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兵器の散歩 作者:想房・河井正博
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10.『サルフの戦い』を東西文化から考える

明と勃興期の清の『サルフの戦い』を勉強することによって、古代から用いられた「弓矢」と当時の最新兵器である「火器の戦い」を考察してみたかったが、残念ながら十分に検討できなかった感がある。 
そこで、明朝が誇る火器を十分に装備した大軍に清のヌルハチの率いる弓騎兵が勝利した原因を東西での火器の発達の違いや日本における合戦を含めて広い範囲から、もう少し掘り下げてみたい。

周知のように火薬は中国四大発明の一つで、唐代の850年頃にその淵源を遡る中国の誇る技術である。唐の後の五代十国を経て、宋代に火薬関連兵器は大きく発達した。
官僚政治が発達した文治国家宋は外敵との国防の要の一つとして、火薬応用兵器に注力していた。同兵器の分類方法を篠田耕一氏の「武具と防具 中国編」から引用させて頂くと、大きく分けて次の三つになるらしい。

1)燃焼性火器
2)爆発性火器
3)投射性火器

燃焼性火器は、現代の火炎放射器や東ローマ帝国の「ギリシャ火」の古典版と考えてもらっても良いような気がする武器である。代表的な中国の火器としては、「火槍」がある。槍の柄に火薬を噴射する筒を付けて、敵と遭遇時に火薬に点火、燃焼炎を敵に噴射させて圧倒する兵器である。当然、火薬の燃焼は短時間に終了するが、その後も槍として使用できる利点がある。
爆発性火器には、元寇時に日本の鎌倉武士が対応に苦慮した「鉄炮」も含まれる。北宋の持っていた爆発性火器を、北宋を滅ぼした金が改良し、更に、金を征服したモンゴル帝国が金国から入手している。
元は金から入手した国家機密の火器製造技術に更なる改良と破壊力を増大させた新兵器として元寇で使用したものと考えられる。
代表的なこの種の火器としては、「震天雷」がある。震天雷は、現代の手榴弾に相当する爆裂弾なので、元寇の「鉄炮」も、もしかしたら、モンゴル軍内部、特に江南軍では、「震天雷」と呼ばれていた可能性があるように私見では考えている。

さて、時代は変わって明王朝が1368年に成立すると明軍の装備が刀槍、弓矢の中国風な表現でいう「冷兵器」から「火器」に軍の装備内容が大きく替り始める。特に、永楽帝以降、軍内部での「火器」の比重が増大し、明中期には軍装の武器の過半数が「火器」に替わっている。その中でも、三番目の「投射性火器」の比重が高くなり、小は口径1.5cmから、大は口径20cmを越えるような大小の火砲が製作されている。中でも、口径1.5cmの「天字銃筒」は、永楽年間を中心に約10万丁も製造され、全軍に支給されたらしい。
中には、三眼銃と呼ばれる三つの砲身を束ねた原始的な拳銃に類する小型携帯用の接近戦に適した火器もあった。けれども、小口径の「天字銃筒」を含めて完成度はヨーロッパの「マスケット銃」に遠く及ばない原始的な状態であった。マスケット銃が持つ、引き金や、火蓋も無く、「指し火式」の旧態依然たる火器であり、装填速度も遅く、結果として、操作性だけではなく、命中精度も劣っていた為、明軍としては、中口径から大口径の大砲に重点を置いて整備していったようだ。

明国の影響を強く受けた李氏朝鮮王国も口径6cm~10cm以上に及ぶ大小の口径の「玄字銃筒」や「地字銃筒」、「天字銃筒」の開発と整備を李朝第四代の世宗の頃から鋭意進めて、この時期には相当の成果を挙げている。もちろん、三眼銃も恐らく「文禄・慶長の役」で使用されたと考えられるが、日本軍の持つ火縄銃と戦国諸侯の効率的な運用技術の前に効果を挙げることもなく敗退している。

以上のような経過から、明軍は、「火器」特に当時としては口径の大きな大砲の装備に熱心で、「サルフの戦い」にも虎蹲砲や霹靂砲、大将軍等の各種の大砲を装備して決戦に臨んだものと考えられる。一方、前述したように李朝の増援軍には、明側から、「日本式の鳥銃」を主に装備した部隊を加えるように依頼があった為、相当数の火縄銃部隊が含まれていたと考えられる。
明軍としては、自軍の豊富な大砲と李朝軍の「鳥銃」部隊があれば旧式の弓騎兵が主体の満州族に対して無敵だと感じていたと想像される。
何故、そうなったかというと、先の「文禄・慶長の役」で、明軍と李朝軍が最も苦しめられた一つが、日本軍の「火縄銃」だったからである。明と李朝にとって、火縄銃はヨーロッパからの伝来というより、日本軍からの恐怖を伴って伝って来た兵器であった。呼び名も日本で常用されている「種子島」や「火縄銃」では無く、中国、朝鮮では、空を飛ぶ、鳥をも落とすことができる賛嘆を込めて「鳥銃」と呼ばれている一事でも、日本伝来の銃の高性能さに対する民族的な恐れが理解できよう。

