12.5.渇望
12.5.Kerze
「ふぅー……」
日没過ぎて火灯し頃。
アインザッツ城は最上階大露天浴場。
カルシファーは一人、夜空を見上げていた。
「こっちにも星が有るのか」
風呂に入るという行為は気分的な問題だった。
汚れ難い便利な身体に成った今では、特に風呂に入る必要性はない。
睡眠、休息も必ずしも毎日決まった時間に必要ではない。
食事に関しても一日三食、とは言わず不定期で問題ない。
しかし、その辺りの元人間としての感性は引き継がれているのか、自然とそれらの生理的行為を欲していた。
何より実際に気分が良くなるのだ。
(ふー落ち着くな………ウッドベリーにも露天風呂でも造るか。温泉を掘って温泉街にするのもいいな。この際好きに弄り倒すか。でもそうなるとやっぱり労働力が足りないな。どうするか)
夜空を眺めながら考えていたカルシファーの耳に、何やら小さな音が聞こえた。
「……誰だ」
脱衣所からである。
曇りガラス越しにちょこちょこ動く影と布の擦れる音。
そしてその影は次第に引き戸の方へ向かってくる。
「まさか」
遂にはその影はゆっくりと引き戸を開いた。
そして未だ湯船に浸かるカルシファーを見るや一言、
「御背中お流ししましょうか?」
と、ルシファーは言った。
「いやいやいや、何時も亜空間から這い出て来るのに何で普通に入って来るんだ?」
「それはこの場にはそぐわ無いかと思いました」
確かにそうだろう。
得体の知れない空間からぽっと出てきたのでは風流も糞もあったものじゃない。心臓に悪いし。
だが問題はそこではない。
「まあいいか。じゃあ折角だからお願いするか」
「喜んで」
とはいえ隻腕になった今では些か不便な事も多かった。
日中は暇な黒円卓の誰かが異常なまで甲斐甲斐しく世話をしてくれるのだが、流石に風呂に着いて来ようとした時は断っていたのだ。
「ところでルシファー」
「はい。何でしょうか?」
予め用意していたのか石鹸を丁寧に泡立てながらルシファーは返答した。
「——ほら、此処の領主について何か知らないか?」
明日の天気でも聞くような、そんな軽い調子でカルシファーは尋ねた。
それは言わずもがなあの日の原因にして根源たる一人の人間。
ヴェルディ領領主、ハスカール。
その行方について、カルシファーは訊ねた。
「メタトロンが、幾ら捜しても見つからないって嘆いてたぞ」
「…………」
言い淀むルシファーの手がピタリと止まった。
黒円卓随一の諜報、索敵能力を持つメタトロンの全力の捜索でさえ捜し見つけ出す事が叶わなかった領主。
それが意味する事は既に死んでいるか或いは——
「申し訳有りません創造主様。彼らに渡すと直ぐに壊されるかと思いまして私の中で飼っています」
「……ああ、そんな事だろうかと思ったよ」
カルシファーは呆れたように眉間を押さえた。
既にルシファーが捕縛し、あの亜空間で保存していたのだ。
そう易々とは死なない程度に地獄を見せながら。
カルシファーにとってはあの領主如きもうどうでも良い存在だったが、ルシファーを含め彼等にとっては今一番憎むべき存在なのだ。
「別に構わないがそろそろ彼奴らにも教えてやれ。血眼になって捜してるから」
「判りました」
「殺そうが生かそうが処分は任せる」
「有難うございます」
そこで再びルシファーの手は動き出す。
「………」
「………」
端から見れば大の男二人で背中を洗う異様な光景。
しかし何方かと言えば親と子の様なものかとカルシファーは一人納得した。
「創造主様。伊奘冉に診て貰う心算ですね?」
「……何の事だ」
不意に、ルシファーが言った。
「私には誤魔化せません」
「だから何の……」
「そして創造主様は既にお分かりの筈です。……それが私達には治せない事に」
「…………」
全く抑揚のない声色でルシファーは淡々と続ける。
「知っていたのか」
カルシファーもまた、そこに何の感情も込めずに言葉を吐いた。
「このルシファー不肖ながらも創造主様の半分もの力を授かった身。私には分かります」
「そうか」
自分の身体の事は自分が一番良く判る。
カルシファーは静かに目を瞑った。
快方に向かっていた体調ではあるが、それは所詮まやかしに過ぎなかった。
細胞及び体表組織の大規模損壊における免疫力の低下と極度の身体消耗。
今思えば生きているだけで奇跡という状況の中で、完治を望むなど厚かましい限りであった。
ゆっくり、だが確実にその手は迫って来ていたのだ。
死という奈落の底から。
その病は治療出来るようなものではない事にカルシファー本人も気付いていた。
言わば寿命のような代物。
徐々にだが着実にその生命を蝕んでいた。
モロクが気付いた若干の違和感。
カルシファーが思い切った侵攻に踏み切ったのもこれに帰来していた。
残された時間はあまりない。
しかし、治療出来ないとわかっていながらも、黒円卓唯一の回復特化の伊奘冉に診て貰おうとしたのは、カルシファー自身の切なる願いだったのかも知れない。
若しかしたらという可能性に賭けた、無様で不恰好な往生際の悪い足掻きだったのかも知れない。
「ふ……そうだな」
カルシファーは自嘲気味に息を漏らした。
「無駄に皆の不安を煽るだけだな。診て貰うのは止めにする」
仮に、伊奘冉が治療出来ないカルシファーの重度の疾患に気付いた時どうなるのか?
