11.血の代償
11.Lacrimosa
途方もなく長い夢を見ていた。
何処か懐かしいような思い出の夢だ。
しかし、夢の内容なんてものは大抵起きたら既に忘れてしまっている。
直前まで鮮明に覚えていたにも関わらずだ。
例に漏れず、カルシファーもただ漠然と懐かしい夢の内容だとしか覚えていなかった。
(…………?雨か?)
微睡みの中、最初に感じたのは頬に当たる水滴だった。
そして身体が重い。
目を開けるのすら億劫なほど身体は言うことを聞かず、全身を駆け巡る倦怠感は今まで生きてきた中でも間違いなく一番酷かった。
視覚だけではなく、聴覚や嗅覚すら随分と反応が鈍い。
再び頬に水滴が落ちた直後、自分がどの様な状況であったかを思い出す。
(生きてたのか……)
となれば今この身体に感じる魔力は回復魔法によるものだろう。
「…………い、伊奘冉」
「!?我が君!!戻られたか!ルシファー!!」
ゆっくりと鉛のように重い目蓋を開くとそこには驚いたように目を見開く伊奘冉の顔があった。
成る程。
頬に当たる水滴は雨ではなく、彼女の額から滴る汗だったのか。
一体何時から治療を続けていたのだろうか、伊奘冉の顔色は酷く土気色で今にも倒れそうなくらい張り詰めた表情だった。
肌と同様、鮮やかな赤の自慢の艶髪も水分を失い乾燥していた。
カルシファーの意識が戻った今も尚、ルシファーを呼びながら伊奘冉は必死に回復魔法を続けている。
(俺は本当に仲間に恵まれているな)
カルシファーは心の底からそう思った。
彼彼女等にとっては当然の行為かも知れないが、躊躇なく他人の為に生命を削るなど早々出来るものではない。
「伊奘冉、もう、いい。休め」
「しかしまだ我が君は、」
「命令だ……休め」
「……はい」
そこで漸く伊奘冉は治療を止めた。
主人に命令、と言われれば彼女は引くしか無かった。
この時カルシファーは知らなかったが、伊奘冉は時間にして約120時間もの間治療し続けていた。
本当に彼女の限界は近かったのだ。
そして自分の身体を諸共せず、心配そうに此方を見つめる伊奘冉を一瞥すると、カルシファーは身体を起こそうとする。
暫く寝たきりだった身体は悲鳴を挙げ力を入れる度に節々が痛んだ。
「うっ……」
だが、右腕を突っ張った直後途端にバランスを失い、身体を起こす事は叶わなかった。
何故?と言う疑問よりも先に、伊奘冉が今にも死にそうなほど青白い顔をして口を開いた。
「……わ、わが君」
何故なら、そこに本来在るべき筈のもの——左腕が無いからである。
「ああ……そうか」
カルシファーは考える。
隻腕になったものの妙に思考は落ち着いていた。
(分かっていたことだ。どうなるかぐらい。……命があっただけ儲けものだ)
あの状況から生き残っただけでも奇跡に等しい。
これ以上他に何が望めるのか。
「そ、の……努力はしたん、じゃが……そ……の……う、うでは……」
そんなカルシファーの直ぐ横で、更に青白く今にも死にそうな顔をした伊奘冉は、嗚咽混じりに言葉を吐き出す。
自分に力が足りなかったからカルシファーを完璧に治療出来なかった。
こんな時にしか役に立てないのに腕を治す事が出来なかった。
そう懺悔しながら己の力量不足を恨んでいた。
だが、カルシファーにとってそれは勘違いもいいところ。
蘇生という有料のゲームコマンドを除き、Asgardに於ける回復魔法の最高位の施術を持ってしても、無くなったものは決して元に戻らない。
これは不変の事実で従者とて同様、死んだから教会で復活なんて陳腐な事は有り得ないのだ。
死んだら死んだ侭なのである。
切断ならまだしも文字通り既に爆散していたカルシファーは左腕は、どう足掻いても治らないのだ。
それに加え全身重度の火傷状態と身体中至る箇所の傷。
内部損傷も酷かった。
仮に、有用な課金アイテムが残っていれば話は別だったかも知れないが、城の宝物庫を確認した通り殆どのアイテムは消え去っていた。
故に、伊奘冉が治療をしなければ自分は間違いなくこの世にはいなかっただろう、とカルシファーは充分に理解していた。
