19.最終通告
19.Libera me
「主人。どうやら帰還した様です」
扉越しに聴こえる馴染みの声に、横になっていたカルシファーは目を開いた。
四六時中主人の部屋の前で番をするオルトロスの声は、しかしいつもよりほんの少しだけ硬かった。
「おお、やっと帰って来たか」
待ちに待った報告に床に降り立つ。
しかし思う、
「何故来ない」
何故メタトロンは直接報告へ来ないのか。
決して自惚れではない。しかし何がどうであれ帰還すれば真っ先に自分に顔を見せるのが彼らの常である、筈。
しかし理由は直後に判った。
「ごめん手間取った!」
その元気な言葉と共に勢い良く開け放たれた扉は壁にぶち当たった。
衝撃で、流線型の明媚な造形ののぶは粉々に砕け散った。
小さな木片が幾つか足元に転がってくる。
突然の闖入者に驚くより先に、果たして修理出来るのかという疑問がカルシファーの脳裏に浮かんだ。
そして城主の部屋に礼儀も流儀もなく、慌しく駆け込んで尚、辛うじて許される者は決まっている。
「ジルか。ご——
――ご苦労様、と、任務を終え帰還したジルに先ずは労いの言葉をかけようとしたカルシファーを遮り、言葉を被せてきたのは彼女自身だった。
「メタトロンが怪我してたから拾ってきたんだ!一応今、寝かしといた」
破砕した扉を気にも留めずに彼女は言った。
人の話を遮るという目に余る不躾な素行に流石に叱責しようと構えていたカルシファーの意気込みはその瞬間沈澱し、代わりに疑問と同時に焦燥が頭の中で渦を巻いた。
「……怪我、しただと?それで無事なのかメタトロンは」
カルシファーは懐疑的に言葉を投げ掛けた。
「一日二日もすれば動けると思う。怪我は見たところ腹部の裂傷と上腕の筋肉の一部欠損。骨は無事みたいだし大丈夫。余裕だよ余裕」
淡々とジルはメタトロンの状態を告げた。
「……そうか。良かった」
「あと、
ジルの、その言葉は続かなかった。
「――ッ!?」
――一体自分は何をしているのか?
彼女は、脊髄反射でカルシファーから一瞬にして距離を取り、壁際に張り付いていた。
断じて意図的に距離を離した訳ではない。
理性より、考えるよりも先に身体が自然と動いていたのだ。
(うそだ……ろ)
当の本人でさえ困惑する。
ほんの一瞬の事だが何故、仮にもこの場での強者である筈の彼女が恐怖したのかは本人ですら判らなかった。
しかし確実に言えることは、ジルは間違いなくカルシファーに底知れぬ恐怖を覚えたという事。
それと、カルシファーはメタトロンが怪我を負ったことに対し、尋常ではない憤り感じている事だった。
寸刻遅れて冷汗が額から零れる。
何故なら彼女は今迄一度足りとも見たこと無かったのだ。
自らの創造主カルシファー=アインザッツの、あの様に深淵より深い忿怒に彩られた表情を。
「も、もうしわけ……有りません」
彼女らしくなく酷く女々しく、殊勝に謝辞を述べる。
一瞬の事ではあったが、ジルのとった行動は決して許される類のものではない。
絶対的な忠誠と無条件の信頼を捧げる己が主人を目の前に娼嫉し、剰え距離を取る。
この行為は失礼を通り越し裏切りにも似た罪咎。
この場で自害しろと言われても何ら可笑しくない行為であった。
現に、そう命令が降れば即実行するとジルは決めていた。
「……いや、いい。すまない」
しかし、カルシファーの口から出たのは叱咤ではなくひどく曖昧な謝罪だった。
表情も何処か翳りのあるものの、普段通りの無駄に真面目なそれに戻っている。
「あ、「行こう。詳しい話はあっちで聞く」
ジルが次の言葉を発するよりも早く、カルシファーは短く告げた。
そしてゆっくりと歩を進めた。
「……うん」
このまま話を蒸し返すのも賢くないと感じたジルは、胸に妙なしこりを残しながらも後へと続いた。
▼▼▼
「ふん。後は安静にしておくだけで良い。此奴ならこの程度の怪我、直ぐに完治するじゃろ。二日もあれば普段通り動ける……いや、動くな、此奴は」
大きな欠伸をしながら退屈そうに伊奘冉は言った。
