2:現実は厳しい
ノアは俺の心情など全く気にせずに、少しだけ真面目な顔をして言った。
「まあ僕の話は置いといて。あんたはどっから来たん? この近くにある村といえばバルツ村しかあらへんけど」
「バ、バルツ村? どこだそれ?」
日本の地名とは思えない単語が飛び出してきた。
俺は自分が持ち合わせている常識に従った素直な反応をしているのにノアは心底不思議な顔で俺を見た。
「違うんか? このあたりで徒歩で行けんのはやっとバルツ村ぐらいやで。あんた、なんかに乗ってきたんじゃないんやろ?」
お前はバルツ村の住人ではないのか。だとしたら旅人か。旅人なら何故武器を持ってないのか。荷物もないのか。ノアにはそんなことを聞かれた。
しかし俺はどの質問にも正確に答えることはできなかった。
当然だろ?旅人とか武器とかまったく馴染みのないことばかりが当たり前のように会話に出てくるんだから。
困ったことになったぞ。
俺はある結論にたどり着こうとしていた。
しかしそれが事実だとすると、俺は
「雪の中で生首になった男」の他に素晴らしく非常識的な称号をいただくことになる。
「バルツ村の住人だとしても、僕のこと知らんみたいやしなあ……二回目になるけど、あんたどっから来たん」
「日本だ」
普通ならここで誰もが違和感を覚えるだろう。例えるなら東京から来た人間が、北海道で現地の人にどこから来たのと聞かれて日本ですと答えるようなものなのだから。
俺はノアが
「そんなんわかっとるわ!」と近畿方言で叱り飛ばしてくれることを願う。
「どこやそれ」
ああ、やっぱり。
現在あんたが話しているのは日本語だぞ。
「小さい島国だ」
嘘は言っていないが、的確ではない答えだ。
俺はこことは違う次元の日本という小さい島国からやってきました。
これが一番あっている。
「そんな国あるんかあ。一応この辺りの地図はあるけど、世界地図は持ってないから知らんだ」
世界地図のどこを探しても無いだろう。
「地図、見せてくれ」
もしかしたら、知っている地形かもしれない。俺はそれが確かめたかった。
「ええよ。でももう暗いから明日な。地図は倉庫にあるんや。あんたの分の布団も倉庫から出さなならんけど、地図探すのはまた明日な。布団運ぶの手伝ってや」
「ありがとう」
寝ることになった。色々気になるが、俺は眠気に従おうと思う。
呑気に就寝しようとしているがよく考えたらかなり受け入れがたい状況に陥っているではないか。
もし、もしもだ。
これが大掛かりなドッキリでいきなりカメラ持った人が出てきたら。
ノアが仕掛け人でネタばらしのときに
「ホントに別世界に来た思っとったんか? サムイ兄ちゃんやなあゲームのしすぎ漫画の読み過ぎやで」とか言われたら俺かなりの痛い人だろ。
俺はこの先何があろうと、不可思議なものは信じない。
そんな恐ろしい事態になっては今後の私生活に関わるだろう。
そう、これは夢。すごくリアルな夢なんだ。
この頬を叩かれる感触も、ノアの白い顔も。
「ノヒト」
ノアが俺を呼ぶ。
夢だ、夢! 俺を起こすのはいつも朝帰りの父さんの酒臭い息か、妹のヒップドロップなんだ。
「さっさと起きんかい!」
初めてだ……、年下にビンタされたのは初めてだ。
夢ではなく現実だった。
昨日以上の肌寒さから、早朝だということが伺える。しかし暖炉には暖かい火が灯っているため耐えられないほどではない。
「あとちょっと寝かせて……」
「あんた、人んちに泊まっとるってこと忘れてへんか」
「……」
そう言われたら従うしかない。
というかまたハチを枕にしていたことに気付いてしまったから起きるしかない。怖いから。
「ホントなら、放り出しとるところやで」
まあそうだろうな。
見ず知らずの人間に毛布も食べ物もくれる奴なんていないだろう。日本なら、まずあり得ないな。
「あんたは多分、魔物に襲われたショックでいろんなことを忘れたんやと思う。そんな身軽な格好でここまでこれるとは思えやん――というわけで、はい」