一方のヨーロッパでの「火器」の開発競争は、本場の中国とは全く異なる様相を呈している。単独の覇権強国である中華帝国と異なり、ヨーロッパでは古代西ローマ帝国の崩壊以降、中小の異なるシステムの国家が乱立し、覇権を争っていた。
アジアから伝来した「火器」に関しても初期の段階では開発の進捗が余り見られなかったが、上記の3)の投射性火器にオスマン・トルコを含むヨーロッパ諸国が注目したことによって、状況は一変して行く。
近代の小銃につながるマスケット銃(火縄銃)が15世紀前半に開発されると共に、より大口径の大砲でも各国間で小改良が続いた結果、製造面でも、鍛造練鉄製で発射時の強度を保つために鉄製の箍を砲身に嵌めていた粗雑な大砲製造技術が進化して、高性能な青銅製一体鋳造砲へと大きく進化している。

その結果、ヨーロッパ諸国では、城塞の防御と攻撃に開発の主眼を置いた大砲と歩兵の野戦での実用化を目指したマスケット銃(火縄銃)の二系列の「投射性火器」の改良が急速に進み、実戦での実用化の時期を迎えていた。
そして、ヨーロッパ世界での中小国家群の乱立状態は、絶えず何処かで抗争が発生する下地を有していた為、各国は、最新の「火器」開発に鎬を削り、より優れた兵器の出現に努力を怠らなかった。
当然の結果として、アジアでたった一人の巨人で全体主義の覇権国家中国の開発成果よりも、多数の西欧諸国間の競争で得られたマスケット銃や大砲の方が優秀な性能を示したのであった。
ヨーロッパ諸国にとって幸いなことはマスケット銃や大砲の開発が、「大航海時代」に間に合ったことである。大型帆船と世界中の他の地域に優越する「火器」は、各国の植民地獲得競争において、絶対的に優位な条件を提供していったのである。

さて、ヨーロッパにおいて、大型帆船とマスケット銃や大砲が発展し、中国と隣国の李朝で大砲や火槍、震天雷の開発と軍隊での装備が充実し始めた頃の天文年間初頭まで日本では、未だに弓矢と刀槍を主として戦っていた。
極東の島国への最新文化の伝搬は、ヨーロッパからも中国からも遅かったのである。

日本への鉄砲伝来に関しては諸説があるが、一般的なところでは天文十二(1543)年、種子島に伝来したとされている。
ヨーロッパにおけるマスケット銃の普及で、古代からの名誉ある騎士階級が衰退し、長い槍を持った部隊と火縄銃を持った部隊の混成部隊が西欧軍隊の主力と成って行ったが、中国の明では、最新のマスケット銃には関心を示さず、燃焼性火器、爆発性火器、投射性火器を横断的に広範囲に開発していた。強いて中国が興味を示した西欧の火器としては、ポルトガル製の「フランキ砲」だった。
それに対して、戦国真只中の日本の諸侯は、最新の火縄銃に熱狂し、製造技術と戦場での運用技術を急速に身に付けて行った。僅か、33年後の天正三(1575)年、火縄銃隊の集団的運用に依って織田徳川連合軍は歴戦の武田軍を長篠において、打ち破っている。  
その影響は甚大で、戦国諸大名の軍勢は、ヨーロッパ諸侯の軍隊と同様の長槍と火縄銃を装備した歩兵部隊を中核に騎兵部隊をミックスした部隊編成に一新している。
しかし、その反面、ヨーロッパ製の大砲には、豊後の大友宗麟等、少数の大名が興味を示した以外、多くの諸侯は関心を示さなかったし、中国からの大砲の情報収集に注力した形跡も無い。

先に述べたように、高性能の大砲に惹かれた明国は、特にポルトガル製の「フランキ(子母砲)」に興味を集中している。「フランキ」は原始的な後装砲で、発射薬と砲弾を入れたカートリッジ部分が容易に交換でき、従来型の中国製大砲では得ることが出来ない発射速度を達成できる利点があった。
大砲に魅力を感じた明国と李朝、火縄銃の威力に魅了された日本、この結果が歴史的に試されたのが、朝鮮半島で両軍が戦った「文禄・慶長の役」であることは既に述べた。
野戦では、日本軍の持つ火縄銃に軍配が上がったが、海戦では、名将李舜臣の率いる亀甲船その他に装備された大砲によって、日本の水軍は制海権を奪われ、海上輸送路の確保に失敗している。

