13.激震
13.Hostias
魔獣犇く樹林に囲まれた雄大な草原の中央で、圧倒的な存在感を放ち鎮座する不夜城”アインザッツ”。
夜の帳も降り、不気味な程の静けさに包まれる中、城の警衛に就いていたリザードマンの兵長は、この晩の出来事を一生涯忘れる事はなかった。
「……異常なし」
別に誰が見てる訳でもないが小さく呟く。
見知らぬ土地に飛ばされたとて己が為べきことに変わりはない。
城を守り、主人の盾となり剣となる。
それが自分に科せられた使命であり、兵長としての誇りである。
今日も今日とて実直に勤務していたリザードマンだったが、普段とは違う些細な変化があった。
(しかし交代が遅いな。そろそろの筈だが)
月を見上げて一人思う。
普段ならもう既に交代要員が来ても可笑しくない時間帯の筈であった。
何十、何百と繰り返された規則正しい時間の感覚はその身に刻み込まれていた。
だが、まだ誰かが来る気配はなく、ただ夜半独特の静寂だけが木霊していた。
(……ん?やっと来たか?)
感覚にしてそれから約数分後、前方で人の気配がした。
漸く来たかと胸を撫で下ろすリザードマン。
しかし次の瞬間、安心は一瞬にして警戒に変わる。
「……んふふふふ♪」
前方から歩いて来た何者かが鼻歌交じりに来たのである。
いや、正確に言えば足取り軽くスキップでもしていたのかも知れない。
石畳の渡り回廊の向こう側に見える影は、日没後というのもあり遠目には視認し辛いが背丈は低く体躯も小さい。
(まさか!侵入者か!?)
思わず手に持つ槍に力が入る。
自分の身長程ある鋼鉄の巨槍の底部がカチリと石畳を擦った。
しかし、ここは城の中である。
仮に侵入者だとすれば一体どのようにして侵入したのか。
更に堂々と城内を闊歩している状況。
ここから導き出される答えは二つ。
内部の者か、若しくはアインザッツの堅牢な守りすら苦にならない程の圧倒的強者。
(……ッ!)
顔から冷や汗が滴った。
「……くふっ……ふふふ」
リザードマンの緊張など露知らず、尚も不気味に笑いながら声の主は近づいてくる。
(クソっ……)
後数メートル、という所で漸くその正体が露わになっていった。
「は?……人間?子供?」
薄暗がりの中から現れたのはまだ幼さの残る顔立ちの少女だった。
腰手前まである赤茶色の艶やかな長髪はしっとりと濡れている。
羽織ったロングコートの下に微かに見えるは薄い水色のネグリジェ。
まだ幼い肢体にしては妙に色気を帯びていた。
就寝前の風呂上がり、そんな所が妥当だろうとリザードマンは内心思った。
今一度、その少女の顔を見れば非常に整った、人形のように美しい容姿をしているが終始にやけ、締まりのない表情をしていた。
——如何にしてこんな所に子供が?
直ぐに浮かんできたのは純粋な疑問。
何故全くの無防備、且つ、我が物顔で城内を闊歩しているのか?
(内部の者……でもないな)
リザードマンは思う。
この者は内部の者ではないであろうと。
我ながらこの城で古参の部類に入る自分が一度足りとも見た事がないのだ。
疑問は深まっていったが先ず為るべきことは一つだった。
「……止まれ!」
リザードマンの兵長は、今まさに目の前を通ろうとしている少女を威嚇気味に誰何した。
「……♪」
しかし、全くの無視。
少女はリザードマンに一瞥もくれず、何事も無いかの様に素通りしようと歩を進める。
その足取りは非常に軽い。
——上機嫌なのは結構。
だがそれは此処を通す理由にはならない。
リザードマンは再度誰何する。
「おい!止まれ!何者だ!!」
今度は今しがた無視された事も相待って、苛立ちと共に問い掛けた。
「おい!きさ……」
「……なんじゃ?——煩いの」
少女の後ろから肩に手を掛けようとした所で、少女は漸く立ち止まりくるりと振り向いた。
——瞬間、リザードマンはピタリと手を止め、反射的に仰け反った。
(——何故オレは今下がった?)
