒く腐食が進んだ枕木と、それが敷かれたレールを見つめていた。それを見つけた父や母に、危ないからやめなさい、電車が来たらどうするの、と咎められた。線路脇に架線が張られていないから、汽車という呼称が実は正しいのだと、三つほど歳の離れた兄に教わったことは良く覚えている。そして彼ら三人が、それほど列車が来ない事実と、その理由を知っていた。そのことを祖父に尋ねると、彼は、誰も悪くないのに困ったねえ、と言った。白髪が目立ち、指先は見るからにかさついている。足腰も衰えた、最近は物忘れが激しいと何度も呟く。子供だったせいか、斜陽や衰退というべき事柄は、冷徹なまでに感じていた。
僕らの世界には、誰一人として悪人はいなかった。たとえば遠くどこか(異国の地でも構わない)で宗教団体の教祖が立てこもり自決をしたと考える。殺人鬼でも、異常性欲の性犯罪者でも何でもいい。・・・少なくとも僕のまわりには、そういった地表に浮き出た悪意というものは、何一つあり得なかった。ただ悪意も善意も、化石として当然のように足元に埋もれてきたし、僕らもそれを認めてきた。だから、前述したような出来事も、昨日同じ地を踏んだ誰かが京浜東北線に飛び込んで肉片になっても、あるいは清潔なビジネスホテルのシングルルームでサラリーマンが、ドアノブにくくり付けた麻縄の先端に向き合い、インターネットで見た『低いところでする方法』を思い出しながら輪に首をかけたとしても、あるいはこういうことに関係なく、何一つ関係なく、僕らの生活は過ぎていく。それよりも最近、近所の野良猫、野良犬の数が減っただとか、そういう話のほうが重要だと認識する。そしてそれはおそらく悲しいことに、正しく、真っ当な感覚なのだ。なぜ悲しいのかは分からないが。
小学生になった頃、田舎の鉄道は廃線になった。兄に半ば引っ張られる形で最期の列車に乗ったが、車内は人がぎゅうぎゅう詰めで、皆一様にどこかへシャッターを切っていた。ただ、彼らは必ずしも黒い服を着込んではいなかった。そういうものなのだろう。同じくして祖父は日没を迎え、街も日没を迎える。まさしく一日が終わるかのように、穏やかに地平線の向こうへと、太陽は消えていった。その後も毎年訪れたが、みるみる若い人が減っていくのよ、と老け込んだ祖母は父と母に毎年言っていた。それから五年後、祖母も死に、家族は死んだ街でなくリゾート地へ、毎年出掛けるようになった。それだけだ。祖父に悪意はない。祖母にも。父や母、兄にも。
僕が間宮を見たのは、それが最後となった。
失踪したのだ。それと付け加えるのなら、あの日見た横顔が僕にとっての彼女の遺影となった。彼女の両親は捜索願を警察に出したが、一向に見つかる気配もなく、セミたちの死骸が道端に散らかる頃になっても事態は改善されなかった。・・・何のことはない。最初に見えなくなったのは彼女だった。新学期に入って初めの頃は、生徒の間で心配する声やあらぬ噂が飛び交っていたが、そのうちそれも無くなった。利益がなかったのだろう。
僕は第一志望の受験に失敗し、渋々第二志望の私立大に通うことになった。よくある話だ。卒業式の日は雨が降っていて、僕にはその雨が濁って見えた。帰り道、柵原にそのことを話したが、返事はかえってこなかった。何もかもから遠ざからなくてはいけないと感じた。
店内の音楽は相変わらず気だるげな雰囲気をかもし出していて、だいだい色に染まった陽光が窓際のテーブルに降り注いでいた。だいぶいろいろなことを話していた気がする。結局半日ほど時間を潰してしまったのを内心後悔していると、携帯電話をいじくっている柵原に気づいた。そう考えると、随分遠くへ来てしまった気持ちになる。結局、電車は通り過ぎていくだけなのだ。汽車と言ったほうが正しかったかもしれないが。
「あいつの行方知ってるんだ」
うつむいたまま彼は言った。
「そんなことだろうと思った」
「いつから分かってたんだ?」
教会やらにいる神父も、こういう気分になることがあるのだろうか。あれとは違うのかもしれないが。
「・・・ずっと肘ついたままだったからな。お前、気まずいときって同じ姿勢のまま動かないでいるだろ」
彼は目を細め、溜息をついた。
「直ってなかったのか。まあいいや」
気がつけば店内に客はほとんどいなくなり、なめらかな木製の椅子は空席ばかりが目立つようになっている。
「入信したんだって」
「どこに?」
「宗教だよ、新興宗教。田舎だから余計に・・・、何だっけな、名前は忘れちゃったけど」
不意に喉が渇いている気がして、僕は水が溶けたジュースを吸い込んだ。柵原は続ける。
「まあそんな大規模な団体じゃないみたいだけど。終末思想っていうのか、あれ。そういうものが信条の・・・まあ良く分からないけど、とにかく来るべき終焉の時に備えるとか何とかでさ」
「そうか」
自分でも驚くほど、無感動に投げかけた言葉が窒素の群れにまぎれ沈んでいく。田舎だからこういうことも多いのだろう、そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えていた。
「止めなくていいのか?」
「何を?」
「だから、入信」
ああ、と僕は思い出したように呟く。浮かんできたのは『彼女の人生だからなあ』という言葉だったが、代わりに別の返事をしておいた。
「しょうがないんだよ、通り過ぎたのは僕らだったんだから」
新幹線の窓が吐き出す風景は、青々しい緑が光る水田だった。減反の影響で、それでも数を減らしているらしいのだが。
『まもなく、・・・』
チャイムと機械音声が車内に響き渡り、荷物を棚から降ろした人たちはせわしなく支度を始める。僕が降りる駅はまだずっと先だ。もっとビルが立ち並んだ場所で、降りなくてはいけない。そこ以外では降りることが出来ないのだ。おそらくもう二度と。
帰り道に猫を見かけた。隣に誰もいない席で、同僚に配るお土産はこれでよかったのか、すでに僕は悩み始めている。
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