第110話 悪徳貴族と婚姻騒動
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悲鳴がひびき、すえた臭いのする地下牢でひとりの少女が震えていた。
本来ならば可憐という言葉が似合うのだろう。
しかし、ふわふわとした鳶色の長い髪は泥で汚れ、ぱっちりとした藍色の瞳は恐怖の涙で濡れて、ふっくらと丸みを帯びた頬も涙の跡で見る影もなくグシャグシャだった。
「とうさま、かあさま……」
絶え間なく父と母を呼び涙にくれる少女を、ひとりの女性が優しく抱きしめた。
かつては縦ロールにまとめた栗色の髪はほどけ、健康的な肢体を包むのはボロ同然の布切れだ。しかし、彼女の濃灰色の瞳は希望の光を失ってはいなかった。
「大丈夫ですわ。エステル、きっとたすけが来ますの」
その日、いかなる道を辿ったのか、通風口から顔を出した一羽の鳩が小さな紙片を彼女に落としていった。
紙面に記されていたのは、ただ一言。
『クローディアス・レーベンヒェルムは信用できる』
笑ってしまうほど怪しい話だ。
他人が見れば、確実に詐欺か、あるいは罠と判断することだろう。
しかし、令嬢は、アネッテ・ソーンは手紙を信じた。
なぜなら、差出人の名前は”正義の味方”――かつて邪竜ファヴニルのあぎとから彼女と夫を守った男、ニーダル・ゲレーゲンハイトを示す符号だったからだ。
「あなた、守ってくださいませ……」
☆
復興暦一一一〇年/共和国暦一〇〇四年 晩樹の月(一二月)七日昼。
早めの昼食をとったレーベンヒェルム領首脳陣は、楽園使徒との和平交渉に向けて会議を再開した。
議長席のクロードが、墨汁と柿汁を塗りつけた黒板に貝殻と卵殻で作ったチョークで書き記してゆく。
「論点を整理しよう。先の会議で決めたとおり、和平交渉自体は受ける。この際に厄介なのは、先方が期限付きの停戦ではなく婚姻同盟を求めていることだ。ハサネ公安情報部長、詳細を」
「刑務所長です、と言いたいところですが、これは公安情報部の役割ですか。現在、ルクレ領およびソーン領を占拠中の楽園使徒は、ルクレ家最後の生き残りであるエステル・ルクレ嬢10歳と、ソーン家最後の生き残りであり先日の首都攻防戦で夫が戦闘中行方不明となったアネッテ・ソーン夫人22歳を差し出し、婚姻による無期限同盟を結びたいと申し出ています」
ハサネが立て板に水のごとく条件を論じると、さっそくセイが挙手して噛みついた。
「どこに賛成できる理由がある。右も左もわからない幼子に、夫を亡くしたばかりの人妻だぞ。結婚なんて非常識もはなはだしい!」
セイの抗議は非の打ちどころがない正論だったが、ハサネは軽く受け流してしまう。
「それもまた先方の、楽園使徒の目論見でしょう。敢えて無茶苦茶な婚姻を結ばせることで辺境伯様の印象を貶め、ルクレ領とソーン領の支配を容易にしようと企んでいるのでしょう。小賢しい輩は放置しておけば宜しい。領主血族の身柄さえ確保すれば、大義名分などいかようにも立ちます」
これもまた正論だった。レーベンヒェルム領とルクレ領、ソーン領の軍事力は比較にならない。
エステル嬢、アネッテ嬢さえ保護してしまえば、彼女たちを旗印に掲げて兵を挙げることも容易いだろう。
「ハサネ部長の案は合理的だな。交渉で婚約程度に押さえておけばいいんじゃないか。仮に結婚しても、そこのヘタレが手を出すわけもなし。辺境伯様、自首したいならいつでも逮捕してやるぜ」
「お巡りさん、僕はどうしてこんなことになったんでしょう? 留置所へ行きたいです」
「ま、待ってくれ。俺が悪かった」
エリックがやじを飛ばしたので、クロードがすかさず返すと、会議室は苦笑いに包まれた。
