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ならば烏をなんとしよう

作者: アザとー

「産声上げずに死んだ子は、恨めしかろう憎かろう」

 その声があんまり近くで聞こえたものだから、私はぎょっとして足を止めた。

 ここはニポノの中でも最南端に位置する沖海道の山中だ。深い草を踏みしだいた獣道は細くて埋もれかけている。道の両側からしだれかかる背の高い草をかき分けるようにして進んでいたのだから、先ほどから聞こえていたのは細い草の葉がガサガサとすれ合う音だけだ。

 だから、その声はシンと耳朶に染みた。

「産着も着せずに焼いた子は、さだめし寒かろ、熱かろう」

 女の声だ。

 疲れたような低音が混じる様子から、私はそれが若くはない女のものだと推測した。

「産声上げずに死んだ子は……」

 いま一度上がった声とともに獣道を覆っていた藪草があちら側から開かれた。ガサッと草をならしてあらわれたのは、はたして、三十路を過ぎたころだろうという細面の女で……

「あら」

 少しだけ声をあげてから彼女は腰を折り、ひどく丁寧なお辞儀を見せた。

「ごめんくださりまし。まさか人がおるとは思わないものでしたから」

 トンチンカンな言葉遣いは、それが山間に暮らすものの精一杯の礼儀なのだろうと思われた。

 こうもへりくだられるということは、彼女は私がよそから来たものであると知っているのだろうし、それにひどく気立てのよさそうな女である。だから私は気後れすることなく、彼女に聞いた。

「南の村へ行くのはこの道でいいんですかね?」

「あれまあ、まったくの逆方向へ来なすったなぁ」

 驚きの表情を浮かべた彼女は存外、若くも見えた。いや、年齢の話ではなく、内面が表に出てきたものが彼女に若さを与えているのだろう。

 まるで子供の様に無邪気な、まっすぐな驚き、それが表情の表面に薄化粧のようにぽっと赤みを灯していた。

「そもそもがあんた、なんでこんなところへ来なすったね」

「私は民俗学者でして、このあたりの語り部から昔話を蒐集するための研究旅行なのです」

「あ~、そうかい、昔話ねえ……」

 彼女の顔がすうっと白んで、今度はひどく年増のように見えた。

 それはあまりに一瞬のことだったので光線の加減だったのかもしれない。次の瞬間には、彼女は愛想のいい笑みを満面に浮かべて軽く頭を下げていたのだから。

「今時間から南の村へ向かっては日暮れに間に合いますまい。よろしければうちへお泊りください」

「いや、それはご迷惑でしょう」

「なんの迷惑もございやせん。ろくなおもてなしはできませんが、野宿よりはよっぽどかマシでしょう」

 一瞬……今度は勘違いなどではなく本当に一瞬、彼女の目がきらりと光った。

「それに、昔話がお好きなら面白い話をお聞かせすることができると思いますが」

「ほう?」

「南の村あたりとはちょっと違う、ウチの村落だけに伝わる話でございます」

「それは興味深いな」

「ではこちらへ。うちはすンぐ近くでございます」

 鼻だけで発音する田舎らしい訛音が私の警戒心を拭い去る。この質朴な女が私に何かをしでかすわけがない。

 こうして私は、彼女の家に一夜の宿を借りることとなった。


 村落とはいっても山間に十数軒の民家が肩を寄せ合っているだけの――それはここがほかに寄る辺ない山の奥なのだと感じさせる侘しいものであった。

 それでなくとも家影少ない村の中で、もとはここでたった一軒の商店だったのであろう間口の広い家は雨戸を立て切り、他にも何軒か固く雨戸を閉ざし、風に食われて軒の朽ち落ちたものなどもあるのを見れば、ここが死にゆく村なのだとわかって侘しい。

 そんな私の感慨を汲んだか、女は立ち止まってにっこりと笑った。

「今じゃあ若いもンは便のいい街場に引っ越してこんな有様ですけどね、これでも昔は炭焼きで有名なにぎやかな村だったのでごぜえます」

「……ああ、そうか、最近では瓦斯を使う家も多いからね」

 半ば生返事、反射的に言葉を返しながら道端の一件を覗き込んが私はぎょっとして身をすくめた。

 少しだけ開いた戸の隙間から、一人の老婆がこちらをじっと見つめている。体の大半は戸と、それが作る土間の暗がりに紛れ、ただ顔の半分だけを夕暮れの薄明かりに晒しているものだから、初めは顔が半分だけ浮かんでいるのかと思った。

