第26話 騒乱の夜が明けて
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復興暦一一〇九年/共和国暦一〇〇三年 晩樹の月(一二月)九日午前。
クロードは、三白眼の回りに黒々としたクマを浮かべて、猫背で執務室の椅子に座り、机に山と置かれた報告書と向き合っていた。
(皆、よく踏ん張ってくれた……)
昨日――。アンセルとヨアヒムの奮戦、そして想定外だった冒険者ニーダルの娘、イスカによる獅子奮迅の活躍で辛くも陥落を免れた領都レーフォンの暫定役所だったが、職員の大半が負傷しており、その機能は万全とは言い難かった。
アンセルやヨアヒム達、ケガの酷いものは、ブリギッタの父、パウル・カーンが経営する大病院に即時入院。イスカ達、比較的怪我が軽く治療魔法で快復できた者数十名も、戦闘終了後は、疲労困憊で泥のように眠り落ちた。
明けて今日――。御者のボーをはじめ、運良く戦闘に巻き込まれなかった者数名を加え、クロードは状況把握に乗り出した。
(生きている限り、道はどこかにあるはずだ)
状況は非常に悪かった。マラヤディヴァ国中央から派遣されていた警察官の大半がテロリスト集団”赤い導家士”によって殺害され、多くの民家が略奪を受け、クロードが作ろうとした農園も全損した。
幸いだったのは、農園で重傷を負ったエリックとブリギッタが治療の甲斐あって命を取り留めたことと、テロリストの一人が投降して、攫われていた女性たちが全員無事に帰ってきたことだった。
まったく自慢にならないことだが、生きるだけでカツカツのレーベンヒェルム領の民家に財貨などほとんどない。冒険者たちにとって生命線とも言える武器防具も、各々が手荷物として持ち運ぶか、役所の地下に放り込んでいたため、奪われることはなかった。
そして、テロリスト集団の後援者と思わしき、共和国企業連が保有する邸宅や工場、大商店には一切の被害がなかったことは言うまでもない。
(ファヴニルはまだ来ていない。だったら、この生命果てるまで足掻いてやる!)
テロリストの包囲が解かれた今、通信魔術を遮る術式や魔法陣は存在しない。
クロードは、報告書を読みながら、連絡用の水晶を手に、ひっきりなしに外へ出た職員と連絡を取り続けた。
「三班は、三〇分後に定時連絡。大型虎が遺跡から出てきたら、即時撤退しろ。絶対に交戦は避けるんだ」
解放者、革命者を自称するテロリスト集団、赤い導家士の暴虐に耐えかねて、レーベンヒェルム領の領民たちが一丸となって抵抗した結果、実行犯の大半が捕縛され、先代クローディアスの残した収容所に拘留された。
西部連邦人民共和国が租借した十竜港や、支援者である共和国企業連の邸宅へ逃げ込んだ上級幹部も少数いるようだが、共和国と共和国企業連は知らぬ存ぜぬという答弁を繰り返している。
捜査に当たる国警察は壊滅状態、領警察は先代クローディアスとファヴニルによって組織が解体されていたため、今のところこちらは打つ手がない。
クロードは、軽傷で、武芸に長けた冒険者パーティを、臨時の保安官に任じて巡回に派遣し、混乱に乗じようとする犯罪者や盗賊たちの警戒に当たらせた。
そもそも、昨日から続く戦闘自体、完全に終わったわけではない。夕刻頃に、古代遺跡から這い出てきたらしい徘徊怪物、全長五mにも及ぶ巨大な黒い毛並みの虎が未だ制圧されずにいた。
(死にたくないたぬ、か)
クロード達に襲いかかった黒虎は、レアが作り出した輝く武器と鎧に守られた部隊を一蹴し、死者こそ出なかったものの散々に暴れまわった。魔術が使えなくなったクロードがあわや爪の餌食になる、というところで、役所から追いかけてきたイスカが射た矢を額に受けて、悲鳴をあげて遺跡へと逃げていった。
(最後の言葉だけは、魔術で翻訳されていた。語尾の意味はわからないけど、あれはひょっとしたら怪物じゃなくて、異世界から来た知的生命体の一種じゃないのか?)
