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乱!
作:ハト



28、夏流し(2)


「──……」
 しんしんと、夏の虫の鳴く音が重なって、澄んだ闇を引き立てていた。
 トコヨはしばらくぼんやりと見慣れた天井を見つめていた。蒸し暑いはずの布団の上。涼しい風が絶え間なく首筋や顔を冷やしていた。
 それは、自然の風ではなかった。
「……なぜ、」
「ああ、悪ィな。勝手に家に上がらせてもらった。水飲むか? 何か欲しいものがあれば言ってくれ」
 部屋の隅で小さな蝋燭が燃えているようで、ほんの少しだけ、うちわで自分の事を扇いでくれているイイルの顔が見えた。いつかのように決まり悪げで、あの時よりもずっと、穏やかだった。
 倒れたのかもしれない。
 トコヨは見ていた悪い夢を、零れていかないように、追いかけようとしていた。けれど涼しい風が頬を撫でるたびに、それはさらさらと崩れ、流れていくのだった。
 欲しいものなど。
 無かった。

「何かが、欲しかった、訳じゃないわなァ。眺めて、憧れて、夢を見て。いつの間にか、重くて、どこにも行けなくなって。捨てれば、楽になれると、思ったのねえ」

 時折胸を掻き毟りたくなるような焦燥が襲ってきて、泣き喚きそうになる。
 その事情をただ一人知っていたイイル。
 『ヒヲを、必ずつれて帰ってくる』と、交わした約束を実現出来なかったから恨んでいる振りをした。そのトコヨの態度にわざわざ合わせてくれたのだろう。本当は優しい人だと知っていた。
「違ったのねえ……捨てたら、それは、私じゃあないのだって。ヒヲがいなかったら、こんなに、苦しくもなくて、幸せでもなかった」
 すうと透明な血液が零れてこめかみを伝って、耳を濡らした。

「ありがとう。あの時、止めてくれて」

 保てなかったのだ。笑うと、泣きそうになった。立てばしゃがみこみそうになった。歩けば躓きそうになった。騙した。逃げた。何食わぬ顔で、帰ってきたヒヲを愛した。ヒヲが笑った。その瞬間、自分が、自分に重なった。
「楽になろうとも、自由になりたいとも、もう思わない」
 それでいい。口に出せば、大したことではないのだと思えた。

 うちわが送る風が止まって、やっと目が慣れてきた薄明るい闇を、涼しい何かが覆って、トコヨは慌てて目を閉じる。目の上に、水で濡らした布が乗せられたのだとわかった。
 暗闇の中、イイルの変わらぬ声が響く。いつまで経っても不器用な口調で。

「考えすぎることなんざ、ねえだろうよ。勝手に死んだあいつがわりいんだ。ヒヲを攫った賊が悪い。お前が遠くを見がちで、入れ込みやすくて寛容な所だって、皆わかってる。やり直したいならそこから始めりゃいい。守りたいものは守ればいい。苦しいと、言葉にすれば誰だって助けるに決まってンだ。少なくとも俺は、今助けてるじゃねえかィ。まあ、無理矢理といわれりゃあ形無しだがよ」

