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第二部
第二章 ヒカリハマボロシ
  1
 
 彼は河岸を歩いていた。隣には彼女がいる。夕陽に照らされた二人の影は長く伸び、彼らの足取りにあわせて草むらの上を滑っていた。
「……なあ、ワカ」
「何?」
 彼女は振り向いた。両手で持った鞄は重そうにふらふらと揺れている。逆光で、彼には彼女の顔が良く見えない。
「将来の夢、ある?」
 何となく、不思議そうな顔をされたのは分かった。
「急にどうしたの?」
「いや……」
 彼は歯切れ悪くつぶやき、曖昧に笑う。
「分かった!」
 彼女は彼の肩をぽん、と叩いた。
「高校受験が近いから、不安になってるのね?」
 その言葉は実際のところ大きく的を外していたのだが、彼は曖昧に頷いておくことにした。
「……そうかもしんない」
「大丈夫よ。先生言ってたじゃない。『今の調子だったら第一志望には十分合格できる』って」
「うん、まあな」
 だが彼の浮かない表情は変わらない。彼女は心配そうに眉をひそめた。
「何か、あったの?」
「いや?」
 彼は顔を上げる。少し不器用ではあったが、何とか彼女を安心させられるだけの笑みは浮かべられたらしい。彼女はふい、と前を向いた。
「私の夢はねえ」
 目をきらきらと輝かせて語る彼女を、彼はどこか眩しそうに見つめる。
「私、英語好きだし本も好きだから、翻訳の仕事につきたいの」
「翻訳……」
「うん。あとは編集者もいいなって」
「とりあえずは、出版関係なのか?」
「そうね」
 頷いて彼女は彼を見る。
「そういえば『――』のお父さんって」
「雑誌記者」
「だよね。今度、お話聞かせてほしいなあ」
「お前のお母さんから俺の親に言ってくれれば多分いつでも……ま、俺から言ってもいいけど」
「うん」
 彼女は笑った。それはとても自然な表情で、……きれいだと思った。
「幼馴染のお父さんがたまたま、なんてラッキーよね」
「…………」
 彼は返事をせずに静かに微笑む。
「で、『――』は? 何になりたいの?」
「何だろうなあ……」
 生返事をして、空を見上げる。夕陽に照らされた雲が影を作り、その陰影が変に立体的で、彼の眼を惹いた。
「『――』って運動神経いいじゃない? スポーツ選手は?」
「選手になれるほどじゃないだろ」
「そんなの、分からないじゃない」
「分かるさ。それに」
「それに?」
「それに……」
 彼は不意に視線を地上に戻した。彼女の顔を見る。光線の加減か、頬がうっすらと上気しているように見えた。触れてみたい衝動にかられる。
 だが、彼が口に出したのは別のことだった。
「……あのさ」
「何よ?」
「手」
「手?」
「出して」
「こう?」
 自分のものよりも一回り小さい手が、おずおずと差し出される。彼は満足げに頷き、その手を自分の手で掴んだ。
「ちょ、ちょっと!」
 彼女は真っ赤になって抗議する。だが、彼は動じなかった。
「いいだろ、別に」
「誰かに会うかも」
「気にすんなって」
「気にするわよ!」
 もぞもぞと逃れようとする指をしっかり掴まえ、彼は足早に歩き出した。
 このまま、ふたりでどこまでも歩いていけるような気がしていた。――川に沿って、どこまでも。
 
