空が聞こえる(未完成)
〜プロローグ〜 夢の終わりに……始まりに……
空は快晴。風は良好。激しく鳴るエンジン音と、共に降り注ぐ太陽の光は、今が夏だと認識させるに十分だった。
「ゆう坊、そこの地図を取ってくれ」
機体の最終チェックをしているゆう坊は、まるで体育の授業が水泳からマラソンに変更になったと告げられた生徒のような顔でこっちを見上げた。
「うるさいな〜。こっちはこの暑い中作業してんだよ?それぐらい自分で取ってよ」
「納得。確かに暑いな」
機体から下りながらそうつぶやく俺に、どこか上の空なゆう坊がいった。
「もう、あれから十年なんだね……。あの時も、こんな暑い夏だったよ」
「そうだな」
忘れる訳が無い、あの夏の日々を俺たちは未だに追いかけているんだ。
「遥……待ってろよ」
「待っているよ……きっとね」
そうつぶやく俺と、答えるゆう坊。俺たちが確かに走り抜けたあの夏の日々。
始まりは……
〜第一章〜 風になる
むせ返るような暑い夏の風を切り裂くように、俺はバイクのエンジンに無理をさせ続けていた。これがまずい。
朝、高校生活も二年目を迎え、さあ夏休みをエンジョイするぞ! と目を覚まし、思い出す。補習……ああ憂鬱だ……。
「サボりてぇな」
なんてぼやきも虚しく青い空に吸い込まれていき、セミの鳴き声に夏を感じながら身体をベッドから起こした。目をこすりながら、まだ睡眠を要求する脳を起こすように部屋を見回していると時計が目に入り……。
「ウソだろ?遅刻じゃん!」
一瞬にして脳が覚醒した。
えぇ〜と、まずパン焼いて、歯ぁ磨いて、その前に顔をあら……なんて考えてる場合じゃないな。服だ制服!んでバッグ!急ぐぞ。
部屋中のホコリを真冬の粉雪のように舞わせて、慌ただしく準備を整えた俺はバイクのキーを片手に握り締め、ヘルメットを取って、部屋を飛び出す。んでバイクで登校。いつも通り。Good job! 俺。
≪高校時代の俺は、いつもこんな感じだったな≫
そうして走り出した俺は、アクセル全開で風になっていた。横から吹く潮風を全身で浴びながら、前を走るバイクのテイルランプを次々に片付け、ゆらゆらと揺れて見えるアスファルトをかき消すように吹き抜ける。
「これなら間に合いそうだ!教師共の陰謀には負けん」
そんな声はきっと風の音で誰も聞いてないだろう。今日は特に暑いし、通行人もそれどころじゃない。学校に着いたら水を飲もう。
≪あの時は、きっと間に合うと安心感があったんだな。油断。前方不注意。≫
そんな事を考えながら学校への近道を行く為に、細めの路地に侵入した時だった。目の端のほうに何かが写りこんできた。
猫が道に飛び出してきて……。
「うわっ!」
その瞬間、本当に全ての流れがスローモーションになるんだと思ったり思わなかったり、とにかく焦った。
焦るな、落ち着け、集中しろ!
その願いを乗せ、ブレーキを握り締めながらハンドルを切ったおかげか、それに合わせてバイクの進路が変わり、寸前のところで猫を避ける事に成功した。
「やった!」
そんな言葉を吐きながら、反転していく視界に写る風景が酷く幻想的で……。
花の香りがする……眩しい……。人工的な光が目蓋を越えて届いていた。
何処だろう? 心地が良いな。寝てるのかな? 夢?
遠い意識の外で何かを耳がキャッチ。
「……や! ……つや!! 達也!!!」
うるさいな……そんなに名前を呼ぶなよ……聞こえてるよ。
暖かな光と、やさしい騒音を感じながら俺は、ゆっくりと身体を声のする方向へ動かし、そしてゆっくりと目を開けた。
「よう。ゆう坊。」
そこには、ゆう坊が立っていた。まるですべてをやり遂げたメロスのような顔で俺を見つめてる。
だんだん頭が回ってきたぞ。ここはどこだ? たしか俺はバイクに乗って学校に向かって……あっ。
「猫は? ちゃんと生きてるか?」
ゆう坊はきょとんとしている。
「猫? 大丈夫かい達也。頭が痛んだりしない? まってて今から先生を呼んでくるよ。」
あわてて駆け出そうとするゆう坊を俺は引きとめた。
「待てゆう坊。確認したい。ここはどう見ても病院だよな。なんで俺ここにいるんだ? なにが俺に起こったか説明してくれ。意味がわからん。」
≪これが世に言う記憶喪失ってやつだ。俺、この時初体験。≫
俺に突然話掛けられたゆう坊は、少し驚きながら回れ右を見事に決め、近くにあった安そうなパイプ椅子を片手に、ベッドの横に椅子を広げて腰掛けた。
「達也はバイクで事故ったんだよ。学校の近くの交差点でね。その時、頭をぶつけたらしくて気絶してたんだよ。事故ったのは朝で、今は夕方。……ほんとよかったよ目が覚めて。このまま目覚めないなんてドラマの主人公じゃないんだし。第一ガラじゃないよ。」
