第149話 悪徳貴族と重なる心
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復興歴一一一一年/共和国歴一○○五年 霜雪の月(二月)二八日早朝。
レーベンヒェルム領を中心とする三領軍が、血の湖と雌雄を決する日がやってきた。
ショーコは、自身を囮とする作戦を「手出し無用」と却下された日から、すねて領主館の地下室に引きこもってしまった。
クロードは、せめて食事を皆で食べようと何度もドアを叩いたが、彼女の反応はなしのつぶてだった。
「おはよう。ショーコさん。今朝はいい天気だよ」
クロードが木製の大扉の前に立ってドアを軽くノックしたが、地下室は静まりかえっている。
「雨季もそろそろ終わりかな? でも予報じゃあ、昼頃に降るってさ」
稀に聞こえてくる健康器具の稼働音も今は聞こえない。
まだ眠っているのだろうか? それでも届いていると信じて、クロードはドア越しに言葉をかける。
「帰ってきたら、話したいことがたくさんあるんだ。朝ごはんはここに、昼ごはんは食堂のバケットに置いてあるから食べてね」
クロードはお手製のおにぎりと野菜スープ、乾燥納豆をのせたお盆を地下室の前に置いて、階段を上った。
作戦開始時間は近い。レアも、ソフィも、セイもすでに任地に向かっている。クロードは屋敷の戸締まりを確認すると、やや俯いて瞬間転移魔法を使った。
さてその頃、ショーコが何をしていたかというと、隠れてやり過ごした後、彼の姿がロビーから消えるのを見送っていた。
あざやかなアジサイの花を連想させる紫色のショートの髪と、アメジストさえかすむ輝きを宿す瞳、白く抜けるような肌が印象的な、マリンブルーのツーピースを着た少女。実は彼女の正体こそ……、クロードが好敵手とみなす古代遺跡の青いスライムである。
本当はショーコを拘束するなんて、最初から不可能なのだ。洞窟の割れ目や通風孔、割れたレンガのヒビなど、水がしみ出す程度の隙間があれば、彼女はどんな場所にだって移動できる。
「ふうん。肩を落としちゃって。パクッ。いい気味よ。ハムッ」
ショーコは食事を地下から台所のテーブルへ運ぶと、小さな口でついばむようにしてぺろりと平らげた。
ストレス解消には甘いものが一番だ。彼女は次に冷蔵のマジックアイテムに保管されていたスイカジュースを飲みほし、壺に入っていたイモ餅と果実のシロップ漬けを頬張りはじめる。
「ぜーったい、許してあげないんだから。ハムハムッ、ごくん」
「怒らないで欲しいたぬ。クロードはショーコちゃんが心配だったぬ」
「そんなのわかってるわよ。よく考えたら、クロードは私の正体を知らないわけだし、あの言い方じゃ特攻作戦って誤解しても無理ないわ。でも、乙女のプライドがあるのよ。男の子なら、花束のひとつでも持って、僕が悪かったぐらい言えないの?」
「そんな風に気が回ったら、クロードじゃないたぬ」
「甘い。甘いわ、アリスちゃん。貴方達がそうやって甘やかすから、こんがらがった状況になっているのよ。五角関係なんていけないことだわ。わたしまで変な気分になっちゃうじゃない」
「たぬう。そ、それは困るたぬ」
丁々発止とやりあった末に、ショーコはギギギと錆びたブリキ細工のようにぎこちなく振り返った。
彼女の隣の席には、金色の虎耳と猫目、ふさふさとした黒い尻尾をもつ獣娘アリスが、いつの間にやら座っていた。
まったく気配を悟らせなかったアリスの忍び足が凄いのか、あるいはお菓子を前に気を緩めすぎたのか、ショーコは致命的な失言がなかったことに胸を撫で下ろした。
「こほん。じ、冗談よ。アリスちゃんは屋敷に残っていたんだ?」
「クロードが、ショーコちゃんが心配だから一緒にいてあげてってたぬに頼んだぬ」
こういうところだけは頭が回るんだから、と、ショーコはわずかに頬を赤く染めた。
「決戦の日だものね。わたしも引きこもってばかりいられないわ」
「でも、ショーコちゃん。最初の日から、レアちゃんとソフィちゃんのお手伝いとかしていたたぬ?」
「二人には黙っていてってお願いしたのに、ひどいっ」
ショーコは彼女の提案を蹴ったクロードが無茶な作戦を立ててはいけないと、屋敷の地下室を抜け出して契約神器・魔術道具研究所に忍び込んだのだ。
そこで、うっかりクロードの侍女、レアとすれ違ったのがまずかった。見敵必殺とばかりに偽装を看破された上に清掃バケツへ閉じこめられ、ぐいぐいと詰め寄られた。
幸い通りがかった執事のソフィが助け船をだしてくれて、クロードに知られないよう手伝いたいと正直に打ち明けたら解放されたものの、ショーコはレアの剣幕に久方ぶりの恐怖を感じた。
二人から聞き出した作戦は、クロードらしい奇抜な発想に基づくものだが、果たして上手くいくものか……?