ほぼ脊髄反射で身体が一歩後退ったのだ。
脳が全力で警鐘を鳴らしていた。
この少女には決して軽軽しく触れてはいけない、と己の第六感が働き掛けていた。
(チッ……まあいい)
自分に苛立ちながらもリザードマンは応援を呼ぶかどうか考える。
「もう一度だけ聞く。貴様は誰だ。何処から入ってきたんだ」
鋼鉄槍を今一度上段に構えながら威圧した。
その構えに油断はない。
対する少女は何処吹く風かごく自然体で素っ気なく返す。
「馬鹿かお主は。そっちからに決まっておろう」
「なっ……!」
そう言って少女は指で今来た道を指し示す。
二倍近くあるリザードマンとの体格の差にも臆する事なく、少女は本当に馬鹿でも見る様な心底呆れた表情で言った。
「見ればわかるじゃろ。じゃあの」
一方的に会話切り、ヒラヒラと手を振り少女はまた再び歩き出す。
捕らえるか。
リザードマンは一際強く槍を握り締めた。
まだ見た目幼い少女とはいえ素性の知れぬ怪しい侵入者に変わりない。
何方にせよ此の儘城内に放置しておく訳にはいかない。
導き出された答えは一つ。
「フッ!」
小さく息を吐くと同時にリザードマンは強く床を蹴った。
如何なる見た目をしようが油断は出来ない。
悪いが一撃で昏倒させる、その心算でリザードマンの兵長は槍を持ち、踏み込んだのだ。
————遥か昔より高地にある山岳地帯に住まう竜人族。
その過酷な生活環境の中、培われてきた肉体は他種族とは一線を画すものであった。
更に、古より出でし竜の血を引く血族らは生まれつき屈強な肉体を持つ。
特に、注目すべきはその脅威的な瞬発力。
嶮しい山々で鍛えられた脚で地面を蹴れば掛かる比重は約1t。
その脚からは、常人ならば瞬時に消えたと錯覚するかのような爆発的な加速度が生まれる。
(怪我しても悪く思うなよ……)
——しかし彼は奢らない。
気高き種族故の高潔な誇りさえあれど、そこに胡座を掻いた慢心や自惚れは一切ない。
どんな小さき獲物で有ろうが妥協は一切しないのだ。
ましてや此処はアインザッツ城。
敬愛せし主君を護る為、彼の槍は躊躇なく振るわれた。
「——んむ?……誰かって?」
リザードマンが鋼鉄槍を軽く振りかぶった瞬間、ふと少女が足を止めて言った。
「ふっ……黒円卓唯一の頭脳にして唯一の美貌!我が君の求愛を一身に受ける美姫、伊奘冉とは妾のことじゃ!!」
堂々と、そして誇らしげに腕組みしながら赤茶毛の少女——伊奘冉は言った。
「なにっ……うがっ!?」
”黒円卓”、その言葉にリザードマンは目を見開き咄嗟に止まる
——否
止められた。
急激に己が脚に負荷が掛かり引っ張られるようにガクンと身体が静止する。
その理由は足下を見れば自ずと判った。
(蔦……?)
