「あっ」
目の前の女性客がバッグの中を覗き込みながら、目を見開かせた。
「さ、財布、ないん…‥」
「え」
「ですけど…‥」
顔の角度を変えずにこちらを向くので、上目を遣う状態になる。両側に分けた前髪の影から、長いまつげに縁取られた右目が顕れる。どうしましょう、と僕を見ている。自分から目を逸らせないでいると、彼女からバッグに視線を戻し、中を探したり、それから自分の座っていたカウンター席まで戻っていって周りの床なんかを見に行ったりしていた。
彼女は僕の方に向き直り毛皮のコートを羽織りながら
「今から、持って来ていいですか」
家近いんで、とキャッシュカウンターまで足早に戻って来る。カツカツカツ、ヒールの音が響く。
代金は大した額ではなかった。店長や他の店員の対応を思い返す。
「あ、でしたら、次回にお支払いして頂いて」
「え、いいんですか」
「はい」
表情を険しくさせたまま固まっていた彼女の顔が緩んだ。暖かい照明にえくぼがくっきりと映し出された。
ずっと、この女性の姿は視界の隅に捕えていた。
いや捕えられずにはいられなかったと言った方がいいのか、とにかくこの人の存在は店の中で際立っていた。それもそのはずなのかもしれない、いつも丈の短い原色のスカートにピンヒール、緩くパーマをかけた茶髪をラメで輝かせ化粧は濃く、シアトル系コーヒーショップには傍目にも似合わない。僕の周りの店員は、絶対に水商売をやっている人だとスタッフルームで噂している。
ただ、僕の目を魅きつけたのは、そんな出で立ちに由来する存在感ではなかった。
いつも午後四時に来店し、カウンター席の、奥から二番目の席に座って一番苦いエスプレッソを飲む。あの席は唯一日光が当たる席だということを、日が経って知った。あのエスプレッソが店の出すコーヒーの中で一番色が濃ゆいということも。
テーブルに肘をつきカップに唇を近づけ、一瞬目を細めてからまず一口すする。残されたカップには、くっきりルージュの跡が一つ。
あらゆる数字や手順のルール。なぜこれだけ型式的なのだろう、とも思う。けれどそれがまた、彼女の存在を大きくしている。
この人が店の中でこんな風に過ごしていると、いつも不思議な力を感じる。まるで彼女が店のことを裏まで見通していて、店の中のすべてのものの呼吸を手にしているような、奇妙な錯覚に陥る。
けれど僕は、こんな感覚をむしろふさわしいと感じている。そして、自分が彼女のルールに規定され始めているのも気付いている。しかしそのことも全く不快に感じないのだ。
今日は普段とは違うことがたくさんあったけれど、それでも、彼女の存在感は大きいままだった。彼女がこの店にいることが、一番しっくりとくるのだと思えた。
柔らかな笑顔を盗み見る。ツケのメモを書く僕の手元を見ている。相変わらずラメがきらきらと輝いている。
「外までお送りしましょうか」
本当に後で思い返すと不思議なことなのだが、こんな突拍子もないことが口を突いて飛び出した。コーヒーショップの店員がそんなことを言ったものだから、少し驚いた風だったが
「大丈夫です」
と、きりりとした笑顔で笑った。真っ赤な唇から白い歯がこぼれた。
しかし、ドアの方に向かったときに、革バッグを肩に掛け直した。いつもの手順に戻って行く。
「ありがとうございました」
おじきしながら、ヒールの音が響きわたるのを聞いている。そう、三歩歩いてから、左手でドアを開けるのだ。
次の客に視線を移す。ドアの閉まる音が聞こえて、十一月の、けれどまだ暖かい風。右の頬をなでる。店の中に染み渡る。
だから、こうして右頬に風を感じるたびに、少し寂しい気持ちになってしまう。
僕は大きく息を吸って、再び仕事に意識を向け直した。 |