なんか、ムカが入るがそれはいい。事故? そんな記憶は……あぁ思い出してきたぞ。確かに朝、バイクで登校しようとしてたな。んでたしか猫を引きそうになって……。
ある恐怖が頭を過ぎる。俺は恐る恐る聞いた。
「……バイクはどうなった?」
ゆう坊はどこか哀愁を漂わせている。そしていった。
「まぁ、あれだよ。助かってよかったよ。きっと身代わりになってくれたのさ。バイクはまた買えば良いけど、命は買えないから。……結果オーライ!」
最悪な事聞いちまった。なにが結果オーライだ! 全然オーライしてねぇよ。
「今日は厄日かなんかか? 事故って。バイク失って。あとどんなイベントが開催予定だ?」
ゆう坊はイタズラ好きの小学生みたいな笑顔で言った。
「そうだねぇ……。まず今日から暫く検査入院だね。なにしろ頭を打っちゃってるからね! しかたないよ。あとは……たぶんだけど、補習一人で受けないといけなくなるんじゃない? 夏休み減っちゃうね。」
余命宣告を受けた気分だ。ここまで落ちるとあとはあがるだけだよな……。
なんて事を一人で鬱に浸りながら考えていたら、ゆう坊はパイプ椅子から立ち上がってこう言った。
「先生呼んでくる。本当の地獄は後から来る物さっ!」
ゆう坊の後姿が病室から消えるのを確認して、まず溜息。そして窓の外を眺めた。そこには、夏の夕焼けが広がっていて、相変わらずセミが気持ち良く鳴いている。近くの公園では子供たちも走り回っているじゃないか。
「まだまだ夏はこれからさ!」
そうつぶやいて、俺はゆう坊が先生を連れてくるのを待つ事にした。
≪そして、俺たちはこの場所で出会ったんだ。遥に……≫
少し固めの枕に横顔を埋めていたが、改めて現状を把握してみようと考えた俺は、そこで初めて病室が個室である事に気がついた。
「こんな個室に入れられても金なんか払えねぇぞ? 第一今月の家賃を払うので精一杯だってのに。」
さて、どうしたものだろう……。そもそもなんで個室なんだ? 相部屋が満員てことはないだろ? それとも個室に入れない一般庶民の間では事故でも流行ってるのかな。
などと、どうでも良さそうでいて、俺にとって切実な問題に対し苦慮していると、時間なんて者は目の前を飛ぶ羽虫よりも速く逃げちまうもんだ。
ノックが鳴る。借金取りが来たような驚きを受け決めた。よし。まず個室を断ろう。
「どうぞ」
ドアが開くと、そこにゆう坊とケンタッキーの人形みたいなオッサンが、にこやかに立っていた。
「目が覚めたかね? 君は頭を強く打ったんだよ。どれ、見せてみなさい。」
なんて言いながら近づいてきて、俺の目にペンライトを当てたり、頭を覗いたりをしていた。
「うん。大きな外傷はやっぱり無いね。でも頭だからね。レントゲンだけじゃ解らないから、CTスキャンもしてみないといけない。しばらく入院だね。」
≪今思うと結構な奇跡だよな? この時はちっとも感じなかったが……≫
あぁやっぱりか。最悪だなもう……。ゆう坊、にやにやするな馬鹿みたいな顔になってるぞ。
「暫くしたら看護士が今後の事について言いに来るから、暫くゆっくりしていなさい。でもあまり動いては駄目だよ。検査が終わってみないと安全か判断できないからね。」
「わかりました。そうします。」
なんて会話をして先生は病室を出ていった。
「ふふっ。僕の言った通りだね? 暫く入院するんなら色々と準備が必要だよ。家の鍵はどこ? 僕が準備してきてあげるよ。」
「ああバッグの中だよ。サンキューな。」
俺は、ベッドの横に置いてあったバッグを膝元まで持っていき、その中から家の鍵を取り出して、ゆう坊に渡した。
「オッケー! 多分2〜3時間後くらいには届けるよ。」
そう言うと、100ワットの電球も顔負けな笑顔を残して颯爽と消えた。
はぁ。今日は溜息ばかりだ。寝坊して、事故を起こして、バイクが大破し、暫く検査入院。しかも個人補習のおまけ付きと来てる。不幸は続くよ何処までも。
そして思い出す。個室の問題を言わなかった事を……。
なんだろうね。この病院ってのはさ。辛気臭い上に薬品臭いし、まるで試験管の中に閉じ込められたみたいじゃないか……。
根っからの健康体な俺は、この普段なら関わりの無い空間を、実家の狭い水槽に入れられた金魚のような目で見回しながら、歩いてナースセンターまで向かっていた。
等間隔で設けられている窓、無機質な壁、蛍光灯の光、中を確認する事の出来そうも無い扉、ここが個室棟だからなのか、あまりの人気の無さに俺は、ほんの少しの恐怖を感じながらも絵画にでもすればいい作品が出来るんじゃないか?などと出来もしない事を考えていた。
頭を振る。今大切なのは、個室のキャンセルだ! 余計な事を考えてる場合じゃない。第一何処にあるんだよナースセンターはさ。人がいないし場所も聴けないじゃないか。