地面からいつの間にか這い茂った蔦に脚を絡め取られていたのだ。
(クソッ!動かねぇ)
脚に全力で力を入れる、が全く微動だにせず。
回廊の石板を這うように伸びた奇妙な蔦はリザードマンの脚を強靭に絡め取り、完全にその動きを封じ込めていた。
「やれ、お主。妾でなければ今頃死んでおったぞ」
首を竦めて伊奘冉は言った。
「クソッ!!」
リザードマンは何度も何度も槍の穂先で蔦を斬ろうとするが、蔦は全く応えない。
それどころか蔦は徐々にその力を強めていった。
「ほれ丁度、後ろにおる男とかならのう」
ちょいちょいと伊奘冉は指でリザードマンの背後を指し示す。
「なにをいって……なっ……ル、ルシファー様!!」
リザードマンが首だけ振り向き、其処に立っていたのは金髪の美青年、黒円卓で頭一つ飛び出た発言力を持つルシファーだった。
「いつ迄も部屋から出ないからだ。兵士達でお前の顔と名前を知ってる者など数える程しかいない」
素っ気ない言葉を吐き捨てリザードマンを顎で指すルシファー。
「むっ……人聞きの悪い事をいうな。此奴は新人じゃろ?」
「兵長だ。お前の自業自得だ」
一呼吸置いて、伊奘冉は言う。
「なんと!あー……お主覚えておけ。崇高な妾の名と我が君の求愛を一身に受けるこの愛くるしい顔をな!」
「は……はっはい!!と、と、ととんだご無礼をッ!!」
あまりの急展開に事態が飲み込めず狼狽しているリザードマンの兵長を手で追い払うと、伊奘冉はルシファーに向き直った。
強靭なトラバサミの様な蔦から拘束を解かれたリザードマンは、痛む脚を抑えながらも一目散に走り去っていった。
「さて、なんの用じゃ。生憎妾はこれから忙しくての」
真面目な言葉とは裏腹に、これからカルシファーとの甘い時間が待っている、そう思うと再び頬が弛む伊奘冉。
「その件だが後回しになった」
「……なにを言っておる」
怪訝な顔をする伊奘冉を他所に、ルシファーは簡素に告げる。
「既に創造主様に許可は頂いた。これより直ぐに黒円卓会議を開く」
その言葉を聞いて伊奘冉は眼をスッと細めた。
▼▼▼
この覆しようのない事実を言うべきか否か。
それは己の裁量次第だった。
言う迄もなく黒円卓議会第12席、一同がその身を造られた時より忠誠を誓っている。
カルシファー・アインザッツ唯一人に。
果たして本当に今告げるべきなのか?
………
……
…
「簡潔に言おう。創造主様はもう永くはない」
ルシファーの口から明日の天気でも占うかのように自然に出てきた言葉の意味を、皆が理解するのに時間は掛からなかった。
その瞬間、部屋の空気が一変する。
「ルシファー貴様!呼び出されてみれば下らない事を言って、不敬にも程があるぞ!!」
「フン……馬鹿馬鹿しい。帰る」
リリスが怒声を飛ばし、メタトロンは付き合い切れないとばかりに席を立つ。
黒円卓議会一同は、再びルシファーに招集され王座の間に集っていたのだ。
「貴様は巫山戯ているのか?」
「おい……もう一度言ってみろ」
イフリートとジルも席を立つ。
唯、彼らは明らかな敵意をルシファーに向けていた。
黒円卓皆が眉を顰める中、オルトロス、そしてモロクだけが眼を大きく見開き青褪めた顔をしていた。
それを横目にルシファーは息を吐き、再び口を開いた。
「何度でも言おう。創造主様は間も無く死————」
だがルシファーの言葉は最後まで続かなかった。
「テメェが死にたいらしいナァ!」
激昂したジルに殴りとばされ、轟音と共に壁へ叩きつけられていたからだ。
壁は粉々に粉砕され粉塵が舞い上がる。
「態々集まってみれば巫山戯た事ばかり言いやがって、あァ?」
「理由……を、最初から、教えてやろう……」
凄まじい土埃の中、瓦礫の山に埋れながらもルシファーは続ける。
「いや、やだやだ……聴きたくない……」
メフィストフェレスが耳を抑えながらその場に蹲った。
皆も薄々気づいていた。
ルシファーが嘘偽りを全く吐いてないという現実に。
