……空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっていた。
頼子は正直、病室の窓からこの夏の空を見られるとは思ってもいなかった……。
頼子は昨年の冬から入院していた。
高校卒業まであと三ヶ月という希望に満ち溢れたある日、彼女に突然の不幸が襲ったのだ。
それは、数年前から世界中で猛威を奮った病。
ウィルス性の病気なのだが感染の無い特殊な病気だった。発生原因も感染経路もすべてが謎の病気に罪もない少女は見舞われたのである。
今の医学では治せない病。感染したら最後、三ヶ月も持たない不治の病。
しかし、彼女は奇跡的に夏の日差しを浴びていた……。
入院した頃は、いつ死んでもおかしくない状況に毎日脅えていた。
迫り来る死への恐怖に絶望していた。
この病気は意識を失ったら最後、身体機能が低下し突然死する。様々な抗生物質に免疫を持った謎のウィルスにより身体機能を低下させ臓器不全を引き起こすのだ。
しかも病気の進行速度が異常で、さっきまで元気だったのに突然死亡するといった例もあるため、頼子は毎日が最後の日だと覚悟して生きていた。
彼女は、そんな葛藤の続く長い闘病生活の中で死への恐怖を克服した。
残り少ない人生を、精一杯生き抜こうと誓ったからだ。
それは恋人・正人の存在が大きかった……。
正人とは高校に入って知り合い、お互い一目惚れで付き合う事となった。
不器用な一面を持つ正人は、今時にしては珍しい純粋な男だった。
頼子が病に倒れてからは、時間を作っては毎日見舞いに来た。
バイトを辞め、塾を辞めて果ては志望校を変えてまで頼子との時間を優先したのだ。
頼子は、そんな彼に心を救われた。
その正人の行動が、この奇跡的な延命に繋がったと頼子は確信している。
「……正人、奇跡はまだ続いてるね?」
頼子は、その言葉の意味を知っている。
自分に突きつけられた現実を知っている。
それでも明るく振る舞った。
彼女は、最後の時まで正人との時間を大事にしたかったから……。
夏の午後、中庭に咲く花達は緩やかな風に身を任せていた。
その姿はさながら、生命のダンスを踊っている様にも見える。
彼女は病院の中庭で夏の日差しを浴びながら、その小さな命のダンスを見ていた。彼女はその命の輝きを見て、悔いの無い人生にしたいと思った。
(……どうしよう。どうしたらいいの?)
頼子にとって、この人生は幸せだったと心から言えた。
それは、存分に正人との想い出を作る事ができたから。
その裏には、いつも優しく温かく見守ってくれる両親がいた。頼子の両親は彼女の気持ちを察知し、正人との想い出作りに自分達の時間をさりげなく譲ってくれたのだ。
そんな深い愛情を注いでくれる両親がいた事で、頼子は生きる希望を失わず、悔いの無い人生を送る事ができたと言えるのだ。
それでも、たったひとつだけ心残りになる事があった。
それは、正人の事。
頼子が病に倒れ、その寿命が残り少ないと知った正人は、自分を犠牲にしてまで彼女との時間を選んでくれた。
そんな一途な愛を貫く正人だから、自分が亡くなった時に深く傷つく事は容易に想像できた。その事が頼子を不安にさせる。
(……正人には幸せになってほしい。
私に縛られて自分の幸せを諦めたら、どうしよう……)
もう、彼女には死への恐怖はなかった。
ただ、正人を傷つけてしまう事だけが怖かったのだ……。
心に不安を抱えながらも、彼女の体調は良好だった。今日も中庭で夏の風景を眺めている。
彼女にとって、毎日が“最後の日”である。
もはや手の施し様もない彼女は、いつ倒れてもおかしくなかった。それでも常人なら気も狂いそう状況の中、彼女は笑顔を絶やさず明るく振る舞っている。
そんな健気な頼子の姿を見て、病院側は彼女の院内での自由な行動を許した。
そのおかげで頼子は毎日中庭で夏を満喫する事ができた。
夏の日差しを浴び、咲き乱れる花を眺め、愛しい人との思い出を作る事ができた。
(この奇跡は、正人がくれたもの……この与えられた時間で、私は生きる事の素晴らしさを知った……)
頼子は病にかかってから、自分が何のために生まれてきたのかをずっと考えていた。
はじめは自分の運命を呪い、すべてがむなしく感じられた。
そんな頼子を正人は不器用ながらも精一杯の愛で尽くす。
その愛によって、彼女は自分なりの答えを見つけ出したのだった。
『私が生まれたのは、愛を学ぶため』
頼子は病になって様々な愛を知った。
両親からは家族愛を、主治医や看護士からは献身的な慈愛を学んだ。
そして、正人からは愛し愛される事の素晴らしさを教えてもらった……。
だから、頼子は死への恐怖に耐えられる。
どうせ人はいつか死ぬ。それが早くなるか、遅くなるかの違いでしかない。
頼子はそう思うのだった。
……夏の日差しに照らされた中庭。今、この瞬間を感じながら空を見ている。
今、頼子が思う事は自分の事ではなく『自分がいなくなった後に残された者』への思いだけだった……。
(……私はもう充分満足している。
ここまで生きられた事、みんなが教えてくれた様々な愛。
そして、正人がくれた愛。
……それに対して私にできることは、少しでも良い思い出をつくり悲しみを減らすこと……)
彼女の心には、死に対する恐怖や絶望はない。今となっては、その『現実』を受け入れているから。
頼子は病気になって周りの人々の愛情を知った。
その事で自分なりに“生まれてきた意味”を感じている。
限られた時間の中で、生きている意味を『大切なもの』を見つけられたのだ。
だから、頼子は周りの人達の事を思えたのだった。
(……正人は私のためにすべてを犠牲にしている。私は、正人に何をしてあげられる?)
頼子は、自分に尽くしてくれる正人に悲しい思いをさせたくなかった。
自分を失い、悲しみに沈む正人を想像すると、頼子は胸がたまらなく痛かった。先の長い正人には、幸せに満ちた人生を歩んでもらいたい。
だから、二人の思い出に悲しみはいらない。
いつか振り返った時、二人の時間が楽しいものだったと思い出してもらえるだけでいい。
頼子の願いは、それだけだった……。
時の流れは、人の想いとは裏腹に過ぎていくのが早い。
緩やかな風が吹きはじめ、頼子の体を優しく包み込む。
夏の空は、今の頼子の心を映した様に雲ひとつなく澄み切っていた。
正人を想う気持ち。この愛を知る事ができただけで頼子は幸せだと思えた。もうすぐ正人が来る。それは、毎日が『最後の別れ』の時間。
ほんのわずかな時間でも一緒にいられるその時が、頼子にとってはかけがえのない大切な時間。
それ故にいつか来る別れの時、正人の悲しみを和らげる様に頼子は心からの微笑みを見せる。
時が過ぎても思い出は残る。
愛する人が振り返った時、素敵な思い出になる様に今日も楽しい時間を過ごす。
愛する人に会える喜びを胸に、頼子は緩やかな風を受けて夏の空に想いを寄せるのだった……。 |