28.蜥蜴
28.蜥蜴
「おや?貴女が迎えとは」
——お身体の方は?
そう言って来訪者を見留め、アスタロトは筆を置いた。
ウッドベリーの執政室で書類を片付けていた彼は軽く背凭れに身体を預けると、部屋の隅っこで固まっている奴隷達に眼を向ける。人間達から解放した奴隷の内の特に珍しい種族の者達だ。
長耳族の少女が二人と海鮫人の男が一人。
何も大人しく俯いていた。
「此奴らか」
「如何にも」
短く、確認を取るメタトロンに対しアスタロトも合わせて短く返答する。
勿論冗長な無駄話を好まないメタトロンから気遣いに対する返事が返って来ることを元より望んではいない。
ただ何と無く事務的な会話だけだと寂しいから言ってみただけだ。
「一応この者達の経歴と持つ情報は調べれる範囲で提出する書類に書き起こしたが、ご主人様が直に話しを聞きたいと仰っていたのでアインザッツへの移送を頼む。彼方には怖い怖い方々も居ますし、新しい情報が出てくるかも知れない——ね?」
アスタロトが解放奴隷の亜人達にそう振れば、長耳族の少女達はビクリと肩を震わせた。
「……もっと楽にし給え」
「ひっ……!」
アスタロトは嗜虐的な笑みを浮かべ態と脅かすように言う。
少女達は小さな悲鳴を上げ——無理やり押し殺し、肩を寄せ合い更に震えた。
「…………」
「ああ、心配せずとも本当に何もしていない。ただ怖がっているだけだ。奴隷として虐げられてきた分敏感になっているだけだろう」
「私は少なくとも人間以外には、それなりに対応するのだ」
メタトロンの少し非難的な視線を感じ釈明するオルトロス。事実、この街でのオルトロスの働きはカルシファーが太鼓判を押す程の仕事振りであった。彼の机に積み上げられた大量の報告書と潰れた筆がそれを物語っている。
「それにしても海鮫人が共通語を話せるようになったとは意外だったな。然も大人しいときたものだ」
ほら、とオルトロスは無言で佇む海鮫人を顎で刳る。
その事実にメタトロンも少なからず驚いた。
(……他種族に順応する為に共通語を覚えた?あの戦闘狂共に限って有り得るのか)
幾ら時は過ぎ時代が変わったとは言え、メタトロンの知る海鮫人とはそんな生物ではない。
他種族には排他的で、時間場所構うことなく常に戦闘を仕掛けてくるような狂った種族が社会に順応できるかという疑問。
彼らの領域は海であり、産まれてから死ぬまでそこで総てが完結する。
陸に上がってよろしくやっているような種族では無いのだ。
「私も最初は驚いたが、その背景を覗くと面白い事が判ってきたのだ。非常に興味深い。いや、注意を置くべき事か。確か……」
「『執行者』。……かの者達には敬意を払え。ならねば等しく訪れるのは死だ」
アスタロトの言葉を遮り海鮫人の男が沈黙を破った。その眼光は鋭く、奴隷として堕ちて尚、決して服従することの無い戦闘民族としての意思が確かに宿っていた。その証拠に彼の身体にはまだ新しい傷が所々に刻まれ、至るところに痣が出来ていた。
「ああ、そうだった。執行者と宣う大層な者達が海で威張り散らしているとか。信じられんが今の海鮫人は船に乗って海賊ごっこをやってるらしい。高々数百年で随分と俗になったものだ」
アスタロトは鼻でせせら嘲笑う。その態度に少し不快感を示したような表情で男は言った。