 
  2
  
 和歌子が事故に巻き込まれかけてから、二週間ほどが過ぎたある日の昼休み。理の机の前に突然見知らぬ少女たちがやってきて、彼は大いに面食らった。
「八千代君よね?」
 一人は長身にショートカットのボーイッシュな雰囲気で、もう一人は特に目立ったところはない髪を少し茶色に染めている。理は不審そうに彼女らを見上げた。
「そうだけど……」
「――和歌子の彼氏、でしょ?」
「……カレシ?」
 彼がその言葉を理解する間も空けず、少女たちは言葉を継いだ。
「私たち、和歌子の友達なんだけどね」
「ああ」
「あの子、最近変なのよ」
「変? どういうことだ?」
「ええ」
 二人はどちらともなく目を合わせて頷きあった。
「何か、八千代君は感じない?」
「いや、別に……」
 いつも通り毎週塾には通っているし、登下校時に見かければ声を掛けている。特に変わった様子はないように思っていたのだが……。
「何だか考え事をしていることが多くて、ぼうっとしてるし」
「そうそう。話しかけてもうわの空っていうか」
「そんな感じなのよ」
「へえ……」
 理は首をかしげる。そんな風には感じたことがなかったのだが、どういうことだろう。事故に巻き込まれそうになったとはいえ、怪我はなかったらしいし、頭を打ったとも聞いていない。それとも、実はやはりどこかをぶつけていたのだろうか。それならそれで、さっさと病院に行けばいい話のような気もする。
 理はつぶやいた。
「何か悩みでもあんのかな」
「そうかもしれないわね」
 髪を染めている方の女が軽く背を屈め、じっと彼の瞳を見つめた。
「ちょっと聞いてみてあげてよ」
「何で俺が」
「何でって……」
 長身の女が腰に手をあて、首をかしげた。
「彼氏かどうかはこの際置いておいて。でも、幼馴染なんでしょう?」
「それは……まあ」
「もし良かったら、彼女のお母さんにでも話してみて欲しいのよ」
「そんなに変なのか?」
 さすがの理も気にかかって聞き返すと、彼女らはほぼ同時に深く頷いた。
「それに、最近食も細いみたいだから余計にね」
「本当、彼女ちょっと痩せたもの」
「……分かった」
 理は頷く。
「うちの母親にも話してみるよ」
「ありがとう!」
 ぱっと表情を明るくして喜び合う彼女らに、いい友達だな、と理は思う。その背後で――久遠啓が硬い表情で彼らの会話に聞き入っていたなど、彼には思いも寄らぬことだった。
 
 
  3
  
 その日、透海は学校帰りに本屋に寄った。自分の身長ほどある本棚の間を回遊していると、酩酊とした至福の感覚に包まれる。彼女は本が好きだ。幼い頃から一日数時間以上でもじっと座って本を読んでいるような、そんな子供だった。小学生時代が一番本を読む時間があったな、と透海は思う。中学生、高校生と進むに従って勉強が忙しくなり、読書に取れる時間は少なくなる一方だ。小遣いは増えたから買える本の量は増えているはずなのだが……。
 透海はハードカバーの新刊の棚に歩み寄り、さっと背表紙を視線で撫でた後、平積みになっている方に視線を落とした。ふと、隣りに立っている人物が自分と同じ制服を着ていることに気付く。顔を上げると、相手もはっとしたように彼女を見た。見覚えはあるように思うが、名前は覚えていない。だが、相手は彼女を見知っていたようだった。
「北原さん?」
「あ、……ええ」
 透海の心に過ぎった警戒心に気付いたかどうか。少女はにっこりと微笑んだ。
「はじめまして。私、C組の潮崎」
「潮崎、さん」
 つぶやきながら、記憶を掘り起こす。浮かんできたのは、教室で近くの座席に座っている少年の顔だった。
「確か、八千代君の友達……だよね」
「そう、そうなのよ」
 和歌子はどこかほっとしたような表情で頷いた。
「友達なの」
「潮崎さんは、何か本を買いに来たの?」
「ええ。……北原さんは『加川霧子』って作家知ってる?」
 透海は首を横に振る。初めて聞いた名前だった。
「ううん、知らない」
「そう」
 北原さんなら知ってるかと思ったんだけど……、と和歌子は呟きながら、新刊コーナーから一冊の本を抜き出した。
「その人の新刊が発売になったからね、買いに来たの」
「小説?」
「ううん、何ていうか……エッセイじゃないけど、一応エッセイってことになっていて。不思議な文章を書く人なの」
「そう」
 たいして興味も持たず、彼女が手にした本のタイトルをちらと見る。――「ノアの見た夢」。
「…………?!」
 透海はぎょっとして目を瞬いた。彼女の表情の変化に気付いたのか、和歌子が不思議そうに首をかしげる。
「どうかした?」
「何でもない」
 透海はすぐに笑みを浮かべた。その表情の切り替えは、彼女にとっては慣れたものだ。何気なく、話を向ける。
「面白いの? この人の本」
「最近は結構売れているのよ。この本屋にもコーナーができていたもの」
 和歌子の後をついて歩いていくと、確かにある一角に彼女の本が集められていた。ほとんどはハードカバーだが、一部は新書や文庫にもなっているらしい。
「お薦め、ある?」
 尋ねてみると和歌子は少し悩んだ後、一冊の本を手に取った。黒を基調にして装丁された文庫本で、タイトルはグレイでひっそりと書かれている。「doubled world――二重世界」という文字を読んで、透海は内心少し動揺した。
「デビュー作はこれ」
 透海は礼を言ってそれを手に取った。大して高い買い物ではない。
「読んでみるわ」
「もし良かったら貸すけど?」
「ありがとう。でも、買ってみるから」
 透海はにっこりと微笑む。和歌子は頷いて腕時計に視線を落とし、はっとしたように顔を上げた。
「いけない、私約束があったんだった」
「ごめんなさい、引き止めたりして。待ち合わせ場所はどこ?」
「この本屋の前だから、大丈夫よ」
 妙にそわそわとし始める彼女に、透海は不審の眼差しを向けた。
「じゃあとりあえずその本を買って、それからすぐに戻れば?」
「そうね」
 和歌子は頷いて足を速める。透海も後に続いてレジに向かった。
 
