6:ファミレスみたいな酒場
レイとゲオルグが雪山に来た翌日。そしてノヒトがミルタニアという世界に踏み込んだ三日目の朝、ノヒトは日が昇って数時間後に目が覚めた。
ノヒトはルイージャの息子が昔使っていたという部屋を借りている。
彼女の息子はずいぶん前に都会へ旅立っていったらしい。
それでもこまめに掃除をしているのか、ホコリ一つ見当たらない。綺麗に整頓された部屋だ。
肩まで覆っていた毛布から出ると、ひんやりとした冷気が身を強ばらせる。ノヒトはもう一度毛布を被って眠ってしまいたい気分だったが、人様の家で二度寝などという怠惰した真似をするわけにはいかない。
立ち上がり、借りていたパジャマを脱いて畳むと、昨日ルイージャから貰った服を広げた。
都会へ出て行った息子が着ていたものらしい。
青いセーターに、濃紺のジーンズと白いベルト。そして灰色のフードつきのコートだ。サイズは合っている。ただ今時、<あちら>の街中で高校生がこの格好で歩いていたら浮くだろうとノヒトは思った。
文句は言わない。このミルタニアに来てから、ノヒトは見知らぬ人に迷惑をかけてばかりだった。
ノアから貰ったマントと灰色のコートを持って、居間に移動すると、すでにルイージャが朝食を並べているところだった。
エプロンを着けてスープやパンが乗った皿をテーブルに並べていくルイージャの姿を見て、ノヒトはいっそう申し訳なさを感じた。
「すみません。手伝えなくて」
しまった。早く起きればよかった。
「いいのよ。好きでやっていることだからね。それに、ずっと独りでの食事だったから、嬉しくてねぇ」
テーブルにはスクランブルエッグに焼いて脂がツヤツヤ光っているベーコン、コーンスープにロールパンが並んでいた。朝食はパンと牛乳で済ませるノヒトにとっては眩しい光景だ。
ノヒトはルイージャに感謝の言葉を述べると、手を合わせて我が身を使って自分にエネルギーをくれる食材たちに感謝した。ノヒトは少し多い朝食を全てたいらげた。
そしてやっと気づく。
ウサギガメはどこにいったのか。
「大変だわ!」
台所からルイージャが何やら慌てた様子で来た。手に何かを抱えていた。その手から緑色の甲羅から垂れる長くて白い耳が垂れている。
――ウサギガメ?
「バスケットに寝かしていたのがいけなかったのかしら、体が冷たくなってるの!」
「え!」
ルイージャのしわくちゃな手の中で、ウサギガメが頭を中途半端に甲羅にひっこめ震えていた。
そっと頭に触れると、信じられない程冷たい。
川から助けたときよりも冷えていた。
「もしかして、体温調節できてない?」
「どうしましょう!」
少しでも温まるかもしれない。既に火が灯っている暖炉のそばにバスケットごと置いた。
「あの薬草、ありますか? 効くかもしれない」
「たくさんあるわ。でも、上げていいのかねぇ?」
珍獣の治療法など一般人が知るわけがなく、バルツィア草をすり潰して混ぜた小さな団子をウサギガメに食べさせるという、単純な治療法を施すしかなかった。
処置は正解だったらしい。ウサギガメの体調は良くなっていき、すぐに元通りの体温を取り戻していた。
「たぶん、定期的にバルツィア草を摂取する必要があるわねぇ」
そう言ってルイージャは、ノヒトにバルツィア草の団子が詰まった袋を手渡した。
ウサギガメがどのくらいの頻度で薬草が必要なのか、観察しなければいけない。もしもの時にと、ルイージャはたくさん作った。
「何から何までありがとうございました」
ノヒトは早々にここを出て行くつもりだ。今更だが、いつまでも世話になるわけにもいかない。
ヴォルフという者が経営する酒場に向かうことにした。ウサギガメはバスケットに入れて連れて行く。灰色のコートを羽織り、バスケットとマントを抱えて立ち上がる。
「気にしなくていいさ。さあ、ヴォルフに会いに行くよ」
「え?」
一人で行く気満々だったノヒトは声を裏返し、目を丸くした。