そんな自問自答をかき消すように、俺の目に留まる事があった。長く無機質に続いている廊下の扉が、一つあいている。花の香りと夕日のオレンジが、無意識に俺をその扉の前へと運ぶ。そこには……
一人の女性が身体を起こし、楽しそうにベットから外を眺めていた。
≪俺は、この光景を生涯忘れる事が出来ないだろうな。≫
身体は小さいが、子供ではない。同い年くらいだろうか?何してるんだ?外なんて眺めて楽しいかな。
俺は驚いた。彼女がこっちを突然見たから。
「……こんにちは。なにか御用ですか?」
そう述べた彼女の声で、俺は初めて病室に入ってしまっている事に気付いた。
「なにか……見えるのか? 外で祭りでも開催してる? 楽しそうだ。」
面接なら……不合格だ。間違いない。
「飛行機が飛んでるの。いいなぁ、私もあんな風に飛べたらなぁ。」
飛行機? それなら……
「それなら屋上に行くといい。それも貯水塔の上にさ。そこで大の字になって寝るんだよ。風になるような気分が味わえるんだ。俺はよく学校でそうしてる。」
彼女の顔が笑顔になる。ちょっと嬉しい。
「貯水塔か……いいね! やってみるよ。楽しそうだし、それなら私にも出来るしね。風になれるか……。今から屋上……行ってみる?」
「え? 今からか? それは……ちょっと遅いよ。明日ならいい。昼なら特に。空が青くて綺麗だ。」
なんて、あたふたしてる内に話が進む。
「明日の昼ね。わかったよ。楽しみにしてるね。」
そう言った彼女の声は、本当に楽しそうだ。俺まで楽しくなる。
「ああ、そうだよ。明日の昼な!」
相槌を打った俺は、あたふたして見えるに違い無い。なにしてんの?俺。
「……じゃあ。」
適当な挨拶をして部屋を出ようとした俺に、忘れていたと言わんばかりに彼女は、俺の背中に言った。
「まって。私は遥。宮本 遥って言うの」
振り返り俺も言う。
「後藤 達也。」
名を述べた俺に対し彼女は、細くて真っ白な手をゆっくり振っていた。
夕日の日差しも段々と弱くなり、蛍光灯の光だけが差し込む廊下、完全に暗くなっていく廊下を、俺は一人歩いていた。
あれは夢じゃないよな?事故の後遺症かなんかだったら俺、怒るぞ。それにしても変わった子だったな。遥か……いい名前だな。明日の昼の約束は、本当だよな。……病院もなかなか良いじゃないか。
色々考える事が出来た。なんで入院してるのか、趣味は? 歳はいくつだろうか。個室のキャンセルは……どうでもいいね。そんなもんはバイクのスクラップの横にでも置いておけ。
思考を右に左に移動させて歩いている俺の耳に、微かに走る足音が聞こえてくる。色々考えるついでに振り返った先に、ゆう坊がドラムバックを抱えて手を振るのが見えた。
〜第二章〜 紙飛行機に乗せて
目が覚めると、やっぱりそこは病院で、固めのベッドと無機質な床のタイルにまだ目覚めたばかりの太陽が、暖かさと冷たさを携えた光を反射させていた。
5時だ……。こんな時間から起きるなんて変だろう。高ニの夏休みにする事じゃねぇ。これじゃあ健康的に不健康だ……裁判ものだね。
どうやら病院ではこれが普通な日常らしく、こんな時間からスピ−カーを通じて院内放送とクラシック音楽を流してる。それがスタートの合図なのか、ナースが一斉に各病室に赴いて定期検診やら採血やらを始めるんだ。まあ……いい眺めではあるね。うん。
「失礼します。後藤さん、おはようございます。昨日はよく眠れました? 脈を
取らせてください。」
そう言って病室に入ってきたナースは、見た目ではあまり俺と歳が離れていないのではないかと感じさせるほど若い人だった。
「脈は……うん、正常ですね。頭は痛みませんでしたか? 採血をしますから
腕を出してください。」
え?……採血なんかするのかよ。注射は勘弁だ。
「頭は特になんとも無いっすね。でも採血なんて必要なくありません? 別に病気って訳じゃないし。」
笑われた。別にビビッてませんからね?
「そうだね。でも必要なんだ。事故の場合は、何処か打って炎症を起こしてるかもしれないし、傷からウイルスに二次感染しているかもしれないでしょう? それを調べるの。」
「なるほど……了解。」
注射なんて久々だな。好きではない。普通だろ?
なんて考えてたが、ナースが腕にチューブを巻きつけ、血管を探し始めたので思考が一時停止した。
「あれ? 君、血管があまり浮き出てこないね。体質? まいったな……。」
何て事をいう。まいったのはこっちですよ!ナースさん。
「大丈夫、大丈夫。よくあるだから事だからね。それではちょっとチクッとしますが力を抜いてください。」
注射をする際の決まり文句をいったのはいいが、注射器に全然血液が入っていかないのはなぜです?
