25.門出
25.門出
想像よりも遥かに簡単に、船は沈む。
中世程度の技術力、比較的造りの簡単な輸送船舶の類なら尚更である。
船底と同様の空間の甲板に穴を開けてやれば、時間を掛けて緩やかに海底へと沈んでいく。
勿論、防食魔法で保護された船にそれを実行するには人間にとって多大な労力と時間を掛けることになるが、それ以外に属する者には然程問題ない。
アガリアレプト――始祖吸血鬼という種にとってその小細工は容易であった。
態々島の人間を一人一人殺していくよりも圧倒的に効率が良かった。
ただ船が沈没するだけなら泳ぎの得意な者は生き残れたかも知れないが、彼らにとって不運だったのはこの島と大陸を繋ぐ海道は距離こそ短いが極めて危険度の高い海域だったという事。
此処を根城にする海獣は、熟練の冒険者でさえ海上でまともに打ち合うとなれば手に余る。
無事に船が沈んだ後は海獣の格好の的となる。
何せ、大量の人間が乗っているのだ。
陽光を反射し穏やかに畝る海原の一角は深い紅に染まっている。
其処には大小様々な船の残骸と人間だったものの欠片、そして奇怪な姿をした海獣達の死骸が漂っていた。
海中からは気泡が絶え間なく噴き上がり海面を泡立てている。
その残骸の中を掻い潜るように一艇の小型船が大陸へ向けて進んでいる。
「ふぅ……」
小型船の帆の上には浅黒い肌色の小柄な黒長耳族の少女が、宙に華奢な脚をほうり出し器用に坐っていた。
少女は水夫のように頭に巻いたバンダナをキュッと締め直すと手を翳し、遠方に目を這わせる。
薄っすら眼を細めると視認できる距離には大陸が見えた。
「んー。やっと近づいてきましたね。噺に聞くよりよっぽど大きいです」
小さく伸びをした黒長耳族の少女、エリザ=ラルは、その雲鬢を汐風に靡かせる。
彼女の胸中、人生初の大陸を前に期待と緊張が確かに過った。
様々な思惑と思想が渦を巻く混沌の大地。
近づくだけで肌で感じるこの高揚感は、やはり自分の内に潜む特殊な遺伝子によるものなのか。
長年住み慣れた故郷を離れてまで得る物とは一体何なのか。
それは今は分からない。
ただ、自分の選択は決して間違っていない筈だと確信している。
人間に虐げられた人間以外の叛逆劇。それの末端に加われる幸運、そして歪んだ自分の欲望を限りなく忠実に、叶える機会はもう二度と訪れないだろう。
「エリザ殿……失敬、”エリザ”、別れの挨拶も早々に申し訳ありませんね。私も急ぎなので」
丁度、帆の下の甲板で、大陸の有ろう方角を見たアガリアレプトはハンカチで手を拭った。
そして付着した緑黄色の体液を見て、一瞬険しい顔をする。
(洗ったら落ちるのでしょうか?)
「それに、人まで貸してもらって」
いまアガリアレプトらが乗っている小型船は、島から操舵に覚えのある黒長耳族の男性が乗船し操縦手として動かしていた。
大抵のことは難無くこなすアガリアレプトでも流石に船の動かし方は知らなかった。
エリザも然り。
だから彼が比較的安全に島に帰れる為に、航路上の海獣を粗方始末する必要があったのだ。
輸送船などの巨大船舶なら兎も角、小型船では間違いなく海獣の餌食になる。
「いえ、此方こそ気を使って頂き有難う御座いました。それに島の者も皆喜んでいました。もう怯えて暮らす必要はないと言って」
結果的に少なからず犠牲は出たものの黒長耳族側の大勝で終わり、島を取り返す事に成功。立役者であるアガリアレプトから人間からの報復の心配もないと聞けば喜ぶのも仕方ない。
たった一日足らずで一世紀以上続いた、人間達に怯え迫害される生活が終わったのだ。
(ふむ……報復する時間も余裕も無いとは思いますが――陸に着いたら潰しておきますか)
国に宣戦布告し国の五指に入る大都市であるウッドベリーが恐らく堕ちた今、あの島に兵を割ける余裕は無いだろう。
……とは思うが首を突っ込んだ以上、一応芽は摘んでおくことにしよう。
アガリアレプトは密かに思った。
島と大陸を繋ぐ海路の先の港街の命運は、たった今決まってしまった。
(寄り道になりますが誤差の範囲でしょう)