今発言している全てが、紛れもなく真実であり、この男は決して主を蔑み嘘を吐くような男では、ない。と。
「私達は、文字通り創造主様の生命を削って生み出された」
その一言で理解した。
命を削って創られた。つまりそれがどういう意味かを。
もし、自分達を創らなければ、カルシファーは無傷だった事に。
あの爆熱の中を耐えれた事に。
その事実に気付いた面々は一様に心拍数が上がり、呼吸すら忘れた。
「不思議だと思った事はないか?何故、創造主様は自分達より弱いのかと」
「……貴様!」
「愚かな事にお前達のその”Level”、”強さ”。それはそっくり其の儘創造主様から奪った物の産物に過ぎ無い。……創造主様なら何でも出来ると思っていたか?現実を見ろ」
無から有は生まれない。
それは不変且つ物事に於ける共通の唯一無二の事実である。
「比較的最初に造られた、オルトロスやモロクは薄々勘付いていたようだがな」
「…………」
無言の肯定。
二人は、朧げながらもカルシファーの力が一時期より弱くなったと感じ取れていた。
その認識はカルシファー本人が阻害していたのか、はたまたAsgardのシステムがそう感じさせなかったのか、本当に小さな変化であった。
「そして創造主様はあの後遺症で身体を蝕まれている」
「馬鹿なっ!ご主人様は回復しておられたではないか!!?」
リリスが声を荒げる。
それもその筈彼女は徐々に回復していくカルシファーを一番近い距離で見ていたからである。
だが、現実は非情で奇跡など所詮奇跡に過ぎ無いのだ。
「そう……見えただけだ。今も体調を崩しておられる」
「嘘をつくな!」
「事実だ!!」
怒声の応酬。
空気がビリビリと振動する。
ルシファーも最早感情を抑え切れていなかった。
「創造主様は気丈に振舞っておられるが、それは仮初めに過ぎ無い。……私達に気を遣い隠していただけだッ!余計な混乱を招くと!」
ルシファーの断言はリリスに重くのし掛った。
——一体私は何をしているのか。
(ご主人様を護れなかった上に気を遣わせる……?其れすら見抜けずにのうのうと過ごしていた?)
——無様だ。
本当に、一体何をしている。
「そんな……筈は……な、い」
譫言の様にリリスは呟く。
言葉では否定するが、彼女は分かっている。
分かっているが、それでも事実を受け入れない。
否、受け入れられることが出来なかった。
認めてしまえばそれは————
「この際はっきり言おう」
未だ土煙を上げる壁際からゆっくりと歩みながらルシファーは口を開く。
その口から出るであろう次の言葉は誰もが理解していた。
蟲が全身を嘗ぶるような不快感が纏わり付く。
「よせ」
理解していたが故に、誰かが力無く呟いた。
だが、その懇願には刹那足りとも耳を貸さずにルシファーは言う。
明朗に、大胆に、激憤と哀愁を込め繊細に、そしてただ、ただ—単純に。
「カルシファー=アインザッツは我々が殺した」
——そう言い切ったその瞬間、逸早く反応したのは当の本人、ルシファー自身だった。
「動くなァ!!!」
その声と同時に円卓を中心に魔法陣が広がる。
コンマ1秒以下の世界でルシファーが行使した特上級範囲魔術『重力自縛』。
それは範囲の生物の動きを静止させる。
「いいかよく聞け!お前達を止めるのに後十秒も持たない。頼む。頼むから一旦落ちついてくれ」
額に大粒の汗を流しながらルシファーは懇願する。
幾らルシファーと言えど、黒円卓全員を相手取った特上級魔術の行使など数秒しか持たない。
今にもミシミシと結界は悲鳴を上げ壊れようとしていた。
絶妙な均衡を保つ緊張の最中、ルシファーの取った行動——
「この通りだ」
「!?」
頭を深く下げた。
ルシファーが頭を下げるのは格上であるカルシファーのみに限る。
ルシファーでなくとも同じ黒円卓に席を置く者同士、自らが格下に成る礼など断じてしない。
常時ならば絶対に有り得無いその異様な光景に、極度の興奮状態とはいえ皆は息を呑む。
——本当に目の前の男は自分達が知るルシファーなのか?
