エピローグ
気がつくと、見知らぬ部屋にいた。
広さは十畳ほど、かなり広めの部屋だが、雑多に物がおいてあるため、広くは感じない。
淡いクリーム色の壁紙。
天井はやや高めで、天井には自然光に近い色の蛍光灯がついている。
ベッドは折りたたみのパイプベッドで、敷布団はオレンジ。
デスクにはパソコンがおいてあり、電源は付いていない。
本棚にはオシャレな装丁の本や、自己啓発系のタイトルが並んでいる。
タンスの上にも、十冊ほどの本が並べてあった。
扉もある。木製でガラスがはめ込んである扉だ。
鍵は掛かっていないが、開けば台所と玄関に通じる廊下があるのを知っている。
ああ、そうだ。
思い出した、この部屋は知っている部屋だ。
俺の部屋。
俺が元々、住んでいた部屋だ。
ああ、何があったかな。
ふわふわとした気持ちと足取りで部屋の中を彷徨い、スマートフォンを見つける。
どうやって使うんだったか。
適当にこねくり回していると、次第に思い出してきて、電源をつけた。
2017/4/1/7:00
スマホを付けると、そんな文字列が飛び込んできた。
俺にとって、忘れられない日付と時間だ。
「あれ? なんでだっけ」
しかし、同時に、頭の中に霞が掛かった。
何か。
何かをしていたような気がした。
とても重要なことをしていたような気がした。
「俺、何してたんだっけ」
パソコン。
パソコンを使っていたような気がする。
確かに、俺はパソコンを使って、何かをしていたはずだった。
とても時間が掛かって、とても苦しくて、でも楽しくて、誇らしい、達成感のある何かを。
でも、それしか思い出せない。
忘れちゃいけないはずなのに……。
まるで夢でも見ていたかのように、全てが消えていった。
●2018年4月2日●
俺の名前はワタヌキ ハジメ。
変な名前だとよく言われるが、中身まで変じゃない。
ごく普通の家庭に生まれ育ち、ごく普通の大学を卒業し、ごく普通の会社に就職した社会人だ。
趣味はサイクリングとダーツ、バー巡りだ。
昔はよく読書していたが、なぜか1年ほど前から何も読まなくなった。
ある日のこと、俺は学生時代の友人に飯に誘われた。
やけに自慢げで、早口に一方的に話すタイプの根暗オタクで、一緒にいて気分の良いヤツではないはずなのだが、不思議とそいつと会話するのが嫌ではなかった。
だから俺は飯の誘いに快くオーケーし、彼の待つ店へと訪れた。
彼は店の一番奥のテーブルで、スマホを見ながら待っていた。
何やら熱中しているらしく、俺がきても一心不乱に画面をみていた。
「よう、おつかれ」
そう声を掛けると、彼はびくりと肩を震わせ、俺の方を見た。
そしてスマホを置くと、片手を上げた。
「お? おお、おつかれ。遅かったな」
「悪い。仕事が長引いたんだ」
適当に答えつつ席に座り、メニューを手に取る。
何を食べるか。
さっぱりしたものにするか。
この一年、どうにも油でぎっとりしたものばかり食べていて、少し太ってしまった。
そろそろダイエットをしなければいけない。
「ん?」
と、メニューを見ている途中、彼のスマホの画面に気がついた。
そこには、白い背景に、無数の文字が書かれていた。
見覚えのある画面だ。
たしか、登録無料の小説投稿サイトだ。
てっきりゲームでもやっているのかと思ったら、小説を読んでいたらしい。
「何読んでたんだ?」
そう聞くと、彼は『よくぞ聞いてくれました』と言わんばかりの笑みを浮かべた。
こうなると、彼の話は長い。
「最近、また『小説を書こう』にハマっててな」
そうそう、思い出した。
『小説を書こう』だ。
昔、こいつに何本かオススメされて読んだが、どれもつまらなかった記憶がある。
「なんかお前、マイナーなのばっかり勧めてきたよな」
自分で言って、はてと首をかしげた。
なぜ、俺は彼の勧めてきた作品が、マイナーだと思ったのだろうか。
どれがメジャーでどれがマイナーかなど、俺は知らないはずなのに。
まあ、多分面白くなかったからだろうが。
「ああ、俺も昔はさ、若かったっていうの?
他人と違うものが好きな俺カッコイイ、みたいなトコあったじゃん?
でも、やっぱそういうのって、若気の至りみたいな?