 ああ。考えてみれば、マシロも、ヒヲもそうなのだった。
 トコヨに笑顔を向け、手伝い、支えてくれる。

「好きにしてろよ。そういうお前のことが、好きなんだよ」

 熱いまぶたを、優しい闇が冷やしていた。
 


 広場は明るく、にぎわっていて、アンソクはヒヲと一緒にその輪の中に飛び込んだ。
「おっせーぞっ!」
「げっ、なにヒヲと二人で来てんのさ!」
「ヒヲ、織衣装がかわいいワいな〜」
「あ、お菓子取っといたよ! 遠慮なくどうぞ〜!」
 ヨッコウやフジやエツ、オボロなどいつもの仲間たちがくつろぎながら声を掛けてくる。広場の真ん中に作られた舞台は炎で照らし出され、美しく浮かび上がっていた。走組の芸能の人たちが、ヨウシン伝説の演劇を始めるところだった。
 毎年観ているけれど、アンソクはわくわくしながら始まりを待った。無礼講で、配られるお酒をなめて騒いだり、仲よさげに会話する若い男女を冷やかしたり、舞台に登場した知り合いを囃したり、そんなことをしながら芝居を楽しむ。
 自由奔放な風の神様を、いつもあっちへこっちへ追いかけ振り回される風のお使いヨウシン。とうとう疲れて怪我をしてしまったヨウシンは、この村へ落ちてきた。そこへ村の心優しい女の人が通りかかり、彼を介抱する。
 一緒に暮らすうち、ヨウシンはすっかりその女性を好きになってしまった。そこで、決意を胸に、風の神様をまた探して走り回る。がんばってようやく見つけ出して、頼むのだ。優しい人と結婚して一緒に暮らしたいのです。どうか私を人間にして下さい。
 風の神様はわかったわかったとうなずく。その後で、ふと首を捻る。それで、お前の持つその風の力を、どこへやればいいのかね?
 困ったヨウシンが村に帰って事情を話すと、女性が一番に申し出る。それなら、わたしに少しわけて下さいな。
 村人たちもなるほどと、次々手を挙げた。こりゃあおもしろい! わしらにもちょっとわけてくれ。

「踊ろうよ!」「よっしゃ!」「トンボウ様の近くに行けないかなぁ〜」「アオイ! こっちこっちィ」

 演劇はここまで、ヨウシンが人間となり、みんなが風足を手に入れたところで、その喜びをあらわしてみんなで踊る。疲れると休んで、また踊りたくなれば輪に加わる。朝まで続いて、若者たちはどこまで踊り続けられるか勝負したりする。大人たちはそれを見て、昔の笑い話をする。
 アンソクは踊りながら思うことがある。その後、ヨウシンはどうしたんだろう。結婚して、幸せに過ごしたのかな。

 少し疲れて輪を外れ、広場の端で休むことにした。ヒヲが大勢に話しかけられ、朗らかに笑っているのが目に入った。美人で優しいから、本当ならアンソクなど相手にされない気がして、ちょっと自信をなくしてしまう。
「どうかした? 落ち込んでいるようだけど」
「わっ、ホヲスケ……」
 唐突に話しかけられ、アンソクは振り向いた。ヒヲのことを考えていたから、それに間違いなく釣り合う綺麗なホヲスケの姿が眩しかった。
「えっと、ううん……なんでもないよ。ホヲスケは踊らないの?」
「騒がれるのが少し面倒でね。後にするよ」
「あ、あはは、大変だねえ」
 そういえばヒヲに負けず劣らずホヲスケも女性に大人気なのだった。印象は冷たいが、実際のホヲスケは気が利くし、優しいし、神司としても優秀だから。今もちらちらと視線を感じる。
 誤魔化すように、長年の疑問をぶつけてみた。
「そういえば、ホヲスケは知ってる? ヨウシン伝説の続き」
「え?」
 珍しく、ホヲスケがぱっと振り向いてこちらを見た。本当に珍しくて、アンソクの方がびっくりしてしまった。
「その、ずっと思ってたんだけど。どうしてここまででお芝居は終わりなのかなって……続きはみんな忘れちゃったのかな」
 ホヲスケは一瞬、端正な顔を歪めて苦しそうな顔をした。
 ゆっくりと、時間をかけてその表情が穏やかなものに戻っていく。彼は言った。
「覚えてるさ」
 ふわりと立ち上がる。
「覚えてる、って、」
「俺はね。忘れたことはないよ。だからここに居る」
「う、え? えっと……?」
 歩き出すホヲスケを追って、アンソクも慌てて立ち上がる。
 炎で浮かび上がる静かな風の宮の境内まで、長い階段を登っていく。ホヲスケ、とアンソクが名前を呼べど、そこに辿り着くまで彼は振り向かなかった。暑い夏の夜が不思議なほど涼しく感じられた。
 ようやくアンソクにもわかる。村の皆が、ホヲスケに畏敬の念を向ける理由。フジが、彼の前でわけもなく萎縮してしまうという理由。ホヲスケは、とても────
「ここは、追悼の宮」
「追悼……?」
「うん。ヨウシンと、──彼が愛した女性、コウさんの」
「どう、して?」
「ヨウシンとコウさんは、幸せにはなれなかったんだ」
「ホヲスケは」
「見ていた。何も出来なかった。だから主に頼んだんだ。今度運命に巡り合うときは、俺を人間にして欲しいと」

 涼しい風が吹きぬける。
 そう、ホヲスケは、とても────神に近かったんだ。














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