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小説における四つの問題 III 王の不在

作者:Aya
 1.  殺人はメルヘンである.

 1.1 物語が現実を侵食する過程を犯罪と呼ぶ.

 瀨下談山「小説の整合性に関する四つの問題(問題編)」より


 An epilogue

 アリスは、眼を開きました。
 ふかふかのお布団から日だまりの香りがして、彼女はわずかばかり、つかの間の回想にひたります。
 季節は春、移り気な天気はここ数日ばかり安定しています。
 陽気にまぎれて、余人をたぶらかそうとする牧神があらわれるかもしれない。そんなとりとめのない空想を思いついて、彼女は笑顔になりました。
 ほこりの舞う屋根裏部屋は、古色蒼然たる、という形容詞がふさわしいかもしれません。使われている木材は経年に見合った落ち着いた色合いをしており、さながらデ・ラ・メアの作品に登場しそうな、古ぼけた長持さえありました。
 室内には換気の行き届いていない部屋に特有の、かび臭いすえたにおいが漂っています。
 物心ついたときから、アリスは、この一間だけが自由になる唯一の世界でした。
 母親は男を作って出て行き、父親は病を恐れて近寄りません。世話を焼いてくれるばあやと、愛猫のジョルジュだけが彼女のすべてでした。
 生まれた時分から身体が弱かったアリスは、学校にもろくに通えず、起きている時間の大半を読書に捧げていました。父親は若かりしころ、仏文科に居た文学青年でした。彼がかつて蒐集し、やがてうち捨てた作品群は、アリスにとって「人」を知るためのよすがとなりました。愛すべきデカダンスにあふれた作品たち……江戸川乱歩、小栗虫太郎、中井英夫——色あせた背表紙たちが整列する本棚は、彼女の宝物でした。
「あら?」
 しかれども。
 見慣れた光景に一点だけ、その日は変化が生まれていました。
「見たことのない本だわ」
 古ぼけた一冊の本が、本棚に知らん顔をして収まっているのです。
 昨日までは、なにもなかったのに……。
 手に取ってみると、経年に耐えかねた表紙はぼろぼろとくずれましたが、装幀に使われていた革は不思議なくらい手になじみました。
 一枚めくってみると、扉書がありました。

 As we are commanded “Amen”, we have discovered the euclative truth, being immutable and omnipotent.

「聞いたことのない単語ばかりね」
 どうやらかなり時代がかった単語で構成されているらしく、英語に堪能でないアリスは何冊かの辞書をひもときながら、やっとのことで解読しました。
「我々は、ただかくあれ……と命ぜられたままに」
「すべてに妥当しうる不変の真理を……発見せり。」
 作品は四つの章から構成されているらしく、スペード、クラブ、ジャック、ハートの順で並べられているようでした。
「スペード……いちばん好きなカードだわ」
 不思議なことに、最初の章を飛ばして次の章を読もうとすると、どうしてもその頁にたどり着けないようになっているのでした。
「それじゃ、お手並み拝見ね」
 アリスは部屋の隅に転がっていた文机をもちだしてきて、座布団を敷いて、物語を読み始めました……。