勿論アガリアレプトは許可無しに好き勝手に行動しているわけではない。
黒長耳族達に手を貸す事を始め、その族長の娘であるエリザを勝手に仲間にしたりするのはカルシファーから許可を得ているからだ。
各自の判断で、何をしても許されるという特権。城主であるカルシファーに次ぐ最高権限を彼ら黒円卓議会第十三席は持っている。
少し先の事になるがエリザがその重さを知った時、アガリアレプトがどんな地位に坐するのか判った時、思わず顔が引き攣ったのも無理はなかった。
「まあ私も帰るついででしたので。……それよりお兄さんに書き置きくらい残して置いても良かったのでは?」
可哀想な事をした、とアガリアレプトは思う。
峠は越えたが未だ意識のないカイル=ラルに、書き置きすら残さずにエリザと島を出たからだ。
完治は望めない。恐らく後遺症が残るだろう。そんな実の兄を残して出て行くのは心苦しい筈である。
しかしエリザは、
「ラファに伝えたので大丈夫です」
気丈に、意味深に笑った。
「ああ、あの小さな女の子ですか」
「……あれでも一応成人していますので」
エリザの苦笑いを見ながらアガリアレプトは、カイルの治療の最中ずっと側を離れようとしなかった少女の姿を思い出した。
確か土魔法を得意とする少女だ。
自身も大怪我を負っているのにカイルの心配ばかりしていた彼女は、まだ『幼い』。
――幼い。それは年齢的な意味も勿論有るが、真の意味は圧倒的な経験不足。才覚は有るが全てに於いてあまりにも未熟。
島という閉鎖空間の中で育ったのが実に勿体ないとアガリアレプトは感じていた。
だが同時に彼女が変わるという確信もあった。
この苦い経験を通して、無力な自分を前に悔恨を湛えて少女は昇華するだろう。
「ラファはああ見えてしっかりしてますし大丈夫でしょう。あの子はちゃんと兄を支えてくれる筈です。それに……もう二度と会えないと決まった訳じゃありませんから」
エリザは静かに目を瞑る。
次に兄が目覚めた時、何を思い、そしてどう行動するか。
アガリアレプト殿は私達黒長耳族を歓迎して下さると言った。
だから皆で落ち着いたら大陸に移住するかも知れない。或いはそのまま島で慎ましやかに暮らすかも知れない。
何方でも良い。
選択は彼等次第だ。
アガリアレプト殿に着いていった私が口を挟む権利はない。
しかし、どの道島の者達と逢える機会は有るだろう。
アガリアレプト殿の言う理想の国創りには、島の銀山は必要な筈だ。立地的にも資源的にも。
恐らく、島を知り尽くした自分はその時皆に会える確率は高い。
無論――――
「会えないかも知れませんよ。もう二度と」
エリザの思考を遮るようにアガリアレプトは無感情に言い放った。
これは冗談ではない、とその目は語っていた。
「死ぬかも知れませんよ」
「――――生きていたら、と付け忘れていました」
と、更に笑みを深くしたエリザにアガリアレプトは満足気に口元を緩めた。
「なら良し」
(――ああ、やはり良い拾い物をした。ご主人様のお役にも立てるでしょう)
まるで新たな門出を祝うように、汐風が二人の頬を優しく撫でた。
◆◆◆
中央に高らかに重く聳え立つ城砦。
その巨体を囲うように円形に広がった街、ウッドベリー。
王国でも五指に入る賑わいも最早過去の産物。たった数日前まで人の熱気と喧騒に包まれていた街頭は今や一部復旧地域を除き、静かにまるで時が止まってしまったかのような沈黙に佇んでいた。
この地に根付いていた種族人間は全て死滅し、清掃に従事する兵士達を含めても街の人口が数十分の一以下になり下がったので当然であった。
そんな閑静な街の一角。対峙する影が二つ。
「僕の前に誰か来ませんでしたか?この街に」
俯きがちに、酷く中性的な声で静かに語り掛けるのは、表情が見えないくらいフードを目深く被り黒の外套を羽織った女。
物腰の低さから敵意は全く見受けられない。
「ああ!?知らないな。そんな奴」
対照的に、いきなり何だとドスの効いた声で睨みを効かせたのは天真爛漫な猫。
言わずもがなジルは不機嫌であった。
彼女の種族の習性上『縄張り』というものには特に、拘りがある。