そう言ってノアは両手で持てるくらいの黒い巾着っぽい袋と、昨日のマント、そして重たい飾り気のない剣を渡してきた。
「なんだこれ」
尋ねる暇もなく、ノアに背中を押されて俺は外に出た。野外は室内より格別に寒かった。身震いしたとき、後ろから木が軋む音が聞こえる。
「さいなら、ノヒト」
ノアからいきなり別れを告げられた。急展開に目がやっと覚めた俺は狼狽して、怒鳴るようにノアに問うた。
「どういう意味だよ!」
「あんたはきっとバルツ村の人間や。地図と方位磁石持たしたから、それ頼りにバルツに行きぃ。途中までハチに案内させる!」
ノアは勘違いをしている。バルツなんて知らない。行ったところでどうにもならないだろう。
慌てて扉を開けようにもノアが中で押さえつけているのか開かない。
既に外にいるハチが俺のズボンの裾を噛んで阻止しようとしてくる。
「無理無理!」
極寒の地で土地勘のない人間独りと狼一匹でどうしろと。
「パンぐらいは入れといたったから。後は自分でなんとかするんやな! 言っとくけど、僕は優しい方やで? でも自分だけで精一杯なんや。がんばりぃや。あはははは!」
ノアは本気だ。もう頼れるものは狼だけになってしまった。それに最終的にはハチもノアのもとに戻ってしまうだろう。
こうなったらとにかくバルツとかいう村に行くしかない。
俺が諦めたと察したのか、ハチがゆっくりどこかに歩を進めていく。
俺はハチを道しるべにバルツを目指した。
世話になったな、ノア。
ノヒトはノアに別れを告げた後に気付いた、靴をはいていないことに。
いくら防寒したって素足で雪の上を歩いたら寒いどころか霜焼けより酷いことにな ってしまう。
出発数秒後、ノヒトは再び戸口に泣きついた。
「ノア!」
「なんや、まだおったんかい!」
ノアはノヒトの情けない呼びかけに呆れつつも返事を返した。
忠犬ならぬ忠狼ハチは尻尾をピンと張ってノヒトを待つ。動物にわかりやすい表情があったなら
「まだ?」と顔をしかめるに違いない。
「靴無いんだよ! なんでもいいからなんとかできねぇ?」
気付いてから足が冷えてきたらしい。ノヒトは激しく足踏みしたり手で摩擦しようとする。
が、大自然にそんなことで抵抗出来るわけがない。
足元から体温が奪われていく。もうとっくに霜焼けになっているかもしれない。
――雪に埋まっても平気だったのに!
ノヒトはその思いでいっぱいだった。
「ほんとに世話が焼けるなぁお前!」
ノアがキツく咎める。
他人の世話から解放された喜びの直後にまた手を煩わさせられて若干頭に来たらしい。
しかしわざわざノヒトを拾って介護したくらいだ、手を打ってくれるらしい。寂しいことに扉は開けてくれないが。
「倉庫開いて右に、ブーツがある。父さんのやけど、やるわ」
「え。いいのか?」
それならいわゆる形見というやつだろう。
年下にも関わらずノアに頼ったノヒトだが、遠慮の気配をようやく見せる。
「ええよ。っていうかさっさといけ!」
よっぽどノヒトがやっかいらしい。扉の向こうから苛々とした気配が伝わってくる。
ノヒトは若干寂しさを感じつつ一言礼を言って去っていった。
亡くなった者の遺品を使うのには気が引けるが、ノヒトはありがたく使わせて貰うことにした。
「また返しに来るから」
「ええから行けよ!」
倉庫の扉を開閉する音と、人間の足音が遠ざかっていくのを確認して、ノアは安堵した。
壁に身を預け、しゃがみこむ。
そして誰もいない家の中で、呟いた。
「返しに来る? どうせ戻ってくるわけあらへん」
確信めいた口調で、ノヒトを非難する。
それがどういうことなのか、今は本人しかわからないだろう。
「人間と話したんは、久しぶりやな」
そして唯一の窓から、ノヒトと相棒のハチが雪景色のなかで浮かんでいるのを意味もなく見る。
「僕、うまく話せたかなあ? はよ帰ってきて、ハチ」
ノアは茶色いガラス玉のような瞳を伏せた。
キラキラしていた少年の目は、外界からの光を遮断される。 |