8.smile×promise×smile
盛大に転んでしまうドジな栄人、顔を真っ赤にする恥ずかしがりやの栄人、屈託のない笑顔を見せる親しみやすい栄人、野球のことしか見えなくなる可愛らしい栄人、少し抜けているけど優しい栄人。
「……決めた。俺、夢高行くよ。野球部入って、和岐さんと一緒に野球する。同じグラウンドに立って、仲間として一緒にプレーするんだ」
柊の目には新しい、強い意志を持った野心家の栄人が焼きつけられる。可愛らしい顔立ちをしていても、力強い目をして決意を言葉にする今の彼は男らしくて勇ましかった。
けれど彼が言っていることは無茶苦茶だった。栄人がもし夢高野球部に入っても一年生で、三年生レギュラーの日生と一緒にプレーするということは、一年生でレギュラーにならなければならないということ。優れた高校球児が集まる名門中の名門校で、それを叶えることはひどく困難なことであり、可能性もかなり低いことを、栄人も柊もちゃんと分かっている。
けれど彼は、言葉にした。夢路高校硬式野球部をなめて言っているのではなく、自分を過大評価しているわけでもない。ただ彼は、そんな無茶苦茶なことを『夢』にする、そんな無茶苦茶な『夢』を語る勇気を持っているだけ。
今の彼にはそれしかない。けれどそれは一番大切なものであり、柊に足りないものだった。
「うん。栄人くんなら、そうなれるような気がする……そうなったら、キャッチャーの日生くんとバッテリー組むことになるね。私、栄人くんと日生くんのバッテリー見てみたいよ」
柊は目を輝かせた。
「なんか、想像したらワクワクしてきちゃった」
栄人から放たれる光を浴びているかのように、その目をキラキラさせて嬉しそうに笑った。『そうなれたらいい』、柊は心からそう思った。
反対に、大口を叩いて夢を語った張本人、栄人は不思議そうな顔をして柊を見る。意外な反応を見せる彼の心が分からなくて、柊は戸惑う。
「あの、私、何かした?」
「いや、そうじゃなくて……」
「あっ! 私が『栄人くん』なんて言ったから!? そうだよね、いきなり馴れ馴れしいよね。『エイト』って名前が凄くいいなぁって思ってたらつい……」
「じゃなくて!」
呼び名なんてどうでもいい。むしろ、そんな些細なことに気づかなかったくらい、栄人が気になったのは――。
「笑わないんだね、俺のこと」
大口を叩く自分のことを嘲り笑うのではなく、優しく笑って背中を押してくれた。彼女の反応は栄人をひどく驚かせた。
「え? 笑わないよ。私は本当に栄……光利くんなら、そうなれるような気がしたの。だって、あんなに綺麗なフォームで投げるなんて、相当練習してないと身につかないもん。それに私、人を見る目だけは自信があるんだ。椿ちゃん、榎ちゃん、楸ちゃん、それに日生くんを近いところでずっと見てたから、『成功する人』ってどういう人間か、私なんとなく分かるんだ」
『夢高に行く』と言っただけで嘲笑う周りしかいなかったせいか、彼女の言葉は栄人の心を癒した。
自分はとんでもないことを言っている、その自覚はもちろん彼の中にある。けれど、『夢高で野球がしたい』という願いも、『和岐さんと同じグラウンドに立ちたい』という気持ちも、『和岐さんは、自分に相応しい』と思ったことも、全部本音だった。
彼女は栄人の本音を受け止めた。何年も栄人の『友達』をしてきた連中は彼を嘲笑ったが、会って数時間しか経っていない柊の寛大さは、その魅力を一層引き立てた。
「……栄人でいいよ。みんなそう呼んでるし」
「えっ、本当!? いいの?」
「俺も、柊って呼んでいいなら」
「うん!」
もうひとつの歴史が奮えた瞬間だった。柊にとって初めての友達が出来て、栄人にとって、大切な人が出来た瞬間だった。
数時間前、栄人が転んだその時、一体誰がこれから起こる未来を想像出来ただろう。
栄人が盛大に転ばなければ二人は出会っていなかったかもしれない。栄人がボールを持っていなかったとしても二人は出会っていなかったかもしれない。そのボールが車に踏み潰されていたら、歴史は動かなかったかもしれない。
