【序章】1.一歩の出会い
夢路高校に行けば何かが変わる。そう思った少年は右手に高校パンフレットを、左手に野球ボールを持って、夢路高校前駅を出た。
初めて訪れた街。知らない空気をゆっくり吸いながら、少年は思い出していた。学校の友達が言っていた言葉を。
『お前が夢高!? 止めとけ止めとけ!』
『化け物揃いの高校だぞ。そんな所行っても公式試合なんて出させてもらえねぇよ』
『お前は俺たちと一緒の高校くらいが丁度良いんだよ』
少年の大きな目は大きいとも小さいとも言えない商店街通りを映す。並ぶ店の看板と商品、店の人やお客さんたちの様々な表情で道はカラフルに見えて、舞う粉雪の白によく映えていた。
その道の先へ視点を真っ直ぐ動かせば、駅口の階段にいる少年からでもハッキリ見える、大きな黒鉄の門が構えてあった。白の上着に黒スカート、黒ズボンの制服を着た高校生が出入りしているのは、間違いなく、少年の目的地である夢路高校だった。
目的地は目の前にあり、自分の足をそのまま真っ直ぐ動かし続ければ辿り着く。そんな距離に少年は立っている。
友達の言葉に耳を傾けず、背中で受け流しながらここまでやって来た。
少年は低い階段を一段、一段と降りていき、凍てついたアスファルトを見て、この街の記念すべき第一歩を踏むこととなるこの一歩を、大事に踏もうと思った。
野球ボールを持つ左手に力が入る。この一歩を踏めば、自分は変われると思ったからだ。
「俺は夢高に――――」
『行くんだ』と続くはずの言葉は崩れた。薄雪が積もるアスファルトに刻まれるはずの少年の第一歩、足跡は後ろに大きく伸びて、代わりに全身の跡をつけた。
「君、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
「そ、そう……気をつけなさいよ」
うつ伏せ状態の少年。顔や胸、腹、膝の熱がアスファルトに奪われていく感覚がした。
この転倒から立ち上がるその一歩が、少年――光利栄人の、この街への記念すべき第一歩となってしまったのは、この先の彼の人生を表しているようだった。
その一歩は間違いなく、這い上がりの一歩だからだ。
「いってぇー……」
右手で腹を押さえながら起き上がる栄人。痛くて顔を歪ませてもふと、気づく。腹を押さえている手で持っていたパンフレットがないのだ。
顔を左右に動かせば、無残に折れ曲がり、黒に近い、解けた雪の中に埋もれているそれをすぐに見つけた。
「あーあ……」
濡れて、雪解けの水が染みついてインク字はもう読めない。もう役に立たないその紙くずの行き先は決まっていた。
栄人はゴミ箱を探す。すぐ傍に蓋つきのゴミ箱があったが、その大きな目は少し離れた、大きく口の開いた白網のゴミ箱しか映さなかった。
パンフレットをくしゃくしゃに丸めて、堂々と振りかぶり、右足を高く上げて、それを力強く踏み込み、投げた。
大事な第一歩は見事に踏み外したが、何度も投げてきたこのフォームは栄人の体に染みついていて、凍ったアスファルトの上でももう転倒することはなかった。
「おぉ! すげーな兄ちゃん!」
「ありがとうございます」
丸まったパンフレットは綺麗な孤を描き、粉雪を抜けて白網の箱へ難なく入っていった。
通りすがりの中年男性から拍手を貰い、栄人は何度か左手首をスナップさせる。
「よし」
左肩も大きく回す。自分の一番大事な左腕はどこも痛くない、違和感がある所もないと確認し、栄人は冷たいアスファルトを見渡す。ボロボロに黒ずんだ野球ボールを見つけるために。
「ボール……ボール……あった!」
ボールは夢路高校前駅と商店街を隔てる形にある大きな車道を横断していた。車の行き来が激しい中、四車線を横切っていくボールは危なっかしくてしょうがない。いつ車に踏み潰されてもおかしくなかった。
けれどボールはすり抜けるように、不思議と車に接触することなく転がっていった。
コロコロ、コロコロと。弱々しく転がっても走る車を避け、無事商店街の入り口まで辿り着いたボール。そこには小さい少女が立っていて、彼女の靴を鳴らしてはそのスピードを無にした。
少女の小さい手によって拾い上げられたボール。
走る車で彼女の顔は断片的にしか見えなかったが、栄人が大声を出して彼女を呼び止めるまでもなく、少女は、真っ直ぐ栄人を見ていた。
ボールの持ち主が誰か、分かっていたみたいに。
何台もの車をすり抜けて、ボールが彼女の元に転がっていったのは運命かもしれない。栄人がそう思うようになるのは、今から数時間先のこと。
小さい少女は、『千歳楸さん 全日本フィギュアスケート選手権優勝!!』と大きな幕が張られている商店街入り口で、信号が青になるのを待った。
青になるまであと五秒。それは二人が出会うまでの時間になる。
互いの人生が変わるまで、あと四秒、三秒、二秒――――。 |