「伊奘冉。お前がいなければ俺はもうとっくに死んでいた。生きてる事に比べたら腕一本ぐらい安いさ。ありがとう」
「うっ……うぐっ」
そのカルシファーの言葉に、伊奘冉は涙を溜め静かに震えた。
「ルシファー、迷惑掛けたな」
「……!?」
そしてカルシファーは背後に立つであろうルシファーに声を掛け、それを受けて彼は肩を震わした。
ルシファーは待っていた。自らの主から告げられる第一声を。
どんな責任でも命に変えて果たそう、どんな命令を受けても命尽きるまで遣り通そう。
どんな罰でも甘んじて受け入れよう。
そう、ルシファーは叱責の言葉を待っていたのだ。
しかし自らの主から告げられるのはまさかの謝罪。
これでは立場が全く逆だ。
——これではまるで私が創造主様を責めているような……
ドゴン、と床が凹む音がした。
その有り得ない事実に気付いた時には既に、ルシファーは額を床に擦り付けていた。
「創造主様!!おやめ下さい!!!不肖ルシファーこの侭では生き恥を晒してしまいます!どうか!!」
勢い余って床が陥没するほどの土下座だった。
平伏して行う最上級の礼はAsgardにも浸透していたのか。
など場にそぐわない事を考えるカルシファーであったが、その胸中、くだらない事でも考えなければ落ち着いていられなかった。
何故なら想像以上にダメージを受けていたのは自分ではなく、黒円卓の仲間だったとは思いもしなかったからだ。
「お前らな……今回の件は俺が勝手にした事だ。全責任は俺にある……ゴボッ!」
「我が君!」
「創造主様!」
カルシファーは吐血した。
拳大の血は、大理石に点々と模様をつくった。
調子が悪いのは当たり前で、彼はまだ九死に一生を得たばかりなのだ。
カルシファーの身体の損傷は大きく、身体は今もただ休息を求めていた。
「ま、て。最後に、さっきのお前達みたいな辛気臭いのはなしだ。ルシファー……黒円卓の奴らに徹底させておけ。これが罰だ」
「……仰せの侭に」
「ベッドに運んでくれ。少し……寝る」
そう言い残し、カルシファーは再び意識を微睡みの世界へ落とした。
その身を陶器でも扱うかのような慎重な手つきでルシファーは掬い上げる。
「伊奘冉。お前はもう休め。後は私がやっておく」
「妾も暫し眠る故。我が君がお戻りなさったら直ぐおこせ。異常が見られた時もすぐに」
「判った」
頭を抑え、顔を顰めながらも伊奘冉はルシファーに返事を返す。
そしてふらふらと部屋を後にした。
実に寝ずの五日間の治療である。
彼女もまた心身ともに凄まじい疲労だろう。
決して言葉には出さないが、ルシファーも伊奘冉には計り知れない感謝をしていた。
カルシファーの生命を直接的に救ったのは間違いなく彼女だった。
▼▼▼
——アインザッツ城大広間——
カルシファーが一度意識を取り戻してから更に二日が経過した。
その間代わる代わるカルシファーの元を訪れた黒円卓議会の面々は、多少辛気臭くはあったが誰もが喜びそして涙を流した。
その度にカルシファーは辛気臭いのはナシと言った筈なんだがなあ、と苦笑していた。
そして現在まだ完調していないが体調が回復しつつ有るカルシファーは、大広間のソファーで寛いでいた。
「メフィストフェレスはまだ体調が悪いのか?」
カルシファーは隣りに座り甲斐甲斐しく林檎を剥くリリスに話し掛けた。
露出の高い衣装はそのままに、以前より少しだけ物理的に距離間が縮まった彼女は相変わらず目に毒だ。
殆ど寄り添うような距離間にカルシファーは微妙に緊張しつつ返事を待った。
カルシファーがメフィストフェレスを気に掛けるのには理由があった。
実はこの二日間で彼が会っていないのは彼女だけだったのだ。
何時も元気な鬼っ子も最近は体調が優れないらしく、自室に引き篭った侭だった。
暴走した、と聞いたがその時の変調が祟っているのかもしれない。
「はい。やはり無理やりにでも連れてきましょうか?」
と、物騒な事を言うリリス。
その表情は真剣そのもので、確かな怒気を孕んでいた。