「おかしいな……済みません。もう一度採血しますね。」
なんか二本目を取り出したぞ? 大丈夫かよ。
「今度は手の甲に注射するからいいですか? ここなら血管を外れる事はありません。」
「はぁ……いいですけど。」
許可をしたのが間違いだった。痛てぇ!
「今度はうまくいきましたよ。」
たしかに血液が注射器に溜まっていくのが俺にもわかる。ただなんか気力までいっしょに採取されたように感じたのは……きっと俺の思い違いなんだろう。
「はい。終わりました。ごめんね? 2回も注射して。このあと6時から朝食で
す。病室に運ぶ? それとも食堂で食べる?」
じゃあ病し……まてよ?
「食堂でたべます」
遥に合えるかもしれないな。
「わかりました。じゃあ5分前には食堂に行ってね。」
そう言って病室を出ようとしたが、忘れ物をしたのかまた俺の所まできた。
「言い忘れました。私は、あなたの担当の中村といいます。短い間だけどよろしくね。」
中村さんが出ていき、病室が朝の静けさを取り戻したように人の気配が俺だけになった。やれやれ、きっと俺とあまり歳が離れていないという予想は当たりだろう。新人に違いない。歳が近い方が話しやすいのはいいが、ナースとしてはどうだろうね。……良いに決まってる。そう思わないやつは病棟が違うぜ? 精神科に行くべきだ。急いだ方がいい。
朝の太陽が、この季節に絶妙なスパイスを加えるように外の温度を、人の温度を上昇させていく。それに当てられたのだろう。俺のテンションもこんな時間にしては高い。事故の事も、検査の事もまあいいさ、どうとでもなる。今望む事は3っつだけさ。今日の天気が晴れなこと。早く太陽が頭の上まで昇ること。そして『昨日の約束が夢でありませんように』ってことさ。
その太陽が、温かくて優しいオレンジの光で、遠くのビル街を舞台演出の照明のように照らすのを目にすると、どうやら望みの一つ位は叶える器量が、天気を司る神様にもあるらしい事が解る。この風景を目の前にして、『今日は雨だ』などと戯言を言う人間はいまい。間違いない、今日は30度オーバー。決定。
そう勝手に決め付けながら俺は、身体の内から奏でられてくる空腹を伝えるメロディーに耳を傾けける。
あと30分もあるな。どうしたもんかね……
「少し早いけど食堂に行ってみるか」
考え付いたら即行動。病院だろうとやる事は一緒さ。顔を洗おう。それから飯さ、いつも通りにすればいい。
そうして俺は、さっさと顔を洗って、空腹を満たすため、そして宮本さんに合えるかもと、ほのかな期待を抱いて食堂に向かった。
病院の食堂と呼ばれる空間は、学校の食堂のようなものとは、どうやら勝手が違うらしく、これまた俺が一夜の根城にした病室と同じく、無機質さと人気のなさがその空間を占拠していた。あるのは最後の晩餐に描かれているような大き目のテーブルと、引っ越しに使うダンボール箱を黒く塗りつぶしたような、一昔前の大型のテレビだけだ。
やれやれ、早く来過ぎたかな。人っ子一人いないじゃないか。
「なんだい? 随分早いお客さんだ。病院の食堂は、決まった時間に食事を出す決まりなんだ。早く来てもご飯には在り付けないよ」
「す、すいません! 腹が減ったもんで……」
静寂を突き破る音。突然の声にビックリした俺は、思わず反射的に謝りを入れていた。なさけねぇ。
そして、実に情けない声を発してしまった先には、妙に見慣れたような顔と体型の……そうだな、駅の売店に居そうな人が立っている。
「そうかい、まあお腹が減るってのは、病気なり怪我なりが治りかけてる証拠だよ」
「はぁ……そうですか。それにしても人がいないっすね。早く来たにしてもあと20分くらいっすよね? いつもこんなもんっすか」
俺の実直な疑問に、目の前のおばちゃんは、あっさりと答えを述べた。
「そりゃそうさ。だってあんた考えてもみなよ。ここは病院で、ここにお世話になるのは怪我してる人間か、あるいは病気の人間でしょ。てことは動けない人間の方が多いのさね。人がいないのは当たり前だよ」
「納得……しました」
「だろう? だからあんたみたく、食堂を利用しようなんて人間の方がここでは少数派なのさ」
なるほど。俺だって知らねぇ人に囲まれて飯なんか食いたくは無いね。理由も無くそんなマネは誰もすまい。
そこで気になる事が俺には出来た。この回答次第じゃ俺の朝は鬱……とまではいかないが、上がり気味のテンションに、ブレーキが掛かるのは間違いないね。
そんなプレッシャーのなか俺は聞いた。こい!こい!こい!
「あの……ここの病棟に俺と同い年くらいの女の子がいますよね? その子この食堂を利用します?」
「同い年くらいの女の子? ああ……遥ちゃん……ね」
なぜだろう。どこかおばちゃんの声のトーンが下がった。それに俺にはおばちゃんの瞳の中になにか得体の知れないものが通り過ぎた気がした。
これは…………悲しみ?