野生の本能に於いてそれは生活の範囲内、或いは心休める安全地帯、然らば縄張り内は自分の家と同義であった。
それなのに、我が縄張に白昼堂々無断で侵入した挙句、大事な昼寝を邪魔された。
不機嫌にならない理由がない。
でも、問題はそこではなかった。
「可笑しいですね。貴女から彼女の匂いがしますけど」
そう。
何より不快だったのは目の前の奴の掴み所の無さ。
自分より強くない。間違いなく格下の相手だ。
だが、それにしてはあまりにも自然で無防備。
この街の惨状を見て単身乗り込む気概が有るようにも見えず覇気の欠片もない。
それどころか近所の公園にでも散歩するかのような気楽さすら感じられる。
「匂い?」
曖昧な表情でジルは訊き返した。
「ええ、貴女から確かに彼女の匂いがします」
「頭可笑しいんじゃないのかお前」
間髪入れずにそう言う。
何故なら比較的嗅覚の秀れた個体、美洲豹のジルでさえ初対面の他人に染み付いた第三者の匂いを瞬時に嗅ぎ分けることは易くない。
当日なら兎も角、毎日服だって着替えるしお風呂にも入る。
雑破な性格とは裏腹にきれい好きな猫なのだ。
それに何よりジルが、もう一人の魔人、イフリートがズタ袋に入れてきた魔人に直接接した時間は皆無。
その条件なら最早ジルにも判別する事は不可能であった。
猜疑心に満ちた目のジルに対して女は人差し指を立て、
「あっ。もちろん比喩的な表現の匂いであって、本当にするわけではありません。嗅ぎ分けるのなんて流石に不可能に近いですから」
少し得意気に言った。
「殺すか。別にバレないだろ」
「――本音が出てるわよ」
うっかり心の声が漏れたジルの背後から金髪の悪魔が音も無く現れる。
ジルは渋い表情をして振り返ることなく早かったな、と一言告げた。
悠然と佇むリリスは一つ長い溜息をついて、改めて不詳の黒外套に頭を向けた。
「で、貴方は誰?そして目的は?返答次第では力尽くで拘束させてもらうけど」
一息で言い切る。
腕を組んではいるものの、リリスの指先には既に蒼白い光が蓄えられていた。
更に、横ではジルが今か今かと飛び掛かろうとしていた。健脚で地を摑み石畳に亀裂が入る。
二対一。
緊張した空気が張り詰める。
「…………」
――が、この状況下でも動じず、飄々としている黒外套の女にリリスも流石に怪訝な顔をする。
(相当肝が座っているわね。それか、タダの馬鹿か)
現に、冷や汗の一つも掻いていない。
二人の臨戦態勢を見て黒外套の女は周囲を見渡す素振りをし、その頭にすっぽり被ったフードを取り払った。
「失礼、申し遅れました。お分かりの通り僕は”魔人”です。誰から貰ったか分かりませんが名は”ルキナ”。目的は、ちょっとした確認ですね」
ルキナ、と自らを名乗った魔人にしかし二人は直ぐに反応せず。
リリスはフードを外し露わになった魔人の顔を見て、眉を僅かに上げた。
「目が見えないのね」
フードの下に表れたのは両目を抉るような横一線の深い疵。それを追うように葛折状に奔った縫合の痕は両の目を塞いでいた。
美少年にも美少女にも見える中性的な整った顔立ちに混じる異物的な疵は、何処と無く退廃的な顔を創り上げる。
些か呆気に取られたリリスに魔人は含み笑いをして返した。
「確かに見えません。ですが、貴女達よりは良く視える」
その言葉は安い挑発には受け取れない。
ただ、事実だけを述べているように当たり前にそう言った。
「――へえ、じゃあこれも見えてたのか?」
小馬鹿にするような声と共にふわり、と風が舞った。
次の瞬間、魔人の喉に押し当てられていたのは鉛色の刄。
一瞬にして背後へ回ったジルが腰から抜いた小刀であった。
背後から羽交い締めに密着しながら鋭利な刄を押し当てる。
喉元に感じる冷たさに少し擽ったそうに肩を竦めた魔人は、焦ることなく右手の親指と人指し指で刄を軽く摘んだ。
「……視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚」
「んぁ?」
呟くように、言い聞かせるように口から言葉を溢す。
