第153話 悪徳貴族と楽園使徒の終焉
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復興暦一一一一年/共和国暦一○○五年 霜雪の月(二月)二八日。
レーベンヒェルム領、ルクレ領、ソーン領を中心とする三領軍は、マラヤディヴァ国ヴォルノー島を震撼させた怪物災害をついに鎮めることに成功する。
クロードの熱止剣を受けた血塗れ竜は沼に膝をつき、炎によって焼け崩れた。
灰となった遺骸からは無数の淡い光が太陽に導かれるように天へと昇り、この光景を見ヴァン神教の神官は、奪われていた犠牲者の命がようやく解放されたのだと呟いた。
上半身だけが残されたアルフォンス・ラインマイヤーは、脱色した金髪の下、苦痛に満ちた顔で何かを言おうとした。
「アルフォンス」
クロードが彼の右手を握ると、わずかに和らいだ顔で、何も告げずに事切れた。
アルフォンスの死体もまたぐずぐずの赤黒い肉塊へと変化し、やがて灰となって沼地の中へ沈んで消えた。
クロードの手が掴んだわずかな白い骨の欠片だけが、怪物に成り果てた男が遺したすべてだった。
「お前は、人間に戻ったのか?」
クロードは骨片を握りしめたまま、青い空を見上げた。
答えるものはおらず、ただ兵士たちの歓喜の声が響き渡り、ここに戦いは終結した。
――しかし、めでたしめでたしでは終わらなかった。
楽園使徒は、怪物化したアルフォンスの暴走もあって壊滅状態にあり、ほどなくして制圧された。
これに泡を喰ったのが、楽園使徒を支援していた西部連邦人民共和国の一部軍閥である。アルフォンスらの黒幕であった軍閥は、怪物災害はもっと長引くか、あるいは三領軍に壊滅的被害を与えるまで続くと期待していたのだ。
が、ふたを開けてみれば大量の負傷者こそ出たものの、怪物災害鎮圧戦による戦死者は0。総司令官である姫将軍セイの名声と三領軍の勇壮は、マラヤデイヴァ国だけではなく近隣諸国にまで鳴り響いた。
事態を重く見たパラディース教団の指導者アブラハム・ベーレンドルフ主席教主は、オズバルト・ダールマンの報告もあり、マラヤディヴァ国への干渉を続けても益なしと損切りを決める。
それは、黒幕たちにとって自身の破滅を意味していた。
「座して死を待つ馬鹿がいるものか! 教主の意向など何するものぞ。かくなる上は、我らの手でレーベンヒェルム領を占領し、再び植民地という正しい世界を作り出す。戦端さえ開いてしまえばこちらのものだ!」
鋏が鋏なら、使い手も使い手だったということか。
彼らは大局的視野を欠いた恐るべき短慮を起こし、子飼いの私兵団と共に武装漁船団に乗って共和国から一路マラヤディヴァ国を目指した。
「こうなったのもすべて蛮族の小娘のせいだ。我らの慈悲で生かされている備品風情が調子に乗って! 四肢を裂いて、死体をさらせっ」
更には、楽園使徒の崩壊を招いたのが三領軍に協力する裏切り者ミズキであると決めつけて、ヴォルノー島に残された楽園使徒の残党、懲罰天使に彼女の殺害命令を出したのである。
「蛮人どもに目にものをみせてやれ」
「野郎ども、雇い主の許可が出たぞ。濡れ手にアワのかきいれ時だ。略奪を始めろ、ハァッハッハッ!」
武装漁船団の艦隊は、闇夜に紛れてマラヤディヴァ国領海に入り、ルクレ領の離島に上陸しようとした。
この時、ロロン提督旗下の巡航艦隊の警備網を突破していることから、武装漁船団の長は優秀な指揮官であったのではないかと後日推察されている。
「へえ。誰の許可を得て、ボクのおもちゃ箱に触ろうとしているのかな? せっかくの仕掛けは不発に終わるし、いい加減うざいんだよ。目障りだから消えちゃえ」
「お、お前は、邪竜ファヴニル!?」
後日――と、過去形である理由は明白だ。
