勇者召喚物語
両開きの巨大な扉の向こうには、真っ黒な部屋が存在していた。
壁も、床も、天井までもが、全て黒。
その常軌を逸した真っ黒な部屋の入り口から奥までは、血のように真っ赤な絨毯が引かれていて、その左右には髑髏の燭台と青い炎を灯す蝋燭が、まるで侵入者を部屋の奥、その闇の深淵へと誘うように連なっている。
絨毯と燭台、不気味な青い光の導く先には、大きな、とても大きな玉座がある。
そしてその玉座に腰掛ける、六つの腕と三つの頭を持つ、堂々たる体躯の異形の怪物こそが俺たちの旅の目的。
「魔王、ディスティアンクルス……」
噛み締めるようにその名を呼びながら、俺はこれまでの過酷な旅路を振り返っていた。
十歳になるまでの俺は、ちょっと剣術と魔術が得意なだけのただの子供だった。
剣術の修業が厳しくて村を脱走して怒られたり、物の温度を上げる初級魔法『ホット』を使って悪戯をして怒られたり、ジャイアントビーの巣にはちみつを取りに行ってこっぴどく怒られたり、とにかく周りを困らせてばかりのヤンチャで腕白なだけのただのガキだった。
そんな俺が村の広場に刺さっていた神剣『アルティヘイト』を抜いてから、全てが変わった。
その瞬間から俺は、神剣を抜いた勇者として魔王を倒す宿命を負わされたのだ。
しかし、元々ただの田舎の村の少年だった俺が勇者としてこの魔王城に辿りつくには、想像を絶する厳しい修練と、数限りない試練を乗り越える必要があった。
生まれ育った村への魔王軍の襲撃。初めての魔物との戦闘。ガルーサス王と謁見。リティナ姫との運命的な邂逅。かけがえのない仲間たちとの、出会いと別れ。
勇者と呼ばれ、貴族として長ったらしい名をもらって、誰よりも優れた剣技や魔法を使えても、それで心までが強くなる訳じゃない。
魔王討伐の旅は、苦難の連続だった。
高熱のブレスで四桁に上る兵士を焼き殺したレッドドラゴン。切られても焼かれても決して進軍を止めなかった死者の軍団。どれだけ首を切り落としてもすぐに再生してしまう八つ首の龍。
立ち塞がった魔物たちは、どれ一つを取っても一筋縄ではいかなかった。
旅の途中で俺を苦しめたのは何も魔族だけではない。
魔族領の過酷な環境や、蔓延する疫病、食料の不足に、先の見えない旅への不安。
絶望的な状況は人間同士の衝突と摩擦を生み、仲間割れが起きたこともあったし、兄と慕っていた男に裏切られたり、助けた村の人間から化物呼ばわりをされたこともあった。
魔王四将軍の一人『極炎のカルマ』が俺の本当の父親だったと知った時はショックで戦うことを投げ出しかけ、俺に魔族とすら話が出来る万能の翻訳魔法を施してくれた、誰よりも人間との共存を望んだ悪魔族の少女が、他ならぬその人間に殺されたと聞いた時は、人間に救う価値などないのではないかと本気で考えた。
仲間からも、数多くの犠牲が出た。
俺の魔法の師匠だったハイアルは、魔軍大侵攻の際に殿軍を務めて壮絶な最期を遂げ、俺の寝相の悪さをいつもからかっていた盗賊少女のルッカも、子供嫌いを公言して憚らなかったひねくれ魔術師のサートンも、不死身の男と呼ばれたルキシスだって旅の途中で死んでしまった。
今、俺の隣に残っているのはハイアルの孫娘であり、治療術の使い手であるミミンだけだ。
しかしそれでも、それだけのことがあって、それだけの犠牲を払ってなお、いや、だからこそ俺はここに、魔王の前に立っている。
立つことが出来て、いるのだ。
「……下がっていてくれ」
俺はミミンにそう告げて、一人で前に進む。
相手は魔を統べる王にして、最強の魔族。
相対しているだけでその強大な魔力と威圧感がこちらに伝わってくる。
王国最強と呼ばれたアルティ流の剣術を皆伝し、人の使うあらゆる魔術を使いこなし、神剣から無限の魔力を引き出すことが出来、全ての魔力を殺し尽くす堕剣『バールザクス』を有する俺以外では、数秒たりともその眼前に立ち続けることは出来ないだろう。
ここからは、今までと次元の違う戦いとなる。
