第100話 野原のデート
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復興暦一一一○年/共和国暦一〇〇四年 木枯の月(一一月)二八日早朝。
「デートに行くたぬ♪」
というアリス・ヤツフサの誘いを受けて、クロードは軍服を翻案したカジュアルなジャケットとズボンに身をつつみ、正装一式はスーツケースに入れて玄関ホールで待っていた。
マラヤディヴァ国は今雨季だったが、卜占家の予報によると雨は夕方から降るらしい。
窓から覗く空は青く澄み渡り、今日は絶好の外出日和だった。
「オーニータウンで鉄道を見る前に、たぬと野原に行くたぬ。川もあってオススメたぬっ」
そう言いながらクロードに飛びついたアリスは、日焼けした肌の黒髪の美女ではなく、白い肌と金の髪の幼い少女の姿だった。
レアに選んでもらったらしい、素朴な白いシャツと藍のズボンが似合っていて、いかにも可愛らしい。
「こっちの方が、ずっと元気でクロードと遊べるたぬ」
かくして、クロードは、小アリスとデートに出かけようとしたのだが……。
「お、不審者を発見。ちょっと署に来てもらおうか」
館を出た途端、巡回中の警察隊長エリックに出くわして、どこからどう見ても犯罪だと呼びとめられてしまった。
「なんでたぬっ?」
「ちょっと待て、官憲の横暴だろ」
「うちの領は、子供を護るために青少年保護の領法が定められているんだ。文句があるなら、クローディアス・レーベンヒェルムって辺境伯様に言ってもらおうか?」
クロードがテロリスト”赤い導家士”を打ち破り、国外から流入した山賊と結託した代官を制圧したことで、領内の治安は徐々に回復していた。
それでも、マラヤディヴァ内戦で雪崩れ込んだ大量の避難民を受け入れたことで新たな混乱が生まれ、奴隷商人や犯罪組織が暗躍する温床となっていた。
クロードは、彼らの悪行に歯止めをかけるためいくつかの法律を施行し、警察を増員したのだが、まさか自分自身が捕まるとは思いも寄らなかった。
「……本音は?」
「俺とブリギッタが仕事中なのに、朝っぱらからデートに行く色男がむかつくので邪魔したい」
「僕は、お前に色男うんぬんなんて言われたくないっ」
クロードとエリックが、道の真ん中で掴みあいながらやんやと口論を始めると、アリスがしょうがないたぬと呟いて、ぼふんと煙をあげた。
「大人モードたぬ。これで万事解決たぬ!」
「ぎゃぁああっ」
「うわぁああっ」
アリスの服は、いきなり彼女の背丈が伸びたことで破れてしまった。
彼女のシャツははちきれそうな胸を隠すのがやっとのヘソ出しの前衛的ショートに、ボトムスも傷だらけの短パンに変わってしまっている。
「う、うっかりたぬ!?」
「そ、ソフィ姉に怒られちまう。辺境伯様、どうすんだ?」
「僕に聞くな。これ以上レアに迷惑かけるなんて、ああ胸が痛いっ」
三人は慌てて屋敷へ戻り、クロードとエリックが執事のソフィと侍女のレアに事情を説明して謝りたおしている間に、アリスは黒い半袖シャツと群青色のスラックスに着替え直した。
このように出立は遅れたものの、クロードは転移魔術を使って、領都レーフォンの南にある交通の要衝、オーニータウン周辺の森林地帯へと移動した。
アリスが案内したいという野原は、森の中腹にある川沿いの開けた場所にあった。
「クロード、ちょっと待つたぬ。果物を採ってくるたぬ」
アリスは着くなり飛び出して、ものの十数分後には、腕一杯の色とりどりの果物を抱えて戻ってきた。
「えへへ。あーん、たぬ」