 Spade
 形式に関する問題 - The kingdom of logic -

 III
 王の不在

 ——あの日、銃声が三発聞こえたの。
「……」
 ディスプレイとにらめっこしながら、どれだけ悩んでも続きは思いつかず、日下隆哉は、背もたれに寄りかかった。
「なあ、教えてくれよ。あんたなら、このあとにどんな文章を続けるんだ?」
 逆恨みとわかっていながら、日下はつぶやかずにはいられない。
 こうして独り言をつぶやくのは、決まって、締め切りに追い詰められているときだ。
 日下は、いくつかの雑誌で連載を掛け持ちしている。フリーランスの本分といえば聞こえはいいが、メインの給料だけではやっていけないからにほかならない。
「やめだやめ。気が乗らないときに文章を考えたってしかたがない」
 気分転換しよう、となかば強引に自分に言い聞かせて、日下は凍えているアルミサッシを開け放った。
「寒っ!」
 遠慮もなしに吹き込んできた北風にあてられ、くたびれた三十路男は網戸をスライドさせ、そそくさと部屋の中へ逃げ戻る。
 以前は、ここまで冷えた風が吹き込むことはなかった。
 向かい側のマンションのせいだ。絶賛建設中の外壁には、灰色のシートがはためいている。あんなモノが完成したら、さぞかし洗濯物は乾きにくくなるにちがいない。
 およそ平凡な結論へと至り、日下は苦笑いする。
「なあ柚木。お前ならこんなつまらない台詞を、俺が言ったって笑うのかな」
 離れた場所で暮らす幼なじみは、ありふれた事務員の仕事を手に入れているはずだ。
 彼女はまるで、コマネズミのようにちょこまかとしている。察しが良くて、そのくせいつも他人を立てるようなところがあった。
 高校、大学、そして勤め人になってから。日下と彼女は、短くないつきあいである。
「今年は、なかなか暖かくならないな」
 冬と春の綱引きはいつになったら終わるのだろう。
 近所の公園の紅梅も満開になったし、そう遠くないうちに冬は了わって(終わって)、春へと季節が移り変わっていく。
  色あせた日めくりカレンダーの一番上を破りすてて、なんの気なしにながめてみれば、まだ二月も半ばを過ぎたあたりだ。
「そういえば、あれから一年たつのか」
 しかし、形になりかけた思考は、その寸前で断ち切られる。
「うーむ」
 日下は薄くなってきた頭髪に手を当てる。
 正直なところ、まだ夢の中をさまよっているような気がする。
 こんなときに身支度を調えたら大変だ。
「とりあえずメールチェックだけこなすか」
 思考能力が低下しているときは、とりあえず何も考えなくても出来ることをする——四六時中、時間に追われていた記者生活で身につけた能力の一つだ。
「……」
 コンビニで買った菓子パンをほおばりながら、日下はマウスボールをスクロールしていく。
 英語サイトと、国内のいくつかのニュースサイトだ。日下より一回りうえの年代は、どちらかというと、インターネットを甘くみがちなところがある。曰く情報源としては未熟だ、だれが書いているかわかったものじゃない、等々。
 しかし日下は、まだインターネットがパソコン通信と呼ばれていたころから注目していた。
 “これからは見ず知らずの人たちとたくさんつながれるんだ!!”
 かつての少年はひょっとすると、十年以上も前から、さめることのない夢を見続けているのかもしれなかった。
「……ん?」
