『風の刻(こく)-花の陰(かげ)-星の雫(しずく)』 =陰陽伝昔語り=(84/360)PDFで表示縦書き表示RDF


『風の刻(こく)-花の陰(かげ)-星の雫(しずく)』 =陰陽伝昔語り=
作:あんじぇ



第八十四話 沼地の家に棲む婆


 村はずれに死臭漂う広い沼がある。
 その脇に一軒のあばら家が建っていて、稲という産婆が一人で住んでいた。
 稲は産婆ではあるが、同時に子の間引きもする。
 不用意に孕んでしまった女たちはこのあばら家を訪ね、稲に子を流してもらうのである。

 水子は側の沼に簡単に捨てられた。
 稲だけは、水子の悲哀を知っていた。
 母親はせいせいした気持ちで帰っていく。まるで、要らないごみを捨てたかのように。

 村人たちは、こんな風に稲に手を貸してもらうことはあっても、普段は「子殺し婆」とか「間引き婆」といって稲に近寄ろうとしない。
 稲も、当然村人とは距離を保っていた。
 たねが稲を心に掛けるようになったのは、まだ赤子だった信吾が高熱で死にかけた時、稲に命を救ってもらったからだった。
 それ以来、たねは稲の唯一の友達になった。

 今もたねは、隣村へ行く前に稲の家へ立ち寄ろうとしていた。
 こんなどんよりした天気の日には、沼はまた格別に異臭を放っているようだった。
 カラスが数羽、しわがれた鳴き声を立てながらたねの頭上を飛ぶ。
 しのが歩きながら上を見上げた。
「泥に足を取られるよ、前をお向き」
 たねがそう声を掛けると、しのは「うん」と素直に頷いた。

「稲さん、こんにちは」
 戸口に立て掛けてあるむしろを少し横にずらし、たねは中を覗き込んだ。
 老婆は熱心に何やら煮詰めていたが、その声にふと顔を上げ嬉しそうに笑うと、
「おや、たねさんかい。よく来たね」
 そして、たねがしのの手を引いて部屋に入ると目を丸くし、「おやおや」と付け加えた。
「珍しいことだ、しのかえ?」
 ここで初めてたねはしのの手を離し、ほうっと一息つく。
「大きくなったろう? ……実はね、ちょっと困ったことがあって、今からこの子を隣村へ一時(いっとき)預けようと思うんだよ」

 何の草か、強い臭いが鼻を刺激する。
 たねが思わず顔をしかめたのを見て、稲は歯の抜けた歯ぐきを見せながら、ひっひっと笑い声を立てた。
「すまぬの。今、薬草を煮詰めておるでの。……それで? 困ったこととは何じゃね?」
 早速たねは、村へ来た怪僧のことを話し、
「だから少しの間――ほら、以前稲さんが言っていた隣村の和尚さんに預けようと思うのよ」
「ほう、妙心和尚……かね?」
 たねは頷いた。
「そう。稲さんが昔寺へ泊めてもらった時、親切にしてくれたというその方なら、しのを預かってくれるだろうと思って」

 稲は、奇妙なほどに小さい二つの目をしばらくしのに注いでから、また鍋の薬草に視線を戻し、そしてつぶやくように言った。
「あげてこい」
「えっ」
「しのを寺へあげてこい。しのは仁左衛門の屋敷では幸せになれんでの」
 稲の意外な言葉にたねは動揺したのか、しのを抱き締めると顔を青くした。
「でも……」
 もう一度、稲が言った。
「あげてこい。その僧の言うことがもし本当だとしたら、しのは寺で守ってもらうがええ。もし嘘っぱちでも、仁左衛門のところよりはええ」
 稲は鍋を火から下ろし、また別の鍋を火に掛けた。
 たねには稲の言ったことが正しいとわかっていた。
 稲は、もうそれ以上、何も言わなかった。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう