15.怪物の条件
15.Benedictus
黒の軍勢の進軍は続く。
現在、魔獣の森も半ば過ぎた辺り、森を抜けて街道沿いまで後半刻と迫っていた。
奇妙な事に彼等はここに至る迄、森に生息する魔獣を含め未だ一切戦闘行動は無かった。
森に住まう野生の魔獣などはまだ判る。
大抵の魔物や魔獣は、アインザッツ城が此方に着た段階で本能的に危険を感じ取り離れて行ったのだ。
野生の獣達の危機察知能力は必ずしも効果を発揮した。
しかし、白昼堂々これだけ大勢で進軍しているのにも関わらず、人間達の影一つ見えないのは些か不可思議であった。
十中八九、人間達にはこの魔獣の森に何かあることは暴露ている。
見廻りに来る数多くの兵士達、近くを散策しに来た狩人、屈強で名高い冒険者。
最近その全てが此処魔獣の森で行方不明になっている。
これで気付かぬ訳がない。
気付いていて尚、見張り一人立たせないのは嘗められている若しくは————
「誘われている」
モロクがポツリと呟いた。
「待ち伏せてして罠にでもかけようとしているのか?我々を」
屈辱。
よりも先に彼の胸中込み上げたのは呆れ。
思わずアスタロトは立ち止まり大きく息を吐き、額に手を充てた。
「如何にして我々を先に見つける心算なのか……其れは其れで興味深いが」
彼は知っていた。
メタトロンよりも先に獲物を見つける事が出来る人間など存在しないと。
再びアスタロトが歩き出したその時、強い風が吹いた。
それは気圧の変化によって自然に吹く風ではない。
局地的に強い、不自然な風圧。
「そらきた」
アスタロトは不敵に口角を吊り上げた。
「……森…抜け…た先街道沿い……見張り数名…始末……からその儘…街へ進め」
そしてその場にいない筈のメタトロンの声が、若干聞き取り辛くもアスタロトの耳に入る。
「便利だな。この能力」
メタトロンは風を操る事が出来る。
厳密に言えば空気、である。
空気の振動である音を操る事は彼女にとって難しい事ではない。
少し魔力を込め、応用すれば離れた場所にいる仲間に直接声を届けることも可能なのだ。
▼▼▼
「仲間への報告はしなくていいのか?色っぽい姉ちゃん」
「…………」
交信を切ったメタトロンの背後には男の姿が在った。
隻眼に短髪。
顔に一線古傷が走っており、隻眼も合間って強面ではあるがその表情は非常に穏やか。
しかし、顔は笑っているが目は笑っていない。
油断なく獰猛で攻撃的な、獲物を見据える狩人の目をしていた。
「キースだ。宜しく」
短く、久し振りに会った友人と握手でもするかのような、そんな軽い調子で手が差し出された。
「…………」
当然、メタトロンはそれを一瞥するだけで受けもしないし言葉も発しない。
彼女は人間と喋る意味、その行為に全くの必要性を感じていないのだから当然であった。
「なんだ。喋れないのか」
キースは概ね予想通りといった感じで特に気にした様子もなく手を引っ込めた。
(いきなり襲い掛かって来ないぐらいの知性は有るのか。見たところ魔人でもないしな)
魔人であれば話は簡単だった、とキースは少し肩を落とした。
人間にとって、いや生物にとって不倶戴天の天敵。
有無を言わさず殺せばいいだけの話なのだ。
(それにしてもこの女)
キースは改めて思う。
——強い、と。
陳腐な感想ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。
それこそ人類最高峰と謳われた自分と同等か、それ以上か。
(獣人か?妖か?それとも……まさか、あっち側の奴か?……まあいい)
「さて、互いに色々と聞きたい事も有ると思うが……先ず、うちの子が世話になったようで」
キースは同じ八星将の一人、娘の年程年齢の離れたルミナスから聞いた事を思い出していた。
そしてその話がもし本当ならば、そいつ等は世界に災いを齎す厄災となり得る。
「確か……猫の獣人だったっけな。姉ちゃんもソイツの仲間だろ?と、なればあんたも獣人か?」
一瞬メタトロンの頭に能天気な猫の顔が浮かんでは直ぐ消えた。
「なあ。ウッドベリーを襲撃した仲間だろ?」
「…………」
「そして今も軍を率いて向かっている」
終始無言。
赤の他人から見れば、強面の男が変わった服装の若い女を一方的に口説いている図にも見えなくはないだろう。
尤も、二人共に別次元の覇気を纏っていなければの話だが。
「否定は肯定と取るぞ。まあ、取り敢えず……『勝者』は一人だけでいい」
キースはゆっくりと腰の剣の鍔に手を掛けた。
その動作をメタトロンは半眼で睨む。
「俺は戦いが好きだ」
そう言う彼が思い返すのは今迄の闘争の日々。
若かりし頃、血の滲むような努力の上に成り立った勝利と栄光の日々。
「それも自分と同等か、それ以上の強者との」
「…………」
「半信半疑で来たが……アイツもよく生き残れたもんだな」
そう言いながらキースは緩やかに腰を落とす。
その形は居合の構え。
一撃で決める。
その心算でキースは力を溜めていく。
メタトロンですら目を見張る、尋常ではない闘氣を纏って。
そして男は不遜な嗤みを浮かべて戦いの口火を切った。
「存分に殺ろうぜ」
——その言葉と同時に、メタトロンは大きく吹き飛ばされた。
▼▼▼
(——ッ!!何だ……目で追うのがやっと……だと?)
メタトロンは大きな衝撃の余韻に浸りながら、改めて驚愕した。
動体視力。
それについては人間などに負け様がない。
断じて有り得ないのだ。
現に、キースすらも自分が放った一撃を認識出来ていなかった。
放った本人ですら置いて行く速さでの凄まじい一撃。
メタトロンに当たったのは殆ど偶然だといっていい。
「ハッ……ハアッ……」
荒く呼吸を繰り返しながらもキースは内心思った。
勝った、と。
力量を測りかね、比較的敵が油断をしている最初の一撃。
自分が絶対的強者だと驕っているが故の慢心。
そこにつけ込み、その一撃に賭けたキースの読みは大きく当たった。
これまでの戦いの日々が、高く積まれてきた経験が物を言った。
しかしながら、キースは思う。
「ハァ……俺、で……良かった」
八星将が内の一人『超人キース』。
そのLevel『180』。
人類最高峰と謳われた男は心の底から思い、そして安堵した。
——この女の相手が自分で良かった、と。
「………」
ねっとりと生暖かい液体がメタトロンの下腹部を覆っていく。
脇腹の違和感の正体は手で抑えると直ぐに判った。
ドロっとした独特の感触。
「ッ……」
深い裂傷。
深さ5cm、いや10cmは有ろうぱっくりと開いた刀傷はメタトロンの脇腹を一線に走っていた。
「……シッ!!」
片膝を着くメタトロンに一気に畳み掛けるよう更なる追撃を仕掛けるキース。
渾身の回し蹴り。
彼のその選択は正しい。
刀は先ほどの一撃で折れていたのだ。
一体なにをどうすれば人を斬っただけで古代級の武器である名刀が折れるのか判らないが、致命傷を与えただけで万々歳だろう。
キースに残るは己の拳と脚。
腕の約5倍の筋繊維、7倍の破壊力を持つ脚を選択したのだ。
確実に命を刈り取る為に。
「死ね」
捕獲する、という生温い考えなどキースは会った瞬間からとうに捨てていた。
そういう次元の話ではなく——この戦いの結末は、何方かが死ぬ事によって幕が降りるのだから。
常軌を逸する目にも止まらぬ速さでの回し蹴り。
それは綺麗な曲線を描きメタトロンの頚椎へと集約されていく。
だが、先程よりは確実に遅い。
「なにィッ!?」
「くッ……!」
ゴツっと鈍い音が鳴った。
メタトロンはその場でキースの回し蹴りを両手で受け止めた。
その衝撃で大量の血液が脇腹から溢れ出る。
人間にしては重過ぎる一撃。
超人と謳われた英雄だからこそ為せる神技。
それは人外であるメタトロンですら唸らせた。
「グッ……アアアアァ!!」
凄まじい猛りと共にメタトロンは摑んだその脚を全力で握った。
文字通り全力で。
ただひたすら、握る。
ギリギリとキースの脚が軋み悲鳴を上げる。
メタトロンの指の形にキースの脚が凹んでいく。
「クッッソ……離……ッ、せッ!」
高Levelであるキースの抵抗値は極めて高い。
例え至近距離から無意識下で散弾銃を撃たれても怪我はすれど死にはしないだろう。
その、強靱なキースの脚が、ただの掴むという動作によって悲鳴を上げていた。
脳天を劈く鋭い痛みに耐えながらもキースは抵抗する。
その度にメタトロンの脇腹から赤黒い血液が噴水の様に噴き出す。
だが、其れでもキースの脚は万力に固定されてしまったかの様にビクともしなかった。
「ッ……アアアアアアアアッ!!!」
正に獣の咆哮。
メタトロンは更に力を込める。
キースも空いている腕でメタトロンを殴るが、体勢と痛みで力がうまく入らない。
(なんだッ!?この女の力はッ!)