実際のところ、クロードにとっては針のむしろの議長席に比べれば、留置所の方がまだしも気が休まりそうだ。
「ともかく私は断固結婚に反対だ。もしも話を聞かない箱入り娘だったらどうする?」
「くっちゃねが趣味だったら大変たぬ」
「料理を焦がしたり、香辛料を入れすぎたりしちゃうかもしれないよ」
「嫉妬深い方だと、刃傷沙汰になりかねません」
クロードは、女性陣の反対意見に思わず胃を押さえた。
「凄い。全員が全力で自爆攻撃を仕掛けてる」
「もうリーダーの胃はボロボロっすね」
「アンセルもヨアヒムも、僕を助けようという気はないのか」
「辺境伯様、だから反対してるじゃあないですか。万の軍勢を得たと思ってください」
「おれっちたちは超頼りになる味方ですよ。大船に乗ったつもりでドーンと構えて」
無敵艦隊とかタイタニック号ばりには頼りになりそうだと、クロードは嘆息した。
あまり建設的でない応酬の横で、ユーツ家侯爵令嬢、ローズマリー・ユーツが挙手している。
「ああ、皆、発言の際は挙手するように。ローズマリーさん、どうぞ」
「質問があるのだけど。その前に、私はここに出席していいの? 貴方を害そうと……」
「貴女は誰の血も流さなかった。気にしないでくれ。そもそも僕を含めて、この会議室に集まった大半が元は敵対していたんだ。過去を言い出せば、役所も領軍も立ち行かなくなる」
エリックたちは元領主館の襲撃犯で、役所職員は反体制側に属する冒険者や悪代官、領軍はテロリストに傭兵に海賊というカラフルな経歴揃いだ。
「器が大きいのね。ごめんなさい。そして、ありがとう」
ローズマリー・ユーツは、丁寧な礼をとった。
レーベンヒェルム領は、それこそ緋色革命軍や楽園使徒のような無法の地になっていても不思議はなかったのだ。
けれど、彼女が見た領民たちは、やや行き過ぎたデモに繰り出す以外は、穏やかで落ち着いた日々を送っていた。
すべては、クロードの采配ゆえのことだと、ローズマリーはようやく受け入れた。
「不思議なのだけれど……。なぜ楽園使徒は、エステルさんやアネッテさんを手放してまで、婚姻同盟を求めているのかしら?」
「ブリギッタ、説明を」
クロードに振られて、ブリギッタが起立する。
「こちらの伝手で探ったところ、楽園使徒も期限付き停戦だと都合が悪いから、保証が必要ってところね。それに先方は、彼女たちを持て余しているみたい。生かしておけば反抗の旗印にされる。かといって殺せば激昂した領民たちが手をつけられなくなる。だったら評判の悪い悪徳貴族に押しつけて、味方に抱きこむ餌に使おうって考えてるみたい」
次に、ハサネが挙手して補足した。
「加えて、楽園使徒は辺境伯様が二人の身柄を望んでいると誤解している節があります」
クロードは愚痴をこぼそうとして自重した。レア、ソフィ、アリス、セイの視線が集まっていたからである。
「内偵の結果、彼らは西部連邦人民共和国資本が発行する新聞、人民通報を情報源にしているようです」
「「ああ、それは間違う」」
会議室の全員が納得する、問答無用の説得力があった。
「ゴシップ紙の方が、まだしも事実を報じているんじゃない?」
「週刊誌だって侮れない。公安情報部長がじきじきにリークしてるっす」
「辺境伯様は、女好きで知られてます。悲しいかな、女性がらみでデモ隊が領内を練り歩くことで、そういった印象が流布されてしまったのです」
「誰のせいかナー」
クロードがジト目で睨む無言の抗議を受け付けず、ハサネは説明を終えた。
レーベンヒェルム領側の調査では、楽園使徒はクロードがエステル嬢とアネッテ嬢の身柄を望み、無期限同盟の保障になると誤解しているようだった。
以上のことを黒板に記して、クロードは再び会議室を見渡して声をあげた。
