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七つの鍵の物語【悪徳貴族】~ぼっちな僕の異世界領地改革~  作者: 上野文
第二部/第六章 夜明け前に輝く星々
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第88話 潮目

88


 ドクター・ビーストは、自ら改造を施した異界の獣の姿を、穴があくほどに見つめていた。

 長い黒髪、日焼けした肌。虎耳と尻尾こそ生えているものの、ベナクレー丘の中腹で、クローディアス・レーベンヒェルムを背に庇い、守るように立っているのは、まさしく人間の女の子だ。


緋色革命軍マラヤ・エカルラート。お前ら絶対に、ゆるさんたぬー!」


 異界の獣であった少女が、威嚇いかくするようにときの声をあげると、ぶちっという布が裂ける音が響いた。

 彼女の胸部、重量感のある琥珀色の果実が、さらしという窮屈な拘束を逃れて、まろびでようとする。


「た、たぬーっ。見栄をはりすぎたぬ!?」


 獣娘は、慌ててさらしを巻きなおし、ああでもないこうでもないと悪戦苦闘している。


「何をやっておるのじゃ、あの異界の獣は……」


 獣から人間という新しい姿を得た少女とは正反対に、ヒトガタを捨てヒトデ形の生物兵器という本性を露わにしたドクター・ビーストは、彼女の奇行に呆れつつも、優れた感知能力で丘下にある森の気配を窺った。――戦況は、悪化していた。


「勝てぬな。潮目が変わったか」


 老いたる博士は、岩陰に倒れている少年、緋色革命軍の宿敵たるクローディアス・レーベンヒェルムに視線を移した。

 彼の全身は、赤い火傷と青い打撲傷で覆い尽くされ、満身創痍まんしんそういむごたらしい有様だ。

 けれど、そんな男が状況をひっくり返した。


「小僧め、右手を切断され、両脚を杭打ちにされ、一度は心臓が停止して、最後は武器も左手も失って、……それでも歯だけでこちらの喉笛きゅうしょを食い破ったか。ゴルトが恐れるわけじゃ。なんという執念、なんという胆力よ」


 緋色革命軍の良き同僚であり、優れた軍事指導者でもあるゴルト・トイフェルは、一度敗北を喫した敵将セイ以上に、クローディアス・レーベンヒェルムという悪徳貴族を警戒していた。

 ドクター・ビーストは、ゴルトの懸念けねん杞憂きゆうであると笑い、緋色革命軍の思惑どおりに敵地深くへと誘導された辺境伯を愚か者だと判断していた。だが、そうではないのだと刃を交えて理解した。


(何のことはない。こやつは、策にのせられたのではなく、エングホルム領の民衆を見捨てられなかっただけのことじゃ。ずっと繰り返してきたのか、こんなめちゃくちゃな綱渡りを。……もしもあの時、わしに小僧と同じ意志の強さがあれば。ひょほほ、言い訳じゃな)


 レベッカ・エングホルムは、いまなお彼女がおねえさまと慕う、辺境伯の女執事ソフィと戦闘を続けている。

 彼女は、邪竜から分け与えられた力を振るって、己が思い人を追い詰めていた。だが、技量に劣るが故に、最後の一線で防御を崩せない。


「レベッカ、狼煙のろしを上げよ。退却じゃ。兵をまとめて領都エンガへ戻れ」

「ドクター・ビースト、改造に失敗したからと言って、血迷ったのですか? 勝っているのはワタシたちです。あと少し、あと少しでおねえさまをこの手に……」

「頭を冷やして、味方識別反応を探ってみよ。生存者はどれだけ残っておる?」


 ドクター・ビーストの問いかけに、紅潮していたレベッカの頬が白く染まった。

 彼女の青く輝く瞳が、内心の動揺を表すかのように不規則に揺れる。


「なんで、兵数に十五倍も差があって。森の中じゃ、銃もろくに使えないはずのにっ。こんなの有り得ない。どれだけ無能なのよ、あいつら!」


 ドクター・ビーストは、レベッカの困惑が手に取るようにわかった。

 必勝を期した追撃戦だった。にも拘わらず、辺境伯を相手に、三〇〇体以上の菌兵士と、二〇ふりを越える大太刀を喪った。更には、わずか一〇〇人程度の中隊を相手に、丘下の森で交戦している騎兵一〇〇〇人の生存反応が四割近く減少していた。


「あんな弱い男。ファヴニルと契約してもろくに力を使いこなせず、異界の獣やおねえさまに守られる非力で愚かな暗君。そんな奴にどうしてワタシたちが負けるというのっ!?」


 炎のような赤く長い髪を逆立てて、レベッカは天も落ちよとばかりに絶叫した。

 ドクター・ビーストは、いまや彼女の見立てが間違っていることに気づいていた。

 レベッカが、邪竜にどんな出鱈目でたらめを吹きこまれ、あるいはどのような色眼鏡をかけて受け止めたのかは知らない。

 だが、おそらくクローディアス・レーベンヒェルムは、ファヴニルの力を使いこなせないのではない。


 最初から制限を受けているか、あるいは――、本人に使う気が無いのだ。


 そして、ドクター・ビーストが、この時何よりも危惧したのは、レベッカがソフィへの慕情に目が曇って、状況を正しく判断できていないことだった。


「レベッカ。まだわからんか? たとえ影武者であったとしても、クローディアス・レーベンヒェルムは領主おうであって戦士ではない。領主とは、個人の武勇を誇るものではない」

「それはっ」


 レベッカが、歯を食いしばりながら、槍を止める。

 彼女と相対するソフィが、薙刀を構えつつ、深く息を吸って吐いた。


「お主が自身を悪と任じているのは承知しておる。その上で問うぞ。――為政者とは何じゃ? 最強の戦士か、優秀な軍人か、道具を仕立てる職人か、心躍らせる音楽家か、うまい麦をつくる百姓か、それを焼くパン屋か。違うじゃろう! 彼らすべての力を束ね、地と民を豊かにするものじゃろう?」


