第84話 立ち上がれ。彼と彼女が望んだ竜殺し
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クロードが鼓動の止まる刹那に感じた激情は、胸が張り裂けそうな悔しさと、奈落に落ちるような無力感だった。
全身を焦がす痛みさえもいつの間にか感じなくなった。何かを叫ぼうとして、口を動かす力さえ残っていないことを知って、望みを絶たれた。
意識が真っ暗な闇の中へと墜ちてゆく。溶けて、砕けて、飛散する。
「やあ、また会ったね。クローディアス」
気がつけば、羽根付き帽子を目深に被った青年が闇の中に立っていた。正しくは、クロードがそう感じた。
あるいは、生命の尽きる瞬間に、夢を見ているのかもしれなかった。
(わずか一瞬の間に一生分の夢を見るのは、杜子春だっけ。いや、邯鄲の枕だっけ?)
仙人が見せた幻を見たのが杜子春で、邯鄲の枕で夢を見たのが盧生だったはず。そんな益体もないことを考えて、クロードは変わらない自分に苦笑した。
どうやら、死の瞬間までクロードはクロードにしかなれなかったらしい。
最後に顔を見せに来たのが、わずか一度だけ顔を合わせた彼だというのが、いかにもらしいではないか。
「アランか。すまない、僕はアンタの意志を継ぐことができなかった。それとも恨みを晴らしに来たのか? いいよ、アンタにはその資格がある」
かつて隼の勇者と呼ばれた男。領主館を襲撃して処刑された冒険者パーティのリーダーは、困ったように肩をすくめた。
「今から死ぬ男に復讐しても意味がないさ。良かったら、ひとつだけ教えてくれないか?」
「なにを?」
「クローディアス・レーベンヒェルム。キミは、なぜ戦ったんだ?」
投げかけられた問いは、根源的なものだった。
「死にたくなかったからだ」
クロードの返答を聞いて、羽根付き帽子を被った勇者は腹を抱えて吹き出した。
「ハハハ! ば、馬鹿言っちゃいけない。だったらどうして今、キミは死にかけているんだ? エングホルム領の民衆なんて捨てて、逃げ出せば良かったじゃないか? 戦闘が始まるまで、瞬間移動の魔法を使うチャンスなんていくらでもあった。ファヴニルに降伏することだって出来た。西部連邦人民共和国と癒着して酒池肉林に耽り、緋色革命軍や赤い導家士と結んでやりたい放題する選択肢だってあっただろう。死にたくないのなら、何もかも投げ捨てて、ニーダル・ゲレーゲンハイトに追いすがれば良かったじゃないか?」
挙げられたものは、クロードが選ぶことのなかった選択肢だった。
確かに”死にたくない”だけならば、他にやりようはあったのだ。
「キミはひょっとしてマゾかい? そうでないのなら、教えてくれないか。キミは、なぜ戦ったんだ?」
クロードは戦った。
ファヴニルや緋色革命軍だけではない。
飢餓と、貧困と、犯罪と、経済植民地主義と、内戦と。
レーベンヒェルム領をとりまくあらゆる脅威と歪み、むしろ宿命ともいうべきものに対して抗った。それは、なぜなのか?
「太陽に背を向けたくなかったんだ」
悩んだ末に、クロードの心から出てきた答えは、そんな単純な言葉だった。
先代と共和国企業連によって、荒れ果てた赤い大地に涙した。
理不尽な暴力にさらされて泣いている女の子や、疲れて弱りきった人々の力になりたかった。
我が物顔でのし歩き、他者の命を省みもしないテロリストの暴挙に憤怒した。
金銭はなく食料もなく仲間もいなくて、それでもレーベンヒェルム領の惨状をくつがえしたいと我武者羅で領地改革に取り組んだ。
「つまり、自己満足だよ」
「だったら、もう満足したかい?」
クロードは、勇者の問いかけにうつむいた。
悔いはある。でも、もうどうしようもないことだ。
「ボクはキミを肯定しよう。キミの戦いを胸に留めよう。届かなかったとしても、キミの歩んだ軌跡が美しいものだったと称えよう」
自分が英雄の器なんかじゃないことは、最初から自覚していた。
己の腕に余る多くを救おうとして、最後に取りこぼしたのは、当然の末路だ。
でも、なにか大切なことを忘れてはいないか?