だが無理やりは良くない。
とはいえ一度ぐらい顔を見せてくれても良いのにな、とカルシファーは思っていた。
「そうだな。後で部屋に行ってみるか」
「いえ、ご主人様のお手を煩わせる訳には……」
暗に行く必要はないと彼方から来るのが筋だというリリス。
現に、リリスは内心ブチ切れていた。
よもや殺意すら感じていた。
幾ら同じ黒円卓に名を連ねる同胞とて、主に対する無礼は決して見過ごせるものではなかったからだ。
布団に包まり譫言のように同じ言葉を繰り返すだけ。
明らかにカルシファーを避けているその行為に、リリスが憤怒するのは当然だった。
リリスのみならず他の面々も、メフィストフェレスに対し紛れもない嫌悪感を抱いていた。
それに対しカルシファーは、メフィストフェレスが責任を強く感じているかもしれないなと、大体予想はついていた。
カルシファーからすると、元はと言えば自分の勝手な行動が招いた事故だ。
言わば自業自得で、メフィストフェレスが責任を負う必要は一切ないと分かっていたが、実際問題そんな簡単に済まされる問題ではないのだ。
俺の所為だ、と口に出してもはいそうですかと納得するような彼らではない。
「いや、俺が行くからいい」
「……判りました」
これはやはり自ら行くしかないな、とカルシファーは決めた。
「ルシファー」
カルシファーは手に持ってあった本を置き、虚空に向かって呟く。
隻腕というのも不便でページを捲るのにも一苦労するが、今の所幻肢痛といったものにも悩まされる事はなかった。それが不幸中の幸いか。
色々あったが比較的心が落ち着いているのもやはり、此方に来た影響なのだろうと解釈する。
「お呼びですか創造主様」
と、湾曲した空間の裂け目から這い出るはルシファー。
美形という言葉を体現したような金髪の碧眼の青年は、ゆっくりと目の前に降り立った。
「それで国の方に動きは?」
カルシファーはルシファーに、自分が寝ていた際に起きた事のあらましを大体聞いていた。
やはりと言うかなんと言うか、国を攻め滅ぼそうとした事を聞いた時は流石に頭を抱えたが、自分がもし逆の立場だったらと考え納得した。
今回は自分が大怪我しただけだからまだ良いが、これがもしルシファーやリリスを始め自分の仲間達だったらと思うと今頃、腑が煮え繰り返っているだろう。
いや、同様に報復戦を仕掛けていたに違いなかった。
被害が街一つで済んだのは人間達にとっても不幸中の幸いだろう。
そして漸く身体が動かせるようになってから、ルシファーに情報を集めるように言い付けていた。
「表立った動きとしてはこの地方への王国兵の派遣ぐらいです。時折小隊規模の兵士が近辺で哨戒していて……勿論、随時処分していますが、アインザッツ本城が発見されるのも時間の問題かと。これはやはり…………」
やはり、戦争を仕掛けましょう。
と、ルシファーは言わんとしている。
その言葉尻には隠している心算だろうが、明確な殺意と期待が入り混じっている。
カルシファーも獣人を虐げその子供達を出汁にし、卑劣極まりない姑息な手段を用いる人間達には心底憤慨しているのもまた事実だ。
「よし判った。今晩にでも王座の間に全員集めておけ」
その言葉にルシファーは目を輝かせ、リリスはピクリと反応する。
今宵アインザッツは大きく動く。
そして、憎き人間達全て掃除できる機会が来ると確信していた。
「仰せのままに」
ルシファーはそう言い残して再び亜空間へ戻る。
それを尻目にカルシファーは懐から一つの袋を取り出した。
口が紐で縛られた質素な麻布の袋だ。
「ご主人様それは?」
リリスが訝し気に袋を見つめた。
「ん?……ああ、犬獣人に伝わる秘薬らしい」
休養中ジルから手渡された袋には小さな小瓶が入っていた。
聞けば態々獣人達が此処まで届けに来たらしい。
何とも義理深い種族である。
「…………」
「毒味させるので少々お待ちを」
栓を開けて訝しげに匂いを嗅ぐカルシファーにリリスが言った。
「大丈夫だ。幾らなんでも毒を盛るほど彼らは愚かではない。それに念の為ジルが一度匂ったらしい」