「和歌子さん、こっち」
 和歌子が声を掛けられたのは、彼女がカバーを掛けた本を鞄に直してすぐのことだった。
「あ、乃江流さん」
 和歌子はすぐに声の主に気付く。透海も一瞬遅れて足を止めた。
「お友達?」
 彼女らの視線の先で微笑むのは彼女らよりも十歳ほど年上に見える女性だ。長い黒髪が印象的で、知的な美人だと思った。
「え、ええ。高校の……」
 透海は軽く手を振った。彼らの用事に、自分は関係ない。
「潮崎さん、じゃあ私はこれで」
「あ、うん」
「ねえ」
 乃江流と呼ばれた女性は透海の肩に軽く手を掛けた。彼女の体がぴくりと小さく震える。
「良かったら少しお茶でも飲まない? お急ぎでなかったら、だけど」
「えっと……」
 困った表情を作り和歌子の顔を見ると、彼女もまた困ったように微笑んでいた。
「乃江流さんは、私が紹介してもらったカウンセラなの」
「カウンセラ?」
「そう」
 乃江流は頷く。
「いつも二人で顔をつき合わせて話していても煮詰まってくるから、たまにはお友達にも参加してもらった方がいいんじゃないかと思って」
 言葉を交わしたのは今日が初めてである。友達などとは到底言えない――透海は当惑するが、うまい断りの言葉が浮かんで来ない。口ごもっているうちに、乃江流が言葉を重ねた。
「大丈夫」
「時間は取らせないから」
「…………」
 透海の探るような視線をついとかわし、乃江流はヒールの音も高らかに歩き出した。