「ここまで来て途中で見捨てるなんて、できないさ。年寄りだから研究所にまではついていけないけど、酒場までなら案内してやるよ。それに、あんた世間知らずのようだし」
ノヒトは嬉しさと、なにも返せないもどかしさに戸惑い、少しの間悩んだ後、ありがとうございます、とルイージャに頭を下げた。
マントだけだと完全に冷気は遮断されなかったが、コートは反対に暖かさをもたらしてくれた。
寒さに慣れていないノヒトにとって、それは大きな救いだ。
マントは着る必要がないと判断したノヒトは、ルイージャに貰ったカバンにマントをしまう。
いずれ、ノアに返すものだ。
ジョッキからビールの泡が溢れている絵の看板の下の入り口に、ノヒトとルイージャは入っていった。
ノヒトは中の光景を見て、首を傾げた。
コンビニくらいの広さの店内は、まだ明るいのに客がいた。しかも、子どもの姿もある。
酒場のはずなのに、まるでファミレスのような雰囲気があった。
「名目上は酒場だけど、みんなで食べれるような所が、ここにしかないんだよ」
ノヒトの疑問を察知したルイージャが言う。
バルツはとんでもなく田舎だから。ルイージャはそう付け足した。
「あそこにいるのが、ヴォルフさ」
ルイージャは店の奥でグラスに(たぶん)オレンジジュースを注ぐ男を指した。年はおそらく五十前後で、シャツのボタンはきっちり閉じている。整えられたカイゼル髭が特徴的な礼儀正しそうな男だ。
――なんか、ありがちな風貌だなあ。
ノヒトは心の中で呟く。
「ヴォルフ」
ルイージャは男に近づき、カウンター越しに声をかけた。
ヴォルフらしき男はルイージャの声に反応してこちらを向いた。
「婆さんか、珍しいな。飲みにきたのか?」
「違うわい。アタシはもうそんなに肝臓が強くないさ」
「そこの少年に何かあるのかい?」
「えっ」
「さすがだ。察しがいいねぇ」
ヴォルフの視界に入っていないだろうと、進んでいく会話をぼんやり聞いていたノヒトは突然話を振られ、言葉にならない声を出した。
「見かけない顔だな。息子が子供つくって帰ってきたのか?」
「滅多なこと言うんじゃないよ」
礼儀正しそう、というノヒトが男に抱いた印象は消え失せた。なかなか失礼な軽口をたたく。
ルイージャが言い返すと、ヴォルフは笑った。
気心の知れた仲なのだろう。温厚で親切な老婆だと思っていたが、軽口を叩くような友人がいたようだ。
友だち。そういえば宇野はどうしているのだろう。
宇野はノヒトの小学校からの幼なじみの少年で、中学校、高校まで同じという腐れ縁とも言える。
それに、家族。
父は酔って朝帰りせずにしっかり妹の面倒を見てくれているだろうか。
高校生になってから夜遊びする自分に対して、口うるさくなった家族が最近、疎ましくなっていた。だが、この世界に来て初めてそんな自分を恥じる。
帰りたい。
しばらくホームシックに陥っていたノヒトは、ヴォルフの声に現実に呼び戻される。
「はじめましてだな、ノヒト。俺はヴォルフ。二人とも、まあ座れ。相談事があるんだろう? 話を聞こう」
いつの間にか紹介されていたようだ。
ルイージャとノヒトはヴォルフに従い、カウンターの席に腰掛けた。
「ノアのことなんだ。なるべく小さい声で頼むよ」
「ほう? まさかアンタ、まだノアを村に呼び戻そうと考えているのか」
「できればそうしたいんだけどね」
ヴォルフはノアを極端に毛嫌いしていないようだ。しかし、口振りからして非協力的だ。
ルイージャはいきさつをヴォルフに話した。ノヒトは口を挟まず、ヴォルフに出された水を飲みながら二人の様子を伺っていた。
――ノヒトはこの地の者ではないこと。キマイラ研究所のウサギガメを拾ったこと。ノヒトが研究所にウサギガメを帰そうとしていること。ノアの父親についても含め、怪しい研究所を調べようとしていること。
これらのことをルイージャは軽くまとめた。
ヴォルフはそれを真摯に聞き入り、少しの間黙って考える素振りを見せた後、こう言った。