「俺は親切心で忠告している。アンタらが何者か知らないが、クソみたいな人間共から助けてくれたのは事実だからな。でなければ本来、一々異種族の為に忠告などしない。執行者は四人いる。一人一人が船長で、全部で四船団。……確かにアンタらもこの街を落としたぐらいだ。並大抵の強さじゃないだろう。だが執行者達は次元が違う。彼らは上級魔法すら自在に扱い、腕力では片手で大地を破ることも出来る」
「ほう。上級魔法、ね。それで?」
「彼らは人間共の中で大陸最強と呼ばれる『七星将』とも肩を並べると言われている。或いは帝国の近衛隊の隊長クラスか。もし、彼らが陸に上がり蹂躙を始めれば国が幾つか滅びても可笑しくない」
「ふむ。聞いたことのある名前だな」
「悪いことは言わねえ。執行者達には喧嘩を売るな。それにそのうえには……」
知らずのうちに、くつくつとアスタロトは笑っていた。
「……なんだ。何が可笑しい。もう一度だけ言うがこれは忠告だ。決してあの海域には近づくな」
今の話に何処か笑う要素があっただろうか。そう思い男は先程部屋に入ってきた黒装束の女を見るが、相も変わらず無感情に何処かを見つめていただけだった。
長耳族の娘共は先程の脅え具合は何処吹く風か、今や蝋で固められたように微動だにしていない。アスタロトと言う男は未だに笑っていた。
すると不思議と、男は自分が気味の悪い空間に紛れ込んでいるような気がした。何が噛み合っていない。
部屋に響く時計の針の音がやけに五月蝿く感じられた。
「ああ、失敬。ところで君は少し勘違いをしているな。私とその魚——」
——何方が強い。
「うっ」
咄嗟に男は手を目の前で交差させていた。彼の防衛本能が考えるよりも先に身体を動かしていたのだ。そしてそのとき心臓を直接鷲掴みにされたかのように呼吸が止まった。神経を逆撫でされるような悪寒。全身の穴という穴から滝のように汗が噴き出る。瞳孔が開き、視界が真っ赤に染まってゆく。一瞬遅れて今迄感じたことのないほどの強烈な頭痛が男を襲った。
「っと、これ以上は死んでしまうか」
「ッ!?……ッハ、はあ……はぁ……」
アスタロトが再び言葉を発した時、男はナニカから一瞬で解放され、膝から崩れ落ちた。身体が呼吸を思い出し脳に酸素が供給されていく。
男がアスタロトから感じとったナニカ。それは戦士ならば何度か感じた事のあるモノ。
但し、それの質が今迄のモノとはあまりにも違い過ぎた。
これほどの”殺意”は誰からも与えられた事が無かった。
「先ず、誠に申し訳ないが——上級魔法など誰でも使える。アインザッツの……そうだな、一兵卒でも使える奴も少なくない。それと、『七星将』だったか?私は仲間内で戦闘力が弱い方であるが、その私でも勝てるらしいな。そして最近判った事だがそこの無愛想な女は、このあいだ」
アスタロトは骨張った親指で壁に寄り掛かるメタトロンを指し示した。
「『人類最強』と呼ばれていた人間を、殺して喰っているぞ。文字通りね」
これだから悪食は、とアスタロトは肩を竦め戯けたように言った。
「ま、さか……『超人』キース、をか」
「如何にも。油断していた上に捨て身の一撃だったとはいえ、メタトロンに攻撃が通ったぐらいだ。それなりに強かったといえよう。その人間は」
未だ荒々しい呼吸の男は戦慄する。
海鮫人ですら知っている。大陸中の人間、亜人、或いは魔族ですら知っている。その名前を。
文字通り人という枠を超越した存在であり、それでいて箍が外れていない善性の種族人間。人々に英雄と讃えられた怪物である。
——それを喰った?この黒に染まった麗人が?