自分が転んだのも、ボールを持っていたのも、そのボールが踏み潰されず柊の元まで転んで行ったのも、すべて運命だったのかもしれないと栄人は思った。
見落としやすい、隠れていた運命を十五歳の少年はちゃんと見つけた。
今日起きた、確かな運命を。
「……これ、柊が持っててくれない?」
そう言って栄人が差し出したのは、ずっと左手で握っていたボロボロの野球ボールだった。
「大事なものじゃないの?」
「ううん……今すぐにでも捨てたい」
「え? じゃぁ、捨てておこうか?」
「いや、捨てないで、柊が持ってて」
柊は頭上にクエスチョンマークを何個も浮かばせて、訳が分からないといった顔で、特に思い入れもないままそのボールを取り敢えず受け取った。
いざ持ってみると本当にボロボロで、元は球体だったはずなのに、少し変形して歪な形をしていた。けれどどこか、重みがあった。
「俺が、柊の言う、名前のとおりいい野球選手になれるまで、持ってて」
曇天から粉雪が舞う。冬風がなびいて柊のセーラー服を揺らす。二人が立つ石階段はますます温度を下げる。
「夢高に入れたらそこでなれるかもしれないし、時間かかって高校卒業してからかもしれない。もしかしたら、一生なれないかもしれないけど……柊に持っててほしい」
それでも栄人の心は、熱を持っている。
「いつか『いい野球選手』になって、笑ってそれを受け取れる日が来るまで。俺の馬鹿話に付き合ってくれた柊に持っててほしいんだ」
「……分かったよ。大事に取っておくね」
このボールに栄人はどんな思いを込めたのか。それは何も知らない彼女の手に託されて、鞄の中に優しく仕舞われた。
「仕舞ったね」
「え?」
「そのボール、受け取ったね」
「うん」
「受け取ったってことは、約束守ってくれるんだよね」
「うん」
「俺が『いい野球選手』になれるまで、ちゃんと見ててくれるってことだよね」
「……うん?」
「じゃぁ、柊の進路も決まりだね」
栄人は笑った。ニコニコ、ニコニコと、悪意なんて欠片もなさそうに笑ったが、柊には悪魔の笑顔に見えた。
鞄の口を勢いよく開けて、先程大事に仕舞ったボールを持って思い切り栄人につき返す柊。けれど彼は両手を高く上げてそれを受け取らなかった。
「ダメ! 私受け取れない!」
「もう約束したよ」
「だって、そんなの無理だよ……私が夢高なんて……」
最後まで気づかなかった柊を思うと、栄人は堪えられずにクスクス笑い声を零した。けれどその笑顔も、困惑する柊を見たことであっさり消えた。
上げていた腕を下ろし、また髪を梳こうとする柊の右手を掴んで、栄人は言った。
「ごめん……ちょっとふざけすぎた」
栄人が右手を掴んだことで、彼女の泣きそうな顔は髪で隠れなかった。
「でも、夢高って日本一学科数多いから日本一生徒数の多い高校なんだよ。たくさんの人が集まってくるんだよ」
「……知ってるよ」
「たくさんの人と出会える場所になるんだよ。その中に、『柊』をちゃんと受け止めてくれる人、少ないかもしれないけど絶対いるよ。そういった、柊にとって価値ある人と出会わないまま、別の小さい高校に行くなんてもったいないと思わない?」
ボールを、柊の手ごと優しく包む栄人の手。それはひどく温かくて、その熱は柊の心も温めた。
栄人には不思議な力がある。人見知りの激しい柊を一瞬で引きつける不思議な力。コンプレックスの塊である柊の心を、前向きにさせる不思議な力が。
柊は思う。既に私は、彼の言う『価値ある人』と出会っていると。
「あ、時間だ……俺そろそろ帰らないと」
「……そっか」
「次は、夢高で会えたらいいな」
『考えといてよ』と栄人は続け、ボールを受け取ろうとした。けれど柊は、ボールを渡さなかった。自分の鞄へ、大事に仕舞った。
その瞬間、二人は再会を約束した。栄人は嬉しそうに笑って、柊は自分のした行動に困惑していたが、それでも笑っていた。 |