この部屋に俺を連れて来た時点で、『勇者の仲間』の仕事は終わったのだ。
それを、幼くとも聡明なミミンが理解出来ていないはずもない。
彼女は少しだけ悔しそうに、悲しそうに顔を歪めると、
「……負けないで、ください」
残った魔力を全て使って、俺に加護の魔法が掛けてくれた。
それが終わると、彼女は部屋の隅に行き、防護の結界を起動する。
最上位の結界と言えど、魔王と勇者の激突の余波を防ぎきれるとは限らない。
本当は部屋を出て欲しいのだが、彼女は聞き入れないだろう。
これ以上は俺にもどうにも出来ない問題だ。
俺は強引に思考を切り替えると、先程から一言も発さずに無感動にこちらを眺めていた最強の敵に向かって歩を進める。
「勇者、ユーリ・クリフタナス・ベルフィールド」
静かな名乗り。
それに、三面六臂の怪物も応える。
「魔王、ディスティアンクルス」
そして、問答はそれで充分だった。
直接相対したのはこれが初めてでも、これまでの旅、抗争を通じて、お互いの心根や目的、そこに懸けた想いの強さに至るまで、もう嫌というほどに知り尽くしている。
先触れも何もない。
ただ、ある瞬間、
「聖光貫け、ホーリーランス!」
「……闇に沈め」
同時に動いた互いの術式がぶつかり合い、ワードアース全土の命運を決する戦いが始まった。
――死闘だった。
魔法の威力、腕力、防御力、その全てにおいて魔王は俺を上回っていた。
しかし俺には魔力を増幅させる神剣、魔術を無効化する堕剣、そして村で叩き込まれた剣術と、師匠に教わった豊富な魔術の技があった。
神剣を持った俺は元々適性のあった光魔法を最高の威力で使えるだけでなく、適性に乏しいとされた空間魔法の行使すらも可能にした。
堕剣の一撃は魔力の多寡、その属性を問わず、どんな魔法をも消し飛ばし、魔法使いは元より、魔力によって体を構成している魔族への圧倒的なアドバンテージを俺に与える。
それでも人と魔王の地力の違いはなお埋めがたく、魔術に魔術を、斬撃に斬撃を返していればどうしたって打ち負ける。
故に魔王の強力無比な魔術を堕剣『バールザクス』で打ち堕とし、神剣『アルティヘイト』で増幅された魔術の刃で魔王の六本の腕と切り結ぶ。
一手でも誤れば即座に死に直結する綱渡りの戦闘。
だが、俺はその蜘蛛の糸のようなか細い綱を渡り切った。
「――奥義、堕神連斬!」
堕剣による魔力無効化と、神剣による魔力攻撃の二連撃。
俺の渾身の連撃が、魔王に残った最後の腕を斬り飛ばした。
「これで、終わりだ」
腕を奪っただけではない。
三つあったはずの顔の内、一つは潰され、一つは斬り飛ばされ、残った顔は一つだけ。
長く続いた死闘によって自慢の魔力も底を尽き、魔王にはもう反撃の手段はない。
この結果に至った理由は単純だ。
戦闘は、終始魔王の優勢でもって進んでいた。
ただ、無尽蔵の体力と魔力を持つと噂された魔王よりも、無限の魔力を生む神剣と、どんな魔力も食い尽くす堕剣を持った勇者の方が、消耗戦に向いていたというだけの話。
だが、
「ガァアアアア!!」
それでもなお戦意を失わず、魔族の王としての矜持も誇りもかなぐり捨て、手負いの獣の叫びを上げて特攻紛いの体当たりを繰り出した魔王の胸に、
「……悪いな」
俺は、神剣を突き立てた。
身体の中心を貫かれた魔王はそれでも前に進み、残った最後の頭、その牙が俺に届こうかという直前で、その身体はようやく動きを止めた。
「……終わった、か」
安堵と喪失感の交じった奇妙な感慨と共に、俺は剣を引いた。
宿敵を倒したという達成感も、旅を終えたという喜びも今はない。
まるで夢の中にいるかのような現実味のない世界で、俺は魔王の体から神剣を抜き取ると、部屋の端で俺を待つミミンの許へと足を進める。
「勇者様!」
満面に喜色を浮かべてこちらに駆け寄ってくるミミンの声に、ようやく俺にも笑顔が生まれる。
だが、すぐにミミンの顔から笑顔が消え、驚愕の表情に取って変わった。
(なんだ?)
振り向いて、絶句した。
もはや完全に事切れたと思っていた魔王、その唯一残っていた首が、こちらを見て笑っていた。
時を置かず、頭上に巨大な魔法陣が浮かぶ。
「くっ!」
咄嗟の判断で、魔王に堕剣を投げつける。
それは狙い過たず魔王の三面の最後の一つを貫き、魔王を完全に絶命させる。
だが、頭上に現れた魔法陣は消えない。
本能的に危機感を覚えた俺は、移動魔術と体術の足運びを掛け合わせた高速移動術『次元走破』で脱出を試みるが、不思議と足が動かない。
なぜか、散っていった仲間の姿。
そして殺してきた魔族の顔が頭に浮かんだ。
抵抗しようとした足から、力が抜ける。
(……そう、か。
俺は、ここで死ぬんだな。
魔王の最後の悪あがきを受けて相討ちだなんて、それこそ創作の中の勇者みたいだ)
空間が歪み、視界がぐんにゃりと曲がっていく。
黒い石壁や骸骨の燭台、蝋燭の青い炎も真っ赤な絨毯も魔王の死体も、更には手にした神剣までが、全てが現実ではないように奇妙にねじれ、よじれていく。
「勇者様!!」
ミミンが悲鳴のような叫びを上げるのを聞きながら、俺は奇妙に達観した意識の中で、この頼りない、浮遊するような感覚には覚えがあるなと暢気に考えていた。
(ああ、そうだ。これ、夢から覚める時の……)
俺がそれに思い当たった瞬間――
「――ってぇ!」
後頭部を襲った痛みに、俺は長い夢から覚めた。
視界の先には天井が見えるが、それはもちろん魔王城の常軌を逸した黒い天井などではないし、目覚めた主人公が呆然と呟くような知らない天井でもなかった。
無味乾燥な白い壁紙に、特徴のない丸い蛍光灯が取り付けられた、何年間も見上げ続けた俺の部屋の天井だった。
ベッドの横に転げたままで、寝ぼけた頭を巡らせて部屋を見回す。
そこには当然、黒い石壁も骸骨の燭台も青い蝋燭も真っ赤な絨毯も、ましてや魔王の亡骸なんてあるはずもなく、その光景は嫌になるほど現代日本の若者の部屋以外の何でもなかった。
ただ一つ、部屋の隅に置かれた『ある物』だけは異彩を放っていると言えるが、それだっていつもの部屋の風景だった。
「なんつー夢を……。
俺は、もうとっくに『卒業』したはずだってのに……」
俺は痛みとは別の理由から頭を抱えながら、独りそう呟く。
確かに俺は数年前、黒尽くめの服を好んで着て、ユーリ・クリフタナス・ベルフィールドなんてけったいな名前を自慢げに名乗り、勇者って最高にカッコイイとか考えていたりしたが、それは若気の至りだったと今なら分かる。
いや、そうやって客観視するとかなりの厨二病というか完全に黒歴史だが、俺には自分の過去を卑下するつもりはないし、あれはあれで自分の好きなことに打ち込めていた有意義な過去だったと整理をつけている。
だがとにかく、今の俺は単なるゲーム好きのフリーター、鈴原遊里であって、あんな夢を見ていいような人間ではないはずなのである。
「昨夜見た映画のせいって可能性はあるなぁ……」
昨日の夜に見たファンタジー映画。
剣と魔法の世界で悪しき竜を退治するという筋の話だったが、俳優の演技はそこそこでも敵役である怪物のCGがハリボテ以下で、更には恐らく技術的な問題で俳優と怪物を同時に画面に出せないというお粗末過ぎる作品だったが、そんな物でも俺のファンタジー魂を刺激するには充分だったらしい。
「ファンタジー、ねぇ」
どうしても違和感の残る単語を舌で転がし、俺はもう一度部屋の隅にある『それ』に目を向け、余計に一回、ため息をついた。
だがまあ、それを見たことで、この心のもやもやを払う手段は思いついた。
「久しぶりに、やるか」
今日のバイトは午後からだし、今からやれば午前の部にもギリギリ間に合うはずだ。
俺は机の上に置かれた一つのパッケージを手に取る。
