21.黒長耳族の隠れ郷1
21.黒長耳族の隠れ郷
――グシャリ
アガリアレプトの手中で、まだ暖かい肉塊が勢い良く握り潰される。
線の細い指と指の間から押し出される形で飛び出したのは、宰相アドルフの膵臓の一部分だった。
「ふむ……流石に致命傷にはなりませんか」
言葉ではそう言うが悔しがる様子は一切なく、寧ろ楽しんでいるきらいがあった。
既に、穏やかな表情に戻っている彼の内心に焦りは微塵も感じられない。
――そう。たとえ彼が立つ周囲を包囲する、武装した集団が居たとしても。
「何者だ貴様」
腹の底から出すような唸りに近い低い声で誰何される。
斜め、上方からの鈍い声。
アガリアレプトは周りを改めて見回した。
見た事もない植生、熱帯に良く見られる比較的背丈の高い木々、僅かに湿った土と生暖かい風。それに風に乗る匂いも湿り気を帯びた仄かに甘い独特の性質。
「成る程……どうやら随分遠くへ来たようですね」
その瞬間、遠い目をしながら悠長に宣うアガリアレプトの頬骨を一矢が抉り、すぐ後ろの地面に矢が深々と突き刺さった。
遅れて一秒頬からつうと血が滴った。
「何故此処にいる人間。どうやって忍び込んだ?返答次第で楽に死ねると思うなよ」
矢を放たれた角度から見るに、巨木の枝に立ち此方に話掛けている男が射たのだろう。
逆光で精確な姿は捉えることができず、輪郭しか分からない。
だが、良い腕をしている、とアガリアレプトは素直に感心した。
それに鏃に毒も塗っている。
染み出すように傷口から痺れる独特の痛みは即効性の致死毒ではない、遅効性の神経毒か何か。
殺す事を目的とせず、尋問或いは拷問にかける前提の準備。
側から見れば非常に好戦的な部族。
(最初から敵氣心を隠そうとしないのは、私を人間だと勘違いしている所為か。しかしそれでいて油断がない。よく訓練されていますね)
未だ無言を貫くアガリアレプトに対し、枝に立つ男は再び矢を番えた。
再三の警告に何も言葉を発しない男相手に容赦する必要などなかった。
決して大柄ではない男が持つ弓は、体格とは対称的に巨大だった。
細い腕でギリギリと弦を引き絞る。
(魔法で身体強化も使っている。それも淀みなく流暢に。うちの兵長程度には戦える亜人ですか………)
限界まで弦が引き伸ばされ、摘んでいた指は軽やかに離された。
――フォン
風を切り一直線に向かって飛来する矢。
次の狙いは膝。木上からの角度も相まって凄まじい速さで進む矢を、一矢目同様見失うことなくアガリアレプトは観察していた。
「……何!?」
矢を放った男から驚きの声が上がる。
正にアガリアレプトの右の膝を貫くその瞬間、彼は僅かに脚を上げ飛来する矢を踏み砕いていた。
(服に穴が開くのは困りますしね)
暫くアガリアレプトを訝しげに観察していた男だったが徐に手を上げる。
それを合図に見えない位置から取り囲んでいた気配達も動き出す。
一斉に弓を番える擦れるような小さな音が鳴った。
次は殺す気で、全員で斉射するのだろう。
「待ちなさい。此方としては貴方達と敵対する気はありません」
漸く、アガリアレプトは口をきいた。
「……何故、貴様は一人で此処にいる。一体どうやって急に此処へ現れた」
短く舌打ちをした男は改めてアガリアレプトに問い掛ける。
(舐めた態度をとっても襲い掛かることは無い。会話が可能と思うや否や直ぐには殺さない……理性的ではありますね。ただ――)
――甘い。この上なく甘い。
その甘さに付け入れられたが故に、亜人達は人間に虐げられ、生物カーストの最底辺に位置付けられるようになったのだ。
あの里の、犬の獣人達のように。
「質問には答えましょう。ですがその前に貴方達は大きな勘違いをしている」
胸ポケットからハンカチを取り出し、汚れた手を丁寧に拭う。
「なんだと」
怪訝な顔をしているのは見るまでもなく分かる。
周囲を囲う者たちも、この圧倒的不利な状況下においてもアガリアレプトの全く動じない様相と余裕に違和感を感じ始めていた。
一対多という状況で逆に、此方側が追い詰められているような錯覚すら覚えていた。
「そもそも私は人間ではない。貴方達の……そう、黒長耳族の方が種族的に近い」
