第161話 悪徳貴族と観光振興
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レーベンヒェルム領の北部に、ルンダールという寂れた港町がある。
かつては海と山に面する風光明媚な町並みと、海運貿易の拠点である十竜港にほど近い恵まれた立地から、貴族や庶民が訪れる一大観光地として賑わっていた。
しかし先代辺境伯が死亡して、クローディアス・レーベンヒェルムが領主となったことで、町の運命は大きく変わる。
彼は山を切り開き砂浜を埋め立て、共和国に媚びた文化・遊戯施設などを建設するなど、外国人向けの観光開発に勤しんだ。
その結果、景勝地が破壊されて自然情緒が失われたばかりか、ずさんな工事がたたって土砂崩れを引き起こし、道路やトンネルといった主要な交通インフラを喪失してしまう。
残されたルンダールの町民たちは、漁業や農業に従事しつつ、なすすべもなく滅びの時を待っていた。
雷にでもうたれのか、ある日いきなり改心した悪徳貴族が整備を進めて、町を閉ざしていた道路とトンネルを復旧させたのはわずか半年前のことである。
「親父たちは文句ばかり言うけど、いまの辺境伯様はよくやってくれてるよ」
町長の息子である若き漁師スヴェン・ルンダールは、海岸線に沈む夕日を船上で眺めながらそう呟いた。
彼は早朝から漁に出て、船いっぱいの魚を釣ることができた。半年前までは、釣果は燻製にして保存することしかできなかった。
けれど道路が復旧した今なら、領都レーフォンの市で売って衣服や雑貨に替えることが出来る。
ルンダールの町が彷徨怪物に襲われても、緊急出動した領軍や領警察によって迅速に対処される。
まぶたの裏にある幼い日の景色が失われたことは、スヴェンにとっても悲しいことだ。
だが、それは本当にクローディアス・レーベンヒェルムだけの責任なのか? 共和国の商人にのせられて、大金に心奪われて、酔っ払ったように暴挙に走ったのは他ならぬ父や大人たちではないか?
そんな疑問が、スヴェンの心から晴れなかった。
「だいたい今の辺境伯様には関係……おおっと」
年若い青年は思わず周囲を見渡した。
海の上だ。他に誰もいない。それでも、言葉に出すにはあまりにも危うい禁句だった。
町の若者たちも九割が気づいている。今の辺境伯は、かつてとは――違う。
曰く、影武者にすり変わられた。曰く、遺跡で幽霊に憑かれた。根拠のないゴシップがまことしやかに囁かれているが、民衆の誰もが領主の変貌に心揺さぶられずにはいられなかった。
「雨の匂いがする。雲行きも怪しい。早く帰らないと……」
スヴェンは釣り竿と櫂を仕舞いこみ、小型船の魔力発動機を動かして、船尾のプロペラ型推進装置を回転させた。
マジックアイテムは貴重だ。魔力の充填には安くない金額が必要だったが、漁師としての危機感が彼の背を押した。
スヴェンの判断は正しかっただろう。夕暮れの天気は変わりやすい。赤い空は瞬く間に真っ黒な雨雲に埋め尽くされ、吹き付ける雨と風が小舟を葉のように弄んだ。
命には代えられないと、スヴェンは魚も荷物も捨ててひたすらに岸を目指した。だが、強烈な波がスヴェンの乗った舟を中空へと投げ飛ばす。
ああ、自分はここで死ぬのか。冷たくなる手足で必死に帆柱にしがみつき、溶鉱炉のように熱くなった心臓の熱を感じながら、スヴェンはその目で有り得ざるモノを見た。
「……さ、サメぇええっ!?」
薄闇の中、輝く目を光らせて空飛ぶサメが嵐の中をつっきっていたのだ。
☆
レーベンヒェルム領北部を大きな嵐が襲い、役所と領軍は復旧に追われた。
一週間がたつと、幸いにも家屋や船の損傷こそあれど死者がでなかったことが判明する。
生還した漁師が空飛ぶサメを見たと訴える珍事が発生したが、本気にするものはいなかった。
今や、ヴォルノー島沿岸は、緋色革命軍を警戒する大同盟の巡航艦隊が厳重に警戒していたからである。
