小説を書けなくなったとき。
至らぬ点も見受けられるかと思いますが、どうかご容赦ください。
思い通りに筆が進まない。
先の展開が思いつかない。
いい描写が全く書けない。
設定も満足に練られない。
そうか、俺はスランプだ。
──そんな経験をしたことはありませんか?
小説を書けなくなったとき。
あなたの心の中では、何かが起こっているのかもしれません。
多くの作家さんの前では、「はじめまして」の挨拶をすることになろうと思います。なろうの片隅で、ひっそりと小説を書いている者です。俗に言う「底辺」でしょうか。僕はあの言い回し、自虐臭があまりにひどいのでそこまで使いたくはないのですが……。それはさておき。
僕自身のページを見て頂ければわかるのですが、僕は大学受験を控えた高校三年生です。にも関わらず、こうしてなろうに籍を置いています。活動を始めたのは高校一年の時だったのですが、あまりにのめり込んでしまい「物書き」が日常の一部と化してしまったので、ついでだからと受験勉強の気晴らしにちまちま執筆しているのです。いざ完成させてしまった時、こうして投稿できるように、アカウントはばっちり残してあります。
夜間、エッセイや活動報告などを何となく眺めていて、ふと深夜に思い付いた内容を、つらつらと書き起こしてみることにしました。アカウントを残した効果が早速顕れたというわけですね(苦笑)
よろしければぜひ、お付き合いのほどをよろしくお願いします。
さて。
冒頭で、このエッセイで取り扱う事例をあらかじめ限定しておこうと思います。
「小説を書けなくなったとき」というタイトルのエッセイではありますが、本稿では「きちんと立てられた綿密な設定に則り、気分の盛り上がりに関係なく執筆を進められる方」については触れません。というより、触れることができません。多くの商業作家の方や、ここなろうでは特に推理やSF、並びに戦記物などを取り扱っておられる方の多くが、この分類に当たるかと思います。
換言すれば、勢いで作品執筆に当たられている方や、ありのままの気持ちを作品にぶつけることを執筆目的にしているような方は、このエッセイで扱うこととなります。無論、本稿はそうした方々を馬鹿にするものではなく、また所謂「テンプレ物」を批判するのが目的でもありません。僕自身、テンプレ問題に関しては色々と思うところはあるのですが、その存在そのものについて否定するほどのことではないとも考えています。
上記に挙げて除外したような方々は、僕自身の目指している姿でもあるのですが……。
末尾に「ですが……」をつけてしまう理由を、以下に述べていこうと思うのです。
小説を書けなくなったとき。
そんな問いからこのエッセイを書き始めてみましたが、まずは「小説とは何なのか」という原点回帰をしてみようと思います。
小説とは、文芸の一形態。文芸には詩なども含まれ、総じて「芸術」の一分野を占めています。
芸術とは何でしょうか。Wikipedea様に答えを求めると、このような返答が返ってきます。
【芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、 techné、羅: ars、英: art)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。】
※【希】はギリシャ語、【羅】はラテン語です
芸術とは即ち、表現者が自己の感性の元に磨き上げた「もの」を鑑賞者が見、それによって感じるところを楽しむこと。意訳するとこのようになるのでしょうか。
遠回りになりましたが、小説とは本来、芸術の一角であるのですから、感覚的に形作られるものなのではないかと思います。
古来、と言っても活版印刷技術の普及よりも前くらいのことですが、文字を使用する文化の無かった庶民たちの多くは物語を口伝で語り継いでいました。或いは自作かも知れませんが、自作しようと思っても当然、紙を使って設定を練ることなどできません。当時は相当ハードだったか──もしくは感覚的に行われる作業であったのではないでしょうか。
当時、物語と言えば大半が寓話でした。何十年と言う長い人生の中で、多くの人間はいくつもの「訓戒」を身に付けます。しかし、それをただ単に説教的に伝えようとしても、耳を貸してくれないかもしれない。そんな時、訓戒を包むためのオブラートとして、寓話は機能します。
物語は聞いていて面白く、また感情移入できれば未知の世界を体験することもできる。説教の代わりに寓話を用いたことによって、当時の語り手は聞き手に聴く耳を持たせることに成功したのです。寓話の価値は今とは違った意味で重要だったのでしょう。
そして言い換えれば、寓話はあくまで訓戒を覆い隠すもの。寓話の作者が設定にすることができたのは、訓戒そのものだけだったのです。つまり小説は本人の感覚によって書かれる部分が大きかった。
では、現代はどうでしょうか?