何を馬鹿な、とは思わない。
否、思えない。
男は先程その身をもって理解してしまったのだ。それが嘘では無いということを。
「……さ、先程の言葉は撤回させてくれ。だが、執行者の上に立つ”母”という存在は未知数だ。それだけ伝えておく」
執行者の上には”母”と呼ばれる者が存在する。執行者達全員がその存在を神聖視し、絶対の忠誠を誓う。彼らの存在意義そのものであった。
男はその存在を見た事が無かったが、嘗て見た者から聞いた事があった。
——”母”とは決して目を合わせるな、と。
「報告にあった通りその件は追々調査するとしよう。情報提供感謝する」
アスタロトは男に短く謝辞を述べ、改めてメタトロンに向き直る。
「長耳族に関しては質の良い情報は無かったが……まあ何であれ知り得た事はこの書類に書いてある。ご主人様に届けてくれ。それとこの三人もくれぐれも丁重に扱い給え」
「貴様に言われる筋合いは無い」
「判っているなら重畳」
アスタロトは愉し気に笑った。
メタトロンは先程の海鮫人の”母”と呼ばれる存在について多少気になる所ではあったが、アスタロトから書簡を受け取ると速やかに三人に向き直る。
どうせ直ぐに分かることだ。今は速くご主人様の元へ帰るのが良い。
「ついて来い」
メタトロンは三人にそう告げると背を向けて歩き出した。
「黒い服の女に着いて行け。我等が″王″に謁見出来るのだ。貴方達の一生に於いて此れ程光栄な事は二度ないでしょう」
アスタロトは上機嫌に三人を見送ると再び目の前の書類の束と格闘し始めた。
▼▼▼
『住み込みメイド、及び庭師募集。給与、待遇、応相談。経験者歓迎』
『農業、鍛冶、建築、治水、調薬、治癒、その他専門分野に詳しい者募集。給与、待遇、応相談』
『珍しいアイテム、噂話、他国の情報、言い伝えなどこの世界に関する話、買取』
『研究室及び書庫の掃除、雑用係、魔術師、呪術師、若干名募集。詳しくは伊弉冉まで』
『忠実な部下募集。強いやつ、速いやつ。24時間勤務、給与、特に無し。ジルまで』
「よーし。これでいいか」
メタトロンは奴隷達を先導している途中、見知った顔に出会した。
城塞都市ウッドベリーの大通りの路上掲示板にデカデカと貼り出された書面。それには街を復興させる為、延いては次につなげる為の人財募集の提示がされていた。
最後の項目は兎も角、恐らくこれもご主人様の指示だろう。
「…………」
それにしても余りにも字が汚ない。
珍しく戦闘以外で働いていると思えばこれだ。明らかに人選ミスである。
だが比較的事務を熟せるモロクとアスタロトは、書類仕事と街の運営方針や今後段取りで手一杯。
狂骨、オルトロス、イフリート、メフィストフェレスはアインザッツで護衛、事務、調練、有事の対応。伊弉冉は専属医。蛇女に至っては何をしているのか分からない。
ルシファーとアガリアレプトも任務で不在。
リリスは街と城を行き来したり現地で指示をしたりと何かと忙しい。
結果的にこの猫女に雑用が任された訳か。
「おう、どうした。子分なんか連れて」
「……字が汚過ぎる。万人が読めるように努力するか代筆でも用意しろ。それともう少し考えて書けないのか。その看板を見た奴らの報告先を明示した方が良い。リザードマンの兵舎に受付先を作って、そこで纏めさせるなりなんなりしろ。これ以上牛鬼の仕事を増やしてどうする。それとも代わりにお前が全部やるか?」
「それと、お前は奴隷でも募集する心算なのか。我々の品位が下がるし巫山戯た待遇で求人を出すな」
「お、おう。わかった」
メタトロンの指摘に素直に返事をするジル。
本人としては決してふざけて部下を募集した訳では無いが、彼女としてもモロクの仕事の代わりをするなら素直に言う事を聞いておいた方が良さそうだった。
それにこの女、少し癪に触る言い方だが間違ってはいないだろう。他人にアドバイスすること自体珍しいので何か良いことがあったのかも知れない。
「行くぞ」
メタトロンは三人を促すとさっさと行ってしまった。
「……忙しない奴だな」
▼▼▼
——闇の静寂に響くのは時折聴こえる小々波の音と、ヒタヒタと素足で歩く少女の足音のみ。
「……何処に隠れたの?」
