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第28話【ナザック砦攻防戦4、二人で一緒に】



「せ、セリナ?」

何が起こったのか、奈緒には理解できなかった。
彼は自分の部屋のベッドの上に押し倒されている。自分を覗き込むルビーの瞳からは涙が零れていた。
ぽたり、ぽたり、と水滴が奈緒の頬を濡らしていく。
どうして彼女が泣いているのか、奈緒には全然分からなかった。本当に理由が分からなかった。
女性心が分かるだろう龍斗は就寝しており、表に出ている奈緒は自力でどうにかするしかなかった。

「ど、どうして泣くの……?」
「あなたが、馬鹿だからよ……」

ますます意味が分からなかった。
奈緒は頭をフル回転させて何かを考えようとしていた。
どうしてこんなことになったんだろう。自分は確かに司令官の重圧に負けて潰れかけていた。
龍斗の言葉も届かないほど、奈緒の心には闇が迫っていた。

「いま、辛いでしょ、ナオ……?」
「い、いや……そんなことないよ。そんなこと、ない」
「嘘」

何とか取り繕おうとした奈緒の言葉を、たった一言でセリナは切り捨てた。

「知ってるわよ、ナオ。あなたは、優しいから……だから、私の前では『辛い』って言わないの」
「……い、言ってるよ。セリナの前でだけぐてー、ってなったりとか、辛いって言ったことだって、あるよ」
「違う。ナオは言わない……一度だって聞いたこと、ないもの」

そんなはずはない、と奈緒は思う。
辛いとか、きついとか、そういう弱音をセリナの前でしたことだってあるはずだ。
未だに潤む彼女の美しい顔立ちを見つめた。
どうして自分が彼女を泣かせているのか、奈緒にはまったく分からない。
そんな彼に向けて決定的な一言をセリナは告げる。

「今まで一度だって『お前のせいで苦しんでいるんだ』なんて、聞いたことない」
「なっ……」

なんだそれは、という言葉が喉元まで出掛かった。
いくらなんでも奈緒はそんなことを口には出来なかった。だが、彼女の一言は確かに奈緒の心を抉った。
絶対に言いたくなかった言葉だが、確かに奈緒の心に何度か過ぎったことだったからだ。

「辛い理由も、悲しい理由も、私のせいにしてしまえば楽なのよ。あなたは、そうしなければいけないの」
「……ふざけないでよ、セリナ」

彼女の言葉は甘美な堕落の毒だ。
心の奥底では楽になりたいと思う弱音があって、そこが彼女の言葉を受け入れたいと考えてしまう。
でも、理性や倫理といった感情のほうがずっと強かった。
誰が何と言おうと、それだけは頷くわけにはいかなかった。

「僕は、絶対にそんなことしたくない……したら、本当に最低になっちゃうから……」
「そんなことないわよ。あなたは本来、もっと良い道が選べたんだから」

対するセリナも楽になりたかった。
これ以上、自分のために苦しむ奈緒を見たくなかった。
見たくないくせに彼の望みもしない戦場へと送り出し、こうして苦しませているだけでも最低なのは自分だ。
セリナは奈緒に楽になってほしかった。本当にそれだけだった。
それが最低の偽善行為であると知っていても。

「ナオは、私のために苦しんでる。それを知ってるのに、私はあなたを苦しめるのをやめようとしない」
「違う、セリナ、それは」
「ほら、ナオ。あなたよりもよっぽど最低な女が目の前にいるじゃない……」

自嘲気味に笑う彼女が、途端に憎らしくなってきた。
自分を卑下するセリナの笑みなんて見たくなかった。そんなもののために戦っているわけじゃなかった。
奈緒は唇を噛み締めながら、改めて何のために戦っているかを再確認した。
結論は簡単だった。そしてなお、セリナに最低と言わせたくはなかった。

「違う……違う、違う、ちがう……!」

奈緒は衝動のままにセリナの腕を取った。
彼女がこんな悲しそうな顔をするのは間違っていると思ったからだ。
腕をとられた彼女はバランスを崩してしまい、奈緒の胸に倒れる。そのまま奈緒は起き上がり、セリナを見下ろした。
唐突にさっきまで押し倒す側だったセリナは押し倒され、奈緒はセリナへと思いを吐露する。

「違うんだよ、セリナ……セリナは、最低なんかじゃない……!」

そうだ、それだけは言わせない。
彼女に全てを押し付けて楽になる、だなんて安易な選択も選ぶわけには行かない。
それにセリナはひとつ勘違いしている。
奈緒は優しくなんてない。そんな聖人君子じゃない。少なくとも奈緒本人がそう思っている。