しかしながら、あれだけの民族間の大戦争を経験した中国、朝鮮、日本共に相手の有力兵器に関する事後研究は拙かった。
その後の日本での大砲研究を徹底して行ったのは、朝鮮の実戦に全く参加しなかった徳川家康だけだった気がするし、明軍内での火縄銃装備の推進も図られた気配も感じられない。
唯一、軍装備の改善を図ったのが、最も辛酸を舐めた李氏朝鮮軍で、前述のように、日本製をコピーした鳥銃装備の部隊の拡充に努めている。それでも、装備面では改善できたものの戦士の運用面では日本軍に及ばなかったようで、「サルフの戦い」ではヌルハチの弓騎兵の攻撃に、半数が壊滅し、残りの軍隊も降伏している。

中国明代の兵書によると上記の火器の他にも飛雲霹靂砲や威遠砲等、多種類の怪異な名称や勇壮な名前を持つ数十種の「火器」が仰々しく記載されている。その反面、ヨーロッパと異なり、火薬の分類や兵器の詳細の記述に乏しく、具体的な運用法の記述が抜けている場合が大半である。
また、中国が、先に挙げた三つの特性の火器の品種の横の拡大に熱意を注いでいるのに対し、ヨーロッパ諸侯は、「投射性火器」の改良開発に熱中、小銃と大砲の実戦での性能向上に人材を投入して大きな成果を挙げている。
そして、中国での「火器」開発で最も抜けているのが、ヨーロッパで発達したような、冷静に真実を理論的に追求しようとする姿勢であった。
中国では古来、「士大夫たるもの手足を動かすような下賤な行為は慎まなければならない」という確固たる論語に基づく固定観念が上流階級に普及していた上、下層の大衆にも「軍の兵になるような人間は、人民の中でも最低限の人種」だとの意識が根深く潜在していたのである。

いずれにしても、中華文明は世界的に見て「火薬」を始めとする、羅針盤、紙、印刷の四大発明を生んだ一方、ヨーロッパは、中国で生まれた「火薬を応用した兵器」を大砲と小銃の分野で精度を高め、世界征服の手段として大航海時代から第二次世界大戦終了まで最大限に活用している。

一方の日本は、中華文明やヨーロッパ文明に比肩する文明を生み出す力は育成出来なかったが、新しく到来した良い物を取捨選択して導入、「火縄銃」の国内での製造精度を上げ、実戦での運用技術も短期間にヨーロッパ並みに高めている。
物作りにおいて、日本は古代から性能を最良のレベルまで高める技術力と民度に恵まれていた。古来、職人を中国や李朝のように蔑まず、美術や工芸の一級の作者を天皇以下諸侯が高く評価する伝統文化を持っていたのである。更に精神面では、武勇を尊び、名将を賛美してきた日本の伝統は、敵の弾雨の中でも戦列を維持できる戦国期らしい心の強靱さが存在したのである。
もしかしたら、ヌルハチの指揮する満州族の弓騎兵の強襲に対して、明軍の兵士に鳥銃や大砲の戦列を維持する粘りがあれば、「サルフの戦い」の帰趨は異なったものになったかも知れない。

しかしながら、歴史上の現実は冷酷で、援軍を合わせても2万に満たない満州族のヌルハチ軍に対して、四倍以上の兵数と最新の「火器」を有する明朝連合軍は惨敗している。
満州族最大の勝利の要因は、彼我の装備の長短と天候を含み全ての要素を考慮して、作戦を立てたヌルハチの天才的な能力と少数の自軍を自在に操った指揮能力に帰結しなければ成らないだろう。
明朝鮮連合軍のヌルハチを四方向から包囲殲滅しようとする作戦計画は、そう悪いプランではなかった。しかしながら、通信手段が限られていた当時、四軍の各将間の緊密な連携と実戦での応変の判断力は重要な勝利へのファクターであったが、時間的な連係動作に対する協調性に乏しく、また、諸将間の信頼関係も低い状態だった明軍は、旧式装備のヌルハチに各個撃破され、最新式の大砲や鳥銃を戦場に散乱させて、明軍は壊乱し、李朝軍を除く多くの部隊は殲滅されてしまった。

最も、ヨーロッパの軍隊でもマスケット銃による横列の戦闘隊形から、近代的な散開した戦闘隊形に移行するまでに数百年を要している。16世紀以降、ヨーロッパ諸国の軍隊の近代化が急速に進んだかといえば、そうでも無かった。銃を持たずに槍を主力装備とした槍騎兵は、ナポレオン戦争の頃でさえ、各国軍隊の重要な構成要素であったし、第二次世界大戦の時代でさえ、ポーランド軍のように騎兵連隊を強襲攻撃の要として用いていた国もあったのである。
洋の東西を問わず、同一国家の内部でも、急速に近代化が進んだ領域と古代の長い尻尾を引きずっている部分がある。
何時の時代にも、自国と敵国の実力と欠点を「冷静に理解分析して、現実に対応できる政治指導者」の居る国が、最後の勝利の美酒を味わえる可能性が高いのである。
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