アリスは、ナイフで果物を器用に切り分けて、クロードの口に匙で運んだ。
「あ、あーん」
思いがけない間食を終えた後、二人は木陰でしばし景色に見とれた。
風が心地よかった。
森の木々のざわめきと、川のせせらぎが涼やかだった。
「クロード、膝枕してあげるたぬ」
やがてアリスは正座して、ぽんぽんと膝を叩いた。
「ありがとう」
クロードは、少しだけ迷ったものの、寝そべってアリスを見上げた。
人間の姿を得た彼女は、本当に魅力的な女の子で、彼はわずかに頬を赤く染めた。
「お昼寝するたぬ」
「せっかくのデートなのにいいのか? ショッピングとか劇とか行きたいところあるだろう。僕はどこへだって一緒に……」
クロードの問いかけに、アリスは首を横に振った。
「いま一番やりたいことたぬ」
クロードは、疲れ切っていた。
マラヤ半島での激戦から生還して、両腕を失ったリハビリに戦後の始末と、休む間もなく駆け回ったのだ。午後からは、またも仕事が詰まっている。
「クロードは、こうするの、楽しいたぬ?」
「うん。楽しいよ」
「じゃあ、安心して、ゆっくり休むたぬ」
「おやすみ。アリス」
クロードは、瞳を閉じて、すぐに寝息を立て始めた。
「たぬ」
アリスは、クロードの安らかな寝顔をずっと眺めていた。
―――
――――
どれだけ時間が経っただろう?
太陽が南の空にかかる頃、クロードは目を覚ました。
アリスもまた、こくりこくりと船を漕いでいた。
クロードは起きあがると、器用に魔術文字を足先で刻み、自らの膝の上にアリスの頭を乗せた。
「……」
ちょっとだけ悪戯心が芽生え、クロードはアリスの虎耳とふかふかの尻尾に、頬を当てた。
「たぬぅ」
アリスは、くすぐったそうに寝返りをうった。
クロードは、そんな彼女を愛しそうに見つめながら呟いた。
「アリス、僕はきっと幸せなんだ」
彼は、広い空と、川の果てにあるだろう青い海を脳裏に思い描いた。
「だから、護るよ。この命と引き換えにしても、皆を害するものはひとつも残さず僕が持って行く。ファヴニルも、緋色革命軍も、――マラヤディヴァに巣食う悪徳は、すべて僕と諸共に滅べばいい」
クロードの瞳が宿しているものは、煌々と輝く炎だった。
それは、己自身を焼きつくしてもなお足りない、強すぎる灯火だった。
「?」
森の奥で、なにかが蠢いた気がした。
クロードは、とっさに気配探知の魔術を足先で構築するも、鳥や小動物以外の気配は感じられなかった。
「クロード、なにかあったぬ?」
「いいや、何もないよ」
「そう。いま、リ……って音が聞こえた気がしたぬ。たぬ? なんで、たぬが膝枕されているたぬ?」
アリスは、びっくりして飛び上がると、野原をゴロゴロと転がった。
「しっぱいたぬ。甘やかすつもりが甘やかされてたぬ。作戦失敗たぬぅうう!?」
「はは。いいんだよ。お互いにそうするのって」
ここで、喉まででかかった言葉、友達らしいじゃないか。を飲み込んだあたり、クロードもわずかに成長していたのだろう。
「パートナーらしいじゃないか」
「たぬぅ。クロード、大好きたぬ」
「やめてアリス、くすぐったい。あははっ」
二人はじゃれあって、服が草まみれになるのも構わず転げ回った。
それは、彼と彼女が勝ち取った、わずかな、しかしとても価値ある平穏な時間だった。
『オーニータウンに行くなら、鉄道工事現場にいるブリギッタに話を聞いてくれ。ルクレ領とソーン領、そしてうちにも関わる、厄介な組織が蠢いているらしい』
別れ際に、屋敷の玄関先で耳打ちされたエリックの言葉が、クロードの晴れ晴れとした笑顔に、わずかな陰を投げかけていた。