クロードは、乱れた髪をかきむしる。
もしも、意思疎通が不可能な怪物や、明確に法を犯して領民たちを脅かすテロリストでなく、ただ迷っているだけの異邦人ならば、どうにかして助けたかったのだ。
(僕も、僕だって、死にたくない。だから、せめてあの虎くらいは……)
徹夜明けのしょぼしょぼとした目をこすり、再びクロードが届けられた報告書に目を通し始めると、控えめなノックの音が響いた。
「領主様。朝食をお持ちしました」
メイド服を着た、青い髪と赤い瞳をもつ美しい少女、レアが、梅干の入ったおにぎりと、青茶の入った椀を盆にのせて執務室へ入ってきた。
「どうかもうお休みください。昨夜からずっと指揮と治療に駆け回られて……、これでは、領主様が倒れてしまいます」
「いいんだよ、レア。もう時間がないんだ。ニーダル・ゲレーゲンハイトが来るまでに、やれることをやらなきゃ……」
なんて白々しいと、クロードは内心苦笑する。自分は、ただ仕事に逃避しているだけだ。
関ヶ原の戦で敗れた石田三成は、処刑直前に水を所望した際、代わりに柿を勧められ、「柿は痰の毒ゆえいらない」と断ったという。警備の兵に「もうすぐ首を切られるものが今更心配することか」と笑われてもなお、「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と、毅然と振舞ったそうだが――
クロードは、己がそんな大人物でないことを自覚していた。今にも小便ちびって七転八倒しながら、誰か助けて、死にたくないと喚き散らしたかった。
そうしなかった理由は、ほんの少しばかりの矜持と、恐怖さえ凌駕するほどの、ファヴニルに対する底知れぬ怒りからだ。
(たとえこの命と引き換えにしても、あいつだけは必ず討ち果たす!)
レアの作ってくれた朝食をとる。クロードに自覚はなかったが、ひどく腹が空いていたのだろう。
食べ慣れた梅の酸味が、意識をはっきりさせる。元の世界で飲んだウーロン茶に似た青茶の味は、ささくれだっていた心を鎮めてくれた。
「クロードくんは、無事!?」
ちょうど食事を終えたとき、隣の広間から階段を駆け上がってくる足音と、懐かしいソフィのよく通る声が聞こえた。
「ソフィ!」
思わずクロードは駆け出していた。
赤いおかっぱ髪と、黒い両の瞳、橙色の上着と、若草色のベストに秘められた豊かな胸。
去っていた背中に、もう会えないかもしれないと覚悟していたクロードは、再会の喜びのあまりソフィの両手を握りしめて、彼女を抱きしめたい衝動に耐えた。
「クロード様。良かった、生きてる。ごめんなさい。あんなお別れは、嫌だったんだ……」
「いいんだ。ソフィこそ無事で良かった。ニーダルは、ニーダル・ゲレーゲンハイトはどこにいる?」
引き出しからひっ張り出して上着のポケットに入れた、『悪行の責はすべて自身とファヴニルにある。レアやソフィ、エリック達役所職員は無関係、領民たちの生活をどうか安堵して欲しい』という、オクセンシュルナへの嘆願書、実質的な自殺前の遺書の重みを感じながら、クロードは肝心の要件へと切り込んだ。
「うん。イスカちゃんは安全のため、レーベンヒェルム領で預かりますって伝えたら……。ゲレーゲンハイト卿は、わかった。俺は、レーベンヒェルム領には行かない。イスカのことを頼むって、オクセンシュルナ議員から仕事を請け負った、首都クラン近くにある古代遺跡へ向かったよ」
「は?」
一瞬、クロードには、ソフィの発した言葉がわからなかった。
空白になった脳裏を塗りつぶしたのは、真っ赤に燃える炎のような激情だった。
「ふっざ、けるなっ。何が仕事だ、父親だろうが。娘を見捨てて逃げるなんて、男の風上にもおけやしない。期待したのが間違いだった。そんなクソ野郎、部長の代わりに僕がぶん殴ってやる!」
「ち、違うよ」
「……むうう」
ソフィに目を奪われていた隙に忍び寄っていたのだろう、いつの間にか起きていたニーダルの娘、イスカがクロードの頬を力いっぱい引っ張っていた。
「痛ててっ」
「パパのわるくちは、だめっ」
イスカは、蜂蜜色の髪と青灰色の瞳の下、彼女自身の頬を大きく膨らませて、ぷんぷんと怒っていた。
「クロードのいってることおかしいよ。パパにあずかるってつたえたんでしょ? パパはクロードをしんじてるから、こっちにくるはずない」
