03.ハハノコト 3の1
私の母は高らかに笑う人だった。豪放磊落で細かい事やつまらない事は笑い飛ばしてしまう。
幼かった私や弟はそんな毋が大好きで、たまに母が沈んでいると一生懸命おどけて母の笑顔を取り戻そうとした。私がすぐにひょうきんな真似をするのは母方の血に違いないと誰かが言っていた。
「明るく社交的で、国際時代にふさわしい自立の精神にあふれたカッコいい主婦」、それが母の理想だった。
私が生まれたのは丁度「海外ドラマの日本語吹替え放送」が始まった頃だから、もしかすると「ルーシー・ショー」の「ルーシー」や「奥様は魔女」の「サマンサ」がお手本になっていたかもしれない。だからウチは「お父さん、お母さん」ではない。いまだに「パパとママ」だ。
当時小学生の間では「パパママ派」はまだ少数派、と言うよりもちょっと気取った流儀だと思われていたから、高学年になると友達にからかわれて恥ずかしい思いをした。それで試しに2度ほど「お母さん」と呼んでみた事があるのだけれど、ただちに直されてしまった。
そんな母の生家は北海道の函館だ。祖父(母の父)は大手漁業会社の重役クラスだったらしい。
戦前の、しかも外洋漁業を取り仕切っていたというから羽振りの良さは今の漁業の比ではない。当時としては珍しい「洋行」、つまり「海外出張」の写真を見せてもらった事がある。
裕福な家庭の4人兄弟の中に女の子が1人。仕事で家を空ける事も多かった祖父だが、いる間は溺愛と言って良いくらい母を可愛がっていたらしい。「本当はお嬢様だったんだよ」と言う話は何度も聞かされた。
そう言えば「人間自由が一番」と言うのも母の口癖だった。それは特に「わがまま」というワケではなく、可愛がられて育った人間の素直な感覚だったと思う。
ところが、
それほどまでに可愛がってくれた父親が急逝してしまった。
裕福だった一家は急速に厳しい生活を強いられる事になった。働き始めて間もない母の兄2人が一家を支えなくてはならなくなる。長兄が仕事の関係で東京に出たため、残された一家の中心は次兄が担う事になった。その次兄が転勤を命じられたので、一家は揃って次兄の転勤先に移り住む事になる。
転勤先は旭川市だった。
この辺の急展開は思い出すのも辛いらしく詳しく教えてもらった事が無い。時たま漏れ聞こえるつぶやきによると、その暮らしは「どん底」だったらしい。
子供の頃はこの「どん底」という響きが恐ろしくて、一体何が起こったものかと震え上がったものだった。が、社会人となった今冷静に思い起こしてみると、微妙な違和感が拭えない。
一家5人でその内2人の男手に職があったのだとしたら、「どん底」と嘆くほど劣悪な状況に陥る事は無いのではないか?
実は一度だけ母の口から「祖母が生活レベルを落とす事を嫌がったから兄が働かなくてはならなくなった」という愚痴を聞いた事がある。だからせいぜい「金持ちではなくなった」という程度であって、何か「問題」があったとしたらそれは境遇の不幸さなどではなく、それを母に「どん底」と感じさせた別の何かのような気がするのだ。
転居してほどなく、とうとう母までアルバイトをする事になった。市の郊外に大きな製紙工場があって、その工場の社宅街にある「購買」という所で働く事になったのだ。
「購買」と聞くと何だか昼休みに焼きそばパンなど売っているような感じだが、その「購買」は会社が運営する生活共同組合の小売部門で、食料品から日用品まで手広く扱っていた。あんまり郊外で買い物が不便だったからだろう。
過酷な運命の流れに翻弄されながら、しかし美人で明るく頑張り屋の母はすぐに仕事を覚え、あっと言う間に売り場の人気者に……とは「本人談」であるから、多少水増しはしかたないだろう。とにかく、「購買」は工場に隣接していたから独身男性も大勢買い物に来る。その中に母に好意を持つ青年が現れたとしても不思議はない。
「おとなしい人だったけど熱心で、優しそうに見えた」
それが私の父だ。
父と母の間にどんな交際があったのか、私には全く想像がつかない。子供は自分の父母を「男女」として考える事ができないものだ。
件の祖母は父が一介のヒラ社員に過ぎない事を嫌がったらしい。だから決して一族揃って大賛成という流れではなかったようなのだが、結局「優しそう」という曖昧な判断を根拠に2人は結ばれた。
それでようやく落ち着くかに見えた母の人生だったが、もう1つだけ小さな不運が彼女を見舞った。前述の次兄に再び異動があってまた一家ごと、今度は札幌市に移り住む事になったのだ。
結婚して間もない母は、3時間以内で行ける距離には頼れる血縁者がまったくいない極寒の地にただ一人取り残される格好になってしまった。
頼れるのは「夫」だけ。私や弟が誕生したのはそんな最中だったのである。