そこには『DGO』という文字と、剣を振りかざし戦う少年、それに向かい合う恐ろしい魔物の姿が描かれていた。
「さて、と」
この部屋に備え付けられた唯一の高価な物。
バイト代で買った、俺の最大の贅沢品。
それが俺が今使おうとしているVRマシンだ。
まるで電気椅子のような専用の機器に腰を掛けて、かぶっただけで首の骨が折れそうなほどごついヘッドマウントディスプレイを装着する。
電源を入れて目を閉じ、しばらくの間リラックスして待っていると、聞いているだけで頭が馬鹿になりそうな勇ましい音楽が仮想の鼓膜に叩き込まれる。
作り物の現実で目を開けば、網膜に焼き付くメーカーロゴと、鮮やかにレタリングされたDGOの文字。
そうして俺は、『鈴原遊里』から、『ユーリ・ベルフィールド』へと変わる。
――ゲームの始まりはいつだって同じ。大仰でわざとらしく、そして唐突だ。
辺りを見渡せば、俺と同じように、現代日本ではありえないようなファンタジックな格好をした『プレイヤー』たち。
その姿にそこはかとない郷愁を感じていると、ほどなく脳裏に響くのは、決して拒めない運営からのメッセージ。
『ようこそDGOへ。
君たちはこの世界に囚われた。
今、この瞬間から君たちは自分の意思ではログアウト出来ない。
そして、この世界での死は、現実の死と等しくなる。
逃れる手段はたった一つ、それはこのゲームをクリアすること――』
――そして、ゲームは始まった。
「そうだろうと思ったよ。
一つだけ意匠が凝り過ぎなんだよ、お前」
部屋に足を踏み入れた途端、急に動き始めた石像を前に、俺はそうひとりごちる。
――ガーゴイル。
鋭い爪と悪魔の羽を持つ、灰色の門衛。
石像に擬態していた石の怪物は、その自慢の爪を俺の身体に突き立てようと迫ってくる。
上昇からの急降下。
自らの羽による加速と自由落下の速度を利用した、鋭い爪の一撃が俺を襲う。
が、
(わざわざご苦労さん)
それは、俺の目には自身の命を縮める行為にしか見えなかった。
迫り来る石の怪物を前に剣を寝かせ、一瞬の溜め、それから怪物目掛けて勢いよく剣を突き出す。
狙うはその首、即死判定を持つ怪物の急所。
刺突の速度に怪物自身の移動速度が加わり、通常の攻撃の二倍の相対速度を得た剣が、襲い来るガーゴイルを迎撃する。
「グギャァ!」
システムに用意された耳障りな悲鳴が耳に届く。
だが、それも一瞬。
ほぼMAXに近いレベルにまで鍛え上げられた俺の腕力と手にした聖剣の力によって、俺の一撃はガーゴイルの石の体をたやすく貫き、その首を跳ね飛ばした。
首なしの彫像となったガーゴイルはすぐにその姿を消し、後にはドロップアイテムらしき石の欠片だけが残った。
それを確認し、俺は武器の構えを解く。
と。
「さすがだな、ユーリ」
後ろから、声が掛けられる。
「アキラ、か。そっちも久しぶり、というか、珍しいな」
振り向いた先にいたのは、細身の体に白銀の鎧を纏い、身の丈を越える巨大な大剣を背負った剣士。
こんな華奢な体であんな巨大な剣を振るえるのかといつも思ってしまうが、いくらリアルを謳ってもここはゲームの世界。
膂力と体格は、ここでは必ずしも一致しない。
少なくとも、こいつを動かしているのはDGO屈指の優れたゲームプレイヤーであることを俺は知っている。
「ん、そうか?
それにしても、いつ見てもお前の戦いは凄まじいな。
DGO最古参は伊達じゃないって所か」
そう話すアキラの後ろには、アキラの仲間と思しきプレイヤーたちがいる。
見知った顔が半分、知らない顔が半分くらいだ。
だが、知っている面子を見る限りでは、高レベルプレイヤーばかりらしい。
それを横目で確認しながら、俺は首を振った。
「そいつは皮肉か?