 最も優秀な為政者が、すべての分野でエキスパートを兼ねる必要など、どこにもないのだ。


「あの小僧、悪徳貴族あくとうとしては失格じゃろうが、領主としては見所がある。昨日ルクレ領艦隊が大敗したという知らせは、お主の耳にも入っていよう。エングホルム領とてもはや危ういのじゃ。殿軍しんがりは、わしと菌兵士どもが引き受けた。次こそは小僧の首を落とそうぞ」

「わかり、ました。悔しいけど、ここは退きます」


 ドクター・ビーストとレベッカ・エングホルムは、前日のボルガ湾海戦がまたもセイの勝利に終わった、ということしか掴んでいなかった。実際のところ、レーベンヒェルム領艦隊は、ルクレ領艦隊を相手に中型以上の武装商船がことごとく中破し、すぐに動ける状況ではなかった。

 だが、正しい情報を掴んでいたとしても、ドクター・ビーストはレベッカに退却を勧めただろう。アリス・ヤツフサはなお健在であり、森の戦況はひっくり返されつつあったのだから。


「ゴルトにな、詫びにバーカウンターの酒をやると伝えてくれ」

「レディをメッセンジャーに使わず、自分で直接伝えなさいな」


 レベッカはドクター・ビーストの頼みを聞き流しつつ、疲労困憊ひろうこんぱいといった風のソフィから離れて、撤退を告げる赤い狼煙と花火をあげた。


「レベッカ、必ずじゃぞ、あの酒は良いものじゃ」

「はいはい。撤収が終わったら、さっさと帰ってきなさいよ」


 レベッカは、憤懣ふんまんやるかたなしといった表情で、一輪鬼ナイトゴーンに乗りこみ、ベナクレーの丘を後にした。


「騒々しかったが、楽しい時間じゃったよ。お主の本願が叶うことを祈っている」


 ドクター・ビーストは、燃える炎のような赤い髪とワインレッドのカクテルドレスが見えなくなるまで見送って、ほうと重い息を吐いた。


「ひょほほほっ。満ち足るをもって、欠けたるを討とうとしてしくじったか。ゴルト、悪徳貴族は強くなるぞ。ひょっとすれば、かの邪龍にすら挑める程に」


 生き延びた悪徳貴族クローディアス・レーベンヒェルムは領地を富ませ続け、一の革命家ダヴィッド・リードホルムは社会を破壊し続ける。両者が行き着くところは火を見るより明らかだ。千載一遇の好機を逃がした以上、緋色革命軍はいずれ窮地に陥るだろう。

 だが、それは生き残ったものたちが考えることだ。ドクター・ビーストの本願はまさに今、叶おうとしていたのだから。


「おっちゃん、もういいたぬか?」


 律儀に待っていたのだろう。身だしなみを整えたアリスが、声をかけてきた。


「待たせたな。ではやろうか、異界の獣よ。わしは、クローディアス・レーベンヒェルムを殺さねばならんのでな」

「クロードはたぬが守る。そして、たぬの名前は、アリス・ヤツフサたぬ。友達に貰った、呼んでほしい名前たぬ!」


 異界の獣娘、否、アリス・ヤツフサが大地を蹴る。音速を超える速度で肉薄し、虎と変わらぬ力でドクター・ビーストを殴り飛ばす。


「盲点じゃったよ。いやあえて見ないふりをしたのか。人の知恵を得た獣、獣の力を得た人、単純故に強い。じゃが、わしに物理攻撃はきかんぞ」


 ヒトデの表皮を覆う透明な粘液が、殴打の衝撃を吸収する。

 殴り飛ばされたドクター・ビーストは、丘の斜面に穴を空けつつも、さしたる損傷を負っていなかった。


「たぬは頭にきてるたぬ。ローズマリーちゃんや、たくさんのひとがおっちゃんのせいで迷惑してるたぬ。お前の悪事は、これで最後にしてもらうたぬ」


 黒く長い髪をなびかせて、褐色肌の獣娘が再び突撃してくる。彼女の弾劾を受けて、ドクター・ビーストは懐かしい記憶を思い出した。


「これで最後か。奇遇よな。最初に施術した被検体は、ショーコという気立てのよい美しい女子でな。実は、わしの自慢の娘じゃった……」

「たぬっ!?」


 ドクター・ビーストが郷愁にふけりながら繰り出す触手の乱れ撃ちを、アリスは両手のラッシュで捌いている。


「最強のスライムを作ったのだよ。あまたの分身を生み出し、あらゆる兵器を溶かし、核を破壊されても再生するという傑作じゃった。ゆえに、危険視されて異界に捨てられたよ」


 アリスが眉間にしわを寄せて、金色の猫目を縦に細めた。


「まさか、おっちゃん、娘を、ショーコちゃんを見捨てたぬ?」

「ああ、そうじゃ」


 アリスは、右手に魔力を纏わせて、螺旋らせんの竜巻を創り、人差し指から小指までを伸ばした四本貫手ぬきてと共に発射する。

 ドクター・ビーストもまた、攻撃に重ねるようヒトデの怪人体中央にある口を開き、極太の凍気をレーザーのように放射した。


「このダメオヤジー!」

「ああ、そうとも。だから、わしは……」


 自ら望んで、狂魔科学者マッドサイエンティストになったのじゃ。

 最後の言葉を喉奥に飲み込んで、ドクター・ビーストはアリスを迎え撃った。

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◆上野文より、新作の連載始めました。
『カクリヨの鬼退治』

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