7:暗闇にて帰還
暗く冷たい廃墟の下、鉄の匂いと悪臭がこもる部屋の側に彼はいた。全身を包む筋肉は静かに脈打ち、ドクンと心臓が収縮する度に、熱い血液が心臓に入り込む。瞬きをすると、扉に向かい足を一歩踏み出した。床が軋む。
金属の扉は真上の非常ランプで緑色に色付けられていた。張り付けられた鉄のプレートは四隅をネジで留めてあり、「関係者以外立ち入り禁止」と刻まれていた。彼は首を傾け、何かを考えるような仕草をした。数秒間の沈黙の後、彼はゆっくりと扉に手を掛けた。しっとりと汗ばんだ掌が、円筒形のノブを力強く掴み、右に捻る。鍵は掛かっていなかった。手から力が内部の機構に伝わり、大きく軋んで扉は開き始めた。中には淡々と暗闇が横たわっていて、非常ランプの明かりだけでは内部の様子は全く解らず、もっと明るい照明が無い限り闇は立ち退かないようだ。生憎、彼は内を照らすものを何一つ持っていなかった。彼は頭を扉の内側に突き出し、中を覗き込もうとした。彼の頭が暗闇に飲み込まれた。
瞬間、背中に強い衝撃が叩き込まれ、彼は暗闇の中に放り込まれた。彼は突然のことに驚いたが、それよりも足が地面に触れないことに注意を向けなければならなかった。重力に引かれ、奈落の底に落ちていく。体重を前に傾けて向かいの壁に少しでも近付こうと試みた。少しの間だけ、手足は何とかして落下を止めようと、指を引っ掛けるための窪みを求めもがくことは出来たが、ネジの頭すら引っ掛けることが出来なかった。更に悪いことに、無理矢理壁に指を引っ掛けようとしたために左手中指の爪を剥がしてしまった。べりりとガムテープを剥がすような音がして、爪が血の糸を引きながら暗闇に吸い込まれた。ほぼ同時に、右手の小指が固い壁に引っ掛かり、僅かな希望を見い出したのも束の間、それだけでは体重を支えきれずに指の腹の肉を引き剥がしながら落下していった。破れた皮膚から血の筋が途切れ途切れに伸び、彼から遠ざかった。落下し始めてから6秒後、鈍い音が廃墟の底に響きわたり、彼はやっと底にたどり着くことが出来た。彼は全身を顔面から爪先に向かってでこぼこした床に叩きつけられたが、よほど頑丈な体なのかすぐに顔を上げて片膝をつく形でムクリと起き上がった。彼の鼻は醜く折れて血が吹き出していた。血は顔をなめらかに伝い、顎の先からポタリと落ちた。そうして鼻から顎まで続いた血筋に舌を伸ばし舐めとると、ふらふらしながらゆっくりと立ち上がった。辺りは何かでじめじめと濡れており、床はとても冷たかった。そんな不快な環境より、折れた鼻に入ってくる嫌な匂いに彼は意識を向けなければならなかった。彼の精神に働きかけるとても嫌な感じ。遥か上を見上げると、彼が突き落とされた扉から光が差し込んでいる。その光の中に、何かがいた。丁度光を影でくりぬいたかのように、巨大なヒトガタが立っていた。それは彼をじっと見下ろし、威圧感を彼に投げ掛けていた。
彼の額に青筋が走り、顔が真っ赤になった。そして彼はその影を睨み付け、凄まじい気迫で叫んだ。
「今からそっちに行ってぶっ殺してやるからな。そこで待ってろよ。」
影は何も聞いていなかったかのように扉を勢い良く閉めた。閉じられた扉の向こうからガチャリと音がした。
彼――悠介――は暗闇に飲まれた。しかし、闇に閉ざされようとも彼は絶望することはなかった。むしろ、扉を閉められるというハンデを負ったことで、彼の熱血精神が馬鹿馬鹿しくも熱くなるのであった。
彼は悪臭漂うこの空間から脱出しようと、早速垂直の正面の壁をよじ登ろうと試みるが、そこに刻まれている僅かな窪みは浅すぎ、残念ながら指が引っ掛からなかった。希望は消えたが、まだ諦めきれなかった彼は何かないかと床にに屈み込み、じんじん痛む小指に気を付けて。でこぼこする床に右手を伸ばす。勢い余って指がぐにゅりと床に沈むと、悠介はさっきから靴底に当たっていた物が何なのかを理解した。