ブリギッタ・カーンが領主執務室の扉を叩いたのは、そんな日のことだった。
「辺境伯様。至急取り組まなくちゃいけない大切な課題があるわ。観光よ!」
「ああ、艦攻か。僕も危ういと思っていた。やはり大砲の性能強化が――」
「誰が艦隊の話をしますかっ!」
ブリギッタが壁に飾られた斬奸刀で後頭部を一撃し、クロードは額を机で強かに打ちつけた。
「な、なにをするんだ。ご乱心!?」
「いいから聞きなさい。辺境伯様。今アタシ達はお祭りの準備に取り組んでるわよね?」
「うん。新式農園が上手く回ってるし、他の畑も収穫が増えた。だから、天地の恵みに感謝する祭りを企画しているんだ」
本当は、祭りを名目に優秀な働きを見せた者を登用、あるいは幹部として抜擢するのが目的だが、さしあたってレーベンヒェルム領最大の課題であることは間違いない。
「そうお祭りよ。だっていうのに、うちの役所には観光を理解している職員がいないのよっ」
ブリギッタがバンと音を立ててクロードの眼前の机に叩きつけたのは、新年の障害物マラソンと、大同盟成立記念コンサートの収支報告書だった。
「あれだけ人を集めたのに、収支はトントン。たいした黒字になってないってどういうことよっ」
「待てブリギッタ。その二件は、最初から利益なんて見込んじゃいない」
あくまでも慶事を祝うイベントだ。仮にも行政府が最初から利益だけを追求するわけにはいかない。
「それが甘いって言ってるの。費用は湧いて出てくるんじゃないのよ。税金よ税金。役所職員もだけど、最近辺境伯様も領主をやるのが板について忘れてない?」
「う、うむむ」
ああ、こういうところから民営化だの第三セクターだのといった問題が生まれたのかなあ? と、クロードは胸の中で呻いた。
ブリギッタは商人のモノサシで見ている。行政というものは、彼女が計るようになんでもかんでも合理化すれば良いものではなく、利益追求がすべての状況で良いわけではない。
そもそも政府とは、民間では成立しないコストや社会サービスを受け持つために、経費として税金を徴収しているのだから。
クロードたち領首脳には、外敵の侵入を防ぎ、治安を確保し、個人の私有財産を守る義務がある。
とはいえ、緋色革命軍との決戦を控えるいま、収入という側面も無視できなかった。
「……そうだね。税金を納めてもらってるんだ。僕たちには責任がある。しかし、まいったな。アンセルとヨアヒムを呼びもどすわけにはいかないし」
「ああ、あの二人ならしばらく戻ってこれないわよ。派手にやらかしたから」
「やらかした? いったい何を?」
ブリギッタはまずクロードよりも先に、幼馴染であるエリックと、アンセル、ヨアヒムに相談したのだという。
「アンセルとヨアヒムはね、観光には領独自のお土産が不可欠だって、コンサートの曲を自鳴貝で売りだそうとしたの。ソフィ姉と、レアさん、アリスちゃん、セイ司令の念写真を一枚だけつけて」
「なるほど、えげつないことを考える」
四人はそれぞれファンがついている。もしも同封された写真がお目当ての娘でなければ、再び購入することだろう。
あるいは、全種の写真を集めたいという収集家心をくすぐる意味もあるだろう。
「他にも、グッズに握手会の参加権をつけるとか色々考えてたみたいだけど、企画が会議を通る前に、エリ……、ごほん、内部告発があったのよ」
「命知らずな真似をする。そりゃあ、そうだろう」
レアは人前に立つことを望まず、ソフィはこういった手段を好まない。
セイは自身を武官と任じ、アイドル扱いされることを忌避する。仮に言いくるめられる可能性があったとしても、アリスだけだ。
そもそも成功の可否以前に、エリックはこの手段を看過しないだろう。ブリギッタも巻き込まれる可能性があったからだ。
「で、堪忍袋の緒が切れたソフィ姉たちに問い詰められて、計画はご破算。あの二人、ちょうど領を離れられて良かったんじゃない?」
