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Asgard  作者: 橘花
20/32

18.魔人

 18.Responsrium



「十九騎戦死、重症十二騎、負傷四十一騎……以上です。今は引き続き人間共の処分をさせています」


「そうか。死者については丁寧に弔ってやれ。怪我人は充分に療養させろ」


「御意」



 イフリートが肯くのを確認したカルシファーは玉座を立ち、ゆっくり窓際へ歩いていく。

 たった二人しかいない王座の間に足音はよく響いた。

 窓からは日没前特有の、赤みがかったオレンジ色の斜陽が射し込んでいた。



「それで人間達は?」



 不意に、足を止めてたった今思い出したかの様に聞く。

 丁度、未だ跪くイフリートの後ろを通り過ぎた時だった。



「数名を意図的に逃がし、他は総て殺しました」



 一万にも及ぶ人間を僅か五十分の一程度の戦力で、しかも僅か一日足らずで、甚大な犠牲も無しに轢き殺したという事実をイフリートは其処に何の感情も込めずに告げた。

 本音を言えば街一つ墜とすぐらいならば戦力的には彼ら四人だけでも十分だった筈だ。

 然しながらカルシファーは城から約半数の兵士達を導入した。

 これは人間達に対してのパフォーマンスでも有ったが、最もな理由は兵はただ居ても使わなければ腐る、ということだった。

 常に練度を保つ為には実戦は必要不可欠なのだ。

 たとえ多少の犠牲が有ったとしても。



「そうか。皆殺しか」



 一瞬、空白の後にカルシファーは相槌を打った。

 その表情は窺えない。



「それで……何故メタトロンだけ帰ってきていないんだ?」



 ただ、一つだけ分かることがあるならカルシファーにとっては、人間達の事よりメタトロンの方が大事だという事だった。



「分かり兼ねます。今、アスタロトに探させている途中です」



 カルシファーの少々責めるような問い掛けに、イフリートは不満を一切出さずに淡々と答える。


 しかしメタトロンに限って、何の連絡も無しに行方不明になるなどあり得ない事だった。

 しかも今回は比較的簡単(・・)な任務だ。

 それはつまり彼女に何らかの問題(イレギュラー)発生した以外に考えられない。

 無類の強さを誇る彼女に、それと比べれば何倍も軟弱な自分が心配をするなど、機からみれば滑稽極まりない事だが——



「早く見つけろ」



 この場に居るイフリートを急かしても問題が解決する訳ではないが、そう言わずにはいられなかった。



「御意に」



 カルシファーはそわそわしていた。


 意味もないのに絶えず室内をくるくる歩き続ける程度には。

 それは自分の子供が、普段は(しっか)り守っている門限を初めて破った時のような、そんな心配に似ていた。


 いや、若しかしたら彼女は反抗期に入ったのかも知れない。

 それなら仕方ないか。



「ふっ……」



 そこまで考えた所でカルシファーは自分でも馬鹿馬鹿しくなって小さく笑った。



(心配し過ぎか。嫌われるかもな)