  4
 
 乃江流に誘われ、和歌子と透海は近くの喫茶店に入った。店内には、彼女らとは違う学校の制服を着た女子高生の姿もちらほら見られる。駅や繁華街に近いこの場所は、彼女らにとって調度いい休憩所なのかもしれない。
 四人席の奥に和歌子と透海が、その向かいに乃江流が座った。透海は落ち着かない様子で和歌子を見遣るが、彼女は気にする様子もなくメニューを見ている。乃江流に出会ってからの和歌子は、どこかおかしい。透海は漠然とした不安を感じるが、その正体まではわからなかった。
「ごめんなさいね、強引に連れてきてしまって」
 乃江流は透海を案ずるように見つめて微笑んだ。
「いえ、別に……」
 口ごもる彼女に乃江流は名詞を差し出した。透海はそれを手に取る。資格と共に彼女の名前が書いてあったが、名字は横文字で彼女にはどう読んだらいいのか分からなかった。字の並びからみて英語圏ではないような気もするが、定かではない。
 乃江流はさっそく、というように身を乗り出す。
「それで。和歌子さん、具合はどう?」
「…………」
 メニューを透海に手渡した彼女の手がかすかにぴくりと震えた。
「あまり……良くないです」
「そう……」
 乃江流に落胆の表情が浮かぶ。何のことかさっぱり分からない透海が困惑していると、乃江流が和歌子に告げた。
「透海さんにお話しても構わないかしら?」
「ええ」
 和歌子が頷く。乃江流はあくまで穏やかに言葉を紡ぐ。
「貴方の口から話す? それとも私が?」
「……私が話します」
 ウェイトレスにそれぞれ三種のコーヒーを注文し終えると、和歌子はゆっくりと口を開いた。その眼は茫洋として、遠くを眺めている。
「私、この前に事故に遭いかけたの」
「事故に……?」
「新聞にも載ったけれど、とても小さかったから気付かなかったと思う」
 和歌子は気弱げに微笑む。透海は黙って続きを聞いた。
「トラックが歩道に突っ込んできてね。時任先生が庇ってくれなかったら……今頃死んでたかも」
「…………」
 透海の表情がかすかに動く。彼女の従兄弟、時任輝也がそのようなことに巻き込まれていたとは知らなかった。言うほどのこともないと思ったのだろうか。しかし、輝也にとって交通事故は鬼門である。かつて、彼は両親をそれで亡くしたのだから――。
「運転手にも怪我はなくて、大事には至らなかったんだけど……」
 和歌子が躊躇うように乃江流を見る。彼女は優しく頷いた。まるで話の続きを促しているようだ。長い髪が垂直に動くのを見るともなしに見ていた透海の耳に、和歌子の言葉が入ってくる。
「それから良く眠れなくなって……あと」
 和歌子は膝の上に組んだ手にぎゅっと力を入れた。
「誰かに監視されているような……まるで狙われてるみたいな気がして」
「狙われてる?」
 透海が眉を寄せて聞き返すと、和歌子は頬を赤く染める。
「おかしいよね。なんか、自意識過剰みたいで。でも……」
 和歌子はそれを高校の養護教諭である野々村に相談し、野々村から乃江流を紹介されたのだという。
「野々村さんとは大学で同期だったのよ」
 乃江流は透海に説明するためだろう、そう付け加えた。
「そうですか」
 それを聞かされたところで、透海としては当惑するしかない。言葉が見つからずに視線だけをためらわせていると、乃江流は和歌子に対して問いを投げかけた。
「貴方は誰によって監視されているのかしら?」
「えっと……」
 和歌子は軽く天井を仰いだ。
「この世界は誰かによって管理されていて。その誰かの手下……みたいな。多分」
「でも、どうして貴方を?」
「私……わたし」
 ウェイトレスが乃江流の前にエスプレッソを、和歌子の前にキャラメルマキアート、そして透海の前にはカフェラテを置いた。透海はカップに手をあてながら冷めるのを待つ。和歌子といえば運ばれてきたことにも気付いていないようだった。
「監視されているのは皆? それとも貴方だけ?」
「多分……私だけ」
 和歌子の口調は鈍く、それでいて妙に確信に満ちていた。
「それは貴方が悪いことをするから?」
 乃江流は次々に質問を口にする。
「そうじゃない。そうじゃないんだけど」
 透海はふと顔をあげた。疑念が鎌首をもたげる。――何かがおかしい。その違和感の正体を探ろうと、意識を自分の内に集中させる。
「きっと私はこの世界にとっては異分子で……」
「それはさながら」
 乃江流の声が妙に大きく店内に響いた。
 
「プログラムのバグ、と言ったところかしら?」

 ――ぴしり、と空間に罅が入った。
「な……?!」
 透海は驚いて立ち上がる。辺りを見回すと完全に時が停止していた――透海と乃江流を除いて。
「…………」
 この時、彼女はようやく違和感の正体に気がついた。透海は軽く眼を細めて乃江流を睨む。
「貴方、誰?」
「…………」
 乃江流は微笑んでエスプレッソを持ち上げる。彼女がカップに触れた途端、止まっていたはずの湯気が再び動き出した。白く、天井に溶けていく。
「貴方のカフェラテも、飲めるようにしましょうね」
 乃江流がそう言うと透海のカップからも湯気が立ち始める。和歌子といえば不自然に頭上を見上げたままの姿勢で、時が止まったのでなければ首を痛めそうだった。
「貴方、私のことを『透海』って呼んだ。だけど」
 透海は彼女から視線を離さない。
「私、貴方に名乗っていないわ」
「…………」
「どうして貴方は私の名前を知っているの?」
「…………」
「それ、どうして時を止めたの?」
「『どうやって』ではなく、『どうして』……か。驚かないのね?」
「これに似たようなことに、前出会ったから」
「そうね……」
 乃江流はエスプレッソをすすりながら上目遣いで彼女を眺めた。どこか面白がっているようでもあり、その表情には余裕があった。
「『北原透海』という名は私にとって意味がない」
「…………」
 透海は体を硬くする。――乃江流はおそらく、久遠啓と似たような存在だ。すなわち……。
「この際、『ディープ・ブルー』って呼んだ方がいいわね」