余程の疲労が溜まっていたのか、普段なら短い睡眠の間さえ完全に油断しないメタトロンも、今はただ静かにベッドの上で目を瞑っている。
苛烈な戦闘によってボロ布のようになった黒装束もそのままに、彼女は深い眠りに落ちていた。
「でも一体誰にやられたの」
僅かな怒気を言葉に孕んでリリスは伊奘冉に問い掛ける。
同じ黒円卓議会に名を連ねる同胞である以上、当たり前の怒りであった。
黒円卓は言わばカルシファーを親とした家族。
例え普段喧嘩している者同士であったとしても、身内がやられてはいそうですかと済ませる程腐ってはいない。
「ジルは確か人間、と言っておったな。……なんせ此奴が人の屍肉を喰らっとったらしいぞ」
伊奘冉は目を細めて言った。
「……は?人間?冗談じゃないわ」
と、リリスは軽く鼻で笑い飛ばした。
全く持ってその話を信じていなかったからだ。現に信じろという方が可笑しな話だろう。
自分達が、特にメタトロンが人間にここまでやられる道理がまるで無いからだ。
「真偽は本人に聞かねば分からぬ。……が、人間であれ亜人であれ魔獣であれ何であれ、『メタトロンがここまで梃子摺った』という事実が一番の問題ではないかの」
彼女は戦闘能力において上位者だ。
罠に嵌められた、相性が悪かった、不意打ちを食らった、多対一だった、例えどんな不利な状況だったとしてもだ。
彼女が緊張感なく眠りこける程、追い込まれたという事実は変わらない。
「……そうね」
リリスは唇を噛み締めた。
何故か無性に腹が立っていた。
「何にせよ今日は怪我人が多いのう。流石に少々疲れたわ。この後予定も入っとるしの」
そう言って伊奘冉は、にやにやと下品に笑いながら隣の寝台にひょいと乗っかかった。
それに合わせて彼女の艶のある赤茶色の髪がふわりと揺れた。
今晩、我が君と一緒に寝れると考えただけで、彼女の中の疲労は既に吹き飛んでいた。
城内の小さな診察室には数える程しか寝台が置かれていない。
無論兵士用では無く、城内の主要人物用に形のみ造られた部屋だからだ。
しかし無用の産物と思われていた部屋だが、此方に来てから割と役立っていた。
「怪我人、ね……そう言えば魔人の女を捕獲したんだっけ?何処にいるのよ。見に行くわ」
ふと、リリスは問う。
城内、言わば我が家に招かざる客が来たとあっては彼女も気にはする。
魔人にも興味がある。当然、警戒もする。
しかし、魔人アリシアは此処には居なかった。
強制的にイフリート達に連れて来られたとはいえ、彼女はアポイントなしの訪問者にしては破格の個人部屋という待遇を与えられているからだ。
専属の淫魔のメイドもつけられている。
「北の一室におる。面会謝絶じゃと」
「何よそれ」
状況を全く知らないリリスは思わず眉を顰めた。
自分を差し置いて誰が何の権限でそのような勝手を宣っているのか。
甚だ不愉快であった。
「なに?オルトロスからまだ聞いておらんか。我が君の勅令じゃ」
まさか聞き及んでいないと思っていなかった伊奘冉もまた眉を顰めた。
「まだ聞いてないわ。でもご主人様の命令、ね。なら仕方ないわ」
リリスはそう言いながらその雪原のように白く細い指に嵌めた金の指輪をそっと撫でた。
愛おしい物を愛でるように。
かなり前にカルシファーがリリスに装備させていた能力付きの指輪だった。
今は左手薬指に嵌められていた。
カルシファーが見れば嵌める指が違うだろうと突っ込むかもしれない。
そして先程より心なしか穏やかな顔付きになったリリスを見た伊奘冉は、むっと頬を膨らませた。
そして咳払いをして、
「とにかく!聞いてないなら教える。先ず、当面此方からの接触は一切禁止。偶々会った時はその限りではない。次に、魔人——”アリシア”、という名らしいが来賓のように丁重に扱えとの事。無論、圧力を掛けるのも禁止。以上」
若干不機嫌気味の顔で、伊奘冉は指を立てながら得意気に言った。
要するに会わなければ良いのだ。
「同じ”悪魔”同士仲良くせい。露出癖も一緒じゃろうに」