「ご存知の通り人体の構造上最も重要な感覚器の五つです。そして、不思議な事にそのどれか一つでも欠けると他の器官でその分を補おうとするのが生き物でして、僕の場合はそれがより顕著だったと言う訳です」
摘んだ刄を静かに擦る。
「この感触……軟らかい手触りの中に僅かに感じるざらつき。そして擦った時に香る独特の湿ったような匂い。イシルディンとオリハルコンの合金ですね。比率は七対三くらいですか。もう少し触らないと造型が判りませんが、これは紛れもなくユニーク級の一品」
僕が欲しいくらいです、と刄からゆっくり手を離す。
(へぇ……道理で)
リリスは話半分ルシファーがそんな事を言っていたことを思い出した。
五感の内或る一つの器官を喪失した時、残った感覚……つまりは残存感覚、その強化は誰しも起こる。補おうとする力が働くのである。
とりわけ彼女は魔人という特性上その力がより強力に作用し、魔力探知は勿論のこと、聴覚に関しては他人が出した音を利用した反響定位すら自在に扱える迄に至っていた。
音の反響によって、距離、形、質量あらゆる情報が彼女の脳裏に映像として鮮明に映し出される。加えて微かな予備動作でさえ、次にどう行動するかの判断材料となり得るのだ。
視覚を失うことにより強化された魔力探知能力と聴覚を併せ、彼女は視る事より秀れた第二の感覚器を手に入れていた。
「むぅ……」
眉間に皺を寄せてジルは唸る。
ところでジルにはこの盲目の魔人が本当の事を言っているのか分からなかった。
別に鍛冶師でも鑑定士でもない。小刀一本の材質に特に拘りも無いし、それが何で構成されていて含有比率は幾らかなんて知る由も無い。
扱い易く良く切れればいいのだ。
だがカルシファーが自分に極端に安い品など持たせる訳がないという確信だけはある。
自惚れではなく、愛されているという自覚があるからだ。
「ふふっ。それにしても貴女の躰、肉付きも良くて凄く柔らかいですね。背中越しで楽しむのが勿体ない。微かに甘い匂いも心地いい。少し体温が高いのは種族に依るものでしょうか」
「…………」
とりあえずジルは小刀を取り下げ、魔人から速やかに離れた。
「残念……。さて猫の獣人さん。先程の質問に答えましょう。見えていたか――答えは”是”。ほんの、些細な情報で次の瞬間どう動くか僕には判ります。因みに貴女は動く数瞬前、その方向に左の踝を軽く浮かせるクセがある。細やかな手首の捻り、少し上擦った呼吸音、関節の擦れる音、それらによって生じる空気抵抗、その全てが音を介して教えてくれるのです」
――なんだこいつは?
ジルが気味悪がって更に距離を取る一方、リリスは訝しげに目を細めた。
(どうやら嘘は言っていない……でも、本当にそんなことができるものなの?)
異常聴覚どころの話しではない。
次に取る行動が判る。それは予測というよりは予知に近い神の所行。
もし事細かにそんなことが出来るとするなら黒円卓議会の中でも第一席だけであろう。
神の子、そう呼ばれた彼なら或いは。
「勿論、見えるだけで反応は出来ませんよ。僕の物差しでは正確に測れませんが少なくとも貴女方は魔人の最上位クラス若しくはそれ以上。なんせ僕は魔人の中でも弱い方ですから」
リリスの懸念を見透かしたように魔人は言った。
「宝の持ち腐れね」
「反論出来ません」
リリスの皮肉をはにかんで軽く受け流した魔人は再びフードを目深く被った。
咳払いを一つ、
「さて本題に入りましょう。僕の目的は”魔王”と巷で噂の者の真偽を見極める事……というのは建前でして」
そこで一度言葉を切った。
「――”屍者の大地”。其処に到達した者が貴方達の中に居るのか。寧ろ、貴方達が向こう側から来たのか否か」
何時の間にか話の主導権を握られていたが、不思議と二人は気にならなかった。
それよりも魔人の並々ならぬ気迫。その言い様に真剣に惟る。
ヴァルハラという単語について。
「ヴァルハラ?なんだそれ」
「聞いたことないわ」
だが知らないものは知らない。
魔人は二人の反応を聞いて予想通りといった顔で尚も続けた。
「そうですか。では魔人と一緒に目指してみませんか?……望む物、全てが在る場所を」