「遥ちゃんは来ないよ。いつも病室で食事をしているからね。なぜだい?」
はい、来ました。最近仲良くなった不幸の神様。
「いや……まあ知り合いと言うか、なんと言うか……」
ふと、今度はおばちゃんの顔に喜びが表れた……と思う。
「そうかい! 知り合いかい! 遥ちゃんは喜んだろう。いつも一人だったからね。あの子くらいの歳の子なんてあまり病院には居ないからね。同じ歳くらいの子で、しかも知り合いで入院して来るなんてね。よかったよ」
な、なんか勘違いされてんぞ。
「そこまで知り合いって訳じゃないっすよ! ほんと……『知ってる』くらいでして」
しどろもどろ答える俺に、おばちゃんは言った。
「でも知り合いなんでしょう? なら友達になるなんてすぐさね! そうなりたいと思っていれば良いのさ。」
「なれたら……いいっすね」
さらにおばちゃんは嬉しそうに、そして力強く言ってくれた。
「なれるさ! なんあら、あたしが仲立ちしても良いよ」
実にありがたい。この不幸続きな中の状況では、この目の前にいるおばちゃんさえ天使に見える。……そろそろ末期だな。
「まあ、なにか困った事があったらいつでも……」
さらに話をしようとした時、厨房から声がした。
「もう、朝食を配膳する時間だよ! そんなとこで何やってんですか?」
おっと、たしかにもう朝食の時間だ。
「はいよー。じゃあ、あたしはもう仕事だから行くよ。がんばりな!」
そう言うと、おばちゃんは厨房の中へと姿を消していった。なにか大きな余韻を残して。
ふう、そうか宮本さんは来ないのか。残念だ、ものすごく残念だ。頼むからこれ以上俺に絡まないでくれ、不幸の神様……。
そんな物思いにふけりながら、俺は朝食が配膳されるのを待つ為に、窓際の眺めのいい席に腰を下ろした。席に座るなら何と言っても窓際だ。それは学校の教室ではもちろん、あるいは電車やバスの、いやいや例えスペースシャトルだとしても窓際だ。そうだろう?
その窓際から見える風景が、朝見たそれとはまた別の、まさに夏と呼べるべき力強い日差しへと変貌を遂げている。病院の下を通る車道を、通勤に使うのであろう歩道を、忙しなく動く車なり人なりが通るのを目の当たりにすると、この場所がいかに現実から隔離された場所なのかを、よく理解出来る。
でも、今は少しこの非現実空間を味わっていたいと思うんだ。なぜかって?簡単さ。今望む3つの事の2つ目が、どうやら叶いそうだからな。少なくとも、宮本遥って女の子がこの病院にいるって事は、どうやら昨日の出会いと約束は、夢でも事故の後遺症でも無かったって事だ。それに……。
「さあ朝食だよ!」
そういって運ばれて来た朝食のお盆の上に『プリンが2個』乗っているしな。
「よし、食うか」
窓の眺めから流れてくる現実感を引き剥がした俺は、運ばれて来た朝食を品定めした。味噌汁、ご飯、焼き魚。プリン以外はポピュラーな朝食が目の前に広がっている。空腹が押し寄せてきてる俺には少ないね。
そうした品定めを終了し、朝食を食べ始めた俺は次々とそれらをやっつけていき、全てを完食した後に、なぜか周りより1個多いプリンをポケットの奥に忍ばせた。
急いでいた訳じゃないが、こうすれば時間が早く進むんじゃないかって気がしたのさ。早く昼にってね。あぁ、勘違い。
食べ終わった食器を返却口に返し、忙しそうなおばちゃんに話し掛ける事が出来そうも無いので、用が無くなった俺は根城の病室へ帰ることにした。帰り際に宮本さんの病室を覗いていこうかとも考えたが、そこまで仲良くもなっていないのに馴れ馴れしくするのはどうだろう。てか根性が無い。
そんなこんなでそそくさと帰還した俺は、ベットに寝転んでごろごろしていた。これは実にいつも通りな休日の朝の俺的すごし方なんだが、如何せん起きたのが早過ぎる。眠くなってきたぞ……。
あははっ!あははっ!まてぇー。
「達也……まだ寝てるの?」
ん……なんだ?だれか草原に入ってきたぞ?
「もう10時だよ! そろそろ起きなよ! 遅刻するよ!」
「ぶはっ!」
遅刻?いかん!急がねば!