そんな疑問すら彼らの頭には浮かんだ。
「フゥー…………」
猛る身体を抑え込み、誰かが大きく息を吐いた。
しかしながらこのやり場のない様々なモノが入り混じった感情。
そして足元が脆く崩れ去るような虚無感は全く拭え無い。
「現段階で創造主様の命を救う、治療する術はない」
ゆっくりと、再びルシファーは語り出す。
「たとえ、伊奘冉であったとしても治療は困難だろう」
ルシファーの言う通り、そうで無ければとっくに完治している筈であった。
「——だが、今一度創造主様を診て欲しい。もしかしたら治せるかも知れない。もしかしたら進行を遅める事が出来るかも知れない。その僅かな可能性に縋って欲しい」
「わ、わかった」
言葉を詰まらせながら頷く伊奘冉は胸中、酷く狼狽していた。
其処には心あらず、ただ、反射的に返事をしただけと言っても相違ない。
先程からの突然の宣告とそして自分自身に掛かる並々ならぬ期待。
暗に、カルシファーを生かすも殺すもお前次第だ、そう伊奘冉は受け取った。
更に、現段階で自分以外にカルシファーを看る事が出来ない、という紛れもない事実は極度の緊張を齎す。
彼女はこの僅かな時間の中で、状況がまだ良く呑み込めず、というよりは理解しているが果たして此れは現実なのかという、懐疑的な自問自答を繰り返していた。
(我が君が)
——死ぬ?
有り得ない。
そう盲信的に信じ込む自分と現実をみようと茫然自失となる自分。
相反する二つの思考は頭の中を掻き回し混乱させる。
そしてその内なる感情は、生理現象として見える形で影響を及ぼした。
「うっ……げぇ」
嘔吐。
瞬間的なものではあるが、充分な酸素が細胞に供給されないが為に極度の虚脱状態を引き起こしたのだ。
「伊奘冉……」
吐き気を催す伊奘冉を気に掛けるようにリリスが名前を呟いた。
それ以上に掛ける言葉は見つからない。
彼女自身も、伊奘冉に掛かる負担が一番大きいと理解していたからだ。
「負担が掛かる事は承知だ。だが、判ってくれ」
ルシファーは言う。
それでも尚、前に進まねばならないのだ。
そして伊奘冉もまた、理解していた。
「妾、も。判って、おる」
か細く今にも消え入りそうな声で、しかし今度は明確な意思を持って伊奘冉は返答した。
ルシファーはそれを確認すると全体を一度見渡した。
「私は大陸を越え、創造主様を助ける方法を捜す」
「まさか、貴様」
「黒円卓議会は、一時、お前達に託す」
ルシファーのこの発言の意図を誰もが汲み取り、そして眼を見開いて喫驚した。
「創造主様を命に変えても御護りし、この大陸中を隈なく捜し、述べる事を総て託す」
黒円卓議会第12席、筆頭、ルシファーが一時的にアインザッツを離れる。
それは他の12席にとって衝撃的な発言であった。
主、カルシファーの側には何時もルシファーが居た。
絶対的な忠誠を誓い、そして主を守護してきた。
それが自らその任を解き、この地を離れるというではないか。
皆には、俄かには信じ難い事だが、同時にそれが一番最善策である事も理解していた。
「本気か」
答えは判っているが、イフリートは敢えて訊ねる。
「本気だ」
彼が一番適任であることは明確だった。
ルシファーとその他で決定的に違う事象。
それは”機動力”である。
ルシファーのみに与えられた圧倒的な能力、”亜空間”を使用すれば移動距離も然り、情報収集も然り、段違いで速くなるだろう。
能率的にルシファーが一人で別の大陸を調べるのが一番良いのは確定的に明らか。
しかし、懸念もあった。
——この男
一番強い。
黒円卓議会第12席の中で間違いなく最強の座を有する筆頭ルシファー。
それが抜けるとなると間違いなく戦力的に大きな穴が出来る。
——しかし、其処で及び腰になる程、彼等は堕ちていない。
「……任せろ!!!親父は必ず護る!!だからお前は早く行け!!」
室内に渦巻く様々な感情を払拭するかの様なジルの声が室内に響いた。
その声は大気を揺らし、煽りを受けた壁面はジルの叫びに呼応するかのようにビリビリと振動する。