 深呼吸をし再びカルシファーが王座に座り直した時、イフリートが顔を上げた。



「ご主人様。お土産が一つあります」


「……おお」



 イフリートの口からそんな小洒落た言葉が出るとは思わなかったカルシファーは素直に驚いた。

 その反応を見たイフリートは心なしか得意気な表情で失礼しますと立ち上がり、部屋の隅へと歩いていく。

 そして、隅に置いてあったズタ袋を持ち上げた。


 いや、それならいらないぞ。


 カルシファーは心からそう思った。


 イフリート達が制圧したウッドベリーから帰還した際、モロクが担いでいたズタ袋。

 それからは血の様な赤黒い何かがじんわり滲んでいて、しかも何だか生臭さかった。

 十中八九それは敵将か指揮官か何かの生首だろう。

 或いは珍しい動物の死骸かも知れない。

 何方にせよ今の自分——いや、自分には生涯必要のないものだろう。



「残念だがそれは……」


「見てください。これを」



 遠慮しておく。


 そう、言い切る前にイフリートが少し強めの声量で被せてくる。

 彼は袋の中身を余程自慢したかったのだろう。

 まるで飼い猫が外で獲ってきた獲物を口に咥えて見せびらかす様に、彼はズタ袋を目の前に置く。

 そして簡素に結ばれた口を開いた。

 間を置かずして、中からゴロンと何か大きなモノが転がってきた。



「え?」



 カルシファーはそれを見た瞬間思考が停止した。

 更に一周廻って極めて冷静にそれを観察出来た。


 女の子だった。

 肌の露出率が非常に高い、肉付きの良い女の子だ。

 背中には特徴的な髪の色と同じ銀の羽根が生えている。

 その成り姿から恐らく悪魔か何かだろうと推測できる。

 しかし問題はそこではない。

 彼女は全身血塗れで特に口周りは酷く血泡を吹きこぼしている。

 更に腕は本来稼働しない方向に曲がっていた。

 辛うじて、荒く病的な程の短い呼吸音が断続的にカルシファーの耳に聴こえてきた。



「——ばっ……」


「見てください。こいつは魔人らしいです。何か有益な情報が……」


「馬鹿かお前は!!早く伊奘冉を呼べ!急いで手当てしろ!」



 突然のカルシファーの怒号にイフリートは目を大きく開けて驚いた。

 少しだけ得意気な表情は一気に霧散し、ただ何故怒られているのか分からない、といった驚嘆に彩られていた。



「早くしろ!!」



 カルシファーは再度激を飛ばした。

 久し振りに大声を出したものだから胸が少し鈍い痛みを覚えた。



「御意」



 困惑しながらもイフリートは言われるがままに扉を突き破り、矢の如く駆けていく。

 どんな状況で有ろうと、黒円卓議会にとって主人の命令は絶対なのだ。


 カルシファーはその間にも床に横たわる娘に近づく。



「非道い」



 頬に手を当てると体温が低下してきているのが判る。

 弱弱しく、空気の漏れる様な呼吸をしていた。

 床に無造作に散らばった髪を掬い後頭部に手をやる。

 回復魔法を使えないが故の歯痒さを感じる。



「ん?……お!やらかしおったな!遂に!!」



 突如として、開き放しになっていた扉の方から若干興奮した声が聞こえた。

 つい最近行動範囲が広がったエキドナは、煤けた扉の柄に手をかけながら、覗き込むように部屋に上半身を突っ込んでいた。

 そして顎に手を充て少し思案して、



「まさかお主に加虐性愛のがあったとは。人は見かけによらないとは正にこの事か」



 それはそれでイイかも知れんが、そう言いながらへらへらとにじり寄ってくる。

 まるで酔っ払った中年の親父の様に下品だった。



「馬鹿言うな」



 堪らずカルシファーは反論した。

 巫山戯ている場合ではない、と鋭い視線を飛ばす。



「冗談だ。冗談」



 と、エキドナもカルシファーの横に腰を落とした。



「なんだ……淫魔サキュバスか?」


「いや、どうやら悪魔の魔人らしい」


「ほう。珍しい」



 そしてエキドナは徐に横たわる娘の額に手をかざした。

 カルシファーはその行為は伊奘冉が自分に治療をしてくれる時に似ていると思った。



「お前、まさか回復魔法が使えるのか?」



 カルシファーは素直に驚いた。



「いや、あの小娘程は使えない。気持ち程度だ。これは貸しだぞ」



 次第にエキドナの掌がぽうっと明るく耀く。

 その柔らかく暖かい光は大きくなっていき、遂には娘の身体に入り込むように浸透していった。

 少しだけ、娘の呼吸が落ち着いた気がした。



「ふー疲れた」



 棒読みでそう言ってエキドナは額を手で拭った。


 専門でない分野の魔法や技術を行使すると身体に罹る負担は一気に跳ね上がる。

 今の回復魔法も、高々数秒の事ではあるがエキドナにとって少なくとも汗を掻く程度の労力は消費されていた。



「助かる」


「人の心配をするより、自分の心配をするべきだな」




 そう言いながらエキドナはゆっくりと腰を上げた。

 遅れてカルシファーは、ああ、と生返事を返した。



「そいつが起きたら声を掛けてくれ」


「判った」


「最近のエルフについて何か知ってるかも知れないしな」



 カルシファーの返事を聞いたエキドナは、丈の長い着物を僅かに擦って部屋の外へと消えていった。


 伊奘冉がイフリートに担がれて駆け込んできたのはそれから直ぐだった。



 ▼▼▼



 ”ヘルヘイム”