「僕は今まで、ゲームみたいに作戦を考えていた。地図上で駒を操るように考えてたんだ……」

まるで歩を生贄にして金の駒を取ろうとする将棋のように。
ポーンを犠牲にしてクイーンを狙おうとするチェスのように、ゲーム感覚で作戦を決めていた気がする。

「でも、実際に死んだ人たちを見て、自分のやっていることの恐ろしさが分かり始めたんだ……」

その裏で犠牲になった人々を見てしまった。
分かっていたつもりだったが、それはあくまで子供の勝手な想像で補われていただけの幻想に過ぎなかった。
今でも奈緒の耳には怨嗟の悲鳴が過ぎっている。
死にたくない、と言いながら死んでいった若者がいた。味方ですらこうなのだから、遠慮なく殺してきた敵も同じだ。

「僕は、優しくなんか、ない……他の誰でもない、僕が最低の考えを持ってたんだよ……」

自嘲気味に笑うのは、奈緒のほうだった。
立場が逆転しているのは体勢だけではなかったらしい。奈緒は本当にどうしようもない、と思っている。
なんて残酷なことを考えていたんだろう、と思う。
強い力を手に入れて、力でなんでも解決した。その先に待っていたのは強い後悔と自分に対する憤りだ。

「だから、気後れしてる。今更、自分のやってることが恐ろしくなって、震えが止まらないんだ……」
「……うん」

知ってる。
奈緒が怖がっていたことは知ってる。
今日に限っての話じゃなくて、いつでも彼は不安を帯びていた。
セリナだって、ただ無意味に奈緒を見続けていたわけじゃない。気づかないはずがない。

「これからも、僕の指揮で、人が死ぬ。僕の命令どおりに動いて、僕の指示で、死んでいくんだよね」

一言一言、区切るようにして言葉にする。
それは確認事項であり、心の底で生み出した不安であり、吐露される弱音でもあった。
セリナはベッドに押し倒された状態のまま、僅かに身体を震わせる奈緒を見上げていた。
慰めにならない慰めが、セリナの口から漏れていく。

「……ほとんどの司令官は、兵の数を数字で捉えて考えているわ。この考えもあながち間違いじゃないわよ」
「そう……だろうね。僕たちのところの戦争も、多分そうなんだと思う」

でも、と奈緒は首を振った。
その考えは確かに正しいし、自分が潰れないためにはそうするのが一番だけど。

「でも、その数だけ、生きている人がいたんだ。人じゃなくて魔族だろうと、守りたいものと信念があったんだ」
「……そう、ね。でも、死んだ人たちは戻らないわ」
「これは龍斗にも言われたけどね……『死んだ奴らの犠牲を無駄にはしないのも、指揮官じゃねえかな』ってさ」
「私も、そう思うわ。それに、ナオ一人の責任じゃないもの」

何しろこの戦いは奈緒に全ての責任を押し付けている。
例えば奈緒が立ち上がらなければ、クラナカルタがオリヴァースを滅ぼしていた。
蛮族たちがクィラスの町で起こしていたことを考えれば、惨劇がオリヴァース国土全土で行われていた。
奈緒はむしろそれを止めるために、進んで激務に身を委ねている。

「……でも、オリヴァースの国を巻き込んだのは僕だよ」
「それでもよ。戦場に立った以上、誰だってそれなりの覚悟は決めてきたわ。戦争は人殺しだって容認される」
「僕の常識では、それすらなかったよ……」
「でも、この魔界レメゲトンの常識はそうなの。戦場に立つ者は、相手に何をされても文句は言えないわ」

それが戦争だ。
国が認めた殺し合いの現状だ。
殺す覚悟を背負った者は、殺される覚悟もしなければならない。
そして、その頂点に立つ者は彼らを一人でも多く日常へと返してやらなければならない責任がある。

「誰も殺さないで戦う、なんて無理よ」
「……うん、知ってるつもりだった」
「ナオ、これからどうするの? もう、やめちゃう?」
「え……?」

その言葉が、他ならぬセリナの口から飛び出したことに奈緒は驚いた。
まるで冷水を浴びせられたように奈緒の心が急速に冷えていく。
途端に自分がようやく、セリナをベッドに押し倒しているという異常な状況に気づいて泡を食った。
それでも、セリナのルビーの瞳は幼子のように揺れながらも奈緒を見据えている。

「私は、無理強いできないもの。あなたに対して何もしてあげられてないから」
「ぼ、僕は……そういうつもりじゃ」
「うん、それも知ってる。でもナオの協力が得られなくても、それは仕方ないもの。やめるのなら止めはしないわ」
「……」

僅かな沈黙があった。
小さな葛藤があった。
恐らくは自分が日常へと帰れる最後の機会チャンスだった。
何度も、何度も考えた。それでも、答えはこれしか考えられなかった。