そんなバタつく俺の視界が、一生涯忘れることの無いやつの、これまた一生涯変わる事の無いであろうイタズラな笑顔を捉えた。
「ゆう坊……てめっ!」
「ははっ! 何ニヤけてたのさ! いい夢見てるかい?」
ゆう坊の頭に空手チョップを決めてやりたかったが、寝起きの為に体が言う事を利かず、俺はしかたなくこの怒りを堪忍袋にしまい込んだ。
「なぜここに居る?」
「あっ! 酷いねそれ。お見舞いにきてくれた人間に対しては感謝と尊敬を込めて貰わないと」
ああ見舞いね……それはどうも。
「ふむふむ。いい心構えだね君。ならばサクッとお土産を献上したまえ」
ゆう坊がなぜか勝ち誇った顔をしている。
「ははぁ!どうぞこれをお納めください」
そう言って、おもむろにバッグから取り出した物を俺に渡した。
「……てめぇこれ意味解ってやってんのか?準備周到だな……エスパーか?」
失笑する俺の手の中には、激しく根付いたミニ盆栽が収まっていた。
ゆう坊は眩しすぎる笑顔をさらに綻ばせ、さらにバッグから何か取り出そうとしている。
「まだなんか出てくんのか? 呪いアイテムなら返却するぞ」
「盆栽は冗談。病院なんてやる事無くて暇でしょ? だからこれ! ジャジャジャーン!」
まるで某猫型ロボットが万能アイテムを取り出す時みたいな効果音で現れたそれは、まさに暇な入院生活を打開するアイテム。
「おお! 携帯ゲーム機じゃないか。すごいなお前……本当にエスパーか?」
「実はそうなんだよ。僕には未来が見える」
「そうかい。今なら信じてもいいね! 今日のお前は最高に冴えてる」
漫才にもならないそんなやりとりをゆう坊としていると、病室の扉がノックされ、ナースの中村さんがそのやりとりに加わってきた。
「こんにちは。お客さん? 活気があっていいね。お見舞いの無い患者さんが増えてる中、後藤君は幸せだね」
ゆう坊がまた勝ち誇る。
「ほら見てみなよ! やっぱり感謝とそ……」
俺はゆう坊のそんな勝利宣言を遮る。
「はいはい。中村さん、何か用ですか?」
「そうそう。検査の時間を教えに来ました。忘れかけてた……」
そう言って恥かしがる中村さんは、本当に俺より幼く見える。何歳だ?
「えっと……3時からだね。その時間はここに居てね」
3時でよかった。約束は昼だからな。
「じゃあその時間までは自由っすよね?」
「そうだけどあまり激しくは動かないでね。でもなんで? 何か予定でもあるのかな?」
しまった!2人の目から可視光線が出ているようだ。
「あー、この病棟に宮本 遥って女の子がいますよね? その子と昼に会う約束があるんすよ」
「遥ちゃんの……事?」
まただ。中村さんの目にも悲しみが含まれている。なぜ?
≪このメッセージに気付いてたのにな……≫
「たぶんその子です。彼女の事知ってるんですか?」
「名前と顔くらいはね。でも担当が違うから……よくは知らないな」
残念。まあでもあとで本人に合うんだからいいか。
「じゃあ私は行きます。3時までには病室に戻って来てね」
そう言って中村さんが病室から去ると、今度は待ってましたと言わんばかりにゆう坊が絡んでくる。
「なんだよ、十分入院生活エンジョイしてるじゃん。宮本さん……だっけ? 詳しく聞きたいね」
ゆう坊の目が輝いてやがる。お前はフライデーの記者か!
「別に説明するほどの情報は無いね。暫くここにいるんだろ? じゃあ一緒に会いに行こうぜ」
「いや、それはさすがにしないよ! そこまで無粋じゃないよ僕。約束は昼でしょ? それまでには帰るよ」
お前らしくもない。今更何いってんだ?
「別にかまわねぇだろ。俺だって彼女の事よく知らないんだ。お前との違いなんて名前を知ってるくらいだ。それに3人の方が楽しいだろ?」
「それはそうだけど……いいの?」
「だからいいて!」
まったく、なんでこんな時だけしおらしいんだ?こいつ。
しかし、そんなしおらしさは全く無かったと言わんばかりに、ゆう坊が今度は何かを思いついた顔になった。
「じゃあさ、約束の時間までに面倒ごとを終わらせちゃおうよ!」
何?面倒ごとってなんだよ。
「……何のことだ?」
ゆう坊がまた、いつものイタズラ好きな笑顔になる。
「達也の事だ、どうせまだ実家に連絡とか入れてないんでしょ? それに朝学校に寄って補習の日程をどうするか聞いたんだ。なんか達也の事情に合わせてくれるみたいだよ? だからいつにするか決めないと」
ぐっ! 忘れていたいことを思い出しちまった。まったく……気が利くんだか利かないんだかよう解らん奴だ。
でも、どうやらこいつのせいで時間が早く進みそうだな。いや、進んでくれ。
そう考えた俺は時間をサクッと消費するために、ゆう坊と一緒に病院の中庭まで行く事にした。病院内の携帯電話の使用は禁止だ。偉いね、俺。
中庭に着いてみると意外な広さに驚く。リハビリをしてる人や車椅子のひとなんかが居たりする。
「早く電話しなよ。心配してるよ?」
そうだろうかね。うちの親がそんな肝っ玉が小さいとは思えん。
「わかったよ」
久し振りに自宅の電話番号をメモリーから探して、そして電話をかけた。
3回ほどコール。
「はい、後藤ですが」
出た。
「もしもし、俺だけどさ……」
「俺ってあんたオレオレ詐欺じゃないんだから名前くらいいいなさいよ。それで何? こんな時間に珍しい」
ええい、忌々しい。
「はいはい。簡潔に言うけどさ、俺バイクで事故っちゃてね、今入院してんだよ病院に」
「なにそれ本当? 大丈夫なの? 怪我は……電話してくる位だしそうでもないのか」
「うん、怪我はほとんど無いよ。でも一応検査をしてみるらしいからさ、それまで入院する事になってる」
「わかった。それで? 入院するって事は色々お金もかかるんでしょ? 仕送りだけで足りるの?」
おっ!チャーンス。個室の問題に決着がつく。
「それが足りそうも無い。色々出費がありそうなんだよ」
「だろうね。私は事故なんて起こした事ないから判んないけど。わかったよ、銀行に振り込んでおくからね」
「ありがとう助かるよこれで」
よしゃ、個室問題クリア。
「まったく! 一体どんな運転してたのよ? どうせよそ見してたんでしょう。詳しく話な……」
いかん! 説教が始まる気配だ!
