17.煉獄の業火
17.Communio
拍動によって身体全体へと血液を循環させる喞筒の役割を持つ心臓。
そこから全身に張り巡らされた動脈、静脈を通り血液は体内を駆け巡る。
通常、動脈や静脈は比較的皮膚から深い、身体の内部を通る。
それは生命に関わる問題の為、傷つけまいと動物の進化の過程でそう落ち着いたのである。
その動脈が、彼女の上腕動脈は、本来決して姿を曝す事のない陽の下で、深紅の血を止め処無く吐き出し続けていた。
「…………」
メタトロンはそれを、どこか客観的に見ていた。
目の前で地を舐め沈黙する男、キースに食い千切られた上腕は、硬く強靭な筋繊維すら引き裂かれ上腕骨が見え隠れしている。
試しに腕に力を入れてみるが、力が入るどころか動きすらしない。
メタトロンの右腕は、糸の切れた操り人形の様にただ、だらしなくぶら下がっているだけだった。
「…………」
一通り状態を確認した後、もう片方の袖を千切り脇の下辺りで強く結ぶ。
どこを、何をどうすれば血が止まるのか。
彼女は知識的ではなく、本能的に判っていた。
粗方の処置が終わったメタトロンは今一度目の前の人間だったモノを見た。
種族人間と呼ばれる脆弱な生物に分類されるこの男は、確かに強かった。
種族の壁を超えた強さ。
それこそ自分に闘える程に。
「喰うか」
ふと、口から出た言葉に自分自身も驚いた。
彼女は滅多に食べないのだ。
如何に、彼女が猛禽類の持つ特性である腐肉食性を引き継いでいると言っても、食べる時は限られていた。
極度に空腹、或いは極度に興奮状態にある時。
その何れかである。
極度の空腹、則ち生死に関わる程の大怪我を負っている状況——今まさにメタトロンは血を失い過ぎていた。
ここまで血肉を失って尚、意識が保てているのは彼女の恐るべき精神力と肉体のお蔭であった。
しかし一刻も早く養分を補給しなければならないのも事実である。
現に、移動するのも億劫な程衰弱していた。
「ふぅ……」
疼く脇腹を気に掛けながら短く息を吐き、亡骸の臀部辺りに跨るように膝を地面に着く。
そして鉄扇で背中から、脊椎を躱す形で大胆に切り開いた。
想像以上に堅い皮膚と締まった筋肉の層に苦戦しながらも、メタトロンは何とか食饌を開始した。
「……んぐ……ぅ」
口一杯に肉を頬張り噛み千切っては咀嚼する。
メタトロンが人間の屍肉を喰らうという決断に至ったのは単に養分補給の為もあったが、キースという個に対しての純粋な賞賛も少なからずあったからだ。
人間の枠組みに埋没する者としては非常に良くやったという偽りなき賞賛。
(惜しかったな……もし、コイツが人間では無かったら)
奇妙な静けさを保った魔獣の森には彼女の肉を噛む咀嚼音と、時々血の跳ねる水音だけが響いていた。
▼▼▼
「クソッ!何なんだ!?一体この亜人共は!!」
背中、腹、肩、そして顔。
身体中至る所に槍や刀の刺さった一人の竜人族は、漸く物言わぬ死体と成り果てた。
「蜥蜴の獣人か!?何処の山から降りて来やがった!!」
白兵戦に於いて重要な事は、敵兵には二対一の有利な状況で当たる事である。
だが、リザードマンは一人で約10人を相手取り立ち回っていた。
しかし、これは人間側との圧倒的な人数差があるアインザッツ側の問題ではなく、豊富な兵力と地の利を有する人間側の問題であった。
何故ならリザードマン一人に対して、10人以上で当たらなければまともに戦えなかったのだ。
「ぐあっ……」
また一人、リザードマンの豪槍に貫かれる。
(クソッ!不味いな。此の儘では街に雪崩れ込まれる……)
汗を拭いながら少隊長は素早く判断を下した。
「城門を落とせ!何としてでも門を守れ!野蛮な亜人共から街を守り切るんだ!」
叫びと共に城門の鉄扉を留める縄が勢いよく切り落とされた。
巨大な鉄扉は断頭のように重力に従い、加速度的に速さを増して落ちていく。
僅か数秒で地面に到達した時、凄まじい音と共に数多の肉片が周囲に爆ぜた。
リザードマンは勿論、城門付近で交戦していた人間の兵士をも巻き込み門は降ろされたのだ。
味方すら無差別に巻き込むなどと苦渋の決断をするほど、事態は緊急を要していた。
「無駄な事を」