「やめ、られないよ」

そうだ、改めて自問してみれば何のことはない。
どれだけ苦悩し、どれだけ後悔し、どれだけ悲哀の感情を叫ぼうともそれだけは変わらない。
やめる、ということは責任を放棄して逃げるということだ。
これだけ多くの人々を巻き込んでおきながら、自分だけ今更怖くなったから、といって逃げることだけはしてはならない。

「セリナも……ラピスも、ラフェンサも、ゲオルグも、カスパールも、ジェイルも、カリアス王も、協力してくれているんだ」
「…………」
「だから、今更僕が投げ出すことだけは、しちゃいけない……ああ、そっか。考えてみれば、簡単な話だったね……」

もう、賽は投げられたのだ。
とっくに奈緒は引き返せないところまで来てしまったのだ。
今更、惨劇を見たところで奈緒の行動方針の何が変わるというのだろう。
ここで奈緒が逃げれば、別の誰かにこの苦しみを押し付けることになる。それだけはしてはならない。

「ごめん、セリナ……ありがとう、答えが出た」
「……私は相槌を打っていただけよ。ナオが自分で答えを出したの」

ふっ、とようやく儚いながらもセリナの表情に笑みが零れた。
思わず奈緒も同じようにして頬が緩む。
根本的な解決は何一つしてはいないけど、それでも確かなことがある。
奈緒が戦わなければ、他の誰かが戦わなければならないこと。誰かに押し付けるぐらいなら、自分が背負おう。

「私はあなたを死地に追いやる最低で、あなたは兵たちを死地に追いやる最低……だったかしら」
「……それは」
「そんな顔しないで。私は今まで、あなたの困った顔は見てきたけど……泣いた顔だけは、見たことないなぁ」

悲しいときには笑わないでほしかった。素直に辛いって言ってほしかった。
辛いときに無理して笑うような奈緒が痛々しくて、それで泣いてしまったけど。
貴族は誇らしくあれ、という座右の銘すらも忘れて、初めて男の子に泣かされてしまったけど。


「どうせなら、一緒に堕ちましょう? 二人ならきっと、怖くないから」


くすくす、と笑う彼女に悲壮感というものは見えなかった。
最初から他人を戦争に巻き込む以上、二人に善という概念は存在しないのだ。

「私も一緒に堕ちていく。一人だけ罪を背負うような格好良い真似はさせてあげない」
「……セリナ」
「だから、一人で抱え込むようなことしないで。それだけは絶対にやめて」

一人で抱え込んだとき、人は孤独になる。
奈緒には龍斗という親友がいるし、最初は不安にはならなかったが今は違う。
親友の声すらも届かないほど、強い衝撃を受けていた。
だからこそセリナは誰よりも早く奈緒の元を訪れた。愚痴でも怨嗟でも文句でも何でもよかった。
ただ、彼の中に溜まっているものを吐き出させなければならない、と思ったのだ。

「約束して」
「……」
「約束、して……」
「……うん、分かった」

きっと、この瞬間だと思うのだ。
セリナの中で狩谷奈緒という存在が本当の意味で大切な者だと気づけたのが。
奈緒を守りたい。包み込んであげたい。
そんな、彼女の中に眠る莫大な感情を、ようやく彼女は『それ』を恋ではなく、愛だと自覚した。

「僕は、セリナと共に堕ちる。そして、いずれ昇るときも、セリナが傍にいなきゃ、だめだ」
「……ナオ」

恋という漢字のような、利害関係で結ばれた下心ではなくて。
愛という漢字のように、真心を込めて彼の存在を優しく包んであげたい、と。

「…………」
「……」

見詰め合ったまま二人は無言だった。
そのままゆっくりと、セリナが美しい双眸を閉じた。まるで奈緒に全てを委ねるかのように。
彼女はそっと顎を引くと、何かを待つかのように身体の力を全て抜いた。

(………………あれ?)

ここに至って、奈緒は今の自分たちの状況を鑑みた。
若い男女が。
二人きりで。
ベッドの上に片方が片方を押し倒して。
そして押し倒されたほうは、じっと何かを待つかのように瞳を閉じている。
今更ながら自分がとんでもないことをやっていることに気づいて、奈緒の視界がくらくらと揺れた。

(こ、これは……まずいって……)

押し倒されたセリナはいつもどおりの黒いワンピースだが、激しく倒された影響で乱れている。
奈緒のほうは確認できないが、短めのスカートの部分が更にめくれあがり、大胆に白い太ももを露出していた。
お互いの唇の距離は三十センチもなく、荒い息を吐けば相手に届くぐらいだ。
相手の息遣いまで分かる距離にいる。その事実だけで奈緒の思考が固まってしまう。

(ま、まだ心の準備が……)

情けないことを、と思われるかも知れないが、奈緒はこれからどうしていいか分からなかった。
行為自体は分かるし、それに関する知識も当然ある。
しかし、それをやっていいのかどうか、奈緒には分からなかった。
それでもセリナに覆い被さる身体を退かせることはできなかったし、それ以上唇の距離を詰めることもできなかった。

(ふわあ……奈緒ー、おは……っ……)

味方登場。
女の子の扱いについてなら右に出る者がいない龍斗が起きた。
好機、と見た奈緒は心の中で口を開く。

(あ、龍斗、実は)
(野暮をした。すまない。ごゆっくり、俺は退散する)
(待ってー!)