 すこしぱさついている菓子パンの最後の一口を押し込もうとしたところで、日下は動きを止める。
「チャイムが鳴った気がするな」
 腰を浮かせて日下は防犯カメラに目をやる。
「だれもいないじゃないか」
 そもそもこのマンションはオートロックである。だが日下は、完全に締め切られた防犯施設は、そもそも中の人間を閉じ込めているのではないかと思うことがある。
 日下がそんな得体の知れない不安にさいなまれるのは、きまってある人物の作品を読んだ後だ。
 ——瀬下談山。
 画家であり、芸術家であり、絵本作家であり、脚本家であり、そして、小説家だった男。
「うわっ!?」
 愛用のガラケー……古式ゆかしい二つ折りが聞き慣れない電子音を鳴らし、日下は反射的に身を縮こませた。
 どうにも八ビット音は気に入らない。
「……もしもし」
 なんて不機嫌な声色だろう。
 俺はまだ、まったく大人なんて演じきれていない——刹那、日下はそう感じる。
「朝早くからごめんねェ」
 しかし日下の怒りは、そう長くは続かない。
 イントネーションを聞いた瞬間、電話口の相手がわかったから。
「なんだ。お前か。柚木」
「うん」
 彼女は関西より西側の出身だったはずだ。それなりに長いつきあいだから、日下はたいていの内容なら方言も理解していた。
「どうした?」
「話したいことがあるン」
「長くなりそうか?」
「うん」
 日下は耳元から携帯電話を話して、わずかばかり逡巡する。
「今週は土日以外仕事なんだ。そっちの都合に合わせるから、どっちかで来てくれ」
 自分でもびっくりするくらい、優しい声が出た。
 柚木相手にはいつだってこうだ。
 自分から距離を置いても。どれだけ冷たく突き放そうとしても。こころの奥に“おき火”のような感情がくすぶっていて、その引力から、逃れることが出来ない。
 もっともそれは日下の手前がってな錯覚で、しばらく続いた偶然に、奇妙な暗合を感じているだけかもしれない。
「……わかった」
 素面の柚木はものわかりがいい。
 これで酔うとめんどうに、さらにしつこく絡んでくるのだから、人間というのはわからない。
「ああ。悪いな。これから仕事なんだ」
「そうけェ。たいぎぃねェ」
「いま、ある宗教団体の取材にかかりきりなんだ。来る日がわかったら、すぐにメールしてくれ」
「うん」
「それじゃ、切るぞ」
「うん……隆哉クン、無理せんでねェ」
「ああ。ありがとう」
 名残惜しかったが、日下はそこで通話終了ボタンを押す。
 通話時間は、わずか一分足らず。それでも携帯電話に押し当てていた耳が、ほんのりと熱をえている。
 メールを指定したのは、日下に電話に出る習慣がないからである。
 ——先輩は、携帯を携帯していないじゃないですか!
 そう唇をとがらせたのは、日下が教育係を命ぜられた新入社員の女の子だった。
「なあ。あれから俺は、何かをなせたんだろうか?」
 答えのない疑問にとらわれるようになったのはいつからだろう。
 ひとはどこから来て、何者で、どこへいくのか。そんなありふれた疑問が、ここのところしばらく、日下の頭の中でリフレインされている。
 いつまでたっても答えは出ない。いいや、出す勇気がないのかもしれない。 
 「今日はどんなネクタイを締めようか」と視線を泳がせながら、日下はタバコを吸うために網戸を開け放ち、短パン一枚だったことを思い出してふたたび部屋へ引っ込んだ。