黒長耳族、そう口にした時、明らかに雰囲気が変わった。
アガリアレプトに対する警戒心が一段と上がった。
それを見て、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。
「そう警戒しなくても宜しいでしょう。先ほど言った通り私は人間ではない。そして何故此処にいるかとの問いですが、人為的に魔法で飛ばされてきた、という事になりますね」
「…………」
「成る程。まだ信ずるには値しない、と。……ならば先に明言しておきましょう」
未だ構えを解かないダークエルフ達に向けて、アガリアレプトは緩やかな警告をする。
「はっきり言えば、貴方達程度何人束になろうが関係ない。仮にその矢を一斉に射ても、私には傷一つ付ける事が出来ない。もし敵対すると言うのなら、数秒で総て殺して差し上げましょう」
その瞬間、ダークエルフ達の全身に纏わり付くような悪寒が襲った。
「……木上に八人、茂みに六人、そして私の背後の地中に二人」
「ま、まて」
焦ったような声が上がる。
まさか地中で今も息を殺す仲間さえ、精確にいい当てられるとは思ってもいなかったのだ。
それに、とうに身体に回っている筈の強力な神経毒も効果が現れる様子がまるでない。
魔法で解毒した様子も見受けられない。
そして殺気に気圧されたのも事実。
その段階で見た目こそ人間であるが、実態は普通ではないということの判断がついていた。
「お前達、武器を下げろ」
「若!?」
「いいから早く!」
渋々、といった表情で矢を背中の矢筒に納める彼らを尻目にアガリアレプトは短く息を吐いた。
「懸命な判断ですね。さて、此処が何処なのか分からないのは本当です。魔法で転送された後、気付けば此処に立っていて貴方達に囲まれていました。此処が貴方達の支配領域なら素直に詫びましょう。要らぬ心配を掛けさせた事に」
そう言う間にも背後の土がもぞもぞと盛り上がり、華奢なダークエルフの女性達が姿を現す。
土の属性魔法に秀でた者は地中でも簡単に呼吸ができ、数日間も潜っていることが可能なのだ。
次いで木からも影が飛び降りてくる。
重力を全く感じさせない軽やかな着地で、身に纏う外套が僅かに翻った。
茂みからもゆっくりと不満気な表情でアガリアレプトに近付いて来る。
これで丁度十六人。
この場にいる全てのダークエルフ達が姿を現した。
「貴方達が何故そこまで外敵を警戒するのか、身を隠すような外套を羽織っているのか、余計な詮索はしませんし他者に存在を言いふらすような下らない真似をしない事は約束しましょう。ただ、此処が大陸でいうどの辺りに位置するのかさえ教えて頂ければ」
アガリアレプトとしては一刻も早く、主君カルシファーが待つアインザッツに帰りたかった。
アインザッツは今が一番人材が必要な時期だ。
特にルシファーが居ない今、自分のような存在は貴重だ。
決して自惚れではないが黒円卓議会に頭の切れる者は数少ない。
実力、忠誠心ともに何の心配もしていないが、何方かと言えば力で全てを解決するというタイプが多く正直不安が残る。
だからこんな土地で油を売っている場合ではないのだ。
「……敵対する気がない事は判った。此方も謝罪しよう。外見から種族人間と間違えてしまった」
若、と呼ばれていた代表格の男が被っていたフードを取り払い、口を開いた。
まだ歳若く一般的な感性で言えば十代後半ぐらいか。肌は浅黒く体型は線が細くしなやかな枝のよう、顔は一つ一つのパーツが何れも精巧である。
どうやら長耳族は総じて美形、という諺はダークエルフにも当て嵌るらしい。
「私が一番嫌いな種族と間違うとは甚だ心外ですね。まあ、いいでしょう」
次はない、と暗にそう言っている。
少しだけ殺意の篭った瞳で睨まれたダークエルフはたじろいだ。
「す、すまない。取り敢えず頰の傷の治療がしたい。我らの集落まで一緒に来てくれないか?周辺の地図も恐らく有った筈だ」
「――ああ、この傷ですか?」
そう言うとアガリアレプトは一瞬だけ頬に手を当てた。
次に手を離した瞬間には既に傷はなくなっていた。
「なっ!?」
「この程度触ったら治ります。毒に関しても効かないので心配なく」