 人間達からそう呼ばれる不毛の大地では、草木が育たず動物も居着かず、挙げ句の果てには太陽にすら嫌われていた。

 一日中日光は射さず常に薄暗い。


 三世紀前の魔王失脚後、力を失い残された魔人達は自然と北へ北へと追いやられたのだ。



 寒かった。



 大陸の最果てに位置するこの場所は、年中凍てつくように寒かった。


 体感温度だけならまだ良かったが、心までも寒かったのだ。

 魔人に成り立ての悪魔の少女は、それが何より嫌だった。

 魔人は、人間だけでなく獣人や亜人にも忌み嫌われる。

 同じ魔人は基本的に他者に感心を持たず、話し相手すらいない。


 ずっと一人だった。

 成りたくて成った訳じゃない。


 ただ、友達が欲しかった。



 ………

 ……

 …



「ん……うん」


「目が覚めたか」


「!?——あぐッ!!」


「まだ動かない方がいい」



 娘は目を開いたその瞬間跳び起きようと試みるが、痛みでその場に倒れこんだ。

 それでも尚、最大限に距離をとろうとする。

 カルシファーは直ぐ横で刀の鍔に手を掛け待機するオルトロスを目で静止しつつ、机のティーカップを取った。



「君も飲むといい。痛みを和らげる効果がある」



 ベッドの上でできる限り身を引き警戒する娘にカップを勧める。


 娘はまずカルシファーを見た。

 身体中包帯巻きの彼女の表情は読み取れないが、何だか観察されている気持ちになったカルシファーは少しむず痒くなった。

 続いて彼女はオルトロスの方へ視線をスライドさせていく。



「ひぃっ……」



 瞬間、小さな悲鳴が上がり彼女は一層距離をとろうとベッドの上で後ずさる。

 何事かとカルシファーはオルトロスを見た。



「おい。オルトロス。少し部屋の外に居ろ」



 そこには般若がいた。


 これでもかというぐらい彼女を睨み付け、今直ぐにでも殺さんとばかりに目を血走らせている。

 彼にとって、何より殺意が沸いたのは、カルシファーの勧めたカップを直ぐに受け取らなかったことであった。



「主人。其れだけは成りませぬ」


「……じゃあ後ろを向くか睨むのを止めろ」



 オルトロスは不満気ながらもいそいそと後ろを向いた。

 カルシファーはそれを小さな溜息と共に見送ると再び娘に向き直る。



「失礼した。——先ず、部下が迷惑を掛けた事をお詫びする。謝って許される事ではないかも知れないが、すまない」



 心のこもった純粋な謝罪に驚くと同時に、娘は目の前の如何にも弱そうな男が、あの人外達より格上であると漸く理解した。

 但し、それは強さ的な意味合いを持つ格上、ではない。

 純然たる生物の闘争に於ける実力ならば、今後ろを向く男は疎か自分よりも確実に弱いだろう。

 不均衡な主従関係。

 まさか弱みを握られている?

 否、それは断じてあり得ない。

 あまりにも、不自然な程実力が離れ過ぎているのだ。

 それでこそ弱みを握り潰せる程に。



「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はカルシファー=アインザッツ、この城の城主だ」



 思考の海に沈んでいた娘の傍らカルシファーはあくまで友好的に話す。



「……”アリシア”よ」


「アリシアか」



 魔人アリシアには応える他に選択肢がなかった。

 謂わば正体不明の化け物達の巣窟に囚われの身。

 幸い城主と思わしき男は友好的で物腰が柔らかく、魔人である自分に対して治療まで施している。

 ここで変に突っぱねて下手に奴らの反感を買うよりは、大人しく従っていた方が賢いのは事実であった。



「私も一人殺してしまったわ」


「聞いている。しかしそれは正当防衛の範疇だろう。非は此方にある」



 どうやらこの隻腕で顔の半面をレザーマスクで覆っている城主とやらは、客観的に物事を見る事が出来るらしい。


 この男こそどうにでもなるだろう。

 しかし、後ろを向く男はそうはいかない。

 自分より遥か高みにいる。

 更に昼間に殺され掛けた、炎の怪物など、この男よりも古株の魔人よりも確実に強い。


 果たしてアレ(・・)より強い生物がこの世に存在するのか?