良くも悪くも深海の帝王、大王酸漿烏賊の特性を受け継いでいる彼女にとって、常闇は良く見える。
大凡、海面より1km以深もの太陽光の全く届かない暗黒の世界に生息する大王烏賊の、獲物や天敵を一早く発見する方法は限られるのだ。
当然、海豚のように超音波の反射を利用して距離を測る訳でもなく、彼らは深海に住まう発光微生物が発する極微量な光を検知し、その光の翳りで相手との距離間を測る。
視力自体は非常に悪い。
だが集光能力を極限に高めたが故に、常闇でも月明かりを利用して驚異的な認識力を発揮するのだ。
「……早く出てきない……鬱陶しいわ。あなたはただ答えてそして私に嬲り殺されるだけでいいのよ。……ね?……簡単でしょ?」
——しかし、アガリアレプトは気付いていた。
「…………」
この少女は極度の遠視であると。
最初に違和感を憶えたのは月明かりに曝された至近距離で有りながらも、彼女が目を細めた事だった。
一瞬ではあるが、焦点を合わせようとする随意反応を起こした彼女をアガリアレプトは不可思議に思った。
普段から注意深い彼だからこそ、その些細な変化に気付いたのかも知れない。
結果的に、それが彼の生命を首の皮一枚で繋ぎとめていた。
「さあ……早く」
現に少女の直ぐ後ろ、月光の当たらない木影でアガリアレプトは息を殺していた。
彼は気休めながらも最後の力を振り絞って隠れることに成功していた。
全身全霊を以って気配を殺し石像のように動きを止め息もせず、存在を空間と完全に同化させる。
僅かな気配でも音でも、或いは些細な温度の変化ですら彼女は察知するだろう。
「…………」
現状、アガリアレプトには運が味方していた。
今、月は雲で隠れ、拓けた場所でも殆ど暗黒。
実際アガリアレプトすら視界を殆ど確保出来ていない。
彼女が夜に目が効かないと当たりを付け、月明かりの届かない大木の影へ隠れたのはまさに幸運。
更に彼がここまで隠密行動に適した人物でなければ、関係なしに些細な動きの光の翳りや気配、さらには微かな音で場所を特定されていただろう。
「————早くしろ」
——瞬間。
背筋の凍りつくほど禍々しい怨嗟の声が空気を震わせた。
少女—アカリの声色は親が子を諭すような優しい口調から、ひどく冷徹な声に一変した。
少しトーンの高い愛らしい少女の声であるものの、同時に底冷えを誘発させる悍ましき声でもあった。
アガリアレプトは息を吐き出しそうになるのを必死に堪えた。
「……ん……早く出てこないと殺してあげない。……死なないように飼ってあげる。……懇願されても決して殺さない……永遠に、究極の快楽の狭間に閉じ込めて……ふふっ……」
打って変わって、先程一瞬だけちらつかせた禍々しい片鱗を欠片も感じさせずに、アカリは恍惚な嗤みを浮かべた。
そして自らの身体を抱き、こう続けた。
「……お願いだからこれ以上私を苛立たせないで。……近くにいるんでしょ?何故逃げるの?どうせ無駄よ」
その純粋な問い掛けにアガリアレプトはゆっくりと瞼を閉じ、そして思う。
一体自分は何に期待しているのだ。
彼女の言う通り自分のしていることは時間の無駄に等しい。
足掻いた所で結局は、自己修復も止めた手負いの自分の体力が尽きる迄の短い一人相撲。
彼女が諦めて帰る?
—否。
断じてそれは無いだろう。
彼女は、自分が己の創造主に会える方法を知っていると勘違いしているからだ。
その繋がりを、自ら絶とうとする筈はない。
このまま無様に隠れ死を待つのか、若しくは敢えて出ていき一矢報いる覚悟で戦うのか。
どちらにせよ結果は等しい。
本当に知らないと判った時、結局は嬲り殺されるだけだ。
いや、殺されるならまだ良いかも知れない。
「…………」
その時彼はほんの小さなミスを犯した。
目を深く瞑り自問自答を繰り返すアガリアレプトは、自分の両断された腕から今にも一滴の血が滴り落ちようとしている事に気付いていなかった。
冷たい地面に吸い寄せられるように落ちていく。
ゆっくりとゆっくりと重力に誘われて。
それが地面に到達した瞬間、アカリの腕がぶれた。
ごう、と空を切る音が遅れて聴こえたと同時に大木はへし折れていた。
「……お、……ガッ…」