 その老婆は皺に埋もれた口をもごもごと動かし、何かをつぶやいた。頬の皮の内側に言葉を溜めこむような、遠慮がちなつぶやき……

「……気をつけなされ……」

 常であれば気づかぬような小声のささやきがはっきりと聞こえたのは、それだけ私の神経が研ぎ澄まされていたからなのだろう。

 念仏のように繰り返されるそのフレイズに足元がすくむ。それを見て取ったか、老婆はものがなしい節をつけてなにやらつぶやく。

「……黄泉路の烏は欲深烏、いくら食ってもひもじいひもじい……」

「それはいったい……?」

 言葉の意味を問おうと一歩を踏み出したが、そんな私の腕を女がつかんだ。

「どうなされました?」

「いや、そこにおばあさんが……」

「ああ、タネおばあちゃんね。おばあちゃん、こんにちは」

 女はただにこやかに挨拶をしただけだ。それでも……あの時の老婆の表情は凍り付いた。

「ひ! ひぃい!」

 呼吸をたっぷりと含んだ悲鳴をあげて、おそらく地方のまじないなのであろう、指を奇妙な形に組んで顔の前に掲げた。

「なちゃご……なちゃご……」

 繰り返される厄除けの言葉と、立てた人差し指の背中から中指を絡めた封印のしぐさは、この老婆がどれほどこの女を恐れているのかを表している。

「やあねえ、おばあちゃんったら……」

 女が少し体を揺すっただけで老婆は青ざめ、それからばたばたと家の奥へと駈け込んでいった。

 あたりに静寂が満ちてゆく……

 たまらずに声をあげようとした私をさえぎったのは、嘘くさいほど明朗な女の言葉であった。

「すみませんねえ、こんな山中のことだから、年寄りはどうにも信心深くて……でも、先生は学者さんだから、まさかそんな迷信なんて信じないンでございましょう?」

 この言葉に私の動物的本能は全て封じ込まれ、ただ、学者としてのプライドと理性のみがそこに残った。

 そうだ、山に暮らす人がその厳しい環境で生き残るための知恵として俗説迷信の類を深く信心するなどというのは、あまりにもありふれた話なのだ。そして先ほどの老婆の畏怖具合から察するに、この女はそんな迷信の哀れな被害者なのであろう。

(たかが女一人、いざとなったら腕力でどうにでもできるさ)

 そんな侮りもあったかもしれない。

「さあ、家はすンぐそこでごぜえます。まいりましょ、先生」

 にこやかに手招きする女の後ろについてゆくことに、疑問などまったくなかった。


 女は名前を『シヅ』と名乗った。家は村落でも端のほう、外れにあって侘しげな掘立小屋であった。

「あばら家でございますが」

 彼女が謙遜するまでもない。壁土はところどころはがれて落ち、柱は朽ち痩せて頼りないのだから、ここに人が住めること自体が驚きだ。

 それでも中は二間に仕切られ、彼女は土間の端に私を通すとすぐ、奥の間に消えた。

 しんしんと、静かな山の空気が痩せ柱にしみ込んでゆく。家の奥は暗く、おそらくは子守唄であろう何かをつぶやく彼女の声だけが聞こえるともなく聞こえるだけで、ひどく寄る辺ない寂静だけが私に警鐘を鳴らす。

