第82話 絶望的な撤退戦
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復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 木枯の月(一一月)一一日。
マラヤ半島エングホルム領に上陸したクロードたち義勇軍は、撤退の最中にあった。
さかのぼること三日前、クロードたちは商業都市ティノーの放棄を決めて、解放した村々に脱出を促しつつ、内戦への中立を宣言している都市国家シングに向かって撤退を図った。
都市国家シングは協力を渋ったものの、領都エンガ等における緋色革命軍の暴挙を目の当たりにして、民間人の一時的な受け入れと他領へ脱出だけは認めてくれた。
しかしながら、レーベンヒェルム領の軍属であるクロード、アリス、ソフィ、アンセル、ヨアヒム、キジー、義勇兵の面々とローズマリー・ユーツ侯爵家令嬢は国境をまたぐことを許されなかった。
都市国家シングの判断は、『卑劣な独裁政権に屈した』とされ、終戦後に国家間でもめる一因となるのだが、クロードは彼らの慈悲に感謝していた。
緋色革命軍への協力というのなら、西部連邦人民共和国が陰でおおいに協力していたし、アメリア合衆国までがちゃっかり出資をしたり便宜をはかったりしている。
これらの国々は、『貴族制に反発する民衆の革命だと勘違いしたのだ』と弁明したが、”他国の国民を犠牲に利益を貪ろうとした”側面を無視できないだろう。
緋色革命軍の実態が明らかになるにつれ、周辺国はその実態に戦慄し、やがて包囲網が敷かれることになるのだが――、それはまだ未来の話であり、クロードたちは八方塞ぎの苦境を打破しようともがいていた。
「アンセル、怪我人が最優先だ。次に子供、老人。なんとしてもシングへ送り届けろ」
「はい、リーダー!」
クロードたちは徒歩で南下しながら、怪我人、子供と老人を優先して馬車に乗せ、アンセルが率いる一隊に先導させて国境まで脱出させた。次に女性を送り出した頃には、馬は疲れと怪我で動かなくなっていた。
残された成人男性の数は相対的には少なかったものの、それでも千人以上が同行しており、加速の付与魔術や瞬間転移魔法を駆使して順次送り出すものの、民間人を多数連れた義勇兵団の行軍は遅々として進まなかった。
「リーダー、間に合いますか?」
「ヨアヒム、間に合わせるんだ。道中各所に義勇軍って書いた旗を立ててきたし、伏兵を警戒させる細工も施してきた。上手くひっかかってくれれば、チャンスはある」
クロードは、自分に言い聞かせるように呟いたが、残念ながら急場しのぎの策が通用するほど、緋色革命軍は甘い相手ではなかった。参謀として追撃部隊に参加したアンドルー・チョーカー隊長は、義勇軍の偽装をあっさりと看破し、怒涛の勢いで迫っていた。
木枯の月(一一月)一一日朝。義勇軍が、南に森を臨むベナクレーの丘に達した時、遂に彼らはやってきた。レベッカ・エングホルムが率いる騎兵一〇〇〇人と、一輪鬼ナイトゴーンに乗った菌兵士五〇〇体が北方の道を踏破してきた。
対する義勇軍の戦闘員は一〇〇人に満たず、多数の民間人が同行している。ここにクロード達の命運は尽きた。
「使いたくはなかったが……」
クロードは、もはやこれまでと覚悟を決めて、眼下の軍勢に向けてファヴニルの力を振るおうとした。
だが、宙から鋼鉄の鎖を呼びだそうとした瞬間、雷にでもうたれたかのように、全身を耐えがたい痛みが襲う。
「がっ、あっ……」
「クロードくん?」
「どうしたぬっ。お腹でも痛いたぬ?」
慌てて駆け寄るソフィとアリスの前で、クロードは連戦で傷ついた皮鎧を着たまま、がくりと膝をついた。
「使わせるわけがないでしょう? ”オッテル様の巫女であるワタシ、レベッカ・エングホルムが許しません」
炎のような赤い髪と冷え冷えと青く輝く瞳が目立つ少女レベッカ・エングホルムが、戦場には不似合いなワインレッドのカクテルドレスを着て、ゆっくりと丘をのぼってくる。
「ひょほほほっ。これが異界の獣か。良い研究材料になりそうじゃ。お主を糧にわし、ドクター・ビーストの兵器は更なる進化を遂げるじゃろう。ぐひゃっ。思わずよだれがこぼれてしまったわい」
「た、たぬっ!?」
アリスは、まるまるした黄金色の身体を弾ませるようにして、ドクター・ビーストを名乗る白衣を着た老人の視線から逃れ、クロードの背中へと隠れた。
かつて大勢の人間が、獣である彼女に恐怖と憎悪の視線を向けた。この世界に来て初めての友人を得てからは、イスカのように、あるいはレーベンヒェルム領の民衆のように、愛情の宿った瞳で接してくれる者も増えた。