  *  

「ふう、」
 と息を吐き出す。
 ショートピースの煙は、いつもとかわらないたいくつな色をしている。
「この煙が雲になる……そんなわけないか」
 三十をすぎると、昔のことばかり思い出す。
 走馬燈のように日下の脳裏に思い浮かんだのは、六年ばかり前に取材した、精神病院の院長である。
 院長は自分のことを「雲を作る職人」だと説明し、勤務時間外にかかわらず、中庭のベンチで悠然とパイプを吹かしていた。日下は院長を「先生」と呼び、手紙のやりとりをするようになった。
 院長が死ぬ間際のことだ。
 末期がんに冒された医師は、鎮痛剤の投与をいっさい拒否して、うっすらと笑みを浮かべて死んでいった。その透明な表情に、日下はこころ揺さぶられたのだ。
「なんだったんだろうね、先生。あの顔の意味はさ……」
 日下は手にした麦茶のペットボトルでのどを湿らせる。
 彼は、ふと思った。都会に不足しているのは、“赦し”ではないかと。
 西新宿の、雨後のタケノコみたいに林立するビル群のただ中にいるからこそ、そんな感傷にひたりたくなるのかもしれない。
「ひとも、モノも、物語も。新宿では何もかもが、折り重なって存在している……」
 携帯灰皿に吸いさしを押しつけ、日下はのびをする。
「さて。作業に戻ろう」 
 ついさっきまでぼんやりしていて、もやのかかったようだった頭はさえきっている。
 室内へ戻って、 愛用のノートパソコンを起動しようとして、日下は固まった。
「なんだろう、こいつは」
 ありふれた茶封筒に収まっているそいつは、ありふれた手紙だった。
 ただ一点、その文面を除いては。
「逆恨みの手紙でもないしな」
 肩書きは星の数ほどあれど、いちおう日下のメインの仕事は、評論家ということになっている。だからごくたまに、日下の書評に対して文句を言ってくる作家が居たりするのだ。
「でも、これはそういうのじゃない」
 内容はただ二行——新聞の切り貼りで「あなたのすべてをしつている」「わたしはせじもたんざんだ」とある。
 感情にまかせて書き殴られた文章とは違う。
 むしろその対極だ。
 必要な表現がこれだけだったから、ただそれ以上は、書かなかっただけなのだ。
「……うーむ」
送り主はわからない。ただ文章の内容からして、すでに日下に精神的負荷のようなものが、じわじわと蓄積していた。
「!!?」
 はらりと。
 封筒からなにかが落ちる。
「うっ……わあああああああああああああああああああああ!!!!!!!」」
 遠慮抜きの大音声が漏れ出でて、日下は思わず手のひらで口を押さえた。
 金輪際思い出したくない最悪の記憶が、フラッシュバックしそうになったのだ。
「ば、そんな、バカなっ!」
 折りたたまれた狐の面。 
“あの秘密”を知っているのは、日下ともうひとりだけのはずである。
「ひょっとして、まさかあいつが裏切ったのか……?」
 日下はいてもたってもいられない様子で、ノートパソコンに検索キーワードを打ち込む。「墨ノ股川大水害」と。
 ほどなくして、ノートパソコンの画面に検索結果が表示される。大半は事故についてまとめたニュースサイトや新聞社の記事で、最新のトピックはといえば、近頃とり行われた慰霊祭を扱ったものだった。
「はあ、はあ……」
 犬みたいに乱れた呼吸を整え、日下は右手で、強く胸に手を当てる。
「ふー、ふう」
 数分のあいだそうしていると、やがて心拍も呼吸も落ち着き、日下はようやく人心地つくことが出来た。
「まったく、驚かさないでくれよ」
 心臓に悪い、悪趣味な冗談だと日下は思った。
「……ん?」
 メーラーが電子音を立てて、新着メールのあることを報せてくれる。
 後輩の雑誌記者に頼んでいた、「例の団体」に関する調査報告書である。簡潔にまとめられた内容を読み進めるうち、日下の表情には喜色がまじった。
「良くまとまっているな」
 後輩の雑誌記者は芸能関係が専門のはずだが、日下がむりやり頼み込んだネタも、きっちり調べて報告をあげてくれた。
「これは、相当いい店に連れて行ってやらないとなるまいな」