大木の様に構えていたモロクが呟いた。
その横で、イフリートが初めて動き出す。
その瞬間、空気が一変した。
「何だ?こいつら下がっていくぞ!」
イフリートが纏う炎が一層強く青白くなっていく様子を見て、リザードマンやサイクロプスは顔を青くして蜘蛛の子を散らす様に城門から逃げて行く。
もし人間に、野生の感という物が未だ残っていれば直ぐに気付いた筈だ。
此処に居るべきではない、と。
秩序という甘えた安寧の上に胡座を掻いていた人間には、些細な変化さえ気付かなくて当然だった。
「『天壌を焦がし大地を焼き祓え”原初の火”』」
その瞬間、イフリートから城門に向かって一直線にぐにゃりと景色が歪んだ。
「え?」
誰かが思わず声を上げた。
城門から少し離れた位置にいた兵士は左肩に激しい衝撃を覚えたと同時に、信じられないものを見た。
「消えた……?」
兵士は困惑に顔を歪めながらもう一度城門を見た——いや、城門の在った筈の場所を見た。
以前襲撃を受けてからより堅牢に補修された城門は一瞬の内に無くなっていた。
城門だけではない。
その直線上に在った建物、並びに上官、部下、同僚達も神隠しでも起きたかのように一瞬で消えていたのだ。
少々焦げ臭い匂いだけを残して。
「お、お、おい、お前……」
呆然としていると、横に居た同僚が話しかけてきた。
——なんだ、と訝し気に顔を見返す。
同僚の目は見開かれ、身体は小刻みに震えていた。
「大丈夫なのか!!?ソレ!!」
震える手で同僚は指を差した。
人に指を差す行為に少しむっとしながらも、兵士は妙に左脇が痒いと思っていた。
そしてそれは改めて自分の身体を確認した時やっと判った。
「か、身体が!」
城門だけで無く、兵士の左半身も跡形も無くなくなっていた。
断面は異常な程真っ黒に焦げ若干の煙が立っているものの、血は一切流れていない。
痛みはなく、ただ痒いだけだった。
「大丈夫なのか!?」
「あ、ああ。痛くな————」
その言葉が最後まで続くことは無く兵士はその場に倒れ、そして二度と喋らなくなった。
………
……
…
「何だ」
「イフリート。まさか御館様の言付けを忘れいる訳ではなかろう」
今にも次の詠唱を謳おうとしていたイフリートの肩にモロクの手が掛かった。
「極力建物を壊すなと言われておろう」
イフリートの魔法は単純に炎の魔法だ。
しかし普通ではないのはその温度と破壊力。
その獄炎の熱線は温度が高すぎるが故に、全てを一瞬で蒸発させてしまっていた。
城門は勿論ウッドベリーの街中深くまで一直線に人、家畜、建造物問わず全てを。
「…………」
モロクに注意されたイフリートは文字通り消え去った街の一角を改めて見る。
城門から綺麗空いた穴は、恐らく数多の建造物を蒸発させただろう。
そして、表情も変えずにその場でゆっくりと天を仰いだ。
(——忘れていた)
極論を言えばこの男は脳筋であった。
「まあ良いではないか。穴は開いた。……しかし、いつ見てもアレは炎ではないな。光線だ」
不意に、後ろから二人に声が掛かる。
「アスタロトか。何処へ行っていた」
「なに裏門の方へ細工を少々。私は優しいから罪深き人間を一刻も早く救ってあげるのだ」
アスタロトは心底穏やかに言った。
丁度その時、イフリートの大規模魔法によって静まり返っていた戦場が再びざわめき出した。
だがそれは戦いの最中に起こる類の喧騒ではない。
暫くすると遠目に見える人間達が皆一斉に武器を置き出した。
中には膝を着くもの、両手を上げるもの、旗を振るうものまでいる。
「ん?急に何だね」
アスタロトは眉間に皺を寄せた。
「まさか降伏?」
意味が分からなかった。
何故降伏するのか。
「十中八九。恐らくは」
まだ二倍近く数で上回っていた王国軍だが、圧倒的な力の差を見せつけられ戦意を喪失。
そして誰もが勝てないと武器を取り落としたのだ。
「しかし人間とは一体いつから諦めが良くなったのだ」
アスタロトが訝しむのも尤もであった。
まだ小競り合い程度の衝突にも関わらず降伏。
彼が知る人間とは弱いが何度も立ち向かってくる鬱陶しい存在だったのだ。
だがそれは三世紀も昔の話。
