9.風巻中学校、光利栄人の乱
空は磨かれたように明るくなり、朝を作った。
朝から生まれた日の光は風巻中学校を照らし、屋上で寝転がる栄人を優しく包む。枯葉をすり抜けて吹く冷たい風は校内の温度を下げ、屋上で寝転がる栄人の背中の温度を奪っていった。
田舎町独特の澄んだ空気は栄人の鼻をくすぐる。生徒たちの明るい声は栄人の耳に入る。広くて活気のあった夢高野球部のグラウンド、自分のためにバッティング練習してくれた日生の姿は、栄人の瞼裏に映る。
大の字になって、空を仰いだ。いつしかこの広くて廃れた屋上が栄人の居場所になってしまったのはつい最近のこと。彼の意思を簡単に嘲り笑う仲間がいる教室よりも、寒くても断然居心地がいいと思える場所になってしまったのは、つい最近のこと。
『栄人、いい加減夢高なんて諦めろよ』
『いくら『天才ピッチャー』って騒がれてたお前でも、無理だってあんな所』
『俺らと一緒に、また楽しく野球しようぜ』
無神経な彼らにうんざりする栄人の心はボロボロになってしまって。
『無理かどうかなんて、お前たちが俺の限界を計るなよ。決めるのは俺だ』
これ以上心を傷つけられないように、栄人は初めて本音を吐いた。今まで誰も聞いたことないような彼の低い声、今まで誰も見たことないような彼の冷たい目は教室を一瞬にして凍らせて、『友達』をしていた連中との関係に亀裂を入れた。
けれど栄人は後悔していない。これで誰にも邪魔されず存分に夢高を目指せると思うと、この空と同じように清々しい気持ちになれたからだ。
孤独の苦しみは今の彼にない。孤独よりも、栄人は『夢高に行けないかもしれない』という不安のほうが大きかった。
「……栄人……」
重い瞼を開けた。名前を呼ばれたのは何日ぶりだろうとぼんやり考えながら、栄人は屋上の入口に立つ男子生徒をその瞳に映した。
栄人と同じ坊主頭の少年は顔の皮を縮めて、屋上――栄人の範囲に入れないでいた。
「富見男……どうしたの」
「その……みんなに謝ったほうがいいよ……今ならまだ……間に合うと思う……」
大人しくて気の弱い富見男。その彼がここまで来るのにどれほどの勇気を使ったのだろう。最後は何を言っているのか聞きとれないほど、その声も小さくて弱々しかった。
けれど栄人は、彼の勇気を分かっていてもそれを受け入れられなかった。
「俺がみんなに謝る? 今ならまだ間に合う? 逆だろ富見男。みんなが俺に謝ってきても、もう間に合わない」
栄人は起き上がり、俯く富見男の前から去る。熱を奪われた栄人の背中は本当に冷たくて、富見男の顔をさらに曇らせる。
「……ごめん、栄人……ごめん、ごめん……」
彼の曇る顔からは、雨が零れそうになる。
富見男はどうすればいいのか分からなくて、ひたすら後悔すること、ひたすら栄人に謝ることしか出来なかった。
階段を降りる栄人の足音と、鼻をすする富見男の悲しい音が冷たく響く。
「富見男」
それでも栄人は。
「俺と一緒にいたら何言われるか分かんないから、誰にも見られないように時間空けて降りてこいよ」
優しい。
「栄人……!」
富見男は思い出す。気が弱くて友達も出来ずにいた自分に、最初に声を掛けてきてくれた栄人を。
栄人がいればそこは風巻中の中心になったように、皆が集まってきて楽しい場所になる。その場所に自分も入れた、自分を野球部に誘ってくれて、野球の楽しさを教えてくれたその恩を。
栄人を追いかけることが出来なかった足を動かして、富見男は勢いよく階段を降りた。栄人の忠告など彼の頭に入ってなくて、堂々と、栄人の背中目掛けて廊下へ出た。
そこには、栄人と正面に向き合っている、野球部の元仲間たちが立っていた。
「……みんな……」
「何?」
富見男は少し焦ったように声を漏らすが、栄人は冷静で自分の前に立ちはだかる元仲間たちに問うた。
「栄人、もうこんな喧嘩みたいなこと終わりにしようぜ。このまま卒業しても、お前にとっちゃ立場悪いだけだろう」
皆より一歩前に出て話すのは外池。代表して話しかけるあたり、栄人がいなくなった野球部をまとめるリーダー的存在にでもなったのだろうか。
栄人はむしゃくしゃした。彼の後ろから『意地張るなよ』『俺たち、そんなに気にしてないから』と続く元仲間たちの言葉、外池の変にニヤついた顔が、百歩譲って自分に近づいてきたように思えたからだ。
「……ふざけるなよ」
栄人はまた低い声を出して元仲間たちを圧倒する。傍にいる富見男は、さらに深く入る亀裂の音が聞こえたような気がした。
「俺は夢高に行く。邪魔するようなこと言うなよ」
「邪魔してるんじゃない! 俺たちはお前のことを思って言ってるんだ!」
「本当に俺のことを思ってるなら、どうして応援してくれないんだ!!」
栄人の大きな声、外池の大きな声が凍った関係の中に響いた。
「俺は挑戦してるだけだ! 夢高っていう高い場所に行こうと、頑張ろうと思ってるだけだ! 頑張ろうと思ってる奴に、どうしてそんな無神経なこと言えるんだよ!」
「夢高に行っても、お前なんかが生き残れるわけないだろう! あそこは化け物揃いの高校なんだぞ。だから俺たちは、栄人のことを思って……」
「違う!! お前たちは――」