「結婚の是非は後で決を採る。しかし、それはそれとして、僕たちはエステル・ルクレ嬢とアネッテ・ソーン夫人を救出しなければならない」
クロードは説明を続けた。
「もしも僕たちが、ルクレ領とソーン領へ進軍すれば、その後の統治は極めて困難なことになるだろう。背後に火種を抱えて緋色革命軍と戦うわけにはいかないし、後にはファヴニルが控えている。エステル嬢とアネッテ夫人は、二領をまとめてもらう為に必要不可欠だ。そして……」
息を吸って、胸に手を当てた。痛みはなかった。寂しさは耐えられた。
「レアとソフィから聞いたことだが、ニーダル・ゲレーゲンハイトがアネッテ夫人と彼女の亡き夫リヌス・ソーンの世話になったらしい。皆も知っての通り、僕と、レーベンヒェルム領はニーダルに多大な恩がある。彼は邪竜ファヴニルを三年分足止めして、新式農園の準備にかかった資材や資金も提供してくれた。別に僕たちのためにやったことじゃないと言われるかもしれないが、多少の借りは返しておきたい。ハサネ、近況を頼む」
「先日、西部連邦人民共和国で数千人もの共和国人がネメオルヒス人の学生寮を襲撃し、多数の生徒が重軽傷を負いました。パラディース教団は、大陸運動祭と万国博覧会を控え、見せしめのためにかつて侵略したネメオルヒス地方で虐殺を目論んでいるとの情報があります。ニーダル・ゲレーゲンハイトは阻止のためか、逃亡補助のためかネメオルヒス地方に潜入し、共和国もまた彼を討ち果たすべく第三位級契約神器の盟約者を含む戦力を投入しています」
会議室は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
エリックが控えめに手を挙げて、クロードに質問した。
「何か支援できることはないのかよ。第三位級ってことはファヴニルと同等だ。ニーダル・ゲレーゲンハイトだって無事じゃ済まないぜ?」
「部長は、ニーダルは死なないよ。……酷なことだけど、僕たちが今ネメオルヒスに対してできることはない。共和国はネメオルヒスから言葉と文字を奪い、文化と信仰を奪い、治安部隊による恒常的な圧迫をかけて、強制的な混血よる民族浄化を行っている。皆も共和国がそういう国だということは、胸にしまっておいて欲しい。ルクレ領とソーン領を連中の手に渡すわけにはいかない」
ニーダル・ゲレーゲンハイトこと、高城部長からの連絡は何もない。港で別れた時からずっと記憶喪失のままなのか、窮地で手が離せないのかはわからない。
それでもクロードは、彼に『後輩ならきっとなんとかしてくれる』と根拠もなく期待されている気がした。だから、ぐつぐつと煮えたぎった腹の底でぼやく。
(難易度が高すぎる。部長なら、結婚という手段を使っても文句は言わないだろうさ。会計先輩なら話せばわかってもらえるか? 女子部員は全員アウト。特に痴女先輩はぶっちぎりで最悪だ。どんないじられ方をするか、わかったもんじゃない。こんな無茶振りをして、それが上に立つ者のやることかよ!)
クロードが、心に秘めたのは正解であったろう。
もしも口に出したが最後、全員から鏡を突き付けられて『無茶振りとかおまえがいうな』の大合唱だったことだろうから。
沈黙が続く中、ローズマリーが挙手した。
「結婚交渉の是非について決を採る前に教えて欲しいわ。クローディアス、いえ、クロード。貴方はこの先どうしたいの? ルクレ領とソーン領を解放して、緋色革命軍から国を取り戻して、邪竜ファヴニルを討ったなら、もう影武者であることなんて誰も気にしないでしょう。十賢家の後継者として国主の座に昇る? それともすべてを終わらせて新しい王朝を開くのかしら?」
十賢家令嬢たるローズマリーの問いかけに、悪徳貴族たるクロードは――静かに答えた。