第四十六話 薔薇葉 美散
薔薇葉美散の朝は早い。朝日が昇る前に起きる。そしてバスルームで、シャワーを浴び、汗を流し、丹念に体のケアをする。シャンプーもボディクリームも、すべて薔薇の香りで彩られている。洗顔は、薔薇の香料を垂らした、ぬるま湯で。その後、長く美しい髪を、セットする。これは、自分ではやらない。専属美容師がついているのだ。髪のセットと同時に、ネイルケアもする。無論、専属の人間が。
髪の毛のセットが終わると、今日の気分で、着て行く服と靴を選ぶ。その後、化粧にとりかかる。これらも、すべて薔薇のモチーフで揃えている。薔薇葉は、自分の名前でもある、薔薇が、ことのほか好きだった。己を表わすのに、これほど相応しい花はないと思っている。部屋も、むせ返るほどの薔薇の花が飾られている。華やかなことこのうえない。
そうして、ようやくすべての支度が整う頃には、朝日はしっかりと昇り、始業のチャイムを待つのであった。
誰よりも遅く教室に行くと、組の生徒たちは、みな立ち上がって、薔薇葉に朝の挨拶をする。それに鷹揚に頷き返しながら、席に着く。あくまで優雅に。姿勢正しく。威厳をもって。それを見る生徒たちの目には、尊敬と畏怖と憧憬。神津涼が人気があるのは、あくまでも一年生のみである。上級生からしたら、ただの生意気な小娘だ。しかもマリアに立てつく。上級生にとって、薔薇葉美散こそ、この学園の最高位の人間であり、『マリア』なのである。
教師が、入ってきた。さあ、今日も、一日が始まる。
「……さて、今日のお題は『飲酒運転』です。飲酒運転についてどう思うか、自由に論じてください。では、斉藤さん」
「はい。ええと……」
その生徒は、しばらく黙り込んでしまった。そしてようやく口にした言葉は、
「……飲酒運転は、いけないこと、だと、思います……」
組が沈黙する。
「それだけ、ですか?」
「あ……はい。ごめんなさい……」
最後のほうは、消え入りそうであった。
「では、なぜ、飲酒運転がいけないことなのでしょう?」
「えっと。法律で禁止されているから、です」
「法律で禁止されていなければ、いいわけですか」
生徒はうろたえた。
「え……そ、そうじゃなくて……あの……」
可哀想に、今にも泣き出しそうに、おろおろしている。まあ、この学園にいる以上、それくらいのことが考えられなくては、自業自得と言われてしまうが。
「先生」
「なんですか? 薔薇葉さん」
「私が代わりに答えても、よろしいでしょうか?」
あからさまに、先程の生徒はほっとしていた。
「仕方ありませんね。では、薔薇葉さん、お願いいたします」
「はい。まず、飲酒をするとどうなるか。これを、しっかりとしたデータをとり、統計を出すべきなのです。数値化することで、飲酒というのがどのような行為なのかを、明白にすべきです。そして、飲酒運転をしたとき、しないときのデータもとり、統計も出すべきです。
なぜかというと、『飲酒運転』というものが、いかに危険なものなのかを教えるのに、数値化、というものが、最もわかり易いからです。そして、そのデータというものは、あらゆるところで、説得力を持ちます。それは、裁判所で、でもです。
昔日、危険運転致死罪というものについて問う裁判が、注目されました。ところが、その結果は、惨憺たるものでした。たとえ飲酒していたとしても、本人に自覚がなく、正常な運転ができさえすれば、危険運転致死罪にはあたらない、というのです。これは、とんでもないことです。『正常な運転』ができていたなら、事故など、そもそも起こっていないではありませんか。本人に自覚がない? では、事故直後、大量の水を飲んで、隠蔽を図ったのは、何故ですか? 自覚があったからでしょう? それが、本人が『自覚がなかった』と言っただけで、通ってしまった。
これでは、裁判所が、自ら、飲酒運転を奨励しているも同じです。これが、どれほどの人命を、これから奪うことになるか!