「光利!!」
大声で張り合いもめる、今話題の野球部、今話題の光利栄人。白熱する言い合いは、廊下を歩く生徒から教室にいる生徒たちまで注目を集めた。
そんな彼らを止めたのは、廊下を走ると怒るはずなのに、廊下を走って息を切らした一人の教師だった。寒いのに少し汗をかいて、いつも正しく掛けられている眼鏡が斜めに傾いて、いつも温厚な男が今、栄人の名前を呼んでひどく焦っている。
何事かと、注目する生徒たちは数を増やしていった。
「受かったぞ!! 夢高の体育科……自己推薦、合格だ!! 光利!!」
教師の手にあった報告書は、囲っていた野次馬たちを一斉にざわつかせ、その内にいる野球部員たちに驚愕の色を塗った。
反対に、その中心にいる栄人は、悪い熱をもった心を徐々に落ち着かせて。
「よおぉおっしっ!!」
拳を握り締め、喜びを露にした。
教師は『よかった、本当によかったなぁ』と、栄人の無謀な進路に頭を悩ませていたぶん、合格した本人のように喜んだ。
『頑張れよ』と一言掛けた教師は職員室に戻っていく。彼の背中を見るように、元仲間たちに背中を向けたままの栄人は、こう言った。
「これでもう、お前らとは野球出来ないな」
栄人がそれを悲しそうに言ったのか、嬉しそうに言ったのか。元仲間たちは栄人の顔を見なくても分かってしまった。
「夢高に自己推薦で受かったなんて、地獄が決定したと同じだぜ、栄人! 野球の推薦で合格したら、野球部を絶対辞められない! どんなに辛くてもどんなに厳しくても、ずっと試合に出れなくても絶対にな! 体育科ってだけで、レギュラーになんなきゃならねぇってプレッシャーも来るんだぜ! 毎日吐くような厳しい野球漬けの、地獄の未来が決定したんだ!!」
外池が吐くように言った。大声で、周りを囲う生徒たちの耳に、一字一句入るようにハッキリと。
けれど栄人は、静かに答えた。
「あんな思いするくらいなら歓迎だよ、そんな未来」
栄人は背中を見せたまま、彼らから離れていった。栄人の左手にはもうボールはない。だから左手にある空気を強く握って、廊下を歩いていった。
「受かっただけでいい気になるなよ!! この失点王!!」
まだ続く外池の罵声は、栄人の足を止めた。
「誰も忘れちゃいねぇぞ!! 弱小校をそのピッチングだけで全国大会まで連れてった天才ピッチャー……周りからたくさん期待されていたが、その全国大会一回戦、お前は一回目の守備で十九失点した!! 三十二校の高校から来てたスカウトの話も全部白紙になった!! そりゃそうだ! 初回十九失点なんて、大会記録を大きく更新したらしいからな!! そんなお前が夢高なんかでやれるもんか! だからみんなお前を止めたんだ!」
止まった足を、また動かして歩く栄人。これは逃げているのではない、前に進んでいるのだと自分の心に言いつけながら、振り返ることなく彼らとの距離を伸ばしていった。
冷たい田舎風が栄人の頬を掠める。ふと、風が来た道を辿るように開いた窓へ目を通す栄人。そこには一枚の葉もつけない寂しい枯木があった。
それを見ながら栄人は思う。
(早く桜が見たいなぁ)
本当に見たいのは桜ではなくて。
「光利くん、夢高受かったんだね……」
「凄い! 私たちはずっと光利くんのこと応援してたんだよ?」
あの試合から、栄人の周りで起こるのはろくでもないものばかりだった。高校から来ていたスカウトの話がなくなったことに対してはあまり気にしていないが、仲間だと思っていた野球部員たちが、友達だと思っていた皆が一斉に栄人を責め、『ろくなピッチャーじゃない』と見下したことが、栄人にとって煩わしい毎日を作り、彼の野心を育てることとなった。
けれどその中でもひとつだけいいことがあった。それは面倒と思っていた女の子からの告白がなくなったこと。
「それでね、その……今日の放課後、時間ないかな?」
顔を赤らめる女の子と、『頑張れ』と応援する隣の女の子。
――――あぁ、本当にろくでもない。
『失点王ピッチャー光利栄人』を敬遠していた名前も知らない彼女たちは、今『名門、夢高の野球推薦に合格した光利栄人』を前に疑わしい恋心を持っている。
栄人の中で嫌気が生まれるのは当然だった。
「俺、好きな子いるんだ」
「え?」
「その子に会いたいっていう思いもあって、俺は夢高に進学決めたんだ」
「……そ、そう……」
「放課後、俺どうしたらいい?」
「……あ……大した用じゃないから……やっぱり、いいや」
栄人は何も言わず彼女たちの前から去る。『何あの態度! 気にすることないからね!』と応援していた女の子の声と、小さな泣き声が栄人の背中に当たる。
――――ろくでもないのは、俺のほうか……。
風巻中にいたら自分が自分でなくなりそうな気がして怖くなる。自分はこんなに残酷な人間だったのかと、知りたくもない現実が栄人を襲う。
栄人はもう一度、開いた窓から見える枯木を見る。
――――早く、柊に会いたいなぁ。
少し緊張するけれど、彼女の前では自然でいられる。
栄人は左手を握り締める。この手にあのボールを受け取るまで、血反吐を吐いても夢高野球部で上り詰めてやると、決意を固めながら一歩を踏んだ。 |