『……あああああっ!』
『……クロードォォ!』
ソフィの泣き声と、アリスの慟哭が聞こえた。
クロードの足は動かない。戻れば待つのは極大の恐怖だと、心が理解しているから。
(また多くのものを失うだろう。痛みはたくさんだ。悲しむのも勘弁だ。――だけど、知ったことか!)
現実では失われてしまったからだろうか? クロードは、ぼやけた右腕を、眼前の男へ向かって伸ばした。
「自慢じゃないけどさ、僕は友達が少ないんだ」
「へえ、ぼっちってやつ? 本当に自慢にならないね」
「だから、数少ない友達が泣いてるのにさ。おちおち死んでなんていられないんだよ。そして、果たさなければならない約束がある」
クロードは、羽根付き帽子を奪って宙へと投げる。
「ファヴニル、お前を討つ」
隼の勇者アランを騙る男。彼の露わになった顔は、天使のように愛らしい金髪赤眼の悪魔だった。
「なにが変化の邪竜だ、ファヴニル。途中から演技をやめていただろう? じゃなきゃ、部長並みの大根役者だ」
「キミを相手に本気で演じるなんて大人げないじゃないか、クローディアス。差し向けたボクが言うのもなんだけど、レベッカは業の深い女だ。キミが守ろうとするもの、そのすべてを壊すだろう。凡人のキミは、今ここで死んじゃった方が幸せかもしれないよ」
ファヴニルの言葉にも一理はある。と、クロードの脆い心が弱音を吐く。
どれほど憧れても、自分はきっと、先輩たちのようなヒーローにはなれないだろう。
それでも、たとえそうだとしても。
「多くの力を分けてもらった。僕は、あいつらと、あそこで、生きていたいと思うんだ」
闇の中に飛散した、砕けて溶けた自分の欠片を寄せ集め、クロードは浮上しようとする。
しかし、手足はまるで鉛にでもなったかのように重く、生きるために大切な何かが底の抜けたバケツのように絶えず流れ落ちてゆく。なぜなら、クロードの心臓はすでに停止していたのだから。
それでも無我夢中で空へと手を伸ばすと、誰かがその手を掴んでくれた。懐かしいぬくもりに抱きしめられた。彼女の気配をクロードは憶えていた。
「レア?」
「たとえどれほど隔てられようとも、私の心は貴方と共に!」
☆
覚醒と共に感じたのは、胸を押す痛み。次に唇に触れた柔らかな感触だった。
クロードが自覚したキスは、己の血とソフィが流す涙の味がした。
「ごめんなさい。本当は知ってたの、クロードくんが辺境伯様と別人だって、謝るから、謝らせて。お願い死なないでっ」
人工呼吸を終えたソフィは、胸を骨も折れよとばかりに何度も圧迫した。
クロードは血を吐き、せき込みながら呼吸して、酸素を体内に取り込んだ。
心臓は止まっていた。蘇生したのは、きっと彼女たちのおかげだ。
「なんだ、そっか。知ってたんだ」
「クロード、くんっ」
二人は互いに、ずっと負い目を感じていた。
クロードは、領を守るために偽りの領主を演じ、本物が犯した罪をかぶろうとした。
ソフィは、傍にいるために人質を演じ、家族のように愛おしむ弟たちとの板挟みになった。
彼と彼女の心はすれ違い、しかし今、ひとつに重なった。
「アリスを助ける。一緒に来てほしい」
「はい」
右腕を失ったクロードは、残された左手で彼女を抱き寄せて、ソフィもまた彼に身をゆだねた。
二人の抱擁を目撃したレベッカは、炎のように赤い髪を逆立て、般若のように顔を歪めた。
「害虫がっ。しつこいですわね。何度だって殺してあげますわ」
レベッカにとって忌まわしい間男の右腕はすでに失われ、左の二の腕と、左右の足太ももには大きな穴が空いている。蘇生したといえ、もはや動くこともままならぬ死に体だ。
「小汚い首をはねてやる。死ねぇええっ」
レベッカは確実な止めを刺すべく、左右の掌から青白く輝く杭を二本投じた。ファヴニルの爪から作り上げられた杭は、彗星が如く尾をひきながら弾丸のように直進する。