そもそも、飲酒運転による事故が多発しているのは、男社会の弊害なのです。なにをするにも、酒、酒、酒。だから、飲めない人間にも、強要する。無論、車に乗ってきた人にも。また、車に乗ってきたにも関わらず、酒を平気で飲む人も後を絶たない。男社会は、何でもなあなあです。酒を飲んで車に乗っても、まあ、いいじゃないか、『これくらい』。
その『これくらい』のせいで、あまりにたくさんの尊い命が奪われてきました。それをもう、させないために、危険運転致死罪という法律ができたはずです。それなのに、この判決。この法律が、最初から形骸化していることを、示したのです。これでは、だれも飲酒運転なんかやめません。この法律の、さらに細かい取り決めの見直しを、望みます」
教室内は、しんとしていた。厳かな、という雰囲気がぴたりとくるだろう。その静寂の中で、話し終えた薔薇葉は、先程、答えにつまった生徒を、ちらと見ると、
「これくらいのことは、把握できてなくては、生徒の模範になれませんよ。私たち三年は、全校のお手本なのですから」
その生徒は真っ青になり、
「申し訳ございません!」
薔薇葉に頭を下げた。教師も、満足そうに頷いた。
次の授業までのわずかな休み時間。薔薇葉の周りには、組中の生徒が集まっていた。全員立っていたが、薔薇葉だけは、椅子に座っていた。
「大田さん、妹さんはその後いかが?」
「はい、マリア。お気遣いくださって、ありがとうございます。おかげさまで、熱が下がりましたわ」
「そう。良かったわ。鈴屋さん、先日の小テスト、満点だったそうね」
「はい、マリア。私もマリアを見習って、予習復習をしっかりやりましたの。そのお陰ですわ。ありがとうございます」
薔薇葉は、にこりと笑って、特になにも言わなかった。
「斉藤さん」
薔薇葉の、声音が変わった。冷たく、変わった。
「先程は私が変わりに答えたからよろしかったですけれど、あのような失態、今後は許しませんよ。明日も、あなたに答えていただくよう、先生に申し上げましたから、今からでも、新聞をお読みになることをお勧めいたします」
朝の質問に、答えられなかった生徒だ。真っ青になりながら、ようやく頷くのみだった。
そうこうしている間に、予鈴が鳴る。次の授業が、始まるのだ。
鐘鈴が鳴る。昼食だ。だが、薔薇葉は席を立とうとしない。ゆっくりと、支度をしている。その間に、組の生徒たちは、続々と朱雀の間に急ぐ。
「マリア、お先に失礼いたしますわ」
「マリア、後ほど」
軽く会釈をしながら、皆、薔薇葉の側を通り過ぎていく。それらの波が、なくなって。組には、三つの人影だけがあった。
「そろそろ、いいかしらね」
薔薇葉が聞く。
「はい。もう、よろしいかと」
答えたのは、つり目のショートカットの美人、安藤麗である。
「ほかの組の者も、皆、朱雀の間に向かったと思われますわ」
柔らかに付け加えたのは明るくカールした髪を両脇で結っている、大須賀留衣。この三人が、残っていたのだ。
「では、そろそろ参りましょう」
「はい、マリア」
「はい。マリア」
薔薇葉はようやく席を立ち、三人は、朱雀の間───食堂へと向かった。
食堂の扉の前に着いた。薔薇葉・安藤・大須賀の三人だけは、入る扉が他の生徒たちとは違った。その扉から、薔薇葉を先頭に、入っていく。
全生徒を見渡せる場所に、薔薇葉たち三人のテーブルはあった。他の生徒たちが縦長のテーブルについているのに対して、薔薇葉たちは、巨大な壁画を背に負い、横長のテーブルに席着いた。その様はまるで、皇室のまねごとのようだった。
薔薇葉が席に着くと、食事が始まる。───いつもなら。薔薇葉は、じっと、ある一角を見ていた。そこは、忘却の彼方。忘れられし孤島。神津涼のいる場所だ。本来なら、涼は、たったひとりで、惨めな食事をしなければならないのだった。だが、ひとりの不調法者によって、惨めどころか、毎日楽しそうに食事をしている。これでは、意味がない。
片桐准は、まだ、この学園の規則、そして、この学園における薔薇葉の存在がどういうものか、まだわかっていないのだろうから、しばらくすれば、その傍若無人も収まると、薔薇葉は思っていた。
ところが、収まるどころか、日増しに准の噂は広まっている。しかも、いい意味で。そして、その破天荒なスタイルが、生徒たちに認められ、あまつさえ、影響を受け始めている。これでは、風紀の乱れ、甚だしい。薔薇葉は、こころを決めた。かたん、と席を立つ。皆、何事かと薔薇葉に注目する。
「皆さん、少し、お食事をお待ちいただきたいのです」
そして、准の方を向く。
「片桐准さん」
准は、椅子に腰掛けたまま、上体だけ薔薇葉の方に向けた。なんだ、とも聞かない。その横柄な態度に、安藤麗が叱責しようとしたが、それを目で制し、
「私は、これまで、あなたが朱雀の間で身勝手に行動しているのを、黙認してきました。それは、あなたが、いずれ、節度というものを学んでくださると思ったからです。ところが、あなたは一向に態度を改めることをしない。寛容な私でも、限界があります」
准は黙って聞いていたが、
「自分で自分のことを『寛容』なんて言う奴に、ろくな奴はいないけどな」
朱雀の間が、凍った。みな、直視するようなことはないが、薔薇葉の様子をうかがっている。薔薇葉は、怒った様子もなく、平然としている。この答えを、予期していた、とでもいう風だ。もしかしたら、薔薇葉は、准を許そうというのだろうか。そんな風に、生徒たちは思った。
「片桐准さん。あなたには、何を言っても無駄なようですから、もう、構いません。自由に行動なさい」
ああ、やはり、そうか。生徒たちは、ほっと息をついた。
「その代わり、すべての責任を、神津さんにとっていただきます」
……え? 今、なんて?