「……ッ」


「どうした?体調が優れないか?」



 昼間の悪夢が脳内に鮮明に映し出されたアリシアは思わず身震いをした。

 咽の奥から栗泡立つような吐き気にも似た悪寒が全身を襲う。



「まだ……調子が、悪い、わ」



 何とか搾り出した声は震え、歯はカチカチと音を刻んでいた。



「申し訳ない。今日はゆっくり休んでくれ。外に淫魔を待機させておくから何か困った事があれば伝えてもらって構わない。出来る限りの事はする」


「…………」



 アリシアは無言で頷いた。

 それを確認したカルシファーは今一度、すまない、と頭を下げ足早に部屋を後にした。

 追随してオルトロスも出て行く。



「オルトロス。彼女にイフリートを近づけさせるな。伝えておけ。それと彼女を客人の様に丁寧に扱え。これは命令だ。周知させろ」



 今回の件は想定外の出来事ではあったものの、自分の管理の甘さに起因していた。

 まさか魔人と一悶着起こすなど夢にも思ってもいなかったのである。

 イフリートら黒円卓議会は全員創造主である自分を盲信するあまり、周りが見えていない。

 端的に言えば至上主義過ぎるのだ。

 そして本人は良かれと思ったそれが結果的に創造主であるカルシファーの為、アインザッツの為となってなっていなかった。


 今回の件は自分の責任だとカルシファーは反省する。



(管理が甘過ぎたか)


