第一話「回想<正太>」
‘あねさま’と初めて会ったのは、ぼくが5・6歳の頃、両親の仕事関係で連れられて行ったパーティー会場でだった。
ぼくの家は両親が二人共に学者で、でもそれ以外は普通の一般人だったから、テレビで見た覚えのある経済人や芸能人達のキラキラした格好からすると質素で貧相な姿で――でも、ぼくは知ってる。
父さんは皆が何気なく使っている‘てくのろじー’を開発している。母さんは世界中の古い言葉を‘ほんやく’してて、昔の時代の正しい歴史を調べたりしてるんだ。ぼくは、二人がカッコイイって、知ってる。
だから、父さんの会社の社長の子供が、父さんと母さんを『場違いなんだよ貧乏人のクセに』って馬鹿にした時、ぼくは許せなかった。
でも殴れなかった。
悔しいけれど、父さんはその子の親に雇われているから。ぼくが殴ってしまったら、父さんは大好きな研究を出来なくなるかも知れない。父さんの邪魔を、ぼくはしたくない。
その内に他の子供も集まってきた。皆がぼくの両親を、父さんと母さんを口々に馬鹿にした。
貧乏人。
場違い。
帰れよ庶民のクセに。
ぼくはギュッと握りしめた手を、もっと強く握って耐えた。爪が肉に食い込んで、ポタポタと血が垂れた。悔しくて悔しくて悔しくて、今日は最悪な日だ、って歯ぎしりしながら考えてた。
あと、何分だろう?
少しすれば子供達は飽きて、その内ぼくの大好きな父さんと母さんが迎えに来てくれて、こんなサイテーな場所から帰れる。だから我慢、我慢をする。
でも――やっぱり、悔しくて。
怖いわけじゃなくて、痛いんだけど怪我をしたんじゃなくて、心の中がズキンズキンって痛んだ。
父さんが、母さんが馬鹿にされているのにやり返せない自分に、こんな馬鹿みたいな社会の仕組みに腹が立った。掌が血で真っ赤になるまで握り込んだ拳に、何かが落ちる。
なに? 冷たい。確かめて触れた指先が少し濡れる。水、滴――ああ、なんだ涙か。ナミダが流れてた。
そうだ、ぼくは泣いていた。
ぼくの泣き顔を見て、一人の悪魔が笑い始めた。ぼくを嘲って、何が可笑しいのか狂ったように笑った。一人、また一人と大口を開けた。気付いた大人もいるはずなのに、誰も止めなかった。なかには大きな悪魔になって、小さな悪魔と一緒に笑う者さえいた。
ポタリ。
また、手に涙が垂れた。今度の涙粒はさっきのよりも大きい、と思った。
その時、
『止めんか、国の牽引者たる資格を持たぬ下等人間共がっ!』
カトーニンゲン。
ポカンと固まる人達の前に颯爽と現れたのは小学校くらいの女の子で。気の強そうな綺麗な目をした、真っ赤なドレスの少女。邪悪とは全く異質の澄んだ鋭利な目が、悪魔達を貫いている。
少女は悠然とぼくの前まで歩むと、ぼくの頭に手を置いて『頑張ったな、偉いぞ』そう小さく囁いてくれた。
思わず溢れそうになった涙のカーテン越しに眇めた少女の姿は、その時確かに天使だった。
ぼくは少女に抱き締められて、ぼくも少女に抱きついた。よしよしと優しく撫でてくれる手の温もりは暖かく、そして我に返って中傷の釈明を叫び始めた悪魔達を見据える瞳は、恐ろしく――冷たい。
『この少年の――涙、そう涙が。醜いと、笑うのだな貴様等は。この霊峰の泉のように清らかで、日ノ本に最たるとも知れぬ金剛の心を持った少年が、貴様等のごとき下等人間の罵詈雑言などに屈し、怯え、逃避の涙を流したと、そう思うのだな』
静かに燃え立つような激情でもって、何十もの人間相手に臆しもせず、ただ正しきは良しとばかりに怒る。
『私の名は姉大路巴と言う。家名を使うは不本意ではあるが、今宵は悪鬼の面を潜ませた下等人間と場を同じくする事の苦痛が耐え難い……故に、立ち去れ! 姉大路の名を知るのならば、私の一縷の温情を無下にしたくないのであれば、即刻立ち去るが良い!!』
あねおおじ、ともえ。
ぼくの心に刻み込まれた、その名前。
ぼくを抱き締めるその人は、悪魔達に告げた冷徹な声とは一変した物語り気な口調で同じ名を名乗った。
『そう、そして君は金田の、正太君だな? 君の両親と私の両親は昔馴染みというやつでね、話が込みそうだったから君を探しに来たんだが――ふふふ、聞いた通りの少年だ』
なにがそんなに可笑しいの?
ぼくが尋ねると、巴さんは血のついたぼくの手を柔らかく握って答えた。
『君が両親を侮辱されて怒ったなら、私は思慮が足りないと君を叱っただろう。金を持つ者は優越感に浸りきっているからね――些細ないさかいでさえ因縁を付けられ兼ねない。しかし君はそうしなかった。傍目には怯えて泣いたように見えたかも知れないが、私には分かった。その涙は、この掌の血は誰の為に流したものなのか――他人の為に己の怒りを抑え、しかし保身に走るだけではない真に正しき自制の心……私は嬉しいのさ、だから笑っているのだ』
う〜ん、良く分かんない。
『玉石混淆<ぎょくせきこんこう>……ハズレもあればアタリも混じってる、そういうことさ』
ぼく、アタリなの?
『ああ、アタリだ。大当たりだ』
そうなんだ。
『ああ、そうだ』
なんだかぼく宝くじになったみたい。
『ふん…だが君が宝くじだとしても私は換金しないぞ? 何故なら君には、金などには換え難い価値があるのだから』
それって何?
『知りたいか? それはな――…』
あの時、何と言われたのだろうか。
何年も経った今では、‘あねさま’と離れて暮らす今では確かめられない。それは三年前からの約束で、必ず戻ってくるという思いを込めた自分への誓いだから。
そして、ぼくは約束を果たす。
だから今、ここにいる。 |