最強の味方は去っていった。
気遣いよりも助言がほしかった奈緒だったが、既に龍斗からの返事はなかった。
しかし、これ以上手をこまねいているわけにはいかない。
心臓が早鐘のように鳴り響き、頭がくらくらして何も考えられなくなる。

「セリナ……」

ぴくっ、と彼女の肩が震えた。
名前を呼ばれて反応を示したが、彼女は身体の力を抜いたままずっと瞳を閉じていた。
龍斗の言うとおり、野暮なことは言えなかった。
お互いの息遣いすら届く唇の距離が、更にゆっくりと、しかし確実に詰められていく。

「ん……」

覚悟を決めた奈緒もまた、ゆっくりと目を閉じた。
視界が塞がっていてもなお、セリナの唇の位置が分かるところまで接近していた。
彼女に恥を掻かせるわけにはいかない。

そして、二人の影が重なった。

彼女の唇は瑞々しくて、果実のように柔らかかった。
温かな気持ちが胸の中に広がっていって、とても優しい気持ちのまま軽く触れ合うだけのキス。
頭が何かいけない毒のようなもので痺れていって、酩酊にも似た感覚が身体を支配する。

「ナオ……」

潤んだ赤い瞳が開かれた。
セリナは奈緒の背中へと手を回すと、想いを制御できない想いと一緒に抱きしめた。
奈緒の体重の全てがセリナに圧し掛かるが、その重さだって嬉しかった。
熱い息を吐くセリナは、奈緒を抱きしめる腕に力を込めた。

「……?」

と、そこでセリナは気づいた。
奈緒からの反応がない。何というか、抱きしめたあたりで奈緒が脱力してしまっている。
おかしいな、と首を傾げながら顔を覗き込んでみて、ようやく事態を把握した。

「…………寝てる」

しばらく、気まずい沈黙が続いた。
奈緒はセリナの耳元に寝息を吹きかけながら、夢の世界へと旅立ってしまったらしい。
いや、どうしてこのタイミングで、と凄く文句を言いたいセリナだった。
だけど、今の今までずっと悩み続けていた奈緒が、ようやく安寧の時間を得られたのだと思った。

「仕方、ないなぁ」

少なくとも、そんな心の余裕を持たせることが出来たのだ。
なら、それで十分だと思った。ようやく眠りに付けた奈緒の頭を、そっと幼子にするように撫で続けた。
おやすみ、と耳元で呟いて、セリナも同じように瞳を閉じる。

「……もう少し、このまま」

誰に言い訳するでもなく、セリナも同じように夢の中へと落ちていく。
この日、彼らは久しぶりに温かい夢を見た。
戦争が始まってからずっと見れなかった夢、父が殺されてからずっと安らげなかった眠りがあった。
今日だけは、すぐ近くに同じ人がいる。だから、安心して眠ることが出来た。



     ◇     ◇     ◇     ◇



翌日。
奈緒は首脳陣を呼び寄せた。
今後の奈緒の動向に一喜一憂していたメンバーを前にして、彼は指示を出す。

「夜襲には警戒を。見回りの数を増やそう。今後は、好きにはさせない」

既にカスパールとジェイルが手を打っている。
先の戦いで厭戦気分だったオリヴァースの援軍も、手痛い授業料を払って目が覚めたのだろう。
今後は正規兵の数に加え、傭兵たちのなかでも警備をする者を増やしていく。
夜襲が一度で終わるとは思えない。敵が出てきた以上、恐らく次の攻撃すらある。

「大将、もう大丈夫なのかい?」
「うん、心配かけたね。でも大丈夫、今までどおりにやっていこう」

奈緒が浮かべた僅かな微笑には、不安も焦燥もなかった。
集まった首脳陣は彼の復活にそっと胸を撫で下ろし、これからのことを考えて安堵した。

「それじゃあ、今後のことについて説明するよ」

いつも通りの柔和な表情と作戦に対する意識は変わらない。
自己嫌悪にすら陥ったゲーム感覚での計画立案も、多少の意識が変わっただけだ。
このまま堕ちていくことに躊躇いはない。
奈緒には心強い味方がいる。一緒に堕ちてくれる、と言ってくれた彼女の存在があるのだから。





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