長年、脅威というものと無縁だった彼らに死兵と成っても戦うといった気概は最早無く、ただ勝てなさそうだから直ぐに諦めるという只の軟弱者に成り下がっていた。
確かに卑怯では有るが降伏という選択は賢いかも知れない。
彼らとて家族が、友人が、恋人がいる。
死んだら元も子もない。
「まあ何方でも良いのだが」
しかし、こと今回に於いて人間の選択など何方でも良かった。
降伏を選んでも、最後の一兵まで戦い抜くことを選らんでも行き着く先は等しく平等——
「皆殺しだ」
イフリートが短く吐き捨てた。
それを皮切りに、黒の軍勢は街に一斉に雪崩れ込んだ。
▼▼▼
(不味い不味い不味い不味い不味いわ……)
黒のコートに身を纏った女が必死に街を駆け抜ける。
向かうは城門の反対側。
焦燥に駆られた表情で走る。
だが、一人のリザードマンが正面に立ち塞がった。
彼女は短く舌打ちをした。
「チッ……邪魔よ」
「シッ!」
鉄槍が女目掛けて繰り出された。
走り込んできている女の速度と合わさって、槍は凄まじい速さで胸に吸い込まれてゆく。
が、寸前のところで彼女は穂先を素手で摑み、そのままの速さで走り抜けた。
「がっ!?」
結果、女ではなくリザードマンに槍が刺さる。
穂先ではなく槍の柄で。
いとも簡単に己の身体を貫通した槍を見て、驚愕の表情を張り付けた侭リザードマンは崩れ落ちていく。
それを足蹴に尚も女は走る。
この街の出口に向かって。
そして先程の光景を思い返していた。
(あれは、確かに『古代魔法』。まさかそんなモノ使える奴がいるなんて。興味本位で見に来なければ良かった)
(それにあの三人。特に古代魔法を撃った男……次元が違う)
そこで女は漸く裏門に到達した。
しかしそこは数百もの逃げ纏う人々でごった返し、辺りは悲鳴と怒声に包まれていた。
(……邪魔な人間達め)
内心悪態をつくが、よく見ると人々に流れは無く門前で溜まっている様子だった。
何か理由があり逃げたくても逃げれない——そんな感じだ。
(門は閉じていない筈。一体何故此処で足踏みしているの)
疑問に思った彼女は人混みを力付くで押し退け前方へと躍り出る。
「っ!これは……」
何故人間達が立ち往生していたのか理由は直ぐに判った。
門の外には幾つかの部位に別れた人の肉塊が、点々と転がっていたのだ。
夥しい血の海と肉片の中、身体が欠損しながらも息のある人間達が何人か呻き声を上げながら芋虫の様に蠢いていた。
とりわけ両脚を失いながらも手を繋ぎ、必死に這い蹲り街の外へ外へと逃げようとする兄妹と思わしき子供達が印象的であった。
(趣味の悪い……ッ————!?)
瞬間、悪寒を感じた女は跳躍した。
その拍子に身を隠していた黒のコートがはらりと舞い落ちる。
再び彼女が地面に降り立った時、辺りの喧騒は一切止んでいた。
代わりに溜まっていた人間達の切り離された上半身と、そこから滑り落ちる臓物の落下する湿った音だけが無常に響いた。
「むっ……」
アスタロトは眉を顰めた。
この女は我々と同じ人外である。
それも只の亜人ではなくかなり特殊な。
故に、自分の攻撃を避けるだろうという予想はついてはいた。
だが、まさか——
「なんだ君は痴女かね……?あの女と一緒ではないか」
意外にもアスタロトは紳士である。
彼が眉を顰めた原因は、マントが落ちて露わになった女の服装。
全体的に露出が非常に高く、雪のような白い肌と豊満な肉付きがより一層淫靡さを醸し出していた。
顔立ちは精巧。
そして煌びやかな銀の髪を後ろで一纏めに括り、その背中には髪の色と同じ対の羽が生えていた。
更に何処と無く雰囲気がリリスに似ているのもアスタロトは不思議に思った。
「羽?ますます似ているな」
顎に手を当ててアスタロトは思案する。
(淫魔にも似ている)
「……どうでもいいから其処を退きなさい。怪我するわよ」
そう言ってアスタロトを前に女は動き出した。
飽く迄、勝気な態度を崩さずに。
「まて、『止まれ』」
「!?」
しかし、アスタロトの言葉通り女はその瞬間動きを止めた。
否、止められた。
まるで地面に縫い付けられたように女の両脚は動かなくなったのだ。
「判った!君は『魔人』だな」
「そうよ。だから何」
自らが魔王の臣下である魔人だという事を隠すこともせず、女は素っ気なく言い放った。