だから今は、メジャー思考」
しばらく会わない間に、彼も変わったらしい。
よくよく観察してみると、数年前の彼が絶対に着ないような小洒落た服を着ている。
勘違いした感じではなく、落ち着いていて、年相応な感じだ。
特徴が無いといえばそれまでだが、確かにメジャー思考っぽい格好だ。
話し方も、昔に比べてちょいとチャラい。
「だから最近は、ランキングで上位を取るようなのを読んでんだ」
彼はそう言いつつ、『小説を書こう』のランキングページを俺に見せてくれた。
一位のタイトルは『社畜往生 -異世界行ったし休みます-』。
あらすじを読むと、最悪のブラック企業に務める男がトラックを運転中に事故死、異世界に転生するというストーリーらしい。
「一位のを読んでたのか?」
「いや、そこらへんは半年で全部読み尽くした。累計ランキングはほぼほぼ上から全部な。まぁ俺って読書スピード早いじゃん? 数ヶ月もあれば余裕っていうか――」
お、懐かしいな。この自慢げな感じ。
やっぱり彼はこうでなくっちゃ。
「で、今は、年間一位の作品を読んでる。えっと、累計何位だったかな……」
「24位?」
「え?」
「え?」
どうして自分の口からそんな数字が出てきたのか、わからない。
ただ、頭の中に、そういう数字が浮かんだのだ。
多分、ただの勘だ。
だが、俺は今、ある程度の確信を持ってそう口にしていた。
「あ、惜しい、23位だな。てか、なに? お前、もしかして読んでんの?」
「まさか、ただの勘だよ」
俺は外れたことでほっとしつつ、しかし少し疑問を感じていた。
おかしい、なんで24位じゃないんだ、という疑問だ。
「まあいいや。とにかく、俺が今読んでるのは、コレな」
そう言って彼の見せてくれた画面。
そこには、現年間一位の作品のタイトルとあらすじが書かれていた。
『異界のハサミ使い』
そのタイトルを、俺は食い入るように見つめた。
見覚えがあった。
あらすじも、どこか懐かしさを感じた。
どこで見たかは憶えていない。見たことは無いはずだ。
でも、確かに既視感があった。
「なんか。面白そうだな」
自然とそんな言葉が出た。
面白そう。
タイトルやあらすじから読み取れる情報は、俺の趣味とは全然違う作品だと訴えている。
でも、なんでだろう。
俺はこの作品を読みたいと思った。
この作品の結末を知りたいと思ったのだ。
「へぇ」
俺の言葉に、彼は少し意外そうな表情で、俺を見返してきた。
「お前がそう言うの、珍しいな?」
「そうか?」
「ああ、いつもはなんか、どうせつまんねーんだろって顔してる」
そんな顔をしていたのか。
まぁ、こいつと会ったのも久しぶりだしな……。
「昔は俺も若かったってことさ」
「はっは……おい、それって内心ではつまんねーんだろって思ってるってことかよ」
「いや、これは別」
「そっか、じゃあこの作品はどうだ? これは前の年間一位で……」
それから、彼の怒濤の作品紹介タイムが始まった。
俺は彼の作品の紹介を受けつつ、適当につっこみを入れて過ごした。
なんだそのタイトル。
あらすじ一行かよ。
いや説明だけ聞くとつまんなそうなんだけど。
彼は相変わらず自慢げで、時に嫌味な発言もしたが、特に気になることもなく、楽しい時を過ごした。
そんな時間の中、俺の心の中には、あるタイトルだけが残っていた。
『異界のハサミ使い』
この作品が、どうしてここまで気になるのか、さっぱりわからない。
ただなぜだか、あの作品だけは、無性に読みたいと思ったのだ。
■
その日の夕食を終えて帰宅した。
落ち着く我が家にたどり着くと、まず一杯の水を飲んだ。
酔っているわけではない。
そもそも車だったので酒は飲んでいない。
ただ、あの作品を読むのに、少し準備が必要だと思ったのだ。
とてもわくわくしていた。
まるで、何年もこの作品を読むことを待ち望んでいたような気分だった。
今日なら、この作品の一番読みたい部分を読める。
ずっと読めなかった部分を読める。
そして、その部分を読む時、俺は酔っていたり、眠かったりしてはいけない。
正座をして、真剣に読まなければならない。
そんな気分だ。
おかしな話だ。
読んだことのない作品だというのに。
「さて、読むか」
俺はそうつぶやくと、パソコンを立ち上げ、前に座った。
そして、浮かれる手でマウスを握り、『小説を書こう』を立ち上げたのだった。
-完-