彼女は鼻が効く。毒ぐらい簡単に嗅ぎ分けられる。
とは言うもの小瓶を満たす液体は、いかにも身体に悪そうな毒々しい色をしている。
カラフルな外国のお菓子みたくグロテスクな色合いで、カルシファーが眉を顰めてその匂いを嗅ぐのは殆ど反射的な行為だった。
(無臭。まあ悪いのは色だけか)
そう決めると一気に飲み干す。
「あっ」
リリスが小さく悲鳴をあげた。
喉を通り胃に落ちる液体は、未だ嘗て飲んだことのない七色の味がした。
突き抜けるような清涼感と独特の甘みとほろ苦さがごちゃまぜになった、……そう、一言で言えば不味かった。
「……ふぅ」
飲み終わると同時に、身体の底から暖かい何かが湧き出してくるような感覚に囚われる。
これは回復魔法を掛けて貰っている時の感覚に似ていた。
味は置いといて効能は一応本当にあるらしい。
先程より心なしか身体が軽くなったことを感じながらカルシファーは席を立った。
「行くか」
「はい」
渦中のメフィストフェレスの自室に向かい、二人は歩き出す。
カルシファーの知る所ではないが、つい先々日まで城内に漂っていた息も詰まるような緊張感は今や霧散し、巡廻する兵卒の表情にも若干余裕が戻っていた。
暫く豪華な赤絨毯を歩くとメフィストフェレスの部屋が見えてくる。
彼ら、黒円卓議会の面々は各々最低一つは自室を持っている。
その中には殆ど部屋を使わない者だったり、逆に一日の大半を部屋で寝て過ごす者もいる。
メフィストフェレスは概ね前者に当たり、自室を殆ど使わず至る所で寝転がったりしているのだ。
他人のベッドに勝手に潜り込んだり廊下で寝ていたりと。天真爛漫だ。
そんな彼女が約七日間も自室に引き篭もっているのである。
流石に一度会わなければならない、とカルシファーは扉を叩いた。
「メフィストフェレス」
部屋の中から返事はない。
「入るぞ」
もう一度扉を軽く叩きそして開いた。
すると何とも言えぬ微かに甘い匂いが鼻腔を擽った。
(ふむ)
女の子から何故か良い匂いがするとは知っていたが、部屋まで良い匂いがするとは。
そのことにカルシファーは軽く感動を覚えた。
(そういえば個人の部屋を訪れたことはなかったな……っと)
カルシファーが部屋の中を見渡すと、奥には毛布を頭から被り小さく蹲る少女がいた。
「メフィストフェレス!!!」
リリスが怒鳴り、壁がそれに呼応するように震えた。
目覚めた主の元へ赴きもせず、訪ねられても何も反応を示さない彼女に業を煮やしたのだ。
「どうしたんだ?」
そう言いながらゆっくりと距離を詰めるカルシファー。
しかし、その時頭を抱え怯える彼女は半眼で見てしまった。
顔半面にまだ生々しい火傷の跡を残した、片腕のないカルシファーを。
「……ヒィぃ!?」
小さく悲鳴を上げ、メフィストフェレスはずりずりと後ずさる。
そして、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
と、譫言のように繰り返し震え出した。
「き、貴様ァ!」
その瞬間リリスは完全にキレた。
我慢の限界だった。
黒円卓議会に身を置くものとしてあるまじき主に対しての驕傲な態度。
目の前の小娘は一人で責任を負っている心算なのか。
全責任を背負った気になっているのか?
そのあまりの烏滸がましさに反吐が出る。
自然に、リリスの身体は動き出していた。
——この恥知らずを……。
「リリス!!!!」
ピタッとリリスはカルシファーの一喝で寸前の所で動きを止めた。
「ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
未だカタカタと震えながら嗚咽を漏らすメフィストフェレスにカルシファーはゆっくり近づく。
そしてすぐ横で腰を折ると、その小さな頭を胸に抱いた。
ビクッと彼女の小さな身体が震えた。
「もう大丈夫だ。心配掛けたな」
「……うわあああああん」
その言葉が引鉄となり、メフィストフェレスは子供の様に大声で泣き続けた。