俺は『こいつ』をやり始めてまだ一年も経ってないし……それに、最古参はお前の七姫だろ?」
てっきり俺は遠回しな嫁自慢を聞かされたのかと思ってそう返した。
しかし意外にも、アキラは自嘲気味に唇の端をつりあげた。
「なるほど、その口ぶりじゃ、ほんとに知らないんだな。
……七姫は、この前の戦争で逝ったよ。
こっちの魔術師の一団が、運悪く敵の大規模魔術で潰されてな。
戦線を維持するためには、敵の只中に飛び込んで足止めするしかなかった。
で、オレも……七姫も必死で戦ったんだが、駄目だった」
知らされた事実に、俺は息を飲んだ。
このゲームで、キャラクターの死がどんなことを意味するのか、分からないはずもない。
もう俺は、いや、もはや誰も七姫が戦場を舞う姿を二度と目にすることは出来ないのだ。
だがきっと、DGOでの死の重みを分かっているからこそ、七姫は敵陣に飛び込むという選択肢を選んだのだろう。
自分ではなく、他の大勢のキャラを守るために。
そしてだからこそ、自らの半身を失ったこいつもこうして笑って話が出来るのだ。
「悪かったな。無神経だった」
「いや、構わない」
アキラはさっぱりとした態度で俺の謝罪を受け入れた。
七姫とアキラ。
演じるキャラや言葉遣いは違っても、ふとした仕種やその根底に流れる気質は似通っているように思う。
そんなことを思って黙り込んだ俺に、アキラは苦笑してまた言葉を掛けた。
「本当に気にするなって。
正直に言えば、軽戦士の七姫がこの先も生き残るのは難しかった。
腕力や魔力は使うだけでその威力を100%発揮出来るが、素早さだけはそうもいかないだろ。
トップレベルまで特化された素早さを活かしきれるのは、レベル以上に常識外れなプレイヤースキルがいる。
戦闘スタイルに、そもそも無理があったんだよ」
「そういう……ものか?」
今一つピンと来ない話だった。
アキラが俺のために適当な作り話をしているのではと、つい疑ってしまう。
「おいおい。何も分かってないって顔しやがって。
常識外れなプレイヤースキルの持ち主ってのは、お前のことを言ってるんだぜ。
いくらキャラレベルが高いからって、ガーゴイルを一対一で倒すなんてどんだけ常識外れなんだよ」
なんてアキラが呆れたように言うが、それこそ俺にはピンと来ない。
「ガーゴイルなんて接近戦しかして来ないし、武器も持ってないからリーチは絶対にこっちが上だろ?
クリティカルポイントが首だって分かってるんだし、一対一ならどうやっても負けないと思うんだが」
俺が言い返せば、アキラはなおさら呆れたというように肩をすくめてみせた。
「それが規格外だって言うんだ。
あの速度で向かってくるガーゴイルの首を狙って攻撃するなんて、お前一体どんな動体視力してるんだよ。
そりゃスキルとか武器の補正とかはあると思うけどさ。
そこまで行けば、それはもう、才能、だと思うぜ?」
「才能って、大袈裟だな。
こんなもの、向こうの……日本の中じゃ、何の役にも立たないのに」
俺の言葉に、アキラはそりゃそうだ、と笑ってから、ふと真顔になって言った。
「だけどよ。ゲームとはいえ、そのくらい強いとつい妄想しねえか?」
「妄想?」
「このゲームのキャラクターそのままの能力を持って、魔物がいたり魔法があったりする異世界に召喚される、とか。
もしそんなことが起こっても、お前だったら、きっと……」
「やめてくれ!」
気付くと、思ったよりも強い口調でアキラを止めていた。
驚いた顔のアキラを見てやってしまったとは思ったが、その話題を続けて欲しくはなかった。
確かに、数年前までの俺は、そういうことを夢想しなかった訳じゃない。
このゲームを始めたのも、剣と魔法の世界の空気を感じたかったという単純な理由がある。
だが俺は、そういう思いをもう『卒業』したのだ。
馬鹿みたいな夢はもう見ない。
叶うはずのない希望はもう捨て去った。
魔法もなければ竜も魔王もいないこの平和な世界で、地に足をつけて生活していくと、そう決めたのだ。
DGOをやるのは、その前のちょっとしたモラトリアムのような物。
この世界を捨て去ることを、本気で望んでなんて……。
「悪い、ちょっと言ってみただけだ。
それより、ここを攻略するなら手を組まないか?」
「手を組む? いや、俺は……」
乱暴な口調ながら気遣いの出来るアキラは、強引に話を変えてきた。
その気遣いは嬉しいが、俺はここにソロで挑戦するつもりでいた。
口にしようとした断りの言葉を先回りして、アキラは言った。
「いや、お前がパーティを組まないってのは知ってる。
だから、出て来る敵を交互に倒して進むってのはどうだ?
