7.二つの歴史は始まった
夢路高校硬式野球部――毎年部員は百人超え、毎年春夏甲子園出場を果たしている全国でも出場回数トップクラス、その甲子園で毎年必ずベスト4まで勝ち上がる全国でも名高い名門中の名門校。その名門中の名門校が、未だに甲子園優勝の夢を果たしていない事実も有名である。
毎年夢高は確かな戦力をもって試合に臨んでいる。けれど、何故か必ず準決勝で敗退してしまう。周りはその理由を『呪われた野球部』とし、加えて『準決勝に住む魔物』のせいにした。
けれど去年の夏、その『準決勝に住む魔物』をとうとう夢高は倒すのではないかと騒がれた。理由は、その名門中の名門校に二十年に一人の逸材が現れたからだ。
和岐日生――二年生でありながら、その年の予選で個人最多本塁打七本、個人連続試合本塁打四試合の大会新記録を作った天才。
マスコミは騒いだ。その天才がまだ十六歳であること、申し分のない綺麗な顔をした青年というだけでも良いネタだったが、彼が野球を専門的に学ぶ体育科野球コースではなく、偏差値七十五以上の特別進学科理系であることに驚いた。
マスコミが騒げば日本社会が騒いだ。十六歳の青年が、野球で日本を動かしたのだ。
彼は野球を知らない若い女の子たちを高校野球に熱中させただけでなく、熱狂的な野球ファンすらも見惚れさせた。その魅力は――。
「あれ、日生さん休憩中も練習すんの?」
「さっき嫌というほどフェンス越え打ちまくってたくせに……」
「後でボール拾う俺たち一年の身にもなってほしいよなー」
無駄のないフォーム、とてつもなく速いスイング、確実にボールを捉えて遠くに飛ばす安定性、そして、彼から溢れ出る覇気。彼の魅力を知るには、そのバッティングだけで充分だった。
「日生、休憩中くらいしっかり休めよ。次の練習で死ぬんだから」
「じゃぁ、これで最後にする」
彼は最後の一球をフェンスより高く、遠く飛ばしてようやくバットを置いた。フェンスの後ろにある木々の根本には何十球のボールが転がっているのか。それを考えただけで一年生たちはうんざりした。
一年生の嘆きも知らず、日生はボールを投げてくれた代理ピッチャーに一言礼を言うと、『しっかり休めよ』と近づいてきた大男を確認し、幼馴染の傍に立つ栄人のほうをチラリと見る。
休憩中の日生にバッティング練習させた少年は、呆然と立ち尽くしていた。
「何をそんなに張り切ってんだよ」
「風巻中の光利栄人が来てるから」
日生があまりにもアッサリ言うものだから、大男はそれを聞いて驚くまでに少々時間がかかってしまった。
「……はぁ!? どこに――」
「あそこ。椿たちのすぐそこ」
指差す日生。
「……本当だ。何でまた」
「知らねぇ。でも、俺のバッティング見たいんだと。だから打ってやった」
「ふーん……」
日生が栄人を見れば、大男も栄人を見た。椿や榎の傍にいる、男にしては大きめの目が印象的な可愛らしい顔立ちの少年。彼は間違いなく、中学野球界を騒がせた風巻中のピッチャー、光利栄人だった。
去年の中学野球の全国大会。日生はこの大男と一緒に観戦しに行ったのだ。そこで見た光利栄人の試合は、日生と大男にとっても、観客にとっても、そして本人、光利栄人にとっても忘れられない試合となった。
「アイツ、夢高に来るのか?」
「知らねぇ」
「でも、日生を見に来たみたいだな……アイツが入ってきたら面白くなるかもな。お前とは別の記録を作った男が……」
「入っても一年坊だ。俺たちの夏には関係ねぇよ」
「じゃぁ何で、関係ねぇ野郎のために休憩中わざわざ打ってやったんだ?」
滅多に笑わない日生が、少し笑ったような気がしたのは大男の気のせいか、現実か。