アガリアレプトの肩口から肺にかけて、先端を真っ赤に染め上げた砕けた木の枝が荊のように後ろから突き出す。
「あっ。やっちゃった……?」
ついうっかりと言わんばかりにアカリはアガリアレプトを覗き込んだ。
「まだ生きてるみたいね」
ホッと胸を撫で下ろした彼女は、折れた大木に磔にされた彼の両腕を同じく両手で握った。
そして一度舌舐めずりをして——
「最後よ。私の夫に会える方法を教えなさい」
あくまで静かに、囁いた。
「し……らない……と言って……グアアアアッ!!?」
獣のような叫びが木霊した。
顔を不気味に歪めたアカリは、アガリアレプトの腕の断面に親指をぎゅっと押し込み肉を掻き回していた。
脂肪と或いは筋肉が、指に押されて縁から血と一緒に零れ落ちる。
脳に直接響く鋭い痛みにアガリアレプトは堪らず声を上げる。
その悠々しい音色を聴いて、アカリは更に入れる指を増やしていく。
息遣い荒く、目を血走らせながら。
その度に悲痛な咆哮は、より一層大きくなっていった。
「ま……て、……わか……った」
遂にはアカリの指が五指全てアガリアレプトの腕の中に入り切った時、絞り出すようにひどく年老いた声が発せられた。
「……そう」
それを聞いたアカリは少々名残惜しそうに呟くと同時に指を一気に引き抜く。
その瞬間アガリアレプトの身体はビクッと一度だけ痙攣した。
「……さあ。何をどうすれば……夫に逢えるのか答えなさい」
ゆっくりと距離をとりながらアカリは問い掛ける。
「お……しえ、る」
普段の彼を知る人物からすれば驚愕する程あまりに弱々しく、覇気のない声で呟く。
苦悶に顔を歪ませ口から血を吹き溢しながら虚ろな目で地面を見ていた。
「早く!!」
痺れを切らした子供のようにアカリは叫んだ。
今漸く捜し求めていた答を聞ける。
自分の、唯一無二の存在価値ともいえる人に逢えると思えば当然だった。
その急かすようなアカリの声を聞いた時、アガリアレプトは俯きながらも確かに口角をつりあげた。
そして静かに顔を上げて、彼は言ってしまった。
はっきりと、侮蔑と嘲笑を蓄えて。
「——とでも思ったか小娘」
「————あ〝?」
刹那の空白の後再び、アカリの顔から表情が抜け落ちた。
彼女が、目の前の老紳士の発した言葉を理解する迄そう時間は掛からなかった。
次の瞬間、不気味な静寂に支配された森に、鮮血が舞った。
「……だれ?」
但しその鮮血は第三者のものだった。
「……………」
その身に纏いし獄炎は、大地を焦がし闇夜を紅く染め上げる。
怒りに満ちた紅蓮の双瞳は、果てし無く眼前の敵を睨み付ける。
突如、疾風の如き速さで二人の間に割って入った、予想だにしなかった男の後ろ姿にアガリアレプトは思わず声を上げた。
「イフリート殿」
今は何故此処に、という野暮な質問はしない。
彼の中にあるのは純粋な感謝の気持ち、ただ、それに於いて他なかった。
かつて戦闘中に、尚且つ自分の生命が風前の灯にしてこれほど安堵出来る事があっただろうか。
今アガリアレプトを包むのは、狂気地味た少女の創り出す、底冷えのするほどの禍々しい空気ではなく、同胞が持つ心地良い熱さだった。
「……ッ……すみません……少し休みます」
緊張の糸が切れ一気に疲労感の押し寄せたアガリアレプトは、無理やり折れた大木から身体を引き抜くとそのまま地面に座り込んだ。
「治るのか」
後ろ姿にイフリートは問う。
その表情は窺えない。
「私は吸血鬼なので、時間は掛かりますが……」
言葉を濁しながらアガリアレプトは答えた。
「全く……想定外もここまで続くとはな。……直ぐ終わる。休んでおけ」
それを聞くとイフリートは短く告げた。
アガリアレプトは無言で頷くと、這いずるように少し後方へ移動した。
「ねえ!!無視!?私は無視なの!??」
突如として悲鳴にも似た狂った調子でアカリは声を荒げた。自分本位の人間にとって、蔑ろにされるほど屈辱的な事は無いのである。
苛立つアカリはイフリートの胸を貫いた腕を勢いよく引き抜く。腕に纏わりついた血液がねっとりと体液と混じって糸を引いた。
「然し、正解か」
「ねえ!聞いてる!?」
「…………」