ダークエルフ達は自分の眼を疑った。
回復魔法は使っていない。本当に手を当てただけで手品のように消えた。毒付きの鏃によって、深々と抉られた頬の傷痕が。
「……申し遅れた。私は見ての通り黒長耳族の”カイル=ラル”。もし良ければ貴方の種族を聞きたい」
それを見て、先程よりもやや畏まった態度で男は言った。
「吸血鬼”アガリアレプト”。それが私の種族と名です」
吸血鬼、と言葉にした途端周囲に緊張が走る。無理も無い。数ある亜人種の中でも強靭で怖れを知らない高貴な種族であり、今となっては存在自体が希少な種族であった。
「まさか!まだ生き残りが……」
「普通とは少し違いますが私は紛れもなく純血種の吸血鬼ですね」
「それに純血種……いや、でもそれなら毒も傷も頷ける」
一人納得しているカイル=ラルの袖口を、隣の少女が強く引っ張った。
身長は彼の胸辺りまでしかない。土中で息を殺していた少女の一人だ。
カイル=ラルが少女の方に顔を向けると、ぶっきらぼうに言い放った。
「若、とりあえずアガリアレプト殿を集落にお連れしないと。ここでは人間の町も近くて危険」
「……そうだな。ではついて来て貰えるか?」
「ええ、勿論」
◆◆◆
ダークエルフの集落はアガリアレプトの想像以上に規模が大きく発展していた。
熱帯林の奥に潜むその集落は、集落というよりは小さな町。
人口は約三百、簡素だが道が整備されており露店も出ている。
いつかの獣人の集落とはえらく違うなとアガリアレプトは思った。
獣人達に魔法を使える者が少ないのも発展を妨げている要因かも知れない。
アガリアレプトはカイル=ラルの家に案内されていた。
集落に入りダークエルフ達とすれ違う度、警戒を露わに注視されていたが、横を歩くカイル=ラルの姿を見とめるとそれも次第になくなっていった。
聞けばカイル=ラルはこの集落を纏める族長の息子で、皆からの信頼も厚いらしい。
部外者が集落に入ったのにも関わらず余計な混乱が無かったのも、事前に先行した者たちが触れ回ったお陰であった。
「しかし困りましたね」
比較的スムーズに事が運ばれていたが、借りた地図を見て、思わず顔を顰める。
「まさか此処が大きな島だとは」
ダークエルフ達の集落は、大陸より南東に位置する島だった。
ヴェルディ領ウッドベリーとは直線距離にして約三日の距離にある。
距離自体は然程遠くないが問題は、必ず渡らなければならない海であった。
(霧化するにしても距離が長過ぎる。その間に魔物に手を出されても鬱陶しい。流石に船が必要ですね)
「船をお借りすることは出来ませんか?勿論相応の対価は支払います。後払いになりますが」
勿論口上だけの嘘ではなく、アガリアレプトは本当に対価を支払う心算だった。
しかし、その言葉にカイル=ラルは困ったような表情をした。
「残念だが我らは船を造る技術は持っていない。もう失われた技術だ。……持っていても意味がないんだ」
「それは――」
「その質問には私が答えましょう」
突然、戸口から凛と透き通る声が聞こえた。
その声の主はゆっくりと二人のところへ進んでくる。
「エリザ!」
「お兄様は黙っていて下さい」
有無を言わせぬ口振りでカイル=ラルを黙らせた歳若い少女は、改めてアガリアレプトに向き直り丁寧に会釈をする。
健康的な浅黒い肌に、艶のある薄灰色の長髪はよく映えていた。
華奢ながらも非常に肉付きの良い体型を見て、アガリアレプトの脳内には口惜しがる伊奘冉の姿が一瞬だけ浮かんだ。
「初めまして吸血鬼、アガリアレプト殿。私はこのカイル=ラルの妹の”エリザ=ラル”と申します」
「これはどうもご丁寧に」
アガリアレプトは和かに応じた。
(この華奢な少女が、この集落で一番強い。それにまだ真新しい血の匂い……。やはり見た目ほど当てにならないものはないですね)
先ず、足の運びが他の者達とまるで違った。
無意識下のうちに恒常的に行う”呼吸”、”瞬き”、”歩行”。
生活に組み込まれているそれらの日常動作を、一挙動一挙動全て意識して行うのは生半可な事ではない。
多大な精神力と集中力、鍛えた体幹、類稀な才能と惜しみ無い努力、どれ一つも欠けてはならない。