彼は、知らない。
——一万種以上存在する鳥類の中でも、肉食、腐肉食性質を持つ極めて凶暴な個体群を猛禽類と呼ぶ。
空中に於いての生態系の覇者として頂点に君臨する猛禽類の、他の鳥類と一線を画する点。
それは肉を容易く裂く硬い嘴、遥か遠方を見渡せる脅威的な視力、強靭で鋭利な爪など複数存在する。
その何れもが獲物を狩る為の凶悪な武器である。
しかし中でも、真に恐ろしいのは獲物を掴んで決して離さない趾。
その握力は、小さな個体でも優に100kgを超える。
「!?」
そして遂に、パキンと渇いた音が響いた。
メタトロンはそのまま握り潰したのだ。
キースのその右脚を。
「——ギッ!!?ああああああああああ!!!??」
皮膚を折れた骨が突き破り凄まじい鮮血が舞う。
脳を直接揺らすような猛烈な痛みに耐え切れずにキースは叫んだ。
「ハァ……ハァ……」
泡を吹き翻筋斗打つキースを横目にメタトロンは脇腹を抑えながら少し距離を取る。
開いた傷口からは臓物が少しはみ出していた。
「……ッ」
メタトロンはソレを素早く手で押し込むと、袖を千切った。
そして包帯代わりに腹にキツく巻いた。
有って無いような雑な応急処置だが少なくとも内臓が零れる事はなくなった。
互いに状況は極めて悪かった。
「うっ……」
幽鬼のように左膝に手を着きながらキースは尚も立ちあがる。
その顔は蒼白く、大量の脂汗が滲んでいた。
だが休む暇はない。
「シッ!」
メタトロンからの追撃。
キースはそれを腕を交差させて受け止める。
「ぬぅ」
ガードした上からでも身体の芯に響いてくる重撃。
(馬鹿な、普通なら、最初の一撃でッ!……動けなくなるだろッ!!)
息をつく暇もない怒濤の攻め。
キースは攻勢にも出るが、地力の速さが違い紙一重で避けられる。
「なあ……ハッ……お前より強い奴が後、ハァ……ハァ……何人、いるんだ……?」
「…………」
生粋の戦闘狂であるキースには珍しく、戦闘中に考え事をしていた。
人が、この怪物達に勝つ方法を。
文献に記される魔王の脅威にも匹敵する厄災レベルの怪物達。
ルミナスの話を聞けば少なく見積っても仲間は5人以上。
(八星将が、一人一人潰されれば……人類に未来はねぇ)
「ふゴッ!!?」
——瞬間。
キースの鳩尾に生涯最大級の衝撃が奔った。
「ア……」
キースはその場にゆっくりと崩れ落ちた。
一瞬の油断が戦場では命取りになる。
彼は決して失念していた訳ではない。
現実逃避していたのだ。
自分が勝つ方法ではなく、人類が勝つ方法に置き換えて、目を背けていた。
眼前に聳え立つ、途方もなく巨大な壁から。
「…………」
一方、キースに掌底を穿ったメタトロンは、些細な違和感を感じていた。
(重い)
人間、という脆弱な種族にしてはこの男は異様に重い。
一撃に然り、この男自身の重さに然り。
その身体はまるで巨大な樹脂の塊を殴るような感触。
更にはこの自分を脅かす程の馬鹿げた膂力を持っている。
(……生かして連れて帰る必要が有る)
メタトロンは思う。
仮に、この男程度の人間が大量に居たとすれば、アインザッツにとって少なからず脅威となり得る。
そしてこれ程の強さを持つ人間ならばこの世界に精通し、顔が効いていても何ら不思議ではない。
黒円卓議会の目的には総ての人間を滅する事も当然含まれるが、第一には創造主であるカルシファー・アインザッツの治療。
その為の情報も集めなければならないのだ。
其処まで考えてメタトロンはこの男を城へと連れて帰る選択を視野に入れた。
「チッ……」
男の方へ一歩進んだメタトロンは直ぐ立ち止まり、短く舌打ちをした。
視界が霞んだのだ。
(…………)
目線を下に遣ると自分の下に大きな血溜りが出来ていた。
出血多量による身体機能の低下。
それは生物である以上平等に起こり得る脳の警告。