「片桐さんは、神津さんとは、とても親しいようですね。まだ、神津さんに、この学園のことなど、いろいろと教えてもらっているのでしょう。と、いうことは、片桐さんの異常な言動はすべて、神津さんの監督不行き届きということ。ですから、これからの片桐さんの行動は、全て、神津さんが責任を負ってもらいます」
許すどころか、薔薇葉は、准に枷をかけたのだ。涼をこの学園から追放したくなければ、おとなしくしていろ、と。しかし。
「そんな無茶苦茶、通ってたまるかよ!」
声を荒げたのは、無論、片桐准である。
「だいたい、なんで俺の失態が、全部神津の責任になるんだ!? 俺が悪いことをしたなら、俺を責めればいいだろう!?」
「幾度も、根気よく説得したにもかかわらず、あなたは行動を改めなかった。ですから、その責任者である、神津さんに罰を受けていただきます」
「だから! 罰なら俺が受ける! なんで神津なんだよ!」
「あなたには、そのほうが効果的なようですから」
「な……」
なんという無法な。神津は、なにも関係ない!
「……俺は、認めないからな。自分の始末は、自分でつける」
「あなたが認めようが認めまいが、責任を被るのは神津さんです。よく、憶えておおきなさい」
「そんなの、教師たちが黙ってるかよ!」
「先生方も、了解済みです」
「……なんだと」
薔薇葉美散。これが、マリア。この学園の、女王。
「では、早速ですが、片桐さん。そのようなところでお食事をなさらないで、ご自分の席にお着きなさい」
准が、薔薇葉の隣に、と言われたのは、初日だったからだ。今は、他の生徒と同じところに、席が設けてある。
(どうする。俺が動かなければ、涼が責任を取らされる。だが、薔薇葉の思い通りなんて、冗談じゃない)
自分のことなら、どうとでもできるが、連帯責任を組まされては、勝手なことをするわけにもいかない。准は、葛藤した。
「私は、かまいません」
その玲瓏たる声は、ぬばたまの少女であった。しかし今、この少女はなんと言ったのか。
「神津さん。かまわない、とは?」
薔薇葉が聞く。涼は、あら? という表情で、
「今、私の責任問題について仰られていたのではないのですか? 私は、マリアのやり方に、従う、と、申し上げたのです」
「……」
薔薇葉は黙り、涼を見つめた。両脇の安藤麗と大須賀留衣は、驚愕の表情だ。他の生徒たちは、どうなることか、動揺と期待でざわついている。
「では、片桐さんが異常な行動をしたとき、あなたは責任をとる、と言うのですね?」
薔薇葉が口を開く。
「今、申し上げたとおりです」
言葉は丁寧なのだが、なぜか、馬鹿にされたような気が、薔薇葉には、した。
「でしたら、もう、言うことはありません」
「だ、そうよ、准さん」
こんな場面なのに、いたってにこやかに、涼は笑いかけた。
「おい、いいのかよ」
「いいから、あなたの好きなようにしてご覧なさい」
准は、言われたとおり、今の席で、涼と一緒に昼食を食べ始めた。すると。三年の席の生徒たちが数人立ち上がり、准たちのところへやって来た。そして、何も言わず、食事の皿を、次々奪っていく。涼の、だけ。
「ちょっと待てお前ら! なにしやがる!」
「責任をとっていただいたのよ」
薔薇葉が上座から声を発する。
「食事の席で、ふさわしくない行為が行われたとき、その者は、ここで食事をする権利を剥奪されます。そうね? 神津さん」
准は涼を見る。
「はい、マリア」
なんの抵抗も、抗議もするつもりはないようだ。
「ここ以外で、食事ができるのか?」
准は薔薇葉に問うた。薔薇葉は、おかしそうにくすりと笑うと、
「できるわけ、ないでしょう。だから、罰、なのです。大丈夫。お昼一食抜いたからって、死にはしません。ああ、それと、そのせいで具合が悪くなったから、午後の授業はお休み、なんて、許しませんよ」
這いつくばってでも、授業に出ろ、と。そういうことだ。
「てめえ! こいつが体弱いこと知ってて───」
「准さん」