 なじみの寿司屋に連れて行ってやろうと、日下は腹をくくった。
「もう一通あるな」
 そのメールに紛れるようにして、ある大手出版社からメールが来ていた。
 日下先生たちの小説が刊行されてから、そろそろ一年になります。ついては、現在のご心境をうかがわせていただきたいと考えています。ほかの方たちともご連絡の上、折り返しご連絡いただけたら幸いです……。
「日下先生、ね」
 たった一作しか世に問うていないのに先生とはこれまたいかに、と日下は自問する。この枕詞は、本業の評論ではいつも名前を呼ばれるときに添えられた。しかしクリティックとオーサーでは、その意味合いは、おそらく大きく異なる。
 正直なところ、日下はあまり乗り気ではなかった。
 日下たちの合作である「続・四つの問題」という作品は、戦後すぐに出版された「小説における四つの問題」という作品の続編ということになっている。書いた当人たちだからこそ知っているが。
 ——ほんとうは、そうではない。
「ん?」
 ふたたびインターフォンが鳴らされた。
 もういちど防犯カメラの映像をみてみるが、冷え冷えとした北風吹きすさぶ廊下にはだれもいない。猫一匹すら転がっていなかった。
「バラエティー番組の企画か?」
日下は見慣れたはずの空間が、異質な存在にじっとりと浸食されていくような不安を覚えた。
目の前にたたずむクリーム色の扉が、やけに遠い。
薄い板から、正体のない悪意があふれ出してきて、さながら聖書の豚のごとく底なし沼へと誘われていく……。そんな妄想が、頭から離れない。
「考えすぎか」
日下はたいした恐れもないまま、扉を開いた。
「あれ?」
だれもいないかと思ったのに、戸口には訪問者が立っていた。
高校生から、大学生くらいの少女がひとり。
「どちら様で?」
「田ノ上と申します。申し訳ありません、アポも取らずに押しかけてしまって」
 少女は板についたお辞儀をする。
 それにしても、印象に残らない顔つきをしている。かわいらしいわけでもなく、さりとて、不細工といえるほどでもない。
「あの……そんなにみられていると、緊張します」
「あ、す、すまない」
 しらず、無遠慮な視線を投げつけていたことに気づき、日下は自分をいましめた。
 男はこうだからいけない。
「あの、いったい、どんなご用件ですか?」
 どうやら彼女は、日下に悪意や敵意を持っているわけではなさそうだった。
 日下はすこしだけ態度を軟化させる。
「先生に、ぜひともお話を伺いたいんです」
少女は熱っぽく語る。
「続・四つの問題について」
「ああ、あの作品ね」
 おそらく、なじみの編集に頼まれたに違いない。
 途切れ途切れの断片的情報を、自分に都合の良いように組み合わせて、日下はそう判断した。
 まるでそんな日下の思考を読み取ったかのように、少女はこう続ける。
「はい。ともだちのお父さんが編集者をしてるんです。そのつてで、大ファンだった日下先生にお会いできるって聞いて」
「それはうれしいな」
「わたし、小説を書いているんです」
「そうなのか?」
「はい。文芸部です」
「俺も昔はそうだったよ。
 立ち話もなんだ、入ってくれ」
 戸口では身体が冷えてしまう。そう思い、日下は室内へ少女を招き入れた。
 あまりに遅い時間ならば保護者に連絡もするが、知り合いの編集者のつてだというし、陽が傾き始める前に帰ってもらえばいいだろう。彼はそう判断した。
「お邪魔します」
「……?」
 少女はその小柄な体躯には似つかわしくない、おおぶりなボストンバッグを提げている。色合いも年ごろの女の子には似つかわしくない、深く、落ち着いた緑色だ。電車の網棚に置かれていても、わからないくらい……。
 だがそんな違和感も、瞬間を過ぎれば消え去っている。
 すでに日下から、日頃の伶俐な思考は失われていた。
「いま履き物を出すから」
「はい」
 少女は、きちんと革靴を揃えた。
 少女の靴はぴかぴかに磨き上げられていて、横にあった日下の革靴は、くすんでみすぼらしくみえた。
「そこら辺に座ってくれ」
「はい。わあ、小説ばかりですね!」