何度も、何度も何度も彼女の手刀がイフリートの身体を貫く。その度に真紅の血と炎が宙を舞い軈ては地に落ちる。
機械的に何度も何度も繰り返されるその行為に冷ややかな視線を送ると、彼は漸く口を開いた。
「おい」
短いその一言で空気が鼓動した。
まるで言葉自体に重力が宿ったような重い一言。
同じ黒円卓の同胞であるアガリアレプトですら、強烈な圧力に思わず呻く。
「……なに?——冷ッ!?」
途端、腕に常軌を逸脱する冷たさ感じたアカリは堪らず引き抜き一歩後退った。
「えっ!?」
そして目を見開き驚愕する。
咄嗟に引き抜いた彼女の腕は、本来の色をしていなかったのだ。
——黒。
今や、淡雪のように白く艶のある腕は完璧に焼け焦げ炭化していた。細胞が破壊され所々ヒビ割れた腕は、節々に赤黒い筋肉を覗かせながらパチパチと耳障りの良い音を立てて煙を上げる。
あまりの高温が故、瞬間的に体表にある冷点が反応し冷たく感じていたのだ。
「…………」
暫く自分の炭化した右腕を無言で見ていたアカリは、何の躊躇もなく自ら反対の腕で切り落とした。
そして重力に従い落下していく腕だったもの。それをそのまま蹴り飛ばした。
それは高速で蹴出されイフリートへ一直線に向かう。
「…………」
だが、彼はそれを右手でいとも容易く捉えると其の儘握り潰した。
瞬間、蒸発せずに腕の内部に残っていた血液が四方に飛び散った。
「……ぐっ!?」
その一瞬を狙いイフリートの頸にひんやりとした何かが巻きついた。唯、何十tもの強烈な圧力で。
「残念でした!!私の腕は直ぐ再生するのよ!」
嬉々と興奮しながらアカリは耳元で囁く。
自らの腕を目眩ましとした彼女は転じて背後に回り込み、不気味なほど長い腕をイフリートの野太い頸に何重にも巻き絡みついていた。
「このまま捻じ切っちゃうわ……勿体無いけど……貴方強そうだし。めんどうくさいし」
その間にもアカリの触腕はギリギリと頸椎を圧迫していく。
彼、イフリートのの頸は断じて常人のそれではない。
極太の骨と重厚な筋肉に彩られた頸は正に一本の大樹。
しかし、今やその骨は鈍く軋み、血流を無理矢理止められた血管は、今にも破裂する勢いで膨張する。正に噴火前の火山。表現するにはそれが近い。
「……貴様……楽に……死ねる……と……思うな……」
だが、強靭に巻きつく腕に何叛する事もせず、空気の漏れるような声をイフリートは発した。
そして彼は、静かに呟く。
「『灼熱地獄』」
「ミ〝ィ…………………………」
——その瞬間、イフリート自身及び周囲が円を描いて発火した。
同時に、一瞬、ジュッと蒸発する音と声とは言い難い言葉を発しアカリは後方に崩れ落ちていく。
彼女の身体前面は衣服、皮膚、顔、その全てが焼け焦げ、プスプスと音を立てて煙を上げていた。
イフリートはソレを容赦無く蹴り飛ばす。
数十メートル先の大樹に打ち据えられ、そしてそのまま仰向けに倒れ込んだ。
血液の蒸発した鉄っぽい匂いと、肉の焼ける芳ばしくも少々焦げ臭い薫りが辺りに染み渡るように浸透していった。
「もう少し離れていろ」
後ろにいるであろうアガリアレプトに声をかける。
「……御意に」
木に持たれ荒い呼吸を繰り返していた彼は、その言葉を聞くとゆっくりと移動を開始した。
今や地獄の業火は木々や草花に燃え移り、森を昼間のように余すことなく照らしていた。
「…………ロ……ス」
イフリートが見つめる蜃気楼の先、少女の真っ黒い影がゆらりと動いた。
「コロス……殺ス殺ス殺ス殺ス絶対殺ス!!!!」
呪詛めいた言葉を壊れた蓄音機のように何度も繰り返して、少女は幽鬼の様によろめきながら立ち上がる。
それをはっきり捉えながらイフリートは宣告する。
まるで死神のような冷酷な嗤みを湛えて。
「今宵限りの短い生命。……精々謳歌しろ」
怒れる火神の言葉を贄に、業火は益々猛っていった。
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■Name―《火神》イフリート
■型―火蜥蜴
■Level―230
■黒円卓議会席次―第2位
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