 乃江流はそう言ってにっこりと微笑んだ。
 
 
  5
  
 ――この世界は偽物だ。
 それはかつて久遠啓、いや「アーティフィシャル・インテリジェンス・ナンバー・サーティーン」、通称「ユダ」に聞かされたことだった。
 かつて、地球はとある原因で住むに耐えない状況になった。生き残っていた数少ない人類は受精卵を凍結し、それを管理するコンピュータと共に宇宙船に――「方舟」に乗せた。いずれ地球に良く似た環境を見つけることができたなら、受精卵を解凍して新たな地で人間が生きていけるように。確率は低くともゼロではない。そう考えたのだろう。どちらにせよそれ以外に道はなかったに違いない。
 その受精卵を生かすため、「方舟」のコンピュータシステム、「ノア」は彼らに「夢」を見せているのだ――人類が地球上に暮らしていた頃の「夢」を。
 「夢」を見ながら、卵は次々と生命を終えていく。そして新しい卵が「夢」を見始める。彼らの「夢」を支えるためにプログラムされた数多くの擬似人格が作られ、卵の「夢」である実存人格と一見何ら変わりなく生活している。光速に近い速度の「方舟」の中で凍結されている受精卵の周りでは、時間はゆるやかに流れている。ほとんど変化のない恒常性に守られ、「夢」はただ流れ続ける。
 ――だが、「方舟」の外では違った。襲い来る敵と戦うための「アーク」が準備されており、それは現在四機存在している。人型をした巨大な戦闘機であるそれは、起動に「コア」という名の実存人格を必要とした。「アーク」は「コア」の脳から仮想的に出入力する信号をもとに操縦されるのだ。
 現在の「コア」は「アーク」の数と同じ、四人。そのうちの一人が「ディープ・ブルー」――北原透海だ。
 
「貴方も『エーアイ』なの?」
 透海の問いに乃江流は首を横に振る。
 久遠啓は「アーク」の「コア」である北原透海専属の「エーアイ」である。彼女だけではなくそれぞれの「コア」に専属の「エーアイ」がいるらしいが、透海にはその役割が良く分からない。何故「夢」の中でまで彼が彼女のクラスメイトとして一緒に居るのか、その理由を彼は「君を守るためだよ」などと言っていたが、本当だろうか。彼の奇妙な馴れ馴れしさは、不快ではないが不可解ではあった。
 目の前の女は、どこか彼と似た空気をまとっている。透海は眉を寄せた。
「じゃあ、一体何……?」
「私は『イレイザー』」
 乃江流は穏やかに笑う。だが、それはどこか鋭利な印象のある表情だった。
「『イレイザー』?」
 それは彼女の知る限り、消しゴム、という意味の英単語だ。乃江流はうなずき、彼女のカップを指差した。
「そう。……カフェラテ、冷めるわよ」
 透海はしぶしぶといったようにカップを口元に運んだ。少しぬるいそれは、猫舌である彼女にはちょうどいい温度だ。乃江流はそれを満足げに見守った。
「『イレイザー』、つまりこの世界におけるバグを消し去るための役割、といったところね」
「バグを……?」
 呟いてからはっと顔をあげる。
 ――「プログラムのバグ、と言ったところかしら?」それは、乃江流が和歌子に対して言った言葉だった。
「潮崎さんがバグって……どういうことなの」
「…………」
 乃江流は黙って微笑を浮かべ続ける。
「彼女をどうするつもり?」
 質問を変える。すると、乃江流の表情からすっと笑みが消えた。
「それに答える前に、一つ聞いておきたいことがあるの」
「え?」
「あの男、何者なの?」
「あの男?」
 鸚鵡返しに尋ねて自らの思考停止にうんざりする。和歌子が語った話の中に出てきた男といえば、ひとりしかいない。透海はすぐに言葉を重ねた。
「もしかして、輝也さんのこと?」
「そうよ」
 乃江流は忌々しそうに唇を歪める。
「どうして私が彼女を消す邪魔をするの? 私の行動は『ノア』の意志にもとづくものなのに。この『世界』に住むものは、誰も彼には逆らえないはずよ」
 ――まあ、「ユダ」は例外だけれど。乃江流はそう付け加える。
「…………」
 透海は黙って彼女の顔を見つめた。
「貴方の従兄のことが聞きたくて、貴方をここに呼んだのよ」
 透海は乃江流の硬質な瞳をじっと見つめ返した。きゅっと引き結ばれた唇は何も答えない。――答えることなど、何もなかった。彼が何者であるか、彼女は知らない。知る必要もない。彼は彼女の従兄で、時任輝也だ。それ以外の何者でもない。
 乃江流が痺れを切らして何か口にしようとした、その時。
「あれ、こんなところで何をしているの?」
 第三者の声がして、不意に時間が動き始める。和歌子は不思議そうに瞬きをしながら首の位置を元に戻した。透海はゆっくりと振り向き、大きく息を吐く。静寂に慣れていた耳に、喧騒が痛い。
 銀髪に赤い瞳、抜けるような白い肌の美少年――それは、久遠啓だった。