(セイ、エリック、ブリギッタ、イヌヴェ、サムエル、ボー爺さん、パウルさん、エドガーさん、ヴァリン侯爵、イスカちゃん、高城部長。そして、レア)
クロードは、ソフィの体温を感じながら迫る凶器をにらみつけ、これまでに友誼を結んだ仲間のことを、レーベンヒェルム領の民草たちのことを想った。
「……皆、僕に力を貸してくれ」
「レアちゃん?」
ソフィは、抱きしめたクロードの中に、友人の気配を感じた。
青い髪の侍女が微笑む。赤い瞳を細め、桜色の貝を髪から外して、祈るように両手で包む。
海に隔てられても、心は今も繋がっているから。
「鋳……造っ……。雷切! 火車切!」
クロードの眼前に大小の日本刀が現れて、レベッカが投擲した杭を弾き砕いた。
雷光と火花が羽のように散る。クロードの背には、雷が渦を巻いて8の字を横倒しにした翼を形作り、足からは火炎が噴き出す。
∞の雷翼は周辺の魔力と空気を取りこみ、足からは変換された魔力エネルギーと爆発燃焼した排気が噴射された。
クロードとソフィによる雷光と火花をまとった突進。わずか一瞬で、彼らを包囲していた数十体の菌兵士が千切れ飛び、雷と火に焼かれて消し炭になった。
「レベッカ、後ろにさがれいっ。わしの研究を、最強兵器の創造生誕を、決して邪魔させんぞぉ」
「やめなさいドクタービースト。おねえさまも巻き込むつもり!?」
白衣の老人が吠えて、赤髪の令嬢が叫ぶ。
上空から飛来した一〇mの大太刀は二〇口。
クロードとソフィの前に立ちはだかった菌兵士は三〇〇体以上。
「アリス、今助けにいく!」
クロードは飛翔する。
レアは、最初にマジックアイテムだと釘を刺した。
だが、雷切とは立花道雪の佩刀を、火車切とは上杉謙信が残した遺産を指す。
「軍神の誉れ高い彼らの刀と同じ名前を持つのなら、目の前の邪悪を払って見せろぉっ」
創造主であるクロードの願いに応じ、雷切は稲妻に変じて大太刀を討った。神鳴の放電を被った20口の魔導兵器は内部から破裂して爆発四散する。火車切もまた降り注ぐ雷の中で巨大な焔の輪と化して三〇〇体の菌兵士たちをわずか一振りで焼き尽くした。
「悪徳貴族、その命もらったっ」
文字通り消し飛んだ自軍にも、レベッカ・エングホルムは揺るがない。
針の穴を通すように、雷の間を抜け焔の輪を避けて、一本の杭がクロードの喉元へと迫っていた。
彼女が投じた杭は五本だが、四本は失われた。すでに半ば以上を失ったことになるが構わない。
武器を失ったクロードさえ殺してしまえば、レベッカが望んだもの、愛するおねえさまは彼女の手に落ちる。
宝の輝きに目が眩んだか、彼女は重要な一点を見落としていた。
ソフィはただ抱かれていただけではない。損傷を受けたクロードの肉体を癒やしていたのだ。
右腕は失われたまま。しかし、左腕と両脚に空いた穴はもう塞がっている。
「鋳造っ。八丁念仏団子刺し!」
クロードは、左手に現れた三本目の刀を振るい、杭を切り裂いて受け流した。
「ふざけるなぁっ。特別な力もない凡人が。クズが調子に乗ってぇっ」
そんなクロードたちの戦いを、遠く離れた商業都市ティノーの神殿上空から、ファヴニルが見下ろしていた。
「レベッカ・エングホルム、ここからが正念場だよ。確かにクローディアスは凡人だ。選ばれた勇者じゃないし、英雄なんて器でもない。だけど、あいつ自身が選んで、ボクと妹が望んだ竜殺しだ」
ファヴニルは確信している。
最愛の宿敵は、必ずや約束の刻限に自分を殺すためにやってくる――と。
「ああ、だから見せてよクローディアス。どんなに無様をさらしても、キミこそボクが殺し、ボクを殺すに足る、ただひとりの男だって信じさせてくれ」
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