 壁沿いのブックシェルフを見て、少女はまるで子供のように喜んだ。
「これでも、評論家なんてやっているからな」
 日下の蔵書は、三万冊をゆうに超えている。
 卒業した大学の図書館に「日下隆哉コレクション」などという、おおぎょうな常設展示がもうけられるくらいだ。
「ぜんぶで何冊くらいあるんですか?」
「ここには六千冊くらいかな」
「推理小説ばかりですね……あ、小栗虫太郎の『完全犯罪』もある」
「よく知ってるな」
 小栗虫太郎はこの国で「三大奇書」と呼ばれている「黒死館殺人事件」を書いた男だ。近ごろは著作が復刊されることも少なく、作品の入手には苦労が伴うようになった。
「本が好きなんですよ」
 そう答えた少女の横顔に、日下が目を奪われたのはどうしてだろう。
 音と言葉は、本来不可分なはずであるのに。少女の返答には、まるで言葉以上の意味があるように彼には感じられた。
「でも日下先生、考えてたより、ぜんぜん気むずかしくなくて助かりました」
「そうか?」
「はい。批評家さんなんていったら、書斎で立派な肘掛けいすに鎮座していて、『何かね』っていってこっちをにらむものだとばかり……」
「っ……ははっ!」
 日下はこらえきれず、思わず笑い声をもらした。
「それはまた、ずいぶんとステレオタイプな批評家だな」
「えー。そうですか?」
 少女は口をとがらせる。
 ——なんだ、年齢相応の女の子じゃないか。
 どうして、最初に得体のしれないなんて思ったのだろう。内心で見る目のなさに落胆しながら、日下は少女の評価を修正する。
「でも、先生の肩書きは作家じゃないんですか?」
「いや。俺は批評家だよ。小説を書いたのなんて、ただの一度きりだし」
「そう!」
「わっ!」
 少女は日下の手をとった。
「びっくりした」
「あ、ごめんなさい! 日下先生が、あんまりにも自然体だから……気安すぎますね」
「……いいよ、気にしないで。あの作品はさ、四人の合作なんだ」
「四人の?」
「ああ。出版社の企画に応募した四人が集まって一章ごとに書いていったんだ」
 日下は懐かしい光景を思い出す。
 夕闇の迫る喫茶店にホットコーヒーだけで粘って、「ああでもない」「こうでもない」とアイディアを出し続ける。 
丁々発止のやりとり、不思議と空気は悪くならない。
だれかの起草した文章が少しずつ長くなっていって、なんの変哲もない文字の連続が物語になっていく。
「『四つの問題』って元ネタになった作品が有名だったのもあるんだろうけどな」
 四つの問題。
 正式名称は「小説の整合性における四つの問題」といい、最後の芸術家と呼ばれた、瀬下談山の著した唯一の小説だ。
「くさかさん」
「……」
 ——物語の王国は、つねに現実からの審判(侵犯)者におびえている。
 ならば。「続・四つの物語」の巻頭にすえられたこの言葉は、いったい誰の案だったのだろう。
「……」
「日下さんってば!」
「わっ」
「返事くらいしてくださいよ、もう」
 少女は怒ったように、口を膨らませていた。
「悪い。考え事をしていた」
「まぁ、いいですけど。あとの三人は、お名前出されてないんですか?」
「そうだな。評論家として活動していた俺と違って、たぶん全員私人、いいや、一般人だったろうから……」
「わかりました」
 少女は、こんなどうでもいいことも律儀にメモしていた。
 ……。
 ……。
「先生、のど渇きませんか?」
 少女がそう言ってきたのは、ちょうど「続・四つの問題」についてのインタビューが一段落したころだった。
「ああ。麦茶でもとってくるか」
「あの、ちょっと待ってください」
 腰を浮かせ書けた日下を、少女が制止する。
「どうした?」
「日下さん。よかったら、お茶いれますよ」
「え? 君が?」
「これでもわたし、茶道と華道の看板持ってるんですよ」
「あ、ああ……」
 少女の剣幕におされ、日下は会話の意味合いにも深く考えが及ばず、反射的に承諾してしまっていた。
「それじゃあ、そこら辺にお中元でもらったやつがあるから、適当に見繕ってくれ」
「わかりました」
 少女はそう言うと、部屋に備え付けのキッチンを物色し始めた。

