第77話 海戦前夜(前) 金鬼のたくらみ
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マラヤディヴァ国ヴォルノー島の北東に位置するソーン侯爵領と、ルクレ侯爵領。
十賢家と称されるほどの大貴族でありながら、両家が緋色革命軍と同盟を結び、マラヤディヴァ国を裏切った理由は、極めて利己的なものだった。
マグヌス・ソーン侯爵は、お家騒動で他の親族を殺害、あるいはアネッテ・ソーンのように追放し、当主の座を力ずくで奪ったものの、浪費が過ぎて領の財政は火の車だった。
またトビアス・ルクレ侯爵は、西部連邦人民共和国の圧力に屈し、多くの共和国人を政治中枢に招き入れたものの、彼らの指導を仰いだ政策がことごとく失敗し、共和国から多額の借金を背負ったことから、領内は食い詰めた領民たちの相次ぐ一揆によって大混乱に陥っていた。
マグヌス・ソーン侯爵も、トビアス・ルクレ侯爵も、苦境を乗り越えるため、切実に財貨を必要としていたのだ。
復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 木枯の月(一一月)八日早朝。
緋色革命軍司令官ゴルト・トイフェルは、西部連邦人民共和国が売却した元ルーシア国巡洋艦『海将丸』に乗船し、ソーン侯爵領の港町ヴィータを訪れた。
緋色革命軍司令ゴルト・トイフェル、マグヌス・ソーン侯爵、トビアス・ルクレ侯爵の三者が『海将丸』の船上で会合したことから、後世において『船上会盟』とも呼ばれる同盟の締結によって、『緋色革命軍の反乱』は『マラヤディヴァ国の内戦』へと規模を拡大することになる。
「我らが一の同志ダヴィッド・リードホルムの志と、賢明なる両侯爵の決断によって、今日という歴史に刻まれる日を迎えられたことを感謝したい」
ゴルト・トイフェルは、陽に焼けた顔を辛子色の前髪で隠し、心にもない美辞麗句を並べ立てた。同じ国民を虐殺したテロリストに頭を垂れるソーン侯爵とルクレ侯爵は、彼にとって最も憎んだ叔父シーアンやアーカムを連想させる下衆な手合いであった。だが、ゴルト個人の心象はどうあれ、ダヴィッドやレベッカたちにとって、三者同盟が果たす役割は大きかった。
「我々の同盟が成立した今、賊軍に過ぎない十賢家の残党など、もはや恐れるに足りない。精強な騎士団を有するソーン侯爵領と、この巡洋艦『海将丸』を購入したルクレ侯爵領には、まずマラヤ半島の統一に助力していただきたい」
しかし、ゴルトの提案は、マグヌス・ソーンとトビアス・ルクレ両侯爵によって拒否された。
「ゴルト殿、ルクレ侯爵。我々には、崇高なる革命の理想に従って、より早く排除すべき敵がいるはずだ」
「ソーン侯爵の言われる通りだ。悪徳貴族クローディアス・レーベンヒェルム。あの反革命分子から、愛すべき無辜の民を一刻も早く解放しなければならない」
ゴルト・トイフェルは、マグヌス・ソーンとトビアス・ルクレの反応を予想していた。
ろくでなしの貴族二人は、己が失策から失った財貨を、同じ国民であるはずのレーベンヒェルム領民から奪い取ろうともくろむ山賊の親玉に過ぎなかった。
「おいは一度戦ったからわかる。レーベンヒェルム領軍総司令官セイは侮れない将軍だ。緋色革命軍がマラヤ半島を制圧するまで、かく乱するにとどめ、大規模な衝突は避けて欲しい」
ゴルトが両侯爵へ思わず告げた忠言は、上っ面のものではない、本心からのものだった。
しかし、マグヌス・ソーンは神経質そうな顔をゆがめ、トビアス・ルクレはハイエナのように欲深く目をぎょろつかせて、けらけらと笑うばかりだった。
「国都クランを陥落せしめた猛将、ゴルト殿ともあろう方が、なんと気弱なことをおっしゃる。銀髪の美しい乙女など、いかにも余人が持ちあげそうな偶像ではないか? 所詮は、けれん、はりぼての類にすぎぬ小娘よ」
「ソーン侯爵の仰る通りだ。赤い導家士がごとき賊徒を鎮圧した? 山賊を率いる愚将に勝利した? そんなものは武勲とも呼べぬお遊びにすぎない」
「さすがはルクレ侯爵、見事な御慧眼。ゴルト殿、心配なさらずとも、冒険者がごときならずものを集めた烏合の衆など、厳しい訓練に耐えてきたソーン領騎士団が粉砕してみせよう」
「おやおや、忘れてもらっては困る。一番槍を務めるのは、この『海将丸』を得たルクレ領艦隊だ。船全体に金属装甲を施した巡洋艦と、木製商船を改装した急造軍船との違いをご覧あれ」
ゴルトは、胸中で深いため息をついた。
実情はどうあれ、同盟を締結した三者は同格であり、両侯爵の意図を無下にはできなかった。
結局、大規模な騎士団を有するソーン侯爵領が南から陸路で侵攻し、ルクレ侯爵領が『海将丸』を中心とする艦隊で北海側の通商破壊作戦を試みることで、レーベンヒェルム領をけん制するという戦略をまとめて会談は終了。正午には、同盟締結と他十賢家への宣戦布告が為された。
「……糞娘子、いるんだろ? 出てこい」
甲板では勝利を祈念する宴が始まり、船内では水夫たちが出航準備を急ぐ中、ゴルトは船倉の武器庫に入るや、船上でちょろまかした蒸留酒の瓶に口をつけて呟いた。