それを知る由もない栄人は、いきなり物凄いスピードで日生に頭を下げ、駆け足で芝生坂を登り背中を向けた。彼の突飛な行動は三人の女と日生、大男を驚かせた。
濡れてぬかるむ芝生を思い切り踏み、深い足跡をつけては日生との距離を伸ばす栄人。左手はしっかり、ボロボロに黒ずんだ野球ボールを握っている。
これが、光利栄人と和岐日生の出会いとなった。歴史的な二人の初対面だと誰も知らない、本人たちも気づかないまま、その特別な一瞬は時の中に流れていった。
「あの、ちょっと……! 待って!」
細くて柔らかい声は、今の栄人の耳に届かない。
「待って、その……えっと、えっと……」
ただ、栄人は全速力で芝生坂を登る。運動音痴な柊が追いつくはずもないスピードで登り、彼は石階段の頂上付近まで登り詰めるが。
「なんとか君、待って――っ!!」
柊の、精一杯の大声で呼ばれた栄人はようやく足を止めた。『なんとか君』が聞こえた瞬間また足を踏み外しそうになったが、そこは転ばないようにした。
「な、なんとか君て……」
「あ、ごめ……な、名前、知らなかっ……たから、……その、えっと、えっと……」
切れる息で言葉が上手く出てこない柊。追いかけ疲れた足をフラフラ動かし、息を整えながらも栄人のいる石階段の頂上まで登る。
「いきなり走って行っちゃうからビックリしたよ……」
「ごめんね、なんか…………逃げ出したくなったんだ」
「え? 逃げ出す?」
「うん」
栄人は登ってくる柊の手をとった。
「ねぇ、もし……俺が――――」
冷たい冬風が走ったけれど、栄人には一瞬、時が止まったような気がした。
『今、何を言おうとした?』と、冷静を装い、慌てて思い直した。心を侵す悪いイメージを振り払い、栄人は喉をゴクリと鳴らし、続くはずの言葉を飲み込んでゆっくり柊を引き上げる。『何?』と柊に聞かれても、零れそうな本音を封じるため口を開けない。
栄人が何も言わないから、柊も何も言わない。途中で逃げ出す弱い男を、これ以上追求しようとしない柊はつくづく優しい女だと、栄人は思った。
「……ねぇ、今だけ、大口叩いてもいい?」
「え?」
沈黙の後の栄人の言葉は、柊をキョトンとさせた。呆然とする彼女に向けて、栄人は今まで隠してきたものを初めて人に見せた。
「和岐さんのバッティング見て、思ったよ」
それは、ただの『自意識過剰』とでも言うべきか。
「あの人は――――俺に相応しい」
けれど『自意識過剰』では、柊の心が奮えた理由にならない。
これはきっと、彼の凄まじい、『野心』だ――。
「なんとか君……」
「ちょっと〜、ここで『なんとか君』て台無しじゃない?」
大口を開けて笑う栄人は元に戻ったようだった。彼の大きな笑い声は粉雪を降らす曇天に響き、次第に小さくなっては、野心を見せた時と同じ顔をして答えた。
「光利栄人って言うんだ、俺」
自分の名前を言っただけなのに、その心はドクドク動いた。緊張を走らせ、冷たい汗を一滴流すような感覚を覚えた栄人は、柊の気持ちがよく分かったような気がした。
知られたくない素性を自ら明かす、それはとてつもない勇気を使う。
けれど栄人は、清々しい気持ちだった。
「ひかり、えいと…………エイト……?」
「どうかした?」
「いい名前だなぁと思って」
その勇気を使う価値が、柊にはあったからだ。
それに、彼女の中で『なんとか君』のままではいたくなかった。
「そうかなぁ?」
「あれ? 気づいてないの? 野球してるのに」
彼女の小さな人差し指は曇天に、こう書いた。
――――eight.8
栄人はこの時初めて気づいた。
「8……仲間のことを指してるね」
自分の名前に隠されたキーワード。
「いい野球選手になれそうな名前だね」
栄人は思った。勇気を持って、彼女に名前を打ち明けて本当によかった、と。 |