その時、仰向けで気絶している筈の男の指がピクリと動いた。
「何?」
メタトロンは思わず声を上げた。
(馬鹿な)
仮に、同じ黒円卓議会の仲間とて先の一撃が入れば無事には済まないだろう。
それ程の重い一撃を入れた。
にも関わらず、
「は、はじめて喋ったな……生憎俺も……」
目の前の男は一瞬で上体を起こす。
「殆ど人間を辞めている——グゥッ!」
そして酷く嗄れた声で言葉を吐くと同時に、メタトロンの追撃を身体を捻って回避する。
更に転瞬、無理な体勢から片腕のみで地面に立ち上がった。
異常な程機敏な、明らかに人間のそれではない動き。
その根源は、彼の生まれついての性質から由来する。
「……生まれつきだ」
彼、キースは病を患っている。
——『怪童』
幼少期、彼はそう呼ばれていた。
後天的なモノではなく、この世に生まれ落ちた時より既に患っていた先天的な遺伝での疾患。
筋肉が尋常ではない程の急激な発達を遂げるという不治の病は、克つて歴史にその名を刻んだ英雄達も幾人か同じように患っていた。
その稀有なケース上、原因、病名、治療法共に一切不明だが、カルシファーならその病をこう呼ぶだろう。
——ミオスタチン関連筋肉肥大症と。
それ故に、キースは常人の何倍もの筋密度が有り、体重も相応に重い。
彼の人間には或るまじき異常な膂力の殆どは、この恐るべき病に起因していた。
「ッ……ラァッ!!」
キースの大振りの一撃が外れる。
既に先程の一撃でキースの内臓器官は損耗していた。
常人であればショック死するような身体内部の損傷。
にも関わらず彼が未だに動き続けていられるのは、人生の全てを戦いに置いたきた為の維持か。
誇示か。
最早彼は生存など考えていない。
愚直に、貪欲に、目の前の敵を如何に殺すかしか考えていなかった。
正に、死兵。
「お——」
メタトロンの痛撃がキースの頬に入った。
頬骨が砕ける音と同時にキースの身体は空中に投げ出された。
更にその無防備な鳩尾に上空から追撃が入る。
「————ッ!!!?」
言葉すら出ず、キースは地面に叩きつけられる。
衝撃で地面が大きく凹んだ。
「…………」
ピクリとも動かなくなったキースにメタトロンは近づいていく。
流石にこれ以上嬲れば死ぬという事は彼女も理解していた。
いや、最早この男は永くないだろう。
——だが、充分に距離が詰められたその瞬間、キースの目が見開いた。
「ッうらあああああああああ!!」
跳ね起き様に迫真の気合と共に放たれたキースの大振りの拳を、メタトロンは受け止めずに避けた。
距離が近過ぎたのだ。
しかし、避けきれずに彼女の頬には切り傷が奔った。
事実メタトロンはこの至近距離からの攻撃を受け止め、攻勢に転じる程の余裕が無かった。
彼女も血を流し過ぎていた。
上級種族である自分が、人間風情の弱撃を避けるという紛れもない事実。
そして此処まで梃子摺っているという現実。
それが一際、彼女を苛立たせた。
「……辞めだ。殺す」
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■Name―《怪鳥》メタトロン
■型―蛇喰鷲
■Level―180
■黒円卓議会席次―第3位
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粉々に砕かれた右脚を気に留める事も無く立ち尽くすキースを前に、メタトロンは自分の胸元に手を入れた。
「……扇子?」
彼女が取り出したのは一枚の黒い扇子。
それを舞う様に振り上げ、目にも止まらぬ速度で振り下ろす。
キースの骨が突き出た頬を生温い風が撫でた。
「……!」
マズイ、と本能的に察知したキースは咄嗟に横に転がるように回避する。
無理な体制で回避した為か折れた足が一層歪に曲がった。
そしてキースが転がった瞬間、彼の居た後ろの大木が真っ二つに両断された。