(この件、今度会った時に絶対問い詰めてやる)
クロードは胸の中でままならない思いを沸騰させていたが、ブリギッタは気にも留めずに話を続けた。
「しょうがないからアタシがプロジェクトチームを引き継いだら、要らないハコモノ作って人を集めるとか馬鹿なアイデアばっかり出すの。全員ハリセンでひっぱたいて来たわよ」
「彼らも別に悪意があって提案したわけじゃないだろ……」
クロードは庇おうとしたが、ブリギッタの勢いは止められなかった。
「激甘よ。ダダ甘よ。そんなやり方、大抵の国で失敗してるでしょうが。莫大な資本力を持ってるアメリアならいざ知らず、うちには墓石のようなビルとゴミ捨て場を抱える余裕なんてないんだから!」
「そ、それはまあ」
成功する例がないわけではない。だが、リスクが高いことは否めない。
なるほど交通インフラを整えることは経済の基礎だ。理屈上はランドマークたる何かがあった方が望ましい。
しかし、観光業を含む商売はそういった基盤以上に、利用法がモノを言う。
建てれば客が来るなんて話が通るなら、そもそも飲食店や小売店は潰れない。
「ともかく、辺境伯様。あんたが大将なんだから、どうにかしてヴァリン領やナンド領のカモネギ達から金をふんだくる企画を考えるか、担当官を指名して。祭りをやって大赤字なんて結果、アタシは認めないんだから!」
アンセルがルクレ領に出向している今、ブリギッタは外交折衝だけでなく財務まで担当していた。
自分が難事を任せている以上、クロードは頷くことしかできなかった。
「で、困った時はヴァリン領の大学と思ったんだけど……」
さしものヴァリン領の学術機関にも、観光学はなかった。
複数の言語を研究する語学系、国際条約を学ぶ法学系、他国の観光事業などを研究する経営学系の研究にかすめるものはあったが、専門家とはいえなかった。
「そんな甘い話はないよね」
加えてクロードはホテルや旅館を訪ねたものの、無料で飯の種を教えてくれるはずもなかったのである。
「ブリギッタ、確かに現状じゃあ、企業を誘致する以前の問題だ。役所に専門部署を作ろう。あと本番の祭りまでに小規模な祭りでリハーサルをして、問題点を洗い出す。そういえば、レーベンヒェルム領には観光地はないのか?」
「先代があらかたぶっ壊しちゃったからね。そう言えば、ルンダールって港町が昔流行ってたってパパが言ってたわよ。ほら、最近町長の息子が空飛ぶサメを目撃したって話題の町、聞いたことない?」
「おいおい、サメが空を飛ぶわけないだろうが」
クロードは失笑した。
なぜか海生の鮫が淡水の湖にいたり、砂地や雪原を泳いだり、竜巻になったり悪霊になったりゾンビになったりロボ化したり、邦題にジョーズとつくのは……映画の中だけだ。
「そんな魔法みたいなことがそうそう。いや、この世界、思いっきり魔法あるけどね。モンスターもいるけどね!」
「そうよねえ、さすがに空飛ぶサメはねえ」
クロードは笑い飛ばしながらも、一抹の悪寒が拭えなかった。
(頼むから邪竜鮫とかやめてくれよ。そんな展開は絶対にお断りだからな)
その頃、退屈にあかせたのか、海で鮫と一緒に泳いでいた少年がくしゃみをして溺れかけたが、目撃した者はいなかった。
「ルクレ領とソーン領にも声をかけて、次の休日にルンダール町へ行ってみるよ。なにか掴めることがあるかもしれない」
そうして、クロードの呼びかけによりルンダール町への小旅行が決まった。
参加者は――。
レーベンヒェルム領から、クロードとアリス、ハサネ。
ソーン領から、チョーカー、ミーナ、ロビン、ドリス、ミズキ。
そして、ルクレ領からは。
「不肖、騎士ミカエラ、婚活に来ました!」
ややウェーブがかったニンジン色の髪をゆらめかせ、馬車から集合場所に降りたった妙齢の軍服を着た女性。
彼女の第一声に、その場の全員が腰砕けになった。
(アンセル、お前はルクレ領でいったい何をやってるんだぁっ)