それを苦も無くやってのけるということは、人外の領域に片足を突っ込んでいるより他無い。
まだ歳若い故の経験不足を補い、実績を積み重ねさえすればこの少女、エリザ=ラルは化けるだろう。
余計な御節介か、とそんな事を考えながらアガリアレプトはエリザ=ラルの言葉を聞いていた。
「船、の件ですがそれをお話しする前にこの島の現状を知って頂きたいのです」
「エリザ。部外者にその話は……」
「今は私が話しています。お兄様は黙っていて、と言った筈です」
途端に渋い表情をしたカイル=ラルを半眼で睨むと、コホンと一度咳払いをしてエリザ=ラルは続けた。
ダークエルフの次期族長とは言え、発言力では妹に劣るらしい。
「ご存知の通りこの島は大陸より南東に位置します。元々は島全体森林に覆われ土地も良く肥え動植物も沢山いた、私たち黒長耳族にとって楽園のような島だったと聞いています」
温順な気候もこの湿度も私たちにとっては最高の環境です、とエリザ=ラルは続ける。
「私たちの先祖は遥か昔、大陸からこの島に移住して平和に暮らしてきました。……その楽園に人間達が入植してきたのが約100年前。瞬く間に森林を切り拓き、大陸と結ぶ港と町を造りました」
静かに語る目には確かな悪感情が籠っていた。
隠そうしても、隠しきれない程の。
「当然私たちは自治権を主張し、人間達と話し合いの場を設けました。しかし、奴らは取り合わず在ろう事か武力で解決しようと攻撃してきたのです」
「酷い話ですね」
「ええ、全く。私たちは抵抗しましたが所詮は多勢に無勢。捕らえられた同胞達は奴隷として売られるか、慰み者にされ見世物みたいに殺される。次第に数を減らし森の奥へと追いやられていきました」
(長耳族は容姿に優れた者が多いですから仕方ないですね。だから人間に対してあれ程の警戒と憎悪を持っていたと)
所詮、人間とは欲の塊なのだ。
結局のところ突き詰めれば他人がどうなろうと関係ない。
塗り固められた偽善と底無しの欲望でできた愚かな動物。
「ですが何故、人間達はこの島を発展させようと?」
当然、人間達が態々何もない辺境の島に入植などしようと思うまい。
何か利益となるものがこの島には眠っているのだ。
「”銀”です。この島には巨大な銀山があるのです。ダークエルフには必要なく、殆ど無縁の手付かずの銀山。人間にとっては喉から手が出るほど欲しいモノでしょう」
「成る程銀山ですか。それも入植してまで得る必要がある程の大量の」
実のところ良質な銀は、金よりも使い道が多い。
宝飾品、硬貨、武具、魔導具、中でも魔導具における銀の存在は、その魔力の伝導率の高さからオリハルコンに並ぶ最高の素材とまで言われている。
「埋蔵量は測りしれません。現に100年経った今でも人間達は掘り尽くしていません。……船の話に戻りますが私たちは森の中に追いやられる身。人間の町へ出れば忽ち捕まるでしょう。幸い今は森が守ってくれていて、人間達も魔獣が跋扈する危険な森に入ってまで私たちを捕らえようとはしていません。しかし今や沿岸部は人間達に固められ、仮に造船技術があったとしても意味がないのです。森から出ることが叶わないのですから」
「見えない牢獄に囚われた、という訳ですか」
「……そうとも言えますね」
苦虫を噛み潰したかのように、エリザ=ラルは言った。
この森での生活も近い将来終わりが来る。
森は伐採されていき食糧は不足する。対称に人間達は活動範囲を広げ、その数を増やしていく。
当初一千以上居た黒長耳族達も今や三百と少し。
このまま時が流れれば後五十年は確実に持たないだろう。
「事情は分かりました。ですが何故その話を態々通りすがりとも言える私に?」
素知らぬ顔で、興味などまるでないといった程でアガリアレプトは言った。
だが予想はついていた。
――この少女は同族の誰よりも判っている。
同族の、誰よりも怨みを持ち、誰よりも強く、誰よりも賢く、誰よりも人を測れる。
だから言うだろう。
恥を捨てて赤の他人に頭を下げて頼み込むぐらい、
「お願いします。力を貸して下さい吸血鬼様。対価は、私に出来る事なら、何でもやります」
平気な筈だ。