(奴は、風を扱うのか)
目には見えない透明の刄を飛ばしている、キースはそう結論付けた。
「俺の、番だ」
反転、一瞬にしてメタトロンとの距離を詰めにいくキース。
砕けた右脚を諸共せず、ほぼ片脚の筋力だけで縮地していく。
メタトロンは尚も扇子を舞う様に打ち付け見えない斬撃を飛ばす。
「ッ……っと」
紙一重で躱しながら距離を詰めていく。
そのうち幾撃かは頬を掠め切傷を増やしていく。
「くっ」
激流の如く流れる風の刃の一つがキースの右耳を容易く跳ね飛ばした。
だが、彼を止める決定打には到底なり得ない。
怒り狂った闘牛の如く彼は止まらない。
目標を突き殺す、その刻まで。
「殺った」
最後の急加速。
脚の腱がミチッと音を立てて千切れた。
キースの目には、然りとメタトロンの首が見えていた。
メタトロンは未だ扇子を振り上げている最中。
完全に殺った。
キースは確信した。
「——あ?」
——ただ、ただ一つだけ、彼の誤算が有ると為れば、メタトロンが空気を操れるという事を完全に理解していなかったという事だろう。
(なんだ!?一体……)
直後、メタトロンに肉薄するキースを襲ったのは二つの現象。
彼は、急に足元が底なし沼に沈んで行く様に、足場が覚束無くなっていた。
平衡感覚は最早失われ、敵が遠くに居るのか近くに居るのか大凡の距離すら安定しない、酒の悪酔いを何倍も酷くした状況。
そして、
(音が……)
——聴こえなかった。
完全に無音。
左耳は無事なのに関わらず彼は、虫の羽音や風のそよめきすら聴こえない、無音の檻に閉じ込められていた。
そしてキースの平衡感覚を失った身体は、王に平伏す庶民の如く頭を垂れ膝を着く。
そのキースの両耳、そして鼻からは血が流れ出ていた。
簡単な事だった。
空気の振動によって生じた高周波攻撃による三半規管及び蝸牛窓膜の損傷。
それにより彼は空間識失調と重度の難聴を併発していたのである。
「…………」
頭を垂れたキースを前にメタトロンは扇子を振り上げる。
(手子摺った)
人間にしては強かったとメタトロンは素直に思った。
そして、その頚目掛けて扇子を振り下ろした。
「——!?」
だが、予想に反し落ちたのは頚ではなく、数本の指だった。
「……こいつ」
まだ戦うのか。
何も聴こえず、見てもいないにも関わらずキースは自分の頚を両手で覆ったのだ。
彼の驚くべき闘争心はまだ折れてはいなかった。
そのまま指が欠損した両手でメタトロンの手首を摑んで強引に引き寄せる。
「——痛ッ!?」
そして彼女の二の腕に噛み付いた。
食い千切らんとばかりに顎を締めるキース。
ブチブチと肉を喰い千切る耳障りな音がした。
メタトロンも顔や頚を切りつける。
「——————!!?」
キースは熱い、と感じたと同時に視界が一気に暗転した。
眼球が横一線にぱっくりと裂けたのだ。
音だけでなく光すらも奪われた男は血塗れに成りながら、其れでも尚、喰らいつく。
最早人間の闘い方ではなく獣のそれであった。
——『超人』?
————『英雄』?
違う。
この光景を人が見れば、彼等は揃ってこう厭忌するだろう。
『怪物』と。
遂にはキースはメタトロンの二の腕の肉を服ごと喰い千切った。
「ぐっ……」
堪らずメタトロンは顔を歪める。
そしてキースは満足気にゆっくりと身体を倒しながら言った。
「、た、の……し、かった……ぜ…………」
その顔は最早原型を留めていない。
鼻は削ぎ落とされ目は潰され、数十の切傷によって畑のように耕された顔は、顔と認識する事すら困難になっていた。
急速に体温を失っていく自らの身体を感じながらも、彼は満足していた。
最期に自分より強い奴と闘えて良かったと。
——ただ、心残りが有るとすれば、自分の娘程の年の少女との約束を破ってしまった事ぐらいだった。
・八星将、『超人キース』
784年 9/10 薨去。