更に彼女の性質上、他の仲間にもそれは隠し通せないだろう。
そして他の皆が知ればどうなるのか?
それはカルシファーにも分からない。
しかし、遅かれ早かれ分かるにせよ再び余計な混乱を招く今はまだ、告げる時ではないとカルシファーは理解していた。
故に、カルシファーは伊奘冉に診て貰うのを止めることにした。
「違います」
だが、カルシファーの予想に反してルシファーの口から出たのは全くの別意見だった。
「たとえ……」
ルシファーは絞り出す様に言葉を発した。
「たとえ1%でも。僅かな可能性が有るのなら!どうか!!それに縋って頂けませんか!!!!!」
そこでルシファーは漸く声色を変えた。
半ば絶叫に近い慟哭。
普段の冷静さを微塵も感じさせられない、獣のような心の底からの雄叫びにも似た感情の吐露。
そして様々な激情の奔流に歪んだ悲痛な表情を飲み込んでルシファーは続けた。
「私はもう決めました」
再び抑揚のない声色に戻ったルシファーは尚も続ける。
「私一人ではなく、黒円卓全員で背負っていこうと」
「そしてこの命に変えても創造主様を助ける方法を見つけてみせます」
堂々と、力強くルシファーは断言した。
「…………」
恐らく、彼なら文字通り命を賭して自分を助ける方法を探すだろう。仮にその可能性が0でもだ。
そしてカルシファーはふと思う。
(それでいいのか?)
と。
自分が造った?
確かにそうだろう。
それは間違いない事実だ。
仮にもし、自分の為に命を賭けろと言えば彼等なら喜んで全うするだろう。
喜んで死地に赴き、どんな我が儘でも無理難題でも受け入れてくれるだろう。
しかもそれは逆らえない強者に屈服する弱者の仮初めの主従関係ではなく、本心からの絶対的な忠誠心の上の判断だ。
(果たして本当にそれでいいのか?)
ゲームの中ならそれで良いだろう。
しかし、彼等は最早、物ではない。
其々一つの人格があり、一つの生がある。
本人がそう言うからそうでいいのか?
——否。
そこまで簡単な問題ではない。
享受する側の人間ならそれは尚更。
ただ、一つだけ判っている事。
自分程幸せな奴はいないという事だ。
「うっ……」
「創造主様?」
そこまで考えた所で頭に鋭い痛みが走った。
カルシファーは頭を抑えた。
「大丈夫だ。少しのぼせただけだ」
「本日はもうお休みになられては?」
「ああ……そうするよ」
ルシファーは空中をそっと指でなぞる。
徐々に切れ目が拡がり、歪な亜空間がその深淵を覗かせていく。
「出て来い」
ルシファーが短く呟くと裂け目から二つの影が飛び出てくる。
そしてその影は浴場のタイルの上に降り立った。
「お呼びでしょうか?」
凛と透明な声で返事をしたのは人型の女性。
「創造主様の補助をしてお部屋までお供しろ。粗相を働いたら殺す」
ルシファーが空間から呼び寄せたそれは一般に淫魔、と呼ばれる者。
背中には蝙蝠の羽を生やし、抜群のプロポーションを誇る彼女等は、メイド不在のアインザッツ城で唯一その代わりと成り得る者たちだ。
「畏まりました」
その言葉には媚び、諂い、恐怖畏れ、そのどれでも無くただ純粋に了承の意のみが込められていた。
彼女らもまた、ルシファーに尊敬或いは忠誠を誓っているのである。
同様にカルシファーにも。
「創造主様。後で伊奘冉を向かわせます故、それまでごゆっくりお休み下さい」
「……ああ」
未だ続く痛みと葛藤しながらも、全裸のカルシファーは少々居心地が悪いと思っていた。
「…………」
心を無にしたカルシファーと淫魔達が脱衣場に消えて行くのを見届けたルシファーも、その身を亜空間に消して行った。