第29話 悪徳貴族、大虎を誘惑す
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「見つけたぞ。僕にはお前が必要だ。どうか仲間になってくれ!」
満身創痍の黒い虎は、出会い頭にわけのわからない事を叫んだ、猫背の少年を見て、歓喜にうち震えながら、全長五mに達する巨躯をゆっくりと持ち上げた。
「食料が自分からやってくるなんて、たぬはツイてるたぬ。飛んで火に入るカモネギたぬ」
理由は忘れてしまったけど、虎は酷い怪我を負っていた。
血が足りない。肉が足りない。何より、命が足りない。
感謝の気持ちを込めて、かじりつこうとして――。
「ああ、存分に食ってくれ」
少年が、鼻先に美味しそうなお弁当を出して来たので、空腹のあまりそちらから食べ始めてしまった。
「美味しいたぬ。絶品たぬっ。こんな旨いものがこの世にあったぬか!?」
「それは貴重な牛を使ったハンバーガーと、シメ鯖のサンドイッチだ。レアとソフィが作ってくれる手料理は、どれもこれも絶品なんだ。僕の仲間になってくれれば、食べ放題だぞ?」
「た、食べ放題たぬか?」
黒い虎は、ジューシーなハンバーガーと蕩けそうなサンドイッチに興奮し、つぶらな目を輝かせながら頷こうとして……踏みとどまった。
「しょ、食料がなにを言っているたぬ。嫌な予感がするたぬよ。きっと油断させるつもりたぬ。人間なんて、人間なんて大嫌いっ。食料らしく、悲鳴をあげてお肉に変わるたぬ!」
黒い虎は、右前足の肉球で撫でるように、猫背の少年を小突いた。
人間の身体は脆い。ほんの少し力を入れただけで、ふたつにちぎれて弾けとぶことを虎は知っていた。
案の定、少年は勢いよく吹き飛んで、ゴミの山に衝突してバウンドし、宙返りのあとに受身をもとれずに床へ叩きつけられ、蛙のような悲鳴をあげた。
「ちょろいもんたぬ。……あれ?」
そう、少年は悲鳴をあげただけだ。真っ二つになってないし、死んでもいない。
「お前、ただの食糧じゃないたぬか?」
「クローディアス・レーベンヒェルムだ。虎よ、どうか、僕の仲間になってくれ!」
「嫌たぬっ!」
☆
「こんな汚れた場所にいちゃ、身体にも良くない。僕が今いる屋敷は広いから、ゆっくりお湯にだって浸かれるぞ。あったかい布団で寝るのは気持ちいいぞ」
「知らないたぬっ。ハッ。さてはスケベなじいちゃんがばあちゃんを孕ませたように、寝ているところでえっちなことをするつもりたぬ? 死んじゃえ! 」
「げふっ。さ、さすが異世界、睡眠中に交尾を迫るなんて、アグレッシブな虎がいるんだな……」
クロードに説得は任せてくれと頼まれて、扉の隙間から部屋の様子を伺っていたソフィ、レア、イスカだが、交渉は難航しているようだった。
黒い虎は、まるで赤子や犬猫がぬいぐるみで遊ぶように、クロードを殴り、投げつけ、かじりつく。
ファヴニルの力を身の守りに引き出して、どうにか無傷で耐えているものの、今にも鮮血を噴出して事切れてしまいそうだ。
「も、もう見てられないよ。わたしも説得に参加する」
我慢できずに飛び出そうとしたソフィだが、レアとイスカに両手を掴まれ、阻まれてしまった。
「だめだよ、ソフィおねえちゃん。パパはいってた。ナンパはいつだって、いのちがけだって」
「イスカちゃん、それはおかしいからね。じゃなくてっ」
ソフィはどうにか逃れようとするものの、イスカの抑える場所と力の入れ具合が絶妙で、振りほどけない。
「ソフィさん、領主様に任せましょう。私は、領主様を信じます」
「とらさんについてた、へんなほうせきはこわした。クロードおにいちゃんなら、だいじょぶ。ぱぱは、いつだってしんじてたもの」
「で、でも」
ソフィには、ニーダル・ゲレーゲンハイトが、なぜそこまでクロードを高くかっているのかわからない。
けれど、まるで祈るように、手のひらを固く握り締めて耐えるレアを見ると、部屋の中に割って入ることはできなかった。
「クロードくん……」
中では、相変わらずクロードが虎にふっ飛ばされて、それでも壊れた機材やゴミの中から這い出て、懸命の説得を続けていた。
「しつこいたぬ。どうして反撃しないたぬ? 弱すぎて涙が出るたぬよ?」
「弱いのは重々承知している。だから、虎よ、僕にはお前の力が必要なんだ」
「そんなこと言って、ペットにしたいとか、調教とかいって殴るたぬ?」
「僕は、お前に仲間になって欲しいだけだ」
クロードの言葉に、虎は黒い毛を逆立てて威嚇する。
「仲間? 色んなことを忘れちゃったけど、これだけは覚えているたぬ。人間は敵だ。人間を滅ぼすために、たぬは生まれたぬ!」
クロードは、虎のつぶらな金色の目を見た。
怯えていた。恐れていた。憎んでいた。怒っていた。
どんな世界から招かれたのかわからないが、きっと虎は人間と敵対していたのだろう。
「人間は殺す。何度殺されても、何度だって蘇って、殺して、殺して、食ってやるたぬ!」
「お前はそれでいいのか? 聞こえたぞ、ひとりぼっちで死にたくないって、お前外で叫んでたじゃないか?」
右手を差し出して、クロードは再び一歩、また一歩と虎に向かって歩いてゆく。
「戦って、戦って、たったひとりで死んでゆく。そんな生き方、あまりに寂しいだろうっ」
どんなに他人が疎ましくても、どんなに人間関係が煩わしくても、どんなに集団の中で息が詰まりそうになっても。それでも、孤独は――寂しいのだ。
だから、クロードは手を伸ばす。今、この虎を説き伏せられる者がいるとすれば、それは自分以外にないと知っていたから。
「お前は人間だっ。たぬとは違うたぬ」
「それでも、言葉を交わすことはできる」
「言葉が通じただけで仲良くなれるなら、ばーちゃんやかあちゃんは苦しまなかったぬ!」
そんなこと、クロードだって、痛いほどに知っている。
言葉が通じても、わかりあえるとは限らない。手を取り合えるなんて限らない。
人の命や心を弄ぶファヴニルとわかりあえるか? イデオロギーのために、平気で人を殺し、町や農園を焼き、女子供を売り飛ばそうとしたテロリスト達とはどうだ?