「我々も全力を以って御館様を御救いする術を捜す。一刻も時間が惜しい。行くのだ」
それを後追いする形で目を閉じたモロクが静かに呟いた。
「…………」
それに返事をする事もなく、一瞥する事も振り返る事もなく、ただ、無言でルシファーは亜空間に消え去った。
——この日、黒円卓議会第12席から一人消えた。
▼▼▼
「行ったか」
ベッドの上で一人横になっていたカルシファーは呟いた。
ルシファーが全てを話し、自ら思う最善の行動を起こしたという事を彼は直感的に感じとっていた。
それについては肯定も否定もしない。
無事だといい、ただそれだけカルシファーは素直に思った。
「我が君……」
丁度その時、扉の向こうで小さな声が聞こえた。
「伊奘冉か。入っていいよ」
カルシファーの許可を受け、開けるのを躊躇うかの様にゆっくりと
扉が開いていく。
「悪いな。夜遅くに」
「あっ…………」
伊奘冉はベッドの上で上半身を起こすカルシファーを見た瞬間、言葉に詰まった。
「……あ…………」
——掛ける言葉が、まるで見つからない。
いざ目の前にすると、それは尚更だった。
敬愛するカルシファーの姿形は同じだが、数刻前とは一変した認識。
何を言えばいいのか。
何を為ればいいのか。
果たして自分に軽々しく声を掛ける資格は有るのか。
伊奘冉が入口にて無言で呆然と立ち尽くす中、均衡を破ったのは意外な人物だった。
「失礼致しますご主人様。伊奘冉殿に今一度御身体診させて頂けますでしょうか?」
その後ろから静かに扉を潜ったのはアガリアレプト。
何時も通りの皺一つない燕尾服、何時も通りの落ち着いた抑揚をつけて丁寧に礼を交えて言葉を発した。
「ああ。その心算だ。伊奘冉頼む」
「は……はい」
その言葉を受けて漸く伊奘冉はぎこちなく動き出す。
カルシファーと伊奘冉にとって助け船を出した形となったアガリアレプトではあるが、彼も決して見た目程落ち着いている訳では無い。
(申し訳……ッ有りません。ご主人様!!)
何も出来ない自分の不甲斐なさに拳は微かに震えていた。
そんな老紳士の葛藤を、知って知らずかカルシファーは語る。
「まあ……ルシファーから色々聞いたと思うが、俺が簡単に死ぬように見えるか?」
「そんな滅相もない」
「それに俺は何の心配もしていない」
少しはにかみながらカルシファーは言った。
「ルシファーを含め、お前達が俺を治す方法を見つけると信じているからだ」
信じている。
そう断言された言葉に二人が感じたのは期待という名の圧力——ではなく、”誇り”だった。
「だから主人としての命令ではなく、只の、カルシファーとしてもう少し俺の我儘を聞いて欲しい」
「勿論でこざいます。このアガリアレプト、必ずや見つけましょう。そして全身全霊を以ってご主人様をお護り致します」
陳腐な言葉でしか言い表せない自分が恨めしい、とアガリアレプトは思った。
「妾も、今は無理……じゃが……必ず、必ずや我が君を治してみせます」
「有難う」
伊奘冉は固く決意した。
やはり、今の侭ではカルシファー体内の細胞や組織を修復することは出来なかった。
Asgardに於いて目に見える傷ではなく、躰の内側の再生は回復魔術の最高峰ですら極めて難しいからである。
しかし伊奘冉はそれを言い訳にしない。
自分はカルシファーに造られ、生まれた時より持った能力の上に胡座を掻いていただけだ、そう思っていた。
(我が君は妾が必ず治す……)
実際問題不可能かと思われるカルシファーの治療。
だが、己の魔術を磨くなり或いは外的方法に頼るなりまだ方法はある。
可能性もある。
黒円卓議会唯一の回復特化という事実。
伊奘冉は今度はそれを期待と感じる事なく、誇りとして受け止め成長する覚悟を決めた。
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■Name―《妖精王》伊奘冉
■型―始祖長耳族
■Level―60
■黒円卓議会席次―第12位
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