応えを聞いたアスタロトは今一度頷いた後、ベレー帽を被り直し、そして告げた。
「私達の城に一度来てもらう。なに、待遇は保証する。色々と昨今についての話を聞きたいだけなのだ」
「陳腐過ぎる誘い文句ね。断るわ。……あと、そんな細い『糸』じゃ私を止めれない」
「ほう」
アスタロトはすっと眼を細めた。
(判る程度の強さはあるという事か)
アスタロトが考え込んでいる中、女は何か小声で呟いて足元に火を起こした。
そして先程までの拘束などまるで無かったかのように自然に歩き出した。
「だが、ご主人様は慈善に満ち溢れる御優しい方なのだがな……君の横にいる男はそうではないぞ」
「え?」
彼女が振り向いた時にはもう、何時からか既に、イフリートが横に立っていたのだ。
腕を組み仁王立ちにて獄炎の化身は其処に居た。
認識した瞬間、異様な程の寒気を感じ取り、咄嗟に彼女は距離を取る。
「君が焦っていたのはこの男がいたからだろう」
彼女の更に背後から声が聞こえた。
(こいつも、何時の間に移動したの)
見誤っていた、というのが本音だろう。
男一人なら何とかなると。
しかし実際にはそれすら及ばないかも知れない。
「なに恥じる事はない。私も彼がもし敵だったら、と思うとゾッとするよ」
はははっ、と軽く笑いを込めながらアスタロトは言葉を続ける。
「……最後の忠告だ。だから君も大人しく我々について来た方が良い。ご主人様なら悪い様には決してしないだろう」
「い、いやよ。そんな何処の馬の骨かわからないごッ——————!!?」
その言葉を発した瞬間、彼女を大きな衝撃が襲った。
そして矢の様な疾さで民家の土壁に激突し、三軒突き抜けた先で漸く止まった。
イフリートが殴った。
ただ、それだけだ。
「……ア……アッ……」
瓦礫と土埃の中で痙攣しながら女は蹲る。
「コレが魔人か?この程度が。オルトロスの方がまだ魔人している」
魔人しているとは一体何だね?というアスタロトの質問を無視しつつも、荒い息を繰り返す女の頭蓋を踏み躙りながらイフリートは言った。
「人間と大差ない」
「そう思うのはイフリート、君だけだろう」
「アガッ……」
ミシミシと彼女の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
イフリートが踏む力を強める度に彼女の半開きの口からは血泡が吹き零れる。
顎は砕け、歯も折れていた。
「イフリート、そろそろ死んでしまう。足をのかしたまえ」
「此奴は一人、部下を殺している」
「それでもだ」
不本意ながらもイフリートはゆっくりと足を退けた。
「殺しても別に構わんが」
「いいや、この女は魔人だ。何か有益な情報を持っているかも知れないだろう」
イフリートが足を一歩動かすと、女はビクッと身体を反応させた。
既に、心の底に恐怖というものが身体に刻み込まれていたのだ。
たった一撃で理解してしまった。どうやっても覆すことの出来ない圧倒的な力の差。
自分の存在など、この男の気分次第で露と消えるだろうという恐怖を。
「た、たしゅ…たしゅけて…くだしゃい………にゃんへ…もしましゅ…」
結果、朦朧とする意識の中、碌に呂律すら回らない口で彼女は必死に懇願した。
大量の血を吐きながらも這い蹲り土下座をして精一杯の赦しを乞う。
何が彼の怒りの琴線に触れたのか彼女は正確に理解出来ていなかったがこれだけは判った。
——自分はやってはいけない事をしてしまったのだと。
数十秒前までの気丈な彼女の姿は最早なく、今は誇りをかなぐり捨ててまで生に執着する亡者の姿がそこにあった。
彼女の全身の至る所の骨は折れ、折れた骨が肺に刺さり、かひゅーと空気の漏れるような呼吸だけが定期的に聞こえていた。
「まあ判ってくれて何より。城へ戻れば十分な手当ても受けれるだろう。死にはしないさ……って気絶しているのか」
アスタロトが再び女を見た時、彼女は失禁しながら気絶していた。
鼻につく微かな匂いが辺りに広がっていった。
「後でモロクに運ばせておけ」
「判った」
彼も嫌な役を押し付けられたものだ、とアスタロトは複雑な表情で、未だ前線で指揮を取るモロクを思い浮かべた。