「そ、それはそうだが」
クロード自身は、ニーダル某にどうして信用されているのか、さっぱりわからず首を傾げるばかりだ。
とはいえ、先方に預かると伝えて、子供を迎えに来ないのを怒るのは、理不尽だろう。
「おかおあらってくるね。あれ、はみがき、はみがきはどこ?」
「イスカちゃん、荷物はこっちです。洗面所はこちらになります」
イスカの案内を、レアに任せて、クロードはソフィの瞳を見つめた。
彼女は一瞬だけ頬を染めたあと、首を大きく振って、真剣な瞳で話を続けた。
「そのあと、ゲレーゲンハイト卿がオクセンシュルナ議員に言ったんだけど、邪竜の相手は俺がする。マラヤディヴァの民を、テロリストから守ってくれって。どうしてかわからないけど、彼はファヴニルがクラン近郊の古代遺跡にいるって確信してたみたい」
「……駄目だ。理由がわからない。ファヴニルが僕の自害を読んだ? その程度でイスカちゃんという格好の弱点を諦めるのか?」
「クロード様がゲレーゲンハイト卿と組んだら困るから、別々に倒そうって決めたとか」
ソフィの推測は、ほぼ正鵠を射ていたのだが、クロードは苦笑するばかりだった。
「まさか。ファヴニルの気まぐれか、わざと時間をずらしているだけだろう。僕は、ニーダルが来るまで自害できない。いまのうちに、やれるだけのことをやろう。手伝ってくれるか」
「うん。わたしはクロード様の味方だよ。それで、一階にお客様が来てるんだ」
☆
クロードが傷跡も生々しい一階に降りると、割れた窓の外で、特殊警棒や大型の弩で武装した物々しい一団が整列しているのが見えた。
(軍隊、じゃないな。マラヤディヴァ国警察の特殊部隊か)
片付けたばかりの応接室に入ると、整った茶色の髪と、褐色の瞳が特徴的なまだ年若い青年と、いかにも軍隊上がりといわんばかりの風格を持った中年男性が待っていた。
「お会いできて光栄です。マティアス・オクセンシュルナより派遣されました、リヌス・ソーンと申します」
一礼する青年に、クロードはしばし驚き、礼を返そうとして踏みとどまった。
まったく慣れていないことだが、貴族は安易に頭を下げてはいけないのだ。
「ソーン? 十賢家の! クローディアス・レーベンヒェルムだ」
「あ、え!? 入婿なんです。家内は、ソーン家を放逐されていますから、ただの平民です。こちらは、ヴィンセント・ブラーエ殿。マラヤディヴァ国警察対テロリズム機動中隊隊長です」
「ヴィンセント・ブラーエです」
中年男性、ヴィンセントの礼を受けて、クロードは威圧感で吹き飛びそうになった。
「辺境伯様のお心を騒がせて恐縮なのですが、今回の赤い導家士の蜂起にあたり、レーベンヒェルム領の捜査を許可していただきたいのです」
「わかった。ありがたい! 可能な限り便宜を図るよ。警察署は焼き討ちされたから、この役所一階を拠点に使って欲しい。ブラーエ殿、領民たちをどうか頼みます」
リヌスとヴィンセントは、まるでありえないものでも見たかのように絶句して、一瞬視線を交わすと、何もなかったかのように謝辞を述べて、対策本部を作るべく、部屋を後にした。
☆
ヴィンセント・ブラーエは、リヌス・ソーンを馬車まで送る途中、トウモロコシ色の髪を切りそろえた少年と、朽葉色の髪をソフトモヒカンに整えた少年が役所へやってきて、クローディアス・レーベンヒェルム辺境伯と肩を抱き合い、無事を喜ぶのを見た。
「あれが、名高い悪徳貴族、クローディアス・レーベンヒェルムですか。吾輩には、ただの気の良い少年にしか見えない。あの子が本当に、今回の惨劇を引き起こしたというのですか?」
ヴィンセントの疑問を聞いて、リヌスも顔を曇らせた。
「私も、わからなくなった。てっきり領の自治権を持ち出して断ると思っていたのに。だからこそ、捜査を頼みます」
「ええ、マラヤディヴァの民を脅威から守るために、我々はいるのですから」
リヌスは、ヴィンセントと別れ、馬車を走らせた。
「以前、一度だけ見たクローディアス・レーベンヒェルムは、傲慢で横柄で鼻持ちのならない男だった。いくら年若いと言ったって、ここまで変わるものなのか」
それとも、と、疑惑がリヌスの心に湧き上がる。
ニーダル・ゲレーゲンハイトは、人民通報に載った写真を見た直後、娘を預けて構わない相手と評価を改めた。なぜだ――?
「ハハ。まさか、そんなこと、あるはずがない」