小説家(というより芸術家全般ですが)には奇人変人が多いと言われます。
この場合、奇人変人というのはキ〇ガイのことではありません。──谷崎〇一郎などは恋愛的な意味ではキチ〇イかも知れませんが、それはさておいて。
例えば太宰治であったり、例えば志賀直哉であったり、多くの偉大な作家の方々は内面に難を抱えていらっしゃいました。自分はどうして生きているのか。これからどうして生きていけばいいのか。そんな作家の魂の叫びが、作品に滲み出ていることも多くありました。
著名な例を挙げるならば、芥川龍之介の「トロッコ」などがそうでしょう。先行きの見えない恐怖、そして究極的には彼自身の死生観などが、暗闇の中、泣きながら線路を辿って走り続ける主人公の描写には溢れていると言われています。
今では大文豪と言われるような方々ですら、そういった感覚的な面に執筆を頼っている部分は確かにあったのではないでしょうか。難を抱えていたからこそ、それを発揮するための場として機能した小説は後世に伝えられる名作となり、──そして残念ながら、その難のために非業の死を遂げられた方もいます。
感覚的に書くというのは、書き手の感じる不安や憤りや悲しみなどの「感情」や、或いは問題意識や焦燥などの「危機感」に基いて、小説を書き進めるということです。
逆に言うならば、そうしたものが存在しなければ書き進めることは不可能になります。
必ずしも不可能というわけではないだろう、と思われることもあるでしょう。事実、あらかじめ書き残してあった緻密な設定や流れを基に執筆を継続し、見事に完結させる方もいるのです。
しかしそうした方は、明らかに少数派。人間の行動は、本人が思っているよりも自身の隠れた感情に支配されていることが多いんですね。
朗読を描いた片山ユキヲ氏の漫画「花もて語れ」に、次のような一節があります。
「作品を心で理解し、完全にその世界に入り込む。これはまさに朗読の理想です。(中略)それは佐倉さんの武器であるとともに、もろさにもつながっているのです。たとえば「朗読会」の当日に、失恋してしまったらどうなるのでしょうか? その「気持ち」は、朗読の出来映えに反映してしまうのでしょうか。してしまわないのでしょうか。」(第四巻 p31)
感覚的に行われる物事は、総じて感情の揺れ動きによって変化を受けます。それが良い方向であるのか、はたまた悪い方向であるのかは、場合によりけりであると言えます。上記の一節で明確な「こうなります」という答えが提示されていないのは、まさにそのためです。
それは執筆においても同じではないでしょうか。先日、某ユーザーさんが、活動報告で失恋されてしまったことを報告されていました。その方は同時に、それ以来執筆がぐいぐい進んでいる、という旨のことも仰っていたように記憶しています。ちなみにその方は日頃、恋愛絡みのある物語を書かれている作者さんです。
極端な話ですが、現在進行形で片思いをしている人は、片思い特有のドキドキ感が手に取るように分かっているから、恋愛小説が書ける。いじめられて人生が破滅した事のある人は、集団による精神的暴力の恐ろしさが分かっているから、社会派小説に長ける。しかし、彼らが逆の経験をしてしまったらどうなるでしょうか。片思いが両想いになってしまえば、幸福感で満たされる代わりにドキドキ感は薄れてしまいます。自分がいじめる側に立って良い思いをしてしまえば、加害者意識と被害者意識、どちらを優先すればいいのか分からなくなります。元のように作品を書くことは、一気に難しくなってしまうでしょう。
小説というものはとどのつまり、自分の内面を吐き出し、そこに様々の装飾的描写を付け加えることで生まれるものなのではないかと思います。だからこそ、そこには生々しい言葉や描写で人々の心を突き動かす力があります。しかし同時に、そこには自分の内面の急激な変化に耐えられないという致命的な欠陥も共存します。したがって、作家には自分の内面を基礎とする描写はある程度に留め、主観と客観をどう織り交ぜてゆくのかをよくよく吟味しながら執筆を進めていくという作業が要請されていると言えるでしょう。これは作家のジャンルや執筆スタイルに関係なく、全員に共通することです。
冒頭で除外したような方が如何に素晴らしいか、皆さんにもお分かりになるのではないでしょうか。たとえ自分が体験していなくとも、感情や雰囲気を理解し、自分の手のものにし、自在に作品の中で発揮する。彼らにはそれが出来るのです。彼らは不安定な自分の感情に頼ることなく、人々の心を動かすことができるのです。
残念ながら僕自身は、こういったタイプに属してはいません。自分の作品をエッセイに挙げるなどという行為はとてもできませんが、ちらりと覗かれるだけでもお分かりになるかと思います(苦笑)
そして実を言うと、このエッセイは僕自身のためでもあります。
今、「俺はスランプだ」と嘆いている方がいるとしましょう。
彼は自分の抱える鬱屈した感情を下敷きにして、暗い狂的な雰囲気を底流に持つ小説を書いていました。それがある日、ふっと気付いたら書けなくなってしまった。
この時、彼の中では、何らかの心理的な変化が起きているのかもしれません。暗い雰囲気を醸し出すには、どうしてもそういった雰囲気を会得している必要がありますよね。それが彼の中から抜け出してしまったということは、つまり、それを忘れるだけの前向きな変化が起きてしまった可能性があります。
その変化はいいことなのか、悪いことなのか。ともかく彼は嘆くのをやめて、一度ゆっくり、自分を振り返ってみるべきではないでしょうか。もしかしたらその変化は、彼が長い間ずっと、心の中で待ち望んでいたものだったのかもしれないのですから……。
思い通りに筆が進まない。
先の展開が思いつかない。
いい描写が全く書けない。
設定も満足に練られない。
そうか、俺はスランプだ。
──そんな経験をしたことはありませんか?
小説を書けなくなったとき。
あなたの心の中では、きっと何かが起こっているはずです。
感想、お待ちしています。
受験勉強中につき多忙のため、返信が遅れることもあるかと思いますが、ご理解の程を宜しくお願い致します。