涼の、制止の声に、逆らえないものを感じて、准は黙った。
「片桐さんは、そのままお食事を続けて結構。ああ。もし、神津さんにお食事をわけてあげようとしたら、明日の昼食も、神津さんは抜きになりますから。では、みなさん、お食事をつづけましょう」
薔薇葉は、なにごともなかったように、優雅に席に着いた。准は、はらわた煮えくり返っていた。
「畜生……。そうくるなら、俺も考えるぜ。神津、俺も飯いらねえ」
神津にだけ聞こえるようにそう言うと、涼はくすりと笑い、
「あなたが一食抜いたら大変でしょう。飢えた狼の番なんて、嫌よ」
「だが、俺だけ食うなんて、気分が悪い」
「あら。意外と繊細なのね。大丈夫。私にも考えがあるから、あなたは、美味しくいただいて頂戴。この学園の食事は、なかなか手がこんでいるのよ」
准は、なおも言い募ろうとしたが、その前に、腹が、ぐう、と、雄弁に語った。真っ赤になりながら、おずおずと食事に手を付ける。実を言えば、この、いかにも美味しそうな食事を目の前にして、我慢しているのは、かなりの努力がいったのだ。
もともと、准はよく食べる。その運動量から言えば、当然だが。ここで一食抜けば、飢餓で相当苦しむことになるだろう。両手を膝に置き、にこやかに微笑んで見守っている少女を目の前にしながら、とにかく、急いでかきこむしかなかった。
「で」
昼休み、准は、涼の部屋に来ていた。
「俺の苦労はなんだったんだ」
「あら。あなたがいつ、苦労したの?」
「飢えてる人間の前でたらふく食う方の身にもなれ」
「普通、逆だと思うけど?」
准がぶんむくれるのも、むべなるかな。部屋のテーブルには、先程の朱雀の間の食事より、さらに上等な食事が並べられていた。それを、何事もないかのように、粛々と、遠藤幸が運んでいる。
「食いもんあるなら、先に言え!」
「言ったら、あなた、顔にでてしまうのだもの」
う。と、准は詰まった。その通りだったからだ。
「薔薇葉に、あそこは『勝った』と思わせることが重要なの。面目潰したら、さらに悲惨な仕打ちが待っているわ。別にいいのだけれど、わざわざ、難易度の高い問題をやりにいくこともないでしょう」
准は、はあ、と、溜め息をつき、
「わあったよ。さっさと食え。時間ないだろう?」
部屋に帰ったらもうあった、というわけではない。それから、電話し、食事が運ばれて来たのである。どこに、どういう内容を電話したのかは、幸と涼のみ知るところだが。なにはともあれ、食事の心配は、最初からいらなかったのである。だから、ああまでのんびりと、涼は構えていたのかもしれない。
食事を終えると、午後の授業開始を知らせるゴング───もとい、鐘が鳴った。教室に入ると、組の生徒たちが、一斉に涼のところに集まってきた。
「神津さん! お加減は?」
「私、今日、お菓子作って参りましたの。よろしかったら召し上がって」
「これ、ちょっとしかないけど、食べて!」
etc,etc……
それらに、愛想よく返事をし、ひとつも受け取らず、澄ました顔だ。生徒たちは、教師が来るので、それぞれ席に戻った。だが、あちこちで、囁きが聞こえる。
「神津さん、すごいわね」
「ええ、本当!」
「お食事抜いていらしてるのに」
「平気なお顔」
「きっと、とてもご無理なさっていらっしゃるのよ」
「でも、表に出さないなんて、すごい」
「お体に響かないかしら」
「ええ、心配ですわ」
その囁きを聞いて、准は苦笑していた。なにしろ、知っているのだから。涼が、満腹だということを。そんなこととは知らず、生徒たちは、涼を讃える。まったく、あまのじゃく。
准は、幸の方を見た。どんな顔をしているのかと思って。
幸は、いつもどおりだった。ポーカーフェイス。こんな部下、確かにいたら便利だろう。
がちゃり、と、教室の扉が開く。始業、である。やれやれ、本でも読もうかな。
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