(でも、目の前の虎は違う。見知らぬ世界で、身を守るために戦っただけだ。それを責めるなんて僕にはできない)
少なくとも、法に照らして、虎はまだこの世界でまだ誰も殺めてはいない。
「それでも、僕はお前と仲良くなりたい。殺したり殺されたりじゃない、楽しい時間を、まだ見たことのない思い出を、お前と作ってみたい」
虎は目を逸らした。床を大きく蹴って、後方へと距離をとる。
「お話にならないたぬ」
虎は、ゆっくりと前足を交差して、衝撃波を生み出し、同時に後ろ足を蹴って疾駆した。
衝撃波と、虎が目指す先はわずかに開いた扉、レア達がいる場所だ――。
「よせぇええっ」
クロードは魔術文字を綴って、扉の前に土の盾を展開、ありったけの魔力を足に注いで跳躍、虎の横っ面を思い切り殴りつけた。
まるで制御されていない魔力が爆発し、虎は先程までのクロードのように放物線を描いて吹き飛び、ジャンク材の中へと落下した。
(駄目なのか? 戦うしかないっていうのか)
クロードの顔が、絶望に曇った瞬間。
「ふんっ。これで、おあいこたぬ」
黒い虎は、頬をわずかに腫らした以外はさしたるケガもなく、金属部品をまき散らして這い出てきた。
「一方的に殴っておいて仲良くなるなんて、おかしいたぬ。でも、殴り合ったなら対等たぬよ」
その口調には、先程までの敵意は、もう宿っていなくて――。
「一回だけ信じてやる。人間、お前が裏切るその時まで、たぬは、お前の味方になってやる。他の人間は食べてもいいたぬか?」
ちょっとだけ猟奇的な申し出にも、邪気は感じられなかった。
「それは困る。三食おやつ付きじゃ駄目か?」
「夜食もつけるたぬ」
クロードは虎に向かって歩き、虎もまたクロードに向かって進んだ。
「心得た。メシなら腹いっぱい食べてくれ」
「期待してるたぬ」
クロードは右手を差し出して、虎は肉球のついた大きな手の先を、ちょんとのせた。
「さあ、どこへなりと連れてけたぬ。”獣変化”(メタモルフォーゼ)解除」
ぼふん、という気の抜けた音がして、五mはあろう巨体が、黒い霧につつまれるやいっきに縮んだ。
サイズは中型犬と同じ五〇cmほど、どことなく猫やたぬきに似た、黄金色のもさもさした毛並みが可愛らしい、ぬいぐるみじみた獣がそこにいた。
「えええええええっ」
「どうしたぬ?」
虎? の問いかけにクロードは狼狽する。
どうしたもこうしたもなかった。なんだこの可愛らしい生き物は?
「さっきの、さっきの格好に、もう一度なってくれないか?」
「嫌たぬ。疲れるたぬ。もう歩けないから、優しく背負って運ぶたぬよ?」
「背負うのは、いいんだが」
クロードは、背中に一筋汗をかいた。
もともと、虎を仲間に招こうとしたのは、領の抑止力を担ってもらうためだった。
黒い虎ならいざ知らず、このぬいぐるみじゃあ、威圧感ゼロじゃないか?
「ま、まあ、いっか。僕はクローディアス・レーベンヒェルム。君の名前は?」
「忘れたぬ。人間じゃないから、どうでもいいたぬ」
「そんなことはない。名前は大切なものだ。僕から、友情の証に名前を贈ろう。君の名前は――たぬ吉げほぁっ」
言い終わる前に、たぬ吉? は、強烈な頭突きをクロードの腹に見舞った。
「その名前だけは、絶対に嫌たぬ」
「な、なんで、すごく、にあう、のに」
「かわいくないたぬ。ずぇったいにお断りたぬ」
「そ、そんな」
どうのこうの揉めているうちに、説得が終わったと見たのだろう、レアとソフィ、イスカが扉を開いて駆けつけてきた。
「領主様、ご無事ですか?」
「クロードくん、怪我はない?」
「あ、ああ…さ、げほっ」
ほんの先ほどまでは無事だったが、今クロードは呼吸困難で、返事をするのも困難だった。
「ねえ、とらさん。あなたのおなまえは、アリス。アリス・ヤツフサでどうかな?」