「煩いわよ」
軽口を叩く伊奘冉を半眼で睨む。
「まあともかく妾はそろそろ帰るとしようか……のっ」
そう言って伊奘冉はベッドから飛び降りた。
「いいの?もう少ししたらご主人様が来られるかも知れないわよ」
その問い掛けに伊奘冉はゆっくりと頭を振った。
「構わん。我が君には今晩可愛がって貰うからのう」
「チッ……そう」
リリスは話を振らなければ良かったと後悔した。
(ご主人様も何故私じゃなくてこんな寸胴体型の子供を閨に呼ぶのかしら。碌に楽しめないじゃない)
「む。お主今何か失礼な事を考えんかったか?」
「別に……何も」
カルシファーがもしこの場に居たなら直ぐに誤解を解いていただろう。
働き詰めの伊奘冉を、意地でも休ませる方法を考えていたら成り行きでこうなってしまったと。
結果、夜に一悶着あったのは分かりきっていたことであった。
▼▼▼
——王都”シーサイド”——
「アドルフよ」
煤けた石壁、薄暗い照明、簡素な調度品、それに……老いた王。
だだっ広い王の間には今は二人しかいない。
玉座という言葉が指し示す空間とは果たしてこのように質素なものだったろうか。
このように飾り気がなくひどく貧しい印象を与えるものだったろうか。
此処に足を運ぶ度何度も考えた自問を胸に、イベリア王国が宰相アドルフは玉座に座る王の言葉に耳を傾けた。
「なあアドルフよ。件の……王国軍三千に子飼いの暗部数名、それに八星将のキース。流石に過剰戦力だったのではないか」
平坦な、しかし何処か憂いを帯びた声色で王は静かに口を開いた。
部屋の隅の蝋燭が、微かに揺れた。
「御言葉ですが王。事態は常に不測に備えて先手先手を打つべきであります。万が一、という可能性を潰すことが何より重要……それに兵の良き演習となりましょう。最近は戦争もあまりなく腐っていましたし、何より三千が動く事で地方にも金が落ちる。良い事尽くめではありませんか」
口ではそう言うがウッドベリーへ送り出した調査隊と軍隊、物資、暗部の精鋭達それに七星将。
経済効果を考えても、それでもやはり高くついた。
「万が一……か。アドルフよ。お前からそんな言葉が聞けるなんて私も歳を取ったかの」
「御冗談を……」
立派な白髭を摘みながら王は遠い目をした。
それを見てまた昔話が始まるのかと、アドルフは少し身構えた。
この古い王様は昔話が好きなのだ。
「保身など二の次にして猪突猛進だった頃のお前が酷く懐かしく感じる。キースに譲ってから何年経つ」
譲る。
それが示す事は即ち誉れある座の譲渡。
片眼鏡の弦に微かに触れたアドルフは少し考えて応えた。
「もう二十年……と少し経ちますか」
彼もまた、昔の事を思い出していた。
「『追跡者』、と恐れられたお前が丸くなってから二十年か。時が経つのは早いものよな」
「……その渾名はあまり好きなものではありませんので」
「ああ、そうだったな。すまん」
いえ、とアドルフは頭を振った。
一瞬だが、昔の苦い記憶がつい昨日の出来事のように脳裏に過った。
「とはいえ、今では全盛期の私より今のキースの方が強いでしょう。奴の才覚は人類でも屈指」
その言葉に王は、ほうと息を漏らす。
「強いのは知っておったが……元、『八星将』のお前にそこまで言わせるか」
「弟子に対する贔屓目や、私自身の遜りではなく瞭然たる事実ですから。もし、彼奴に勝てる奴がいるなら見てみたいです」
「ふむ」
イベリア王国が宰相、アドルフ=ブロードウォーカー。
彼が慣れない敬語を覚えたのは八星将の座を渡し、生まれ育った国に仕えてからだ。
八星将は人類最高峰の独立戦力であり、あらゆる国や地域から政治的干渉を一切受けない。
だが、逆に八星将自身も如何なる国や地域、団体などに属してはならないのである。
人類普遍の味方であり中立の存在。
故に彼らは敬語を使わない。
例えそれが一国の王であっても対等に接するのだ。
「随分と上手くなったな」
言葉使いが、と王は友人を揶揄うように言った。