「8月の中旬くらいに帰るからその時に詳しく話すよ」
「……いいわ、その時に聞く。それで生活はどう? 元気なの?」
「入院中に元気とは言いがたいね。でもまあ元気さ」
「そう、ならいいわ。たまには電話をよこしなさいね」
「わかった、そうするよ。じゃやあまた」
「じゃあね。しっかり休んで、ついでになんで頭が悪いのかも見てもらいなさいよ」
切れた。まったく、最後のはなんだよ。たしかに頭の検査だけど、そんな言い草はないだろう。出来れば俺も見てもらいたい。よろしく。
「何て言ってた? やっぱり心配してるって?」
ゆう坊が相変わらずの知りたがり屋さを発揮して聞いてきたので、俺は勝ち誇った顔で言ってやった。
「残念ながらあまり心配はしてなかったな! どうやらお前のエスパー能力もこれが限界らしい」
「それは照れてんだよ! でもこれで安心したんじゃないかな。子供の声を聞くと親は安心するって言うし。じゃあ次は個人補習の日程を決めちゃおう」
むっ、なんか大人びた事言ってやがる。負けた気分だ。
そんなこんなで、俺たちは個人補習なんていうクソ有り難いものの日程を決めるため、再び根城の個室に戻る事にした。
個室に戻った俺たちは、とりあえず日差しで温くなってしまったスポ−ツドリンクをやっつけ、そして個人補習の日程を決めにかかった。
日程か……どうせなら早めにした方が言いかな。後に回すと素直に遊ぶ事も出来ないからな。
そう決まればあとは早い。俺とゆう坊は病室での緊急議会を召集して、流れ作業をするロボットのようにファッキン補習の日程を決めていった。それでも約束の時間には幾分の余裕があったので、ついでだからとゆう坊が夏休みの計画も練ろうと言い出し、やれ海だ、やれ山だなどと幸せ回路全開な会話を展開していった。
≪結局この計画で行った場所はゼロだったな≫
雑談をしている時間ほど早く進むものもないね。気が付くともうすぐ頭の上に太陽が昇る時間だ。
「そろそろ行くか、お前も行くんだろ?」
すこし戸惑っているようだ。そんな顔をしている。
「いいのかな突然行って」
まったく、こう言う所だけはしおらしい。
「いいって、そんな事で怒り出す奴なんていないよ。それに同世代くらいの友達があまりいないらしい。」
「そうなんだ。じゃあ仲良くしないとね!」
そう言ってゆう坊は、ようやく元の明るい顔に戻った。
「ああ、そうだな。んじゃまずは彼女の病室に行こう」
病室に向かう途中、昨日通った無機質な廊下を歩いていると、夕方に見た風景とは少し印象が違う事に気が付いた。もうすぐ昼になるせいだろう。等間隔に設けられている窓から降り注ぐ太陽の日差しが、一層強くなってきている。病院内は冷暖房完備なので暑さは感じないが、きっと街では地獄のような熱波が降り注いでいるに違いない。ならば屋上は……いや天国だ。
気が付くと俺たちはもう彼女の病室の前に来ていた。少し緊張する。
「ここが、その宮本さんの病室なの?」
そう聞いてきたゆう坊の顔を見て、俺はこいつを連れてきて正解だと思った。
「そうだ。ここだよ」
そう言いながら、ここが本当にそうなのかしっかり確認して、俺は扉を高級なツボを扱うように慎重にノックした。割れ物注意。
きっとこの扉の先には、子供のように小さくて、でも素敵な笑顔を見せる女性がベッドの上で外を眺めているに違いない。
「失礼します」
扉をゆっくり開けた。俺の個室と見間違えるような殺風景な室内。扉を開けていると部屋の外まで香り立つ花瓶の花。そしてベッド上には……。
そこに彼女はいなかった……。
夢……か。いやいやそう考えるのはまだ早いってもんだ。第一裏は取れているんだし、ここは名探偵よろしく推理ゲームを展開いすべきだ。そうだよ中村さんも存在は知ってたし、食堂のおばちゃんも病室で飯を食うって言ってたじゃないか。
そんな感じの慰めに似た挑戦を脳内展開していたが現実を直視しすると、ゆう坊がまるで御悔み申し上げますをこれから言いそうな感じで見ていた。おい!