ここにライターやランプがあれば彼は衝撃を受けていただろう凄まじい光景。それは落ち葉のように床に積み上げられた死体の絨毯だった。あるものは上半身の肉があらかた消え去り、またあるものは右半身だけの断面に固まった血がベットリとこびりついていた。そこにゴキブリが群がって食事をしていた。幾重にも積み重ねられた死体の層の底辺は既に肉のスープと化しており、長時間汁に漬かり柔らかくなった骨を掻き分け、得体の知れない虫が泳いでいた。層表に近い死体でもかなり腐敗が進んでおり、変色した肉から溢れだした腐汁を蛆虫が飲んでいた。
運がいい事に、彼は明かりが見えない故、それらの光景が目に入らなかった。死体が見えなかったことだけでも、こんな所に突き落とされた彼の唯一の幸運だといえよう。
「うげぇっ!」
慌てて指を引き抜くと、ぬめぬめした粘液が指に纏わりついた。気持ちの良いものではない。
粘りをズボンに擦り付けたところで、彼はもう絶望しか残されていないことに気付いた。
錆びた鍵を穴に差し込み、回す。金属音が鳴るのを確認すると、鍵を引き抜いて無造作にポケットに突っ込んだ。
悠介をゴミ捨て場に閉じ込めた後、殺人鬼はチェーンソーに代わる新たな凶器を取りに、一旦ねぐらに戻ることにした。改造品といえど、二人も刻んだ後は、さすがに切れ味も鈍る。
床のチェーンソーを左手で拾い上げると、今度は右手で健太の死体を拾い上げる。両方とも獲物を突き落とす際に邪魔だったので、獲物の背後に忍び寄る前に階段下に置いておいたのだ。左肩から右腹部にかけての斜めの断面の間に腕を突っ込み、腸を掻き分け骨盤を掴む。無理矢理太い腕に押し入られ、腸がムリュムリュと体からはみ出し、汚れた床に垂れた。右手に力を込め、伸ばした状態の肘をぐいと身体に引き付け、死体を廻す。彼の肩に、死体の左腿がのし掛かる。彼は気になったのか、ぱっくり開いている傷口で彼の肩を挟み込むように死体を置き直した。今度は両足が彼の身体の右側面向きに倒れ、爪先が宙を蹴った。骨盤を掴んだままなのは死体を固定する為だろう。今回は気に入ったようだ。
死体の首がガクリと揺れ、唾液が一筋、垂れた。
階段を一段彼の大きな足が踏む度に死体の全身がぐらりと揺れる。危なっかしいが、彼の怪力が見事に死体を固定しているようだ。ついでにチェーンソーも段の角にブレードをぶつけ、全体を前後に揺らす。
汚物にまみれたの地獄のような部屋に、廃墟の王が帰還した。血飛沫がペイントされた扉を開け放った瞬間、10人の臣下が腐臭のファンファーレを鳴らし、床に撒き散らされた臓物にかじりついていた虫達は、触覚を振り回した。
彼は扉をきちんと閉めると、肩に担いだ健太を頭の上に持ち上げ、両足を踏ん張って部屋の奥の壁に向かって投げ飛ばした。小腸が風になびく鯉のぼりのように泳いだ。大腸の一部が床に擦れ、破れた穴から大便が床に飛び散り、それを舐めようと我先にとゴキブリが乾いた腐肉の影から走り寄ってきた。死体は宙を半ば回転しながら吹き飛び、彼の目論み通り壁に激突した。
右肩から壁に突っ込んだので、肩が陥没して内側に肩胛骨が飛び出した。筋が切れるブチブチという音がした。両脚がぶらりと垂れ下がり、小刻みに揺れた。首をまともに壁にぶつけ、首が真ん中あたりでへし折れた。これにより体側の首の骨の先が壁に突き刺さり、骨と骨との間が衝撃で急激に狭まり、脊柱がほぼ真横にピンと壁に突き立った。空気抵抗によりめくり上げられた左半身が、血を噴き出しながらその骨で出来た槍に貫かれた。脊柱が左肺を貫通すると、ブシュウゥという間抜けな音がした。肺の空気が抜けたのだ。壁に大きな血のタぺストリーと肉の花を造り、死体は部屋の新たなインテリアとなった。
新たな家具の出来に満足すると、彼は部屋の左側に足を進めた。ぬるぬるする床に散乱する臓器を踏みつけながら向かったのは、首のない人間サボテンの前だった。不思議そうに首を傾げると、左手のチェーンソーをこの凶器が全身に突き刺さったこの外見では性別すら判らない彼女の腹に突き刺し、その肩を半ば切り込んだ形で放置されている凶器を入れ替わりに手に取った。
それを二三度振り、壊れていないか確かめると、黒ずんだ扉を開けに、再び部屋の入り口に向かった。
再び扉が再び開け放たれる。そして、殺人鬼が全身を震わせ、動き出した。
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