気持ち悪い。
初めて目にした時から、それ以外の言葉が当てはまらないほど、その絵画は薄気味悪いものだった。
黒い森の中で立ちすくむ、白い服を着た髪の長い女。
女は西洋風の顔立ちで、瞬きする事のない物憂げな2つの瞳でジィと見つめている。
どこからかそんな絵画を手に入れてきた父が、まるで我が家のシンボルかのように玄関先に飾りはじめてから早2ヶ月半。
落ち着けるはずの我が家の扉を開くたび、言い様のない悪寒を背中が走るのだ。
骨董品コレクターを自負する父の悪趣味ぶりには、ほとほと困り果てている。
私が絵を取り外して欲しいと訴えると、父は決まって「まあ、確かに気味悪いといえばそうかもな…」とお茶を濁すだけで、絵を取り外す意志を微塵も見せない。
そして今朝も、いつも通り“彼女”に見送られながら、私は今日も通いなれた学校へと向って行く。
「へーぇ…気持ち悪い絵ねえ。」
「そうなのよー。親父の趣味ってほんと分かんないっ!
帰る度にブルーになるあたしの気持ち、分かる?」
「うーん……エリのイライラは充分過ぎるほど伝わったけど、実際にその現物を見てみない事には何とも言えないよなぁ。」
「じゃあさ、ユウジも一度見に来てみればいいよ!」
冷静に考えれば、友人であるユウジにあの絵を見せたところで何の解決にもならないのは分かっているが、
あの絵が放つ独特の嫌悪感を誰かに同調して貰えるだけで少しは落ち着けるはずだ。
軽快に奏でられた学校の終業ベルの響きは、私がまた“彼女”と会うまでのアラーム音に過ぎない。
「これが…………」
「ねっ?言った通り気持ちの悪い絵でしょ?」
“彼女”に対面したユウジに尋ねる私。
けれど。こくりと頷いてくれるユウジを予想していた私は、思いもよらない言葉を聞く事になった。
「確かに、気持ち悪い絵だねコレ……
でもさ、真っ黒な森の中には白い女を着た女なんていないぞ?」
自分の耳以上に、ユウジの口を疑った。
面食らって絶句する私を差し置いて、ユウジは絵を見た感想を淡々と述べ始める。
「黒い森の中にいるのは、和服を着たおばあさんだ。」
意味が…意味が分からない。
黒い森の中にいるのは和服姿の老女だって?
私がおかしくなったのか、ユウジが嘘をついているのか?
いや、ユウジは少なくとも嘘を付いたりするような人間ではないし、
そんな嘘をついてもメリットなんて有りはしない。
それならば、何故この絵の中に見えるものが違うのか?
「そんなに心配する事でもないだろ。ちょっと疲れてるんだよ、エリ。」
そう言いながら私の肩をぽんと叩いて、ユウジは「じゃ、また明日な!」と帰路に着いてゆく。
私はもう一度この絵を隅から隅までくまなく見渡しては見たものの、いつもと変わらず“彼女”が立っているだけだった。
時計の短針が9の字を差した頃。
部屋で読書に更ける父に、淹れたてのコーヒーを届けに私はやってきた。
「はい父さん、コーヒー淹れたよ。」
「お?エリにしては珍しく気が利くじゃないか!何か下心あってのサービスか?」
「…あの絵のことなんだけど…」
「ああ、エリが嫌いなあの絵画か。あれがどうかしたのか?」
「…あの絵にさぁ、おばあさんなんて描いてないよね?」
そう、これだけを聞きたかった。
聞こえが悪いけれど、父の返事次第で私とユウジとどちらがおかしいのかが分かるから。
「おばあさん?そんなもの描いてないだろう?
黒い森で小さな子どもがしゃがんで佇んでいる、ノスタルジックな絵じゃないか。」
出来る限り考えないようにしていた仮説に、決定打が打ち込まれた瞬間。
確信した。あの黒い森の絵は、見た人間によって変わる絵なんだ。
「父さん!お願いだから、あの絵を捨てて!」
「ど、どうしたんだよ急に!?」
私は事の成り行きを一から十まで余すことなく父に話した。
私が見た白い服の西洋人女性に、ユウジに見えた和服の老女。
始めは父も半信半疑だったけれど、取り乱す私を見て逃げ場を失ったようだ。
結果として“彼女”は、日の光が差し込む玄関先から薄暗い物置へと住家を変える事となった。
“彼女”を最後に見た日から数えて十数年近くが経った日。
私は会社で知り合った人と縁を結び、今では神様から授かった子供と3人、家族水いらずで暮らしている。
私の父は、喋ることでさえも難しい難病を患い、2年前に他界した。
逝く前に孫を抱かせてあげられたのが、最期の親孝行だったかな。
愛する孫に看取られながら天に帰っていった父の顔は、それは安らかな微笑だった。
温かい小春日和、私は子供を連れて公園通りを散歩している。
そんな当たり前の幸せを疑う事なく喫していた私に、災いは青天の霹靂の如く降り懸かる。
私の子が横断歩道を渡ろうとした刹那、飛び出してきたオートバイ。
咄嗟に子供を庇った私の躯を、衝撃が舞い上げる。
そのままドサリと路上に落ちた私は、最期の気力を振り絞って眼を見開いた。
私の可愛い子供は、目の前で起こった出来事に泣きわめいている。
…いいのよ。
あなたの身代わりになれたのだから。
ただ、これから先あなたが大きくなってゆくのを見れなくなるのが残念でたまらない。
私を殺したオートバイの運転手も、フルフェイスのヘルメットを脱いで私を見下ろす。
「だ、大丈夫ですか!すぐ、すぐに救急車を呼びますから!」
ヘルメットの中から現われた顔は、美しい異国の女性だった。
白い服に長い髪。
その様相は、黒い森に佇んでいた“彼女”そのものだった。
ああ、そういう事だったのね。
──黒い森の中にいるのは、自分が最期に瞳に映す人物なんだ。
父が黒い森の中で見えていたという子供は、私の子に間違いないだろう。
あの時に“和服の老婆”が見えていたユウジは、どんな死に方でどんな最期を遂げるのかな?
これから死ぬ私には、どうでもいい事なのだけれどね。
「オヤジ、何か物置にあったんだけど、この絵って何よ?」
「ああ。それは亡くなった母さんの父、つまりお前のおじいちゃんが買ったものだろうな。」
息子はまじまじと、眠っていた絵画を見つめている。
そして、かつての私と同じ嫌悪感を抱いているのだろう。
「…何だか気味が悪い絵だよなぁ…
特にこの、黒い森の真ん中に映ってるヤツ…。」
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