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乱!
作:ハト



6、きっと、忘れていたことを


 鏡池に日が落ちる。

 黒装束の少女が片足を踏み出せば、水が揺れ、波紋が薄く広がった。少女はためらうことなしに、池の中央へと歩みだす。

 浅い池は薄く緑を閉じこめ、澄んで斜光を淡く和らげ、或る時には風景を映し、時機には最も美しい舞台となった。

 夕空を鈍く虹色に変えた水鏡は、穏やかにそよ風を迎え受ける。
 雪白の肌と漆黒の対が、おごそかに優雅に面を舞う。ヒヲはほんの僅かに水に触れるだけで、風景の水上を歩んだ。水の精のように、その場に留まり溶けることさえも出来ように、ただ、現実と存在の感とを鮮やかに見せるのであれば、自らを忘れる眩暈や触れることも出来そうな夢のように、そこにあるのであった。

 踊る舞。
 姿は優しいが、穏やかではありえない。
 軽捷ではあれど、軽快ではない。
 その姿を見るものがあったなら、爽涼な朝風を、また幽寂な夜風を、角度によって垣間見たに違いなかった。

 不意にほんの数十秒の演戯を打ち切り、ヒヲは草生える地面へと足をつけた。遠くに青い袴の少年を見つけ、大きく手を振る。

「アンソク!」

 遠くの少年はぱっと顔を上げ、同じように手を振って応えた。二人は丁度中間の位置で立ち止まった。そうしてヒヲは柔らかく首をかしげ、
「今帰り? コウ君たちは一緒じゃないんだねえ」
「あはは……競争で負けて、フジと風化(ふけ)堂掃除してて……」

 情けない表情をするアンソクであったが、そういうこともあるわいなぁと、ヒヲは何度か頷いた。アンソクは頭を掻いてごまかし、誰もいない鏡池を見た。
「ヒヲは、練習終わり?」
「ン、日も暮れるし、帰った方がいいかな〜?」
「そうだね、トコヨさんも心配しそう」
「ヤ、でもまだ練習したいわナ。アンソク、あの木の上まで競争!」
「え、え!?」

 急にそう言って走り出したヒヲに、声をかける間もなかった。
 数歩遅れてあわてて小さな姿を追いかけた。

 簡素な方だが動きやすいとは言えない織衣装だろうに、ヒヲは軽やかに地面を駆ける。そして、驚くべきことに少女は風足を使っていた。

 走ることが出きる者は、歩くことが出来ない。歩くことが出きる者は、走ることが出来ない。

 それは昔からの決まりごと。歩組に属するなら風足を使って走ることは出来ないはずで、走組のアンソクも、歩いて不安定な足場で体重を支えることは出来ない。
 けれどヒヲは違った。天才だった。

 枝に足をかけるヒヲの姿。しかしやはり織衣装では動きにくいのか、幹に手をつく。自然に身体が動いて、アンソクは一挙動に木を駆け上っていた。

「ヒヲ!」

 裾を引っ掛けて不安定にバランスを崩した少女に、手を伸ばした。小さくて暖かい手を掴んで引き上げる。「わっ……!」「アンソク!」しかし、今度は自分が後ろ向きに落ちそうになり、ヒヲが急いで袖を引っ張った。そんなやり取りの後、ようやく二人は大枝に腰を降ろした。

 よい夕景色が見えた。瞳にだけそれを映しつつ、放心状態で一呼吸すると──アンソクはあごをがくがくさせながら、
「こ、こここわっ怖かっ……」
「アレ、大丈夫かいな?」
「だ、だて、ヒヲ落ちたらどうしよかと思たし、」
「えへへ、ごめんね〜。でもやっぱりアンソクは速いねぇ! すごいすごい」

 思いもかけず無邪気に褒められて、アンソクはまた別の意味でぶんぶん首を振る。
「あ、そ、それはたぶん、ヒヲは織衣装だから! もし走組の訓練を受けてたら、僕が負けるかも……ヒヲのほうこそ、走れるってやっぱりすごいや」

 早口に言ってしまって、その後に後悔した。

 夕影を纏い、ヒヲは困ったように笑った。

「きっと、忘れていたことを思い出したって、それだけな気がするのねぇ」
 続けて、何か喋っていた声は、アンソクの耳からすり抜けてしまった。

 忘れていたこと、忘れていたいこと、忘れたいこと、忘れたこと。
 全部、違う。それを、ヒヲは知っているように思えた。望んだわけではなく、運命の波に飲まれるようにして。

「帰ろう。みんな待ってるわいなァ」
 手を引いた。どちらともなく不安な気持ちで。情けない心地で笑った。
 ヒヲは、人攫いにさらわれた過去があった。
 さらわれてから二年近くたって、奇跡的に村に戻ることが出来た。トコヨがひどい心配性を抱え、ヒヲが天才と囁かれるようになったのは、そのときから。












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