  6
  
「お、潮崎じゃないか」
 啓の後ろから顔を覗かせたのは理だった。和歌子の眼が大きく見開かれる。
「や、八千代」
「お知り合い?」
 乃江流は微笑みながらも、ゆっくりと立ち上がっていた。
「お友達も増えたところだし、今日はここまでにしておきましょうか」
「え、でも」
 まだ何も話をしていないではないか――そう言いたげな和歌子に乃江流は軽く手を振った。
「お友達と過ごす時間も大切だわ。私と話をすること以上にね」
「……はい」
 乃江流は三人分の支払い金額をテーブルに置き、小ぶりなブランドバッグを小脇に抱えて歩み去る。
『おい』
 啓の横を通った時、彼女は小さな声を聴いた。
『彼女には手を出すな』
 鼓膜を震わせる音波ではない。「ノア」の回路を通した電気信号。
 乃江流はふっと笑みを浮かべた。
『噂通り、随分と彼女にご執心なのね、「ユダ」?』
『そうじゃない』
 啓の声が苛立つ。
『彼女に「敵」の正体を暴かれたいのか』
『まさか』
 乃江流は肩をすくめた。
『貴方が時任輝也に関する情報を隠匿しているんだもの、仕方がないじゃない。今回の任務の遂行にはそのデータが必要よ』
『そのデータに関しては「ノア」がトップシークレットに指定している。僕にはどうしようもないことだ』
『はいはい』
 啓の声に剣呑なものが混じり始める前に、ノエルは退散することにした。啓が――「ユダ」である彼が本気を出せば、「イレイザー」である彼女などあっという間に消されてしまう。データそのものをデリートされ、最初から存在すらなかったことにされてしまうだろう。
 彼のディレクトリはノエルのものよりもずっと上位で、彼女からの干渉はできなくとも彼からは可能だ。しかも、彼は「ユダ」の名を冠する啓は特別な「エーアイ」なのだ。普通の「エーアイ」が持たない権限を、いくつも「ノア」に与えられている。ノエルは消されるつもりなどなかった。
『それじゃ、また』
 彼らの会話が終わるまで1ミリセカンド。その間中、啓は変わらず笑みを浮かべ続けていた。
 
 
  7
 
「そうだ、潮崎」
 帰り支度を始めていた和歌子に、理は唐突に声を掛けた。
「ちょっと話があるんだけど」
「話? 何それ」
 首を傾げると、彼女のセミロングの髪が片方の頬を覆う。
「いや、まあいいからさ、ちょっと付き合えよ」
 理は奇妙な作り笑いを浮かべながら和歌子を見つめた。和歌子の表情に当惑が浮かぶ。
「別に、いいけど……」
「それじゃあ僕たちはこれで」
「え? 私ももう帰るわよ」
 背中を啓に押され、透海は怪訝な表情をした。啓は片目を瞑り、
「勿論僕も帰るさ」
 透海の鞄を彼女自身の手に押し付け、持たせる。
「さよなら、八千代君、潮崎さん」
「あ、ああ」
「さ、さようなら」
 唐突な啓の行動に戸惑う二人を尻目に、彼は透海を連れ、飄々とした顔で店を出て行った。
 店を出たところで、透海は腕を掴む彼の手を振り払う。
「一体どうしたのよ、久遠君」
「君は気が利かないね」
 啓は笑った。
「いい雰囲気だったじゃないか。あの二人」
「そっちじゃない」
 透海は足を止めた。既に彼らは駅の雑踏の中に入り込んでいる。透海と啓の間を何人もの人間が通り抜けていった。
 啓の笑顔が、随分遠くに見える。
「貴方、どうしてあそこに来たの?」
「あそこ?」
「あの、ノエルとかいう人が時間を止めていたのを解除したでしょう」
「…………」
 啓はただ静かに微笑んでいる。
「どういうことなの。潮崎さんがバグって……どういうこと。『イレイザー』って何。何を消すの」
 答えない啓を、じっと睨んだ。
「本気で……潮崎さんを? 何故? 何のために?」
「君は」
 啓の表情から笑みが消え、苦しげに言葉を絞り出す。
「『アーク』の『コア』だ」
「…………」
「『アーク』に乗って敵と戦い、敵を殲滅する。そうすれば」
 白い手のひらを広げて見せる。
「この世界は存続するんだ。それ以上のことは、何も――」
「敵って誰なのよ」
 透海は低く呟いた。こめかみが、痛む。
 俯いた視線の先を、色鮮やかな靴たちが通り過ぎていった。
「どうして教えてくれないの。他の『コア』たちも言っていたわ。それだけは絶対に教えてくれないって。何故なの」
 握り締めた手は汗ばんでいた。
「敵って」
「……ごめんね」
 啓のつぶやきが聞こえた。
「君を苦しめて、ごめん……」
「何よ、それ」
 顔を上げた透海の目の前で、啓は何故か泣き出しそうな顔をしていた。
「久遠、君?」
「君を守りたいんだ。それは、本当なんだ。でも、どうしたらいいのか良く分からない」
 啓は泣き笑いのように顔を歪めた。
「僕が『エーアイ』だから、わからないのかな」
「…………」
 透海は言葉を失う。啓のいう言葉は耳に入ってきていたが、理解はできなかった。ただ、啓は自分のためにこんな辛そうな表情をしている――そのことだけは、痛いほどに分かっていた。
 