「なるほど。しかしノヒトはどうなんだ?」
「え、何がですか」
質問の意味を理解できなかった。ノヒトが聞き返すと、ヴォルフは居心地の悪い視線をよこした。
「お前になんの利益があるんだ」
「利益――ただ、ルイージャさんに恩があるから、返したいだけです」
「本当に?」
「本当です」
「あんた、何を疑ってんだい」ルイージャがヴォルフを叱る。
どうして研究所を探るだなんて事をしようと思ったのか、ノヒトにもわからなかった。
ただの気まぐれなのかもしれない。あいにくノヒトは自分に、無償で人を救うような良心はないと思っている。
目的を見つけ、前に進むしかない。
今のノヒトを動かしているのはそんな心情のみだった。
「研究所の人間は、ノアを捕まえようとしている。旅立たせるのには賛成だが、お前が政府の手のものだという可能性も捨てきれない――というのは、俺の考えすぎだ」
「わかってんなら言うんじゃないよ!」
ノヒトの緊張感はこの瞬間に切れた。
「あー、腹減った!」
「叫ばないで、見苦しい」
酒場に新たな客が現れる。ここは店なのだから別段珍しいことではないのだが、大きな男の声が目立って聞こえたのでノヒトは思わず振り返った。
入り口には随分大柄な男と、小柄な少女が何やら言い争っていた。
男は見ているだけでこちらが寒くなりそうな薄着で、メタボリック症候群かと心配になるような豊満な体だ。そして毛の一本もない禿頭。目は小さく丸い。眉は八の字を描いている。不健康そうだが、温厚そうな顔つきだ。
少女はインバネスコートのフードをかぶっているので顔は伺えない。覗く頬は白磁のように白く、赤い唇が映えていた。線の細い子だった。年齢はノヒトと同じか下だろう。
高く濁りのない可愛らしい声だが、言うことはキツく、刺々しい。
全てにおいて真逆な二人組は、ノヒトたちが居るカウンターまで来ると、ノヒトの席より一つ開けて座った。少女はノヒト側に座る。
ヴォルフが注文を尋ねた。
「酒はいい。安くて量が多い肉料理」と、男。
「枝豆」少女が言う。
――枝豆かよ。
ノヒトは少女を見た。
先ほどより近いから顔つきがよくわかる。
柳眉な少女だ。鼻が高く、目はくりっとしていて大きい。やはり唇は赤く、潤っていて形がいい。虹彩は深い青色。フードから少しだけ溢れている髪は淡い金色だ。
こんな美少女は周りにいなかった。
工業を専門とした学校に通っていたため、女子は少ない。それに特別綺麗な女子はいなかった。
「マホ、牛の丸焼きと枝豆」ヴォルフが言う。
「はぁい」
ヴォルフの呼びかけに応じてまた別の栗毛の少女――と言ってもノヒトより年上だろう――が奥からやって来た。手には枝豆がいっぱい乗った皿と、バスケットボール並みの肉の丸焼きが乗った皿を持っている。
慣れた手つきで少女と男の前に並べるとどうぞ、とそばかすのある愛らしい笑顔で言った。そして、また奥に引っ込んでゆく。
「話が戻るが、俺がお前たちにしてやれることはない。研究所のことは自分でなんとかしろ」
隣の二人組がそれぞれ食べ出すと、再びヴォルフが切り出した。
少女が一瞬こちらを見た気がした。
「そうかい。悪いねノヒト。アタシが協力してやれるのはここまでだよ」
「いや、ありがとうございます。自分でなんとかしてみます」
保証はないのだが。
「そういや、ノヒト。お前はどうやってここまで来たんだ?」
「東北の山の方で、ちょっとですね」
まさか雪に埋まっていたとは言えまい。
「東北の山!?」
「おい、どうした?」
少女がいきなり立ち上がり、こちらに詰め寄ってきた。盗み聞きしていたらしい。
隣で肉にかぶりついていた男が目を丸くして少女を見上げた。
「君……まさか」
意味深に呟く少女の真摯な視線が、ノヒトに突き刺さる。
少女が大きな声で荒々しく立ち上がったため、騒がしかった酒場は静まり返った。
「……え?」
注目の的になり、何がなんだかノヒトにはまったくわからなかった。 |