「……お戯れを。流石に公私ぐらい分別はつきますよ」
アドルフは酷く微妙な顔をした。
国に仕えた当初はそれはもう目も当てられない状態だったのは本人が一番理解していた。
アドルフは元々頭は良かったが、長年慣れ親しんだ立ち振る舞いはそう簡単に変えられるものでは無かった。
物凄く苦労したあの苦い記憶はそれこそ今思い返しても顔を顰めるには充分だった。
「では、そろそろ私は……」
「——失礼致します!!」
アドルフが執政室に戻ろうと脚を浮かせた途端、二人の空間に割って入ったのは軍の部隊長だった。
「貴様、許可なしに!此処を何処だと思っている?王の御前で有るぞ!」
アドルフは声を荒げた。
部隊長をよく見れば額に大量の汗をかいている。呼吸も荒い。全力で此処まで走って来たのだろう。
恐らく、玉座に許可なしで入る程重要な事だ。それは判っている。
だが建前上警告しなければならないのも仕方ない。
アドルフは部隊長をキツく睨んだ。
「火急の件にて申し訳ありません!処罰は受けます!う、ウッドベリーが、完全に陥落しました!!!!」
その一声に、空気が凍った。
「な、に」
「なんだと?」
王はとっくに飲み干した杯を取り落とした。
渇いた音が玉座に響いた。
更に部隊長は、自分でも俄かには信じられないような顔をして、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「先程、奇跡的にウッドベリーから撤退した兵士が一報を持ち帰りました。たった一人だけです。端的に申し上げますとウッドベリーは未明、謎の部隊の襲撃を受けなす術なく陥落。そして住民や兵、老若男女全て問わず逃げる者は殺され、街は正に地獄絵図だったようです」
「馬鹿な!」
アドルフは言葉を荒げた。
街に集っていた冒険者達と王国軍、それに民も併せて戦える人間は五千を越えていた筈だ。
それが逃げ出せたのがたった一人。
そんな訳ある筈がない。
「ですが!私には帰って来た部下が嘘をついているとは思えません!!」
「あり得ん!確認をとる!そいつを此処へ寄越せ。今直ぐだ!」
「それは……出来ません」
予想外にも部隊長ははっきりと断った。
そしてアドルフが再び口を開く前にこう言った。
「我々に状況を説明した後直ぐに息絶えました。馬に乗っていましたが片脚はなく、全身傷だらけでした。真面目な奴でした」
「ッ……そうか」
アドルフもまた、部隊長と同様に嶮しい顔をした。
「まて……だが、キースの奴がいた筈だ。それに暗部も。そいつ等はどうした」
「なっ!八星将が居たのですか!?しかし報告は受けていません。ただ、正体不明の部隊は約三百から五百騎。そして主力は恐らく竜人族。そして……古代魔法を使う亜人が居た、と」
「高々三百相手に全滅だと……?」
齎される内容は何れも衝撃的であった。
数世紀前に絶滅したと思われていた竜人族の部隊。
更には古代魔法を操ると思われる亜人。
それにキースという男は攻め滅ぼされる街をただ指を咥えて見ているような人間では断じてない。
つまり殆ど100%の確率で戦闘行動が発生している。
だが、キースが戦っていたなら情報を持ち帰った兵士がそれについて何らかの事を話している筈だ。
それすらないという事は、
「アドルフよ。皆を集めい。緊急事態じゃ」
王もまた、この状況に危機感を感じずにはいられなかった。
先日のウッドベリー襲撃より周辺地域の捜索及び街の強化をしていたが、街を襲った狼や白の魔王、或いは猫の獣人に関する情報は一切得られなかった。
それどころか二度目の襲撃。
しかも、まだ確定はしていないが今度は半壊どころの騒ぎではない。
「直ちに」
これが事実ならば最早戦争である。
未だ認知されぬ未知の敵との国を掛けた動乱を予期せずにはいられなかった。
「その必要はない」
「!?」
突如、何の前触れもなく現れた人物は氷のように冷たい印象とは裏腹に、優しい香水の香りがした。
「貴様らは皆、死ぬ」
誇り高き吸血鬼は、音も無く玉座に舞い降りた。