「たぬが勝手に察しただけたぬ。もぐっ。でもセイちゃんもボーさんもお手伝いさんも、クロード以外は気づいてるたぬ。もぎゅっ。だっておやつがいっぱい減ってるたぬっ。もぎゅぎゅっ」
「お、お菓子が美味しいからつい食べちゃったの。ところで、アリスちゃんはさっきから何をしているの?」
アリスは黒い尻尾をぴんとたてて、ぷるぷると震え始めた。
彼女の頬は風船のように膨らみ、口元にはイモ餅やシロップ漬けの食べかすがべっとりと残っている。
アリスはゆっくり飲み干すと、大きな口を開けて答えた。
「な、なにもしてないたぬ?」
「びんじょーはんだっ。おやつ食べたのわたしだけじゃないじゃないっ」
「だって、たぬも欲しかったぬーっ」
「それならそうと言えばいいじゃない」
「だって、レアちゃんが怖いたぬぅー!」
アリスが叫んだ瞬間、ショーコは深い共感を覚えた。互いに右手を差し出して、心を重ねる。
「だから、ショーコちゃん、一緒に謝ってくれるたぬ?」
「ええ、一緒に行って……帰ってきて謝りましょう」
二人は、固い握手で結ばれた。
☆
復興歴一一一一年/共和国歴一○○五年 霜雪の月(二月)二八日午前。
領主館で不可思議な友情が結ばれていた頃、ついに血の湖討伐作戦が開始された。
先陣を切ったのは、イヌヴェ率いる騎馬鉄砲隊である。
ありったけの付与魔術による支援を受けた彼らは、人間という生き餌を求めてさまよっていた赤黒い肉塊の鼻先へ銃弾をお見舞いした。
「AAAAAAAAッ!」
血の湖が上げたのは、怒りではなく歓喜の叫びだった。
もはや小山ほどになった巨大質量で、待ちかねていたとばかりにイヌヴェ隊に襲いかかる。
「隊長、まるで効いていません」
「第一目標は果たした。転進する」
騎馬鉄砲隊に選抜されたのは、精鋭中の精鋭だ。
イヌヴェ隊は、血の湖から飛び出す赤黒い顎を避け、橋のように巨大な触腕をかいくぐり、次なる作戦区域であるバナン川流域を目指してひたすらに逃走する。
血の湖による追撃は、まさしく蹂躙といって良かった。
イヌヴェ隊が通過した無人の村が、あたかも象に踏みつぶされる蟻の巣のように消し飛んだ。
しかし、その瞬間、火の手があがる。
村民を避難させた小屋一帯に、予めトラップを仕込んでいたのだ。
「村一つを犠牲にした火計です。これならやれる――損傷確認できませんっ」
「耐熱能力まであるのか!?」
その後も、イヌヴェ隊は街道に仕掛けた無人ゴーレムによる猛毒の矢罠や、砦に偽装した麻痺の結界に誘い込んだものの、まるで有効なダメージを与えられなかった。
反面、巨大すぎるスライムはその重量からどうしても移動が遅く、加速呪文に守られた騎馬隊との距離を縮められない。
「AAAAAAAAAAAッ」
血の湖は、らちがあかぬと見たか、森の木々や家の柱を触腕でちぎってはイヌヴェ隊に投げつけ、更には竜巻や吹雪といった大規模魔法を連発してきた。
「馬鹿なっ。こんなの人間にできることじゃ……」
「アルフォンス・ラインマイヤーはきっと人間をやめたんだろうさ。心が弱いからなっ。第六位級契約神器ルーンシールド”雲垣”起動!」