 
 
  8
 
 並木道が歩道の上に影模様を作っている。その下を理と和歌子はゆっくりと歩いていた。
「話って、何」
 和歌子がつぶやいた。
 理はちらりと彼女の横顔を見た。夕陽が陰影を落とし、彼女の表情は良く見えない。
「あの女、誰だ?」
「カウンセラよ。野々村先生に紹介してもらったの」
「カウンセラ?」
 理の声が少し大きくなり、歩みが止まった。
「お前、何か悩み事でもあるのか?」
「……別に」
 和歌子もつられて足を止める。
「そういうわけではないけど」
 理の問いはあまりにも朴訥すぎた。和歌子の唇に苦笑が浮かぶ。彼はいつだってそうだ。真っ直ぐで、欺瞞というものがない。単純だが粗野ではなく、複雑な心の綾には理屈ではなく直感で迫ってくる――動物的な勘だろうか。
 乃江流や透海に説明したことを、彼には話す気にはならなかった。分かってもらえるはずもないと思ったし、彼に話して笑われるのだけは嫌だった。きっと、誰に笑われるのよりも辛い。
 結局和歌子は曖昧に誤魔化すにとどめた。
「ま、色々あってね」
「そうなのか?」
 理は眉を寄せる。整った顔立ちが、妙に子供じみているように見えた。
「友達も心配してたぜ?」
「友達?」
「ああ。俺、相談されちゃってさ」
「何で?!」
 和歌子が大声を出す。理はたじろいだように一歩退いた。
「な、何でって」
「何で八千代に相談するのよ。私のこと」
「さあ。……そういや何でだろうな」
 改めて不思議に思ったように首を傾げる彼を見て、和歌子は脱力して肩を落とす。
「まあいいわ。とりあえず帰りましょ」
「え、でも」
 まだ何も話していない――とりあえず理は歩き出した和歌子の後を追った。和歌子は早足で歩いているが、歩幅の広い理はすぐに追いついた。
「そういえば」
 理はふと呟いた。
「こういうのって、前もあったような気がする……」
「こういうのって何?」
 和歌子が振り返った。理は彼女を見て、穏やかに微笑んでいる。その表情に、和歌子は息を呑んだ。
「こんな感じ」
 風が彼の短い髪を乱す。浅黒く日焼けした肌に、くっきりした顔立ち。真っ黒な瞳が優しい光を宿していた。
「理君が、引っ越す前のこと……?」
 和歌子は口をついて出た言葉に、はっとする。
 ――サトル。
 そう、確かに彼女は彼をそう呼んでいた。それはいつのことだっただろう。
「ワカ……」
 理は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁く。
 理が引っ越す前ではない。もっともっと最近のことだ。しかし、そんなはずはない。記憶もない。だが、確かに――「おぼえている」。
「…………」
 困惑した表情を浮かべ、二人はただお互いの顔を眺めていた。


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