けれど、ドクター・ビーストがアリスに向けた視線は、そのいずれとも違う。生理的に受け付けない、徹底的に気持ちが悪いものだった。
「ようやくみつけましたよ、愛しき薔薇」
「迎えに来たよ。ローズマリー、駄目じゃないか。逃げ出したりなんかしちゃあ」
「マ、マクシミリアンお兄様、なぜその男と一緒にいるのです?」
ローズマリー・ユーツは、目の前が闇に包まれるような絶望に襲われた。
レベッカが率いる騎兵、その先頭には商業都市ティノーで彼女を買おうとした卑劣漢アンドルー・チョーカーだけでなく、兄と慕う幼馴染みであり婚約者でもあった男、マクシミリアン・ローグが家伝の金属鎧に身を包み、嘘臭いほどに穏やかな笑みを浮かべて革命軍とくつわを並べていたからだ。
「なぜって、チョーカー殿がユーツ家にとって恩人だからだよ」
「恩人ですって? ユーツ領をめちゃくちゃにした緋色革命軍がっ!?」
「それは一面的な見方だよ、ローズマリー。ユーツ領は古いしがらみでがんじがらめになっていた。緋色革命軍はそういった束縛から解き放ってくれたんだ。キミの父上と母上、兄上たちは処刑された。それは悲しいことだ。けれど、嘆くことはない。キミを奴隷としてチョーカー殿に引き渡せば、この俺が当主となってユーツ家を継ぐことを許されたんだ。愛しいローズマリー、俺の頼みを聞いてくれるよね?」
ローズマリーは、力なく崩れ落ちた。
丘の草と土を掴みながら、涙で景色が歪むのがわかった。
マクシミリアン・ローグにとって、ローズマリー・ユーツは、地位と権力を掴むための道具に過ぎなかった。
アンドルー・チョーカーと、マクシミリアン・ローグが向ける下卑た視線から泣き崩れる少女を庇うように、ヨアヒムが割って入った。
彼は何も口にしない。焼鏝が刻んだ邪悪な契約は、いまなお二人を縛り付けている。だから無言で背中を見せることだけが、彼にできる男気だった。
「賊軍に告げます。クローディアス・レーベンヒェルム、いえ、クロード・コトリアソビでしたか? 彼と、ソフィ、アリス、ローズマリー・ユーツの四名を差し出しなさい。そうすれば降伏を認め、いいえ、この場から逃げることを許しても構いませんわ」
義勇軍は、困惑したように互いの顔を見合わせた。
「恐れることはありません。今この場でクローディアス・レーベンヒェルムはファヴニルの力を使えません。戯れに反則能力を与えられた暴君の振る舞いに、苦しんでいたのでしょう? ここにいるのはただの非力なもやし男です。望むなら今までの恨みを晴らしても良いのですよ?」
レベッカの楽しそうな勧誘に応える者はいない。ただ黙って眼を瞬かせ、あるいは視線を四方八方に逸らすだけだ。
それが、ある種の符丁であることを、緋色革命軍は掴めていなかった。
「元”赤い導家士”の俺からすれば、確かに恨みが無いわけじゃないな。なにせ、こいつのおかげで、俺たちの革命はついえたわけだし?」
やがて、禿頭の義勇兵がそうこぼしながら、背負ったレ式魔銃を外して両手で構えた。
「元冒険者のこっちから見ても、役所での残業三昧は酷いものでしたよ。いったいいつ殺してやろうかと、実は日々考えていました」
出っ歯の目立つ義勇兵も歯を光らせて、ナイフを抜いて閃かせた。
「リーダー。この際ですから言っておきますね。ぼくは貴方のこと大嫌いです」
キジーが、いつでも魔術文字を描き、呪文の詠唱ができるように杖を手にした。
「「だから、勘違いするなよ悪徳貴族! オレたちはアンタを助けるために戦うわけじゃない。アンタを倒すのは、オレ達だからだ!!」」
「みん……なっ」
感極まって目じりから涙をこぼすクロードとは対照的に、レベッカにとって義勇兵たちの反応は信じがたいものだった。
彼女は、激情に身体を震わせながら、火の出るような目線で男衆たちを睨みつけて問いかける。
「貴方達なら、どちらに味方すればいいかわかるでしょう。賊軍と心中する義理なんてないでしょう?」
「義理ならあるさ。妻と息子を救ってもらった」
「ここでケツをまくるようなら、カアちゃんにどやされらあ」
「アンタたちには従えない。なにが革命だっ独裁者めっ!」
決死の状況である。クロードに味方する民間人達ばかりではなく、数十人の男たちが命だけは助けてくれと緋色革命軍に泣きついた。
だが、彼らは騎兵の馬上槍で貫かれ、あるいは馬の蹄で踏み殺された。
「うすっぺらな男たち。死にざまさえもつまらない。食前酒はもう十分、さあ皆殺しになさい」
「迎撃用意。民間人を庇いつつ、脱出する。殿軍は僕が引き受けた。生きろ! 生きてくれ、絶対にだっ」
レベッカの怒声と、クロードの悲鳴じみた懇願が丘に響き渡る。
ここに、クローディアス・レーベンヒェルムの領世において、最大の敗北の一つに数えられるベナクレー撤退戦が始まった。