イヌヴェ隊に同行するエリックが利き腕にはめた腕輪が輝き、騎馬隊を連なる雲の峰に似た障壁で幾重にも覆う。
障壁は一枚、また一枚と砕けてゆく。それでもイヌヴェ隊は、投木の雨をかわし、竜巻をぶち抜き、吹雪をつっきって、目的地を目指した。
だが、やはり速度の低下は否めない。
血の湖はとうとうイヌヴェ隊へと迫り、最後尾で殿軍を務めていたエリックへと触腕を伸ばした。
「ここは我々に任せてはやく離脱を――!」
「へん、この特等席は譲れねェよ。悪いな、アルフォンス。俺の命はとっくに好いた女に捧げてる。それに、おせっかいな友達もいるんだよ」
「第六位級契約神器ルーンボウ”光芒”起動!」
アンセルが本陣から放った特大の光弾が、血の湖へと炸裂した。
レーベンヒェルム領の契約神器中、最大級の破壊力をもつ砲撃が命中してなお、赤黒いスライムへ刻んだ傷は微少だ。
それでもエリックは間一髪で死神の鎌から逃れて、イヌヴェ隊もまたバナン川へと到着した。
「よっし、第二フェイズへ移行だ。ヨアヒム、やっちまえ」
「おうよ」
ヨアヒム率いる一隊が、河川敷に仕掛けた巨大弩から極太のロープをつけた矢を次々と放つ。
作戦遂行のため契魔研究所で開発された新兵器である大綱は、空中で寄り結んで網に変化し、血の湖を縛り付けた。
「AAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!」
「第六位級契約神器ルーンロッド”陽炎”起動!」
ヨアヒム隊は契約神器が引き起こす幻影の加護を受け、血の湖が網から逃れようと暴れながら放つ火球や氷柱を避けて、どうにか離脱に成功した。
「AAAAAAAッ」
標的を取り逃がした血の湖が姿を変える。
それは、数千体からなる赤黒い兵士の群れだ。
兵士たちは巨大網を潜り抜けて、イヌヴェ隊とヨアヒム隊を追いかけバナン川をくだった。
そうして、血の湖の軍勢が足を踏み入れたのは、複数の河川が交差して生まれた湿地帯、泥の平野だった。
奇しくもそれは、アルフォンスが協力してレーベンヒェルム領に内乱を引き起こした男――マクシミリアン・ローグが奪ったグロン城塞の立地に似ていた。
レーベンヒェルム領軍総司令官セイが、イヌヴェ隊とヨアヒム隊に誘導された血の湖を、三領軍と共に待ち受けていた。
「血の湖よ。私自身も経験したことだが、勝ち続ければ油断と慢心が生まれる。我が陣は、楽園使徒がけしかけたマクシミリアンの布陣を翻案したものだ。とくと味わえ」
この日、クロードが血の湖討伐のために動員した兵力はおよそ三万。
待ち伏せに成功した三領軍は、半包囲した血の湖に向けて大砲と小銃と魔術を嵐のように撃ちかけた。
「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
「アルフォンス・ラインマイヤー。たとえ何千人の犠牲者から力を奪っても、お前はたったひとりだよ。これが意志を重ねるただの人間の力だ!」