  *

「どうぞ」
 差し出された茶碗にはふたがかぶさっている。
「ありがとう」
 「こんなもの、どこから出してきたのだろう?」と考えながら、日下は日本茶をひとくちすすった。
「おお!?」
 有り体に言ってしまうと、うまい。
 自分でいれたのとはまったく違う風味がする。
「この茶は、いったい……玉露ってやつか?」
「いいえ。ただの煎茶です」
「しかし、君……」
「千円すれば、いいお煎茶ですよ」
「俺がいれたのと、何が違うんだろう?」
「知っているか、だと思います。温度が大事なんです」
「そういうものかな」
「そういうものです」
 少女は柔らかい笑みを浮かべる。
「日下さん、先日お書きになった評論についてお聞きしていいですか?」
「ああ。どうだった?」
「驚きました。特に、虚構が際立つのは現実があってこそという一文に」
「フィクションなんて、結局は作りものなんだから、どっぷり浸かるのは良くないって思わないか?」
若かりし頃の自分は、たしかに創作者だったと、日下は思う。
大事なのは場であって、人々だ。皮肉なことに、日下はだれもいなくなってから、その事実に気づいた。
大事なのは内容じゃなくて、だれと話しているかなんだ。
思い出の詰まった喫茶店の取り壊しが決まり、重機に蹂躙される更地を見た瞬間、日下の心に去来したのはちっぽけな感傷だった。携帯電話もまだろくに普及していない時代、ただ同じ場所、同じ空間で、 一体となってひとときを過ごしただけ。それはそれで、奇妙な一体感であった。
「残業つづき、派遣ですぐに雇い止め、休日なんてありやしない。そんなクソみたいな現実だって、フィクションよりはましなはずだ。もっと、アファマーティブじゃないといけない」
「アファマーティブ、ですか?」
 少女はかわいらしく首をかしげる。
「Affirmative actionってわかる?」
「いいえ。英語は苦手なんです」
訪問者はアイロニカルな笑みを浮かべている。
それを文字どおりに否定ととって、日下は続ける。
「積極的格差是正策、とでも訳されるのかな。一般的に企業は、女性をあんまり採りたがらないだろ? 長く働き続けてくれるかわからないし、すぐやめてしまうから」
「そうですね」
「だから男女半々になるように、採用試験で女性に下駄を履かせるんだよ」
「なるほど。たとえば、人種的少数者も同様ですね?」
「そうそう。物わかりがいいな、君は」
日下は満足した。
読者は、こうでなければならない。
批評家の言葉は絶対なのだ。
日下は考える。俺たちは正義を実現しているのだ。資本主義の社会では金を払って本を買うのだから、参考にする尺度があってしかるべきなのである。
……俺たちが、物差しになるんだ。
もちろん、日下の評論に真っ向から反駁する作家もいた。しかし、そういった手合いはこの国には少ない。
「ちなみに創作物とアファマーティブ・アクションは、どう関わってくるんですか?」
「おもに登場人物だね。かわいい女の子やイケメン俳優をいっぱいキャスティングして、現実に疲れた連中をカウンセリングすればいい。そいつらが作り事に癒やされて、少しでも現実に希望を持ってくれれば、それでいいんだ」
「現実に、希望を?」
「ああ。これからは卑近な、小さな物語に素晴らしさを見いだすべきだと思うね」
「……くすくす」
「すまない。すこしばかり熱くなってしまった」
「そういえば、日下さんは以前にもおっしゃっていましたね。『創作物を時勢から読み解く』に出てくる一文だったと思いますが、いまは大きな物語がなくなってしまった、と」
「ああ。革命は可能である、という神話は終わりを告げた。もう社会を変えるべき時代は終わった。これからは、自分が変わるべきだ」
「社会を変えるのは難しいし、不可能だ。だから手近にある自分で済ませよう、ということですね」
「いちいち気に障る言い方をするな、君は」
「申し訳ありません。読解力がないもので」
「いいさ、俺はいま、大変に気分がいいんだ」
これだけ議論をぶつことが出来たのは、何年ぶりだろうか。
ふと日下は、こんなことがしばらく前にもあったような、そんな感覚にとらわれた。
「時代が時代だ。失われた二十年を抜けて、この国はいま曲がり角にさしかかっている。人間のちっぽけさ、汚さを描いてなにになる」
「日下さん」
「なんだ?」
「日下さんはいま、小説を読んでいて楽しいですか」
