第五十九話 兄その四
「どうしてこのお店に?」
「アルバイトで」
言葉は簡潔だった。だがそれ以上に何か天然めいたものも感じさせる言葉であった。
「来ているんだ」
「そうだったの」
「言わなかったか?」
「そうだったかしら」
彰子のいつもの天然が発動したようであった。彼女は覚えていなかったのだ。
「あまり。覚えてないけれど」
「忘れてたみたいだな」
「そうね」
皆それを聞いて囁き合う。彼等も彰子の天然はよく知っているのだ。とにかくおっとりとしているし天然なのだ。それがいいという意見もあるようだが。
「とにかくここのお店だったんだ」
「うん」
兄はあらためて妹に頷く。
「よかったら覚えておいてくれ」
「わかったわ。お店の名前は」
「シャムスンだ」
結構洒落た名前であった。居酒屋らしいと言えばらしい。
「わかったかな」
「とりあえず」
多分忘れるだろう、皆彰子の返事を聞いて心の中で思ったがあえて口には出さないのだった。
「覚えたわ」
「頼むぞ。それでだ」
「何?」
「皆さん来られてるんだな」
兄はここであらためて店の中を見回す。見渡す限り二年S1組の生徒でごった返している。中には他の客もいるが完全に彼等と同化してしまっていた。
「うん、皆いるけれど」
「それではいい機会だな」
妹からそこまで聞いてクールに言うのだった。
「挨拶をするか」
「はあ」
「宜しく御願いします」
二年S1組の方から言った。彼等の方が年下なので必然的にこうした態度になった。だがまだいささかの戸惑いもそこには見られていた。
「はじめまして」
兄はまず彼等に対して一礼した。
「小式貫之です」
こう名乗った。
「八条大学に在籍しています。どうぞ宜しく御願いします」
「こちらこそはじめまして」
「妹さんにはお世話になっています」
皆もその彰子の兄貫之に言葉を返す。かなり礼儀正しいやり取りになっていた。
「どうも。妹が迷惑をかけていませんか?」
「いや、全然」
「優しいし温厚ですし」
これは事実だ。もっともその中に彰子の天然をオブラートに包んではいるが。
「僕達助かってるんですよ」
「勉強もスポーツもできますしね」
「そうですか」
貫之は妹の様子を聞いて顔を綻ばせる。兄らしい顔であった。
「それは何よりです」
「いえいえ」
「本当のことですし」
天然も本当のことである。誰もあえては言わないが。
「それでは」
ここで貫之はまた言う。
「はい?」
「今日は皆さん是非心ゆくまで楽しまれて下さい」
そう一同に対して告げた。
「私も腕を振るわせて頂きますので」
「兄さんの料理なのね」
「そうだよ」
妹に対して優しい声で応える。どうやら兄妹仲はいいらしい。
「作らせてもらうから」
「そう、よかった」
「あれ、よかったって」
「彰子ちゃん、何かあるの?」
「兄さんはね」
彰子は楽しそうに皆に対して言うのだった。
「私と明香に料理を教えてくれた人なのよ」
「へっ!?」
「御二人に」
「大したことではありません」
驚く皆に謙虚に述べる貫之だった。
「二人共私なぞよりずっと」
「凄くお料理上手いの」
だが妹がその兄の横で言うのだった。
「だから皆期待して」
「そういえば」
ここで皆気付いた。
「このお店の料理は」
「はい」
貫之は彼等の言葉に応えてきた。
「私が作らせて頂いています」
「そうだったんですか」
「成程」
皆それを聞いてしきりに頷くのだった。それには理由があった。
「お兄さんがだったんですか」
「これはかなり」
「御気に召されたでしょうか」
貫之はそう皆に対して問うた。
「はい、それもかなり」
「美味しいわよね」
「有り難い御言葉です。それでは」
彼は皆の言葉を聞いてさらに機嫌をよくさせた。そうしてまた言うのだった。
「次は私が特別に無料で作らせて頂きましょう」
「おい小式君」
貫之の今の言葉を聞いて店の奥から声がしてきた。
「それはちょっと困るよ」
「あっ、店長」
やたらとガタイのいい顎鬚を生やした男がやって来た。エプロンが実によく似合っている。彼がその店長であるようだ。
「そんなこといきなり言われても困るよ」
「申し訳ありません」
「そういうことはわしに許可をもらってくれよ」
そのうえでこう言うのだった。
「いいね」
「許可ってことは」
「まさか」
「いいぞ」
笑って述べてくる店長であった。
「今日はかなり儲かっているしな。どうぞどうぞだ」
「わかりました。それでは」
貫之は一礼してからまた述べた。
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