「見張りは宜しいので?」



 オルトロスは問う。



「必要ない。今回は全て此方に非がある。魔人らとの諍いは今は求めていない。出来る事なら穏便に友好的関係を築きたい」



 もう無理かも知れないがな。

 カルシファー自嘲気味に笑った。



 ▼▼▼



 魔人アリシアが目覚める少し前——




「——んむ?この匂い(・・)は」



 鬱蒼と繁る森の中、颯爽と木々を飛び移る影がピタリと動きを止めた。

 二三度鼻を鳴らし、眉間に皺を寄せる。

 そして風に乗ってくる匂いを頼りに方向を転換し、そして再び移動し始めた。



「面倒だな。……全く」



 匂いに非常に敏感な猫は、まだ新しい血の匂いを感じ取っていた。

 無論、それだけでは彼女の興味を引くには弱い。

 だが、流石に仲間の匂いとなれば無精者の彼女も気に留めた。



「せっかく仕事が終わったってのに」



 一仕事してきたように彼女は言うが、ただ言伝を残して来ただけであった。

 近いうちに一度城に来い、同じ獣人達に声を掛けろ、そしてウッドベリーを新たな拠点としそこに国を造る、この三点のみ。

 特に最後については頭が可笑しいと一蹴されても何ら可笑しくない内容であった。

 数千の人間が住む、この国でも有数の街を、高々五百の新興勢力が軽々しく制圧するなど笑止千万。

 痴れ者の戯言にも劣る滑稽な内容である。


 しかし獣人達はそれを笑わない。

 一切の無駄な質問もしない。

 それは身を呈して子供等を救ってくれた恩があるからという配慮ではない。


 何故なら彼ら獣人達は、判っている(・・・・・)からだ。


 彼らが、この国でも有数の街を墜としモノにする事など赤児の手を捻る程度に容易に出来るだろう事実を。



「ん!?」



 巨木の隙間から見えたのは赤い何かの塊に顔をうずめるメタトロン。

 と、それと若干離れた位置で唖然と立ち尽くす男。



「まさか……き、貴様、それはなんだ」



 目をひん剥きながら男は震えた声で言う。

 それ(・・)に向かって指を差し、わなわなと震え顔を強張らせる。



「何をしている」



 しかしメタトロンは反応せず。

 一心不乱にそれで、何かをしている。



それ(・・)は何だと!言っている!!!」



 怒声と共に立ち込める怒気と朦朦たる殺気。

 同時に男はその両の手を振袖の中に入れた。

 袖の中で二振の匕首あいくちが妖しく光った。


 男は暗器使いであった。



「!?」



 だが、匕首を投擲するかと思われた男は瞬時に反転する。



「クッ……ぐぅ」


「おお、やるな」



 男は両の手の匕首で猛襲したジルを受け止める。

 常軌を逸する衝撃に男の両手首がゴキリと音を立てて折れた。

 手首の皮膚から勢い良く血と共に骨が飛び出す。



「ぬ、ぐっ……」



 血管の浮き彫りになった真っ赤な顔を苦痛に歪ませる。

 常人であれば失神しているであろう激痛の波が男を襲う。

 だがそれでも尚、両手に入れる力は弛めない。

 一度でも力を弛めれば一気に持っていかれる、そう確信していたからだ。



「あら?」



 不意にジルの力が弱まった。

 何故か、と本人ですら首を傾げた。



「やっ……と効いたか」



 男はそれを見て、歯を食いしばりながらも不敵な笑みを浮かべた。



「人間なら……一吸いで致死量だ。この化物が。英雄キースの仇、ここで討つ」



 男は匕首で受けると同時に、袖口から多量の毒粉を周囲に散布していたのだ。

 細かい粉末は空気に霧散し呼吸と共に体内へ送り込まれる。

 人間なら一吸で致死量の強力な神経毒。

 ジルはそれを知らずの間に何度も吸引していたのだ。


 当然、男は息を止めていた。

 国の汚れ仕事を請け負う男にとって、毒の扱いなど慣れたものだった。



「へーそうかじゃあお前も吸ってみるか」


「は?」



 だが、それは人間でない彼女には効果が薄過ぎた。


 その瞬間ジルは男の喉笛に食らいつき——間髪入れずに一息で噛み切った。

 両手の塞がっている男に避ける方法などない。

 ブチン、と嫌な音がした。



「カッ——」



 男は短い断末魔と共にクルンと白目を剥く。

 舌は極限まで飛び出し、前喉部の無くなった男は頷くようにこうべを垂れながら崩れ落ちていく。

 不本意ながらも喉にぽっかりと空いた大きな空洞からは、まるで排水口の様に空気と水分を同時に吸い込む時の大きな音が数度鳴った。



「ほもっふぁよひひゃわらはぁいふぁ(おもったよりやわらかいな)」



 男の肉と骨を口一杯に咥えながらジルは言った。



 ——美洲豹(ジャガー)という食肉類の咬噛力こうごうりょくは、体格に比して地上最強であるとされている。

 古代、新生代より繁栄した肉食獣スミドロンの正統な末裔であり、その発達した咬筋と矢状稜により、重厚な牙はいとも簡単に肉を裂き骨を断つ。

 薄い鉄ですら噛み切るのだから当然であった。


 事実、先程ジルは何の力も入れていなかった。

 単に口を開いて閉じた、ただそれだけだ。


 ジルは頬張った肉を今一度咀嚼し、ぺっと口から骨の混じったミンチを吐き出した。

 そして苦虫を噛み潰したかのような渋い表情かおで、



「不味っ!お前よくそんなの喰えるな」



 と、未だ跪き屍肉を貪るメタトロンに変なものを見るような目を向ける。

 ジルも元は肉食獣であるが、人間の肉は些か口に合わないらしい。



「……連れて帰れ」



 漸く貪るのを止めたメタトロンは、口許を手で拭っていたジルの横で小さく呟いた。



「なんだって?——て、おい!」



 そしてそのままその場で彼女はゆっくりと横たわった。



「生きてるかー?」



 ジルはしゃがみ込みメタトロンの頬を何度も突つく。

 その度に若干の弾力のある頬が凹んでは戻る。

 出血は多量だが脈拍は安定、体温も下がっていない。

 それを確認したジルは大きく息を吐いた。



「なんだ寝てるだけか」



 しかし、ジルは思う。



「コイツは何者だ(・・・)



 ——この女は三位(・・)だぞ。



 黒円卓議会には席次という序列が存在する。

 一般的に序列とはその者の地位であるが、こと黒円卓議会に於いては序列に上下関係など存在しない。

 だが、一応は、純粋な強さ(・・)の指標となり得るものだ。


 その、第三位。


 《怪鳥グリプス》メタトロンが自らの任務を放棄し、その場での睡眠を優先しなければいけない程、疲弊している。

 人間の屍肉を喰らう程、飢えている。

 矜恃(プライド)の高い彼女が自分の後始末を他者に頼んでいる。

 見たところ傷も決して浅くはない。


 更に、相手は亜人でも何でもないただの人間の男。



 一体何だこの様は。


 ジルの中に一抹の不安が過った。

 罠にでもかけられたのか、若しくはこの男が特別強かったのか。


 いや、どちらも関係ない(・・・・)

 例え罠に掛けられようが人間にここまで追い込まれたという事実、それが問題なのだ。



「……とりあえず連れて帰るか」



 様々な考えが胸中ひしめく。

 どちらにせよ本人に聞かねば顛末は判らない。



「本当に面倒な事になったな」



 そう呟くジルに応えたのは、野鳥の鳴き声だけだった。

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