「はいさ。あたしに何かお仕事かい?」
薄桃色がかった金髪をサイドテールに結わえ、緋色革命軍の水軍服に袖を通した少女が、天井付近の物影から不意に姿を現した。
「西部連邦人民共和国が押しつけてきた監視役であるお前に頼むのもなんだがな。このまま『海将丸』に乗って、トビアス・ルクレを守ってやってくれ。あのオッサン、実戦、いや略奪に参加するんだとよ。ちっとは年寄りの冷や水という言葉を考えろってんだ」
桃色髪の少女は、年齢以上に大人びた発育の良い胸を揺らして、ゴルトの前に着地した。
「普通に考えたら、金属装甲の軍艦と木造商船じゃ勝負にならないと思うけど……」
「クソジャリ。お前の考える普通の将軍とやらは、百人で千人の兵隊を打ち破れるか?」
「……普通じゃあ、ないね。確かにそんな指揮官がいたら厄介かも」
ゴルトは、愛らしく小首を傾げる少女を見ながら、酒を喉に流し込んだ。
彼女は、西部連邦人民共和国が緋色革命軍へ支援物資と共に送りこんできた監視役だ。
まだ十代前半に過ぎない少数民族出身の少女は、なんらかの研究所が保有する特殊部隊に属しており、名前が――ない、備品の一種なのだと告げた。
ロットナンバーの№3とでも呼んでくれればいいよ、と少女は言ったが、ゴルトは人間を数字で呼ぶなど冗談ではなかった。そして、監視役にわざわざ名前を付けるほど酔狂でもなかった。否、遠からず戦場で朽ち果てるだろう己が、未来ある少女に対し、そんな役目を背負いたくなかった。
(共和国に潜ませた間諜から、冒険者ニーダル・ゲレーゲンハイトが、似たような状況で工作員を娘として引き取ったと風の噂で聞いたが、そんな真似、血塗られた道を行くおいにはできない)
「さっきから見ていたが、こいつらの軍制は古すぎて使い物にならん。もしもトビアス・ルクレが戦死や捕虜にでもなれば、同盟に致命的な亀裂が生じる……」
「というタテマエで、ホンネは?」
嫌な小娘だとゴルトは顔をしかめる。
名前のない小娘は、学があるわけでもないし、智慧が回るわけでもないが、恐ろしいほどに鼻が利いた。
だからこそ、彼は少女をこう呼ぶのだ。クソジャリと。
「トビアス・ルクレというオッサン、典型的な売国首長でな。領民たちが納めた血税を外国への賄賂だの接待費だのに使って、そればかりか、自領の教育機関が不足しているにも関わらず、わざわざ多額の税金を投じて一等地に外国人学校を作るようなロクデナシなわけだ」
「ああ、いるよね? コクサイシンゼンだとか言って、税金を自分の財布代わりにするヤツ。ルクレ領って、そんなにいっぱい外国籍の子供がいるの?」
そうであるならば、まだしも理屈に合うのだが、違うことをゴルトは知っていた。
「……現状で定員割れだ」
「いらないじゃん?」
「だからルクレ領は傾いてるんだよ。が、ともかく少数はいるわけだ。中には共和国人のガキだって混じってる。あのオッサンが死んでくびきが外れ、騒乱にでもなってみろ、後味が悪いじゃないか」
どれだけ多数の人間を不幸にして、どれだけ多数の人間を殺したか、ゴルトにはもうわからない。
ゆえに、偽善だ。大嘘つきの犯罪者のテロリストだ。それでも……同国人の子供を巻き込みたくない、という愛情は真実ではあった。
「ア、アハハッ。オーケーオーケー。いいよ、お兄さん。あたしは、他に何をやればいい? トビアス・ルクレ侯爵を骨抜きにでもしてこようか?」
ゴルトは、涙ぐみながらお腹を抱えて笑う少女を横目で見た。
「おい……」
「そ れ と も、子供大好きロリコン司令官様が、直々にお相手してくれる?」
「クソジャリ、お前、よそに恋人がいるって言っていたよな。大人をからかうのもほどほどにせい」
「ちぇっ」
桃色髪の少女は悪戯っぽく笑うと、緋色のズボンに包まれたお尻をゴルトへみせつけるようにふった。そうして、無造作に床に積み上げられた、木と鉄を組み合わせた棒状の武器を掴むや、跳躍して天井へとはりついた。
「クソジャリ。……ルクレ領に売りつけはしたが、そいつは劣化複製にも満たない贋作だ。使い物にならんぞ」
「いいんだよ、あたしはこいつが気に入った。クローディアス・レーベンヒェルムってオトコは、ずいぶんと面白いものを作るじゃないか」
「クソジャリ。――”死んだら”帰ってこなくてもいいぞ。恋人の元へ向かおうと、悪徳貴族に寝返ろうと、お前の死亡届だけはちゃんと本国に送っておいてやる」
仏頂面したゴルトの言葉に、桃色髪の少女はわずかに目を見張り、ちょろっと舌を出して、はにかむように微笑んだ。
「帰ってくるよ。アンタもいいオトコだもん。あたしの知る限り、五番目くらいかな?」
「微妙に低いなッ。オイ、一番目とか二番目とかじゃないのか?」
「残念。その席はずいぶん昔に埋まっちゃったのさ」
少女は手を振って消えて、静寂の戻った武器庫で、ゴルト・トイフェルは瓶に残った最後の酒精をあおった。
「これで監視の目は外せたか。しかし、あんな年端もいかない子供を使うかよ。本国の連中は、昔も今も変わらず、ろくなことをしないっ……」