「っ!?」
息が詰まりにそうになって、日下は思わず、訪問者をにらみつけた。
「おかしなことを聞くんだな」
 これはいけない、と日下は焦る。自分が常日頃蓄えているはずの余裕が、少しずつ、挫滅していっている。
 ペースを立て直さなくてはならない。
「おかしなことでしょうか?」
「そりゃあ面白いと思う作品だってあるし、なるほどこうやるのか、って感動する作品だってある」
 反射的に嘘をついている、と日下は自覚する。
「嘘ですよ。本当はみんな、怖いだけなんです」
「なにが?」
「意味のないことに、気づいてしまうことにです。……日下さんは、すでにご存じなのではないですか? あの大水害のあとには、何を語っても無意味だと」
「君は、どうしてあの事件の事を……」
「事件と言いましたね」
「!?」
 言葉尻を捉えられる。
 なぜだか。
 少女がにやりとしたような、そんな錯覚に日下はおそわれた。
「もう一度聞きます。ほんとうに、あなたは何も知らないのですか?」
「うるさい! 話すことなんて何もない! 帰ってくれ!!!」
 日下は、我を忘れて相手を怒鳴りつけた。
「いいんですか? あなたのいま話している相手の正体を確かめなくて」
「ひっ!?」
 この得体の知れない物言い。
 あの手紙を差し出してきたのは、ひょっとすると、この少女なのではないか?
 日下の背筋が急に寒くなる。身体が自分のものでないような、まるで、得体の知れない何かの蟲が這いずり回っているようであった。
「何を言い出すんだ、いきなり」
「すべての出来事に意味のある時代は終わりました。あなたたちが『続・四つの問題』で言いたかったのは、そういうことだと思ったんですが」
「何者だ? あんたはいったい、だれなんだ!?」
「手紙で名乗ったではないですか。『わたしはせじもたんざんだ』と」
「そんなはずがない! あの男は……あの男はすでに死んだはずじゃないか!?
 あんたが瀬下談山だって言うなら、四つの問題の、続編の書き出しにつながる文章を教えてくれよ」
 四つの問題。
 名だたる文学賞を総なめにし、分断の大御所に「探偵小説の新しい展望」とまでいわせた、伝説の物語。
 その続編は、三十頁分だけ完成していたのだ。だが作者によるオリジナルは、永遠に公開されることはなかった。
 ほかならぬ日下たちが、その可能性を摘んだからだ。
「『誰の分かしらね、』と、わたしはこたえる」
「!?」
「銃声は三発だったんですよね。だったらよくあるはなしで、『犯人』と、残り二人の分です」
「な……、何を、言っているんだ?」
「何を言ってるって……銃は、人を殺すためにあるんですよ?」
 少女は笑顔のまま首をかしげる。
 日下は恐怖した。
この少女はきっと、あくびでもするみたいに人を殺すのではないか?
己の解析力を超えた人間ほど、理解しがたい存在はいない。
「ええ、その通りです。立場の異なる人間同士は理解し合えません。だからいまの答えは、わたしなりの心づくしです」
 ふたたび、日下の思考を読んだかのように、少女はこたえた。
 そして彼女は、ずっとおいてあったボストンバッグから、手袋と無骨な刃物を取り出した。
「騒がないでくださいね。出来るだけ、痛くないようにしますから」
「俺は、これから殺されるのか?」
 少女の取り出したグロテスクな刃物におびえながら、日下は問うた。
「……とぼけたことを」
 その眼に、怒りが灯った、とわかるまえに。
 日下の視界は黒赤に明滅して、のど元にぐっと、血の味がせり上がってきた。腹部にはそして、熱いままの鉄棒が押し込まれたような不快感。
「むぐうっ!?」
 悲鳴をあげようとした口に布が当てられ、漏らそうとした断末魔が遮られる。
「……!」
 しかし、日下は最後の瞬間まで、生きようとあがいた。
 なんということだろう。
 皮肉にも。日下は生まれて初めて「ここにいたい」と思った。
 気がついたらここにいて。なんの気はなしに、人生というやつに興じていただけだったのに。
「——」
 その瞬間。日下には、さながら天啓のようにひらめいた感情があった。
日下には、あの精神科医の笑顔の意味が、はっきりとわかった。
 死ぬ瞬間にこそ「自分が何者で、どこから来て、どこへ行くか」がわかるのだ。 

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