――ここにいてはいけない。

 しかし表はすでに薄く闇を孕んだ夕暮れで、間もなく日も落ちよう。

 それに、学者根性というのだろうか、私は彼女が語ってくれるであろう『この村落にだけ伝えられる昔話』というものがどうしても聞きたかった。

 しばらくして、戻ってきた彼女は私に深々と頭を下げた。

「お待たせして申し訳ないです。何しろ子供がおるもので……」

「お子さん? お仕事中はずっと一人で家に?」

「へえ、何しろ病弱なので、表へ出せンのでございます」

 街場ではこれを嫌う風潮もあるが、厳しい山仕事などに子供を連れて行けぬというのはよく聞く話だ。ここはそれほどに田舎なのだから驚くこともない。

「先生、湯など使われますか?」

「ああ、もしもお手間でなければお願いしたい。何しろ山をさまよっていたのだから、疲れを洗い流したくてね」

「へい、すぐにご用意いたしましょう」

 それから、彼女が用意してくれた湯に浸かって、質素な山菜の食事などでのもてなしを受けるうちに、私の中にあった恐怖心は薄らいでいった。

 何しろ彼女は普通の女なのだ。

 食事中に箸をおいて、「ちょっとごめんくださりまし」と奥の部屋へ引っ込んでゆく様子などは、ひどく母親らしい慈愛に満ちている。

「失礼いたしました。乳を飲ませたらすンぐ寝てしまいました」

「いえ、お気になさらず」

「さて、先生には何からお話したら……」

「そうですね、あの山道で会ったときに歌っていたあの歌について、詳しく聞かせていただけませんか?」

「あれ! 聞いていなすったかね! 下手くそなもんだで、恥ずかしい」

「いえいえ、とてもお上手でしたよ。あれは子守唄か何かで?」

「ええ、このへんだけに伝わる歌でして、これこそ昔話をもとにしたもので、古~いものなんでごぜえます」

「へえ、一度全部聞かせてくれないかね?」

「ようござンすよ」

そう言いおいてから彼女は、静かに歌いだした。


――産声上げずに死んだ子は、恨めしかろう憎かろう

 産着も着せずに焼いた子は、さだめし寒かろ熱かろう

 ならばこの子をどこに置こ、烏に食われぬ土の下

 土の下では苦しかろ

 ならば座敷の奥の方、いじこにくるめて寝かしゃんせ

 それでも烏は欲深鳥、子供を見つけりゃ食いに来る

 ならば烏をなんとしよう

 代わりを差し出し食わせても

 黄泉路の烏は欲深烏、いくら食ってもひもじいひもじい


 少し低められた吐息のような声は土間の床近くを這い、私の耳朶に届くころにはすっかり冷えきって背筋を凍りつかせる。

 だから私は、学究など放り出して話題を変えようと試みた。

「ふうむ、実に興味深い。ここは南ニポノだというのに、コード進行は北ニポノに伝わるものとひどく共通する部分がある。特に……」

「そんな難しい話はあたしにはわかりゃあしません。何しろ学がないんで」

「あ、そう。そうだ! 夕食に出た、この山菜だけど……」

「先生、この子守歌の意味、知りたくありませんか?」

 私はこの時ほど己の職の業の深さを呪ったことはない。私に新たな知識を与えようというものが目の前にいる、それを聞かずして何が学者か、と内なる声が責めたてる。

 私は静かに、彼女の言葉に耳を傾けた。

「あたしらのところでは、死んだ者は烏に食われて地獄に至るんだという話がありまして、地獄に行かないために死んだ人間は焼いてしまうのが習わしでございます。でもね、それは裏を返せば、烏に食われなければ、そして焼いてしまえば、死んだ者はあの世に行くことはないということなのではないかと、あたしは気づいてしまったのでごぜえます」

 じっとりと、腋の下が汗ばんでくるのを感じる。私は背中から腕から、体中の神経という神経を研ぎ澄ませて隣の部屋の気配をうかがった。

 意味などないが、それこそが私の身を守る最後の手段であるような気がしていたのだ。

「いえ、あたしだけでない。きっとこの子守歌を作ったものはそのことに気づいておったのでしょう。そして、同じ不幸で泣く者の二度とおらぬようにと、こうして歌に託して残したのでしょう」

 尚も話を続ける彼女の声の下をかいくぐって、そこにいるはずの赤子の寝息を確かめようと耳を澄ます。

 板戸を越えて寝息など聞こえるはずがないことは解っている。物音なり泣き声なり、そこに生命ある者がいるのだという存在証明さえされれば、それだけで私の心は休まるのだ。

「もしも欲深鳥が来たならば、代わりに食らうものを与えてやればいいのでごぜえやす。腹がくちくなれば、やつらは勝手に帰っていきますからね、あたしはいつもそうやって……」

 板戸を叩く小さな音が聞こえた。おそらくは子供の、頼りないほど小さな掌の、ふっくらと柔らかい掌が母親を呼ぶ音……その音は醜悪な水気を含んで、びちゃびちゃと汚い音であった。

「あれまあ、坊やが起きてしまった。ちょっと失礼させておくンなまし」

 彼女が立ちあがり板戸を細く開けた瞬間、何かが臭った。それは日向に捨て置かれた小動物の死体が発する、あの不快な臭気であった。

「うるさかったかい、ごめんね。でもお客さンだから、いい子にしておいでね」

 そう言いながら彼女が抱き上げた何か――向こうの部屋の暗がりに紛れて姿は見えなかったが、ひどく小さな何かが、にたりと笑う……

 姿の見えぬものの笑いがなぜわかったのか、感覚的な幻影なのか、それとも研ぎ澄ました神経の一端に何かの怪異が触れたのか、そんなことはもうどうでもよい。私はただただ震えて彼女が『何か』を大事そうに抱えて奥の間に入ってゆく、その背中を見送っていた。

 板戸は締め切られ、彼女のうたう子守唄が静かに流れてくる。

「今宵の客はやせっぽち、欲深烏は食うだろか、食うだろか……」

 急に出来の悪いバネにはじかれたように、私は立ち上がって駆け出していた。

 荷物などは置きっぱなしだが、くれてやっても構わない。今はここから逃げることが先決だ。かといって行くあてなどあるだろうか、いや、さきほど戸口から覗いていた老婆、あの老婆の元までたどり着けばあるいは……


 よたよたと山道を走る私の背後で「ぐぎゃあ」と鳴く者があったが、それが赤子なのか烏なのか……それすらも、もう、どうでもよいことであった。


 




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