軍閥重鎮たちを乗せた共和国の漁船団は、運悪く局地的な台風に見舞われ、上陸を前にして全員が海の藻屑と消えたからである。
またほぼ同時期に、懲罰天使の残存兵力がミズキの滞在している港湾都市ヴィータに向けて街道を進軍したものの、ドレッドロックスヘアとぶ厚い小手が目立つ傭兵の率いる一団に阻まれた。
「貴様は、赤い導家士のロジオン・ドロフェーエフ。なぜ我らの正義執行を阻もうとする? 反革命分子に魂を売り渡し、貴族どもの犬に堕落したか」
「おいおい、犬も何もオレは傭兵だぜ? 雇われればどこにだって味方するさ」
傭兵は飄々とした顔で笑い、片刃の曲刀をすらりと抜いた。
彼が佩いていた得物は、イシディア法王国の辺境で僅かに生産される異世界由来の刀剣、ニホントウだ。
ロジオンの抜刀に続くように、同行する兵士たちも小銃を一斉に構えた。
いかなる理由からか、彼らが装備していたのはマスケットではなく、レーベンヒェルム領でもほとんど配備されていない新型の連発式銃であり、しかも全体的な造形はより洗練されていた。
「まあ、今回は特別だ。意図しようがしまいが、てめえらはオレの逆鱗に触れた。せいぜい足掻くんだな。死んだ女房風に言っちまうなら、”オレはただぶち殺したいだけで、簡単に死んでほしくはない”んだからよおっ」
「わけのわからないことを。たかが傭兵が、我々の正義にぐひゃああっ」
この後、懲罰天使構成員の姿を見た者はいない。西部連邦人民共和国にとって、彼らはもはや生かしておいては有害な存在となっていた。
そして怪物災害鎮圧から一週間を経た、若葉の月(三月)七日。共和国は国際社会に向けてある声明を発表した。
『先にマラヤディヴァ国で怪物災害を引き起こしたアルフォンス・ラインマイヤーを名乗る男は、共和国国籍に非ず――ナラール国からの難民であり、国籍を偽装していた犯罪者である』
翌日、若葉の月(三月)八日。共和国と国境を接するナラール国はまるで示し合わせていたかのように、声明を発表した。
『アルフォンス・ラインマイヤーを騙るテロリストはナラール人に非ず、堕落した隣国ナロールが派遣した工作員である。我が国はこのような陰謀を決して許さない』
それから五日後の若葉の月(三月)一三日。隣国に遅れること五日、ナロール国もまた声明を発表した。
『厳正なる聞き取り調査の結果、遠いマラヤディヴァ国で起こった怪物災害は、ガートランド聖王国が派遣した怪人物の手で引き起こされたものであると我が国は確信した。この重大なる犯罪行為に対し、我が国は国際社会へ向けて王国の非を徹底的に訴えてゆく』
それから二日後の、若葉の月(三月)一五日。王国議会の野党勢力は、ナロール国のまったく具体的な証拠のない声明を根拠に王国与党を糾弾した。
「ふざけてるのか? こんな責任転嫁と言いがかりがあるものか!」
クロードは楽園使徒と繋がりのあった共和国、ナラール国、ナロール国に対して遺憾の意を表明するとともに、王国がまったく無関係であることを外国人記者たちの前で宣言した。――が。
王国ではろくに報じられなかった挙げ句、野党勢力は悪徳貴族の言質をとったとばかり狂乱を深めたのである。
若葉の月(三月)一七日正午。
クロードは午前の仕事を終えた後、執務室で読んでいた王国の新聞をゴミ箱に叩きつけた。
「なにが王国首相の気持ちをソンタクか、だ。難しい言葉を使って言いがかりを誤魔化してるんじゃないぞ。王国の野党は真面目に政治をする気がないのか」
火にかけたヤカンのように顔を赤く染めるクロードに、ちょうど報告に来たブリギッタとハサネが苦笑いを浮かべる。
「外から見てると爆笑ものの喜劇よね。王国野党には共和国の躾が行き届いてるみたいじゃない?」
「これもまた政治ですよ。王国には助けられていますし、例の三国に比べて信頼できますから、辺境伯様が感情移入する気持ちもわかります。ですが、これは王国の問題です」
