第10話 ほんとはね、
町の喧騒から少し離れた小さな湖の畔に、ノアとヴァージニアは並んで腰掛けた。
視線は水面に落としたまま、ノアが静かに口を開く。
「……私は天涯孤独になったところを、先代の陛下に拾われました。そして先代王妃、メイシーラ様に育てて頂き、二人の王子の学友として子供時代を過ごすことができました。敗戦国の戦災孤児だった自分には過ぎた、……本当に過ぎた幸福で」
あとからあの戦争は先代の王自身が仕掛けたものだと知ったけれど、そんなことはどうでもよかった。
遅かれ早かれ力のないノアの故郷はどこかの国に侵略されていただろうし、命を助けてもらって住む場所と食べ物を与えてくれたことの方がずっとずっと重要だった。
先代エストレア国王グリエル、その王妃メイシーラ、そして3人の王子と王女。
恩などという言葉では片付けられない、彼らはノアにとって、生きる理由だった。
「だから怒るとか不満を持つとか逆らうとか、そんなことは考えたこともありません」
「……でも、それじゃあ、あなたの意思は?それじゃあまるで」
刷り込まれた雛のよう。
精巧に組まれた人形のよう。
随分以前からノアに感じていた苛立ちの正体の一部が、朧気に見えた気がした。
何故だろう。
なんでこんなに、やるせなくてもどかしくて、切ない気持ちになるんだろう。
ノアには、ノア自身の幸せや人生設計がないから?
ただ盲目的に国家に忠誠を誓い、どこか自分の人生に投げ遣りなように見えるから?
……それとも。
唇を噛み俯くヴァージニアを首を傾けて見下ろしながら、ノアは温かに微笑んだ。
「エストレア国にお仕えするのは、私の意志です。国がいつまでも健やかであることに少しでも役立てるなら……これ以上の喜びはありません」
「エストレア国?……その中には、私も入っているの?」
思わず訊くと、一片の迷いもなく頷かれる。
「もちろんですよ」
「……そう。……ねえ、ノア」
「はい」
「ノア……、正直に答えて。私のこと、好き?」
黒髪の騎士は眼鏡の奥の眼を細め、完璧な微笑で即答した。
「好きとか嫌いとかではないのです。あなた方はただ、私の全てなのですよ」
「―――――……」
沈黙が落ちた。
いつの間にか日は沈み、辺りは薄暗くなった。
暖かくなってきたとはいえ、夕方になればまだまだ肌寒い。
ひゅ、とヴァージニアの頬に風が一陣吹きつけ、
「……ヴァージニア様?」
その風の冷たさとノアの戸惑ったような声から、ヴァージニアは自分が泣いていることに気付いた。
「…………っ……」
ヴァージニアは瞳を見開き、顔を背けて手のひらでごしごしを瞼を擦った。
「だ、大丈夫ですか!?どうしたんですか?あああ、あんまり擦っちゃ駄目ですよ、赤くなっちゃいますよ」
「……っ、うるさい……っ」
まるきり子供をあやすような彼の口調が癇に障り、涙声で悪態を吐く。
拭っても拭っても止まらない雫を止めるのを諦め、ヴァージニアは抱えた膝に顔を突っ伏した。
ぎゅうっと指先が白くなるくらいに強く、スカート生地を握る。
背中を丸め、小さな身体を更に小さくして。
「…………」
ノアは何も言わなくなったが、隣から思い切りおろおろとした困惑の気配を感じる。
数分の後、
「……っ」
ヴァージニアの頭の上に、大きな手が遠慮がちに乗せられた。
そっと壊れ物を扱うように丁寧に撫でられる。
ヴァージニアの身体はびくりと震えたが、振り払おうとはせずにされるがままだ。
風の吹く音と、ヴァージニアの鼻を啜る音だけが聞こえていた。
***
“――――好きとか嫌いとかではないのです。あなた方はただ、私の全てなのですよ”
傍からみれば、男が少女に甘く愛を囁いているように見えたことだろう。
しかし本質は間逆だった。
誓われたのは、絶対的な忠誠。
ノアを本当に下僕として見ていたのならば、向けられる気持ちとしてこれ以上のものはないはずだった。
なのに。
ヴァージニアは悲しかった。
どうしようもなく悲しくて、やりきれなくて、そしてそう感じた自分に動揺しながらも、何故か驚きはなかった。
むしろ、探し続けていたものをようやく見つけられた気がした。
碧色の瞳。
どこまでも澄んだ、この湖のような翡翠色の瞳。
“あなた方はただ、私の全てなのですよ”
微笑んだノアの瞳が、その言葉が彼の心からのものだと証明していたから、心を抉られた。
告げられた瞬間、胸がきゅうっと締まって、息が出来なくなって、涙が溢れていた。
恐る恐る、でもとても優しく彼に頭を撫でられ、その瞬間ぐちゃぐちゃの胸の中で自覚した感情。
それは。
(……なんてこと、この私が、よりによって)
ヴァージニアは決して鈍くない。
他人の感情にも自分の感情にも聡い娘だった。
だから一度疑えば、自覚してしまえばもう気付かない振りはしない。できない。
でももう遅い。
いや、遅いも早いもなかったのかもしれない。
どちらにせよ彼の中で自分がそういう対象になることは永遠にないのだろうから。
とうとう声を上げて泣き始めたヴァージニアの涙がおさまるまで、ノアはずっと彼女の頭を撫で続けていた。
***
いつも笑顔のノア。
私にどんな命令をされても笑って従って、それが仕事なんだけど、でも。
何だか本当のノアを隠されているみたいでちょっぴり寂しいと、あの穏やかな笑顔を見るたびに思う。
精一杯偉そうに振舞って命令してこき使えば、そのうち我慢の限界が来ると思ったのに。
限界が来て怒って、素顔のノアが見られるかもと思ったのに。
所詮子供の浅知恵ね。彼の方が何倍も大人だった。
でも、私だって少しは大人になったのよ。
幼い頃に彼の情けない姿に悲しくなって、怒って、こき使うようになって、
……でも、何を言われても笑顔を崩さない彼に寂しさを覚え始めたのは一体いつのこと?
ほんとはね、ノア。
もうあなたのこと臆病者だなんて、思っていないの。
10年以上も見てきたからわかる。
本当は知ってる。
強さを隠して極力戦わずに解決しようとするあなたの柔らかな強さを。
それは臆病というのではなくて、勇気っていうのね。
たった4つの時の自分の発言に縛られて、今も意地を張り通してる。
さんざん女王様然と振舞っておいて、今更素直になんかなれない。
だったらこのままとことん威張って、いつかノアが怒ったら、そのときには素直に謝ろう。
そう思い続けて、早何年?