「まあ夏だからね。この暑さにやられて変な夢を見ていたって可能性は否定できないね」
「ほう、それは俺に対する宣戦布告と見なしていいのか? 戦争か?」
ゆう坊の顔が御悔みモードからいつものイタズラな笑顔のなる。百面相め。
「冗談はこの位にしてさ、どっか行ってるんじゃないの? 検査とか」
「いや、だったら昼に約束をしないだろう」
そうさ、する訳が無い。なによりあんなに楽しみな顔をしていたじゃないか。きっとなんかの用事ができたのさ。家族が会いに来たとか、突然外をフラフラしてみたい気分にさいなまれたとか、それでその近くに時計が無いせいで時間が分からないとかだ。だったら少し待てばいい。
「ちょっと待ってみようぜ。」
ゆう坊もそれに賛成なのか、いつもより幾分顔がマジだ。
「うん、そうしよう。それが解決の近道だと思うよ」
待つ。そう結論を持っていき、俺たちは少しの間この病室で宮本さんを待つ事にした。
しかしだ、こんな時でも俺の頭上には不幸の神様が健在しているようで、待っていても宮本さんが帰って来る気配すら感じられない。こういう時ほど時間が長く感じられ、その時間が諦めを運んでくるってもんだ。
その時だった、諦めかけた心を吹き飛ばすような音が鳴った。ノック。
「昼食の時間だよ」
その声は聞き覚えがある。取り付く不幸の神様に唯一対抗できそうな俺の天使さま、食堂のおばちゃんの声だ。
扉を開き、お盆を両手に持った妙に体格のいいおばちゃんが、驚いた顔で立ちつくす。無理も無い。体の小さな女性が1人で待っているはずの部屋に、さも元気ありありな男が2人も居るのだ。
「な、なんだいあんたたちは」
そういったおばちゃんは般若面みたいな顔で今にも襲い掛かってきそうな感じだ。泥棒じゃないっすよ!
「おばちゃん朝あったじゃんか。プリンくれたでしょ?」
どうやら俺の顔を記憶の引き出しから引っ張り出したらしく、着けていた般若面が外れた。
「ああ、なんだあんたかい驚かさないでおくれよ。ここに居るって事は遥ちゃんとお近づきになれたって事かい? あれ、遥ちゃんは?」
そう質問をしたが、俺の顔に暗く影が落とされているのを感じたのか答えをすぐに察知してくれた。
「会えなかったんだね? 遥ちゃんは時々どっかに行っちゃうんだよ。きっと病院のどこかだね。外にはあの子出られないだろうから……」
おばちゃんの目が酷く悲しんでる。同情してくれているんだろうか?
なぜか病室内が短い沈黙に支配されていた。そんな時にゆう坊が言う。
「あのう……宮本さんは病院内に居るんですよね? どこに居るか見当は付きませんか?」
その声でようやく沈黙が去り、代わりにおばちゃんの顔に疑念の色が浮かんできた。だから俺はあわてて説明。
「こいつは俺の友達です。こいつも宮本さんに会いたいって言うんで……」
その説明ですぐに理解をしてくれた。ほんとに助かるよ。
「そうかい。友達が増えるのはいい事だよ。居場所の見当ねぇ……そうだ! 遥ちゃんはよく紙飛行機を折って高いところから飛ばすって言ってたよ。だから紙飛行機を飛ばせそうな場所に……」
それだけで十分だった。俺とゆう坊は顔を見合わせて、同じ結論に至っている事をアイコンタクトで理解した。屋上だ、そこしかない。急がないと。
「ありがとうおばちゃん! それで十分だよ!」
それだけ述べて俺たちは駆け足で個室を出た。扉を開け、無機質な廊下を視界が残像に変える。背中の方で声がするのが解る。
「あんたも昼食を食べなきゃ駄目だよ! がんばりな!」
そんな明るい後押しを受け俺たちは屋上を目指した。長い廊下を走りぬけ、その廊下の窓から射す太陽光が次々と体にぶつかって来る。それは深夜の高速を走る車の窓から見た光景とどこか似ていた。その病院内高速道路を抜け、幾重にも重なる灰色の階段を次々登っていくと、そこが異次元に繋がっているような気さえする。頂上には分厚い鉄の扉と緑色に輝く非常灯、学校のそれと何も違わない扉を俺たちは前にした。
「開けるぞ……」
冷たくなっているドアノブをゆっくり回し、少しずつ内側に引くと隙間からドアノブの冷たさとは相対称な暑さが体を包み込んでいく。それと同時に全身が夏の太陽光を浴びると、扉は完全に開き切って、目をくらませるほどの白が視界を遮った。
屋上の光景は壮観だった。数ある物干し竿に、数える事の出来ないほどの白いシーツが干され、風によってやさしくなびいている。それはさながら白い大海原を連想させる。
俺は屋上を見回した。シーツを見に来たんじゃない。彼女はどこに……
その時だった。まさに頭上からやさしい声がした。扉のさらに上、給水塔が設置されている場所から……
「遅いよっ! 遅刻だね……」
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