「そう、だね。ハサネ、アルフォンスの件、裏は取れたのか?」
「力及びませんでいた。歴史を振り返り見るに、共和国もナラール国も平気で条約を破り、嘘を吐き続けた国です。同じくらい信用するに足らず、そして、恐れながら今となってはどうでもよいことでしょう」
ハサネのある意味で冷酷な言葉に、クロードは三白眼を閉じて右手をあてた。
「ここが落とし所なんだな、ブリギッタ」
「ええ。すべてはアルフォンス・ラインマイヤーを名乗る身元不明のテロリストと、彼に扇動された犯罪者たちがしでかした悪事。共和国、ナラール国、ナロール国に侵略の意図はなく、単に利用されただけに過ぎなかった。だから、マラヤデイヴァ国がこの三国と角を突き合わせて戦争をする必要もない――ってところね」
これではまるであべこべだ。王国のことを笑えないではないか。クロードは奥歯を噛みしめた。
「辺境伯様。ブリギッタ嬢は……」
「わかってるよ、ハサネ。僕たちはレーベンヒェルム領の代表であっても、マラヤディヴァ国の代表なんかじゃない。そもそも外交権がないんだ。この不利な状況でブリギッタはよくやってくれた」
楽園使徒の生き残りは、裁判の後、全員が本国に送還されるだろう。
その後、軍事独裁国家や水に落ちた犬を棒で叩くような国が、彼らをどう扱うかなんて想像するに容易い。
「ブリギッタ。共和国出身の未亡人と孤児は、オズバルト・ダールマンを通して帰国させてやってくれ。押しつけるようで悪いが、彼は元正義の味方だろう。共和国の為に一肌脱いでもらうさ」
「わかったわ。辺境伯様は、午後の予定が外出ってなっているけれど、どこかへ行くの?」
「墓参りだ」
「ちゃんと護衛を連れていきなさいよ。そうだ。今日は、ソフィ姉が話があるって言ってたわよ」
「了解」
クロードは薄手のジャケットに着替えて執務室を出た。
彼が向かったのは、決戦場となったソーン領北部バナン川流域の湿地帯からやや北に位置する、レーベンヒェルム領の小高い丘だ。
そこに、アルフォンス・ラインマイヤーを始めとする楽園使徒の共同墓地が作られていた。
もっとも、彼らの遺体は竜に変じた巨大スライムに飲み込まれたため、残された遺品を埋めただけだ。名前の欠けている者だっているかもしれない。
今後、楽園使徒は無かったものとして、共和国にナラール国にナロール国に忘れられてゆくだろう。この墓だけが彼らが確かに存在した証となるのかもしれない。
(悪党の末路なんてこんなものさ。ファヴニルにすがって多くの人を殺めたお前と、ファヴニルを拒絶して多くの人を巻きこんでゆく僕。お前と僕に、違いなんてあるのかな?)
どちらも許されざる悪ではないか? そんな迷いがクロードの胸から晴れなかった。
クロードは慰霊碑に手を合わせ、馬車へと戻った。そこでは、赤い髪の女執事ソフィが、焼き飯と梅干しのオニギリを広げて待っていた。
「クロードくん、お昼まだでしょ? 一緒に食べよう」
「ああっ、美味しそうだ」
二人でオニギリを頬張る。ふと、ソフィが呟いた。
「クロードくん、わたしたちずっと一緒のご飯を食べてきたよね」
「う、うん。今日も美味しいよ。どうしたの、ソフィ?」
「ううん、幸せだなって」
柔らかな笑顔で微笑むソフィを見て、クロードは気付いた。
(ああ、そうか。クローディアス・レーベンヒェルムは、彼の名を継いだ僕はずっと彼女たちと、レーベンヒェルム領と共にあった)
クロードは、第二の故郷とも言えるこの大地に住まう民と共に生きてきた。
それだけは、絶対に違うのだと胸を張れた。この墓の下で眠る者達の魂は、きっと異なる国や異なるイデオロギーと共にあったのだろうから。
「うん、僕も幸せだよ」
握り飯を食べ終わったクロードの顔は、険のとれたほんの少し恥ずかしそうな、ソフィが大好きな少年のものだった。