……それならずっと、効率的だろ?」
にやりと笑いかけてくるアキラに、俺も笑顔で応えた。
探索は順調に進んだ。
このダンジョン『魔王城』は、最近実装された高レベルダンジョンの一つで、既にいくつものパーティが挑んだが、ほとんどが逃げ帰り、あるいは二度と帰って来なかった。
しかしアキラのパーティは最初に見込んだ通りの熟練者の集まりで、計算されつくした役割分担と息の合ったコンビネーションで危なげなくモンスターを葬っていく。
対する俺も単騎ではあったものの、右に手にした聖剣による各種魔法剣と、左に手にした魔剣の魔法無効化能力をうまく使って、何とか魔物の攻撃をさばき切っていた。
その度に後ろのアキラのパーティから感嘆の声が上がるのがどうにもこそばゆい。
俺がソロで戦闘が可能なのは、ひとえにこのゲームの特異性に依る。
『リアルなファンタジー』を謳うこのDGOには、システム的に回避不能な攻撃というのは存在しない。
一昔前のRPGのように『撃たれたら必ず当たる攻撃』などというものはこのDGOにはないのだ。
当然、『避ける隙間のない弾幕』や『高速すぎて回避が追いつかない射撃』、『どこまでもこちらを追尾してくる魔法』などはあるらしいが、実行可能か不可能かはともかく、理論上それらを回避、または相殺する手段は必ず存在する。
そして幸いにも俺は、今の所そういった『どうにもならない攻撃』にはお目にかかっていない。
激しい弾幕に晒されることはあるが、それは魔法剣による一撃で逃げ場を作れないほどではなかったし、視界外から飛んでくる射撃は厄介ではあるが、反応出来ないほど高速ではなく、追尾系の魔法は大抵小さいため、俺の魔剣で打ち払えばそれで事は済んだ。
言ってみれば俺は幸運によって生き長らえている訳だが、それがアキラたちには超人的な活躍に見えるらしい。
ゲームの中で超人に成れるのなんて、当たり前だというのに……。
「お、ここがボス部屋じゃないか?」
先行していたアキラの言葉に、俺は我に返る。
いつの間にか、目の前には両開きの巨大な扉があった。
「ユーリ、いいよな?」
ボス戦には、複数のパーティで挑むことが出来る。
当然人数制限はあるが、アキラのパーティと俺だけなら引っかかることはないだろう。
俺が無言で頷くと、ボス戦に備えて各種の回復魔法や強化魔法が飛び交い、準備が出来た所でアキラが代表して扉を開けた。
俺の方もついでに各種エンチャントをかけてもらい、更にHPは満タン、SPにも余裕がある。
どんなボスが来ても十分に渡り合えるはずだという自信があったが、
「な! こい、つ…!」
その奥にいたボスの姿を見て、俺は言葉を失った。
そこにいたのは、まさに魔王と呼ぶにふさわしいモンスター。
三つの顔と六つの腕を持つ、異形の怪物だった。
――激闘、ではあった。
それでも俺とアキラのパーティは三面六臂の『魔王』を討ち果たし、誰一人として死亡者を出さなかった。
ドロップアイテムを残して消えていく魔王の姿を見る。
魔王は死に際に笑うことも魔法を放つこともなく、ゲームの敵キャラらしく空気に溶けるように消えて行った。
魔王の消滅を確認して一息ついた後、疲労困憊した様子のアキラが俺に寄ってきた。
「あいかわらず、とんでもないなお前は。
どうしてあんなのと戦ってほぼ無傷なんだよ。
範囲魔法とかも撃ってきてただろ?」
確かに、魔王が瀕死になった時に繰り出してきた範囲魔法は危なかった。
攻撃範囲が広過ぎて、魔剣の魔法無効化だけでは対応出来ないのはすぐに分かった。
「発動した瞬間、火属性なのは見て分かったからな。
水の魔法剣を撃って相殺した」
「……ほんとに化けもんだよ、お前」
俺の答えに、アキラはその場に座り込んでしまった。
しっしと手を振る。
「さっさと奥に行って来い。
この奥にまだ部屋があるってことは、きっと結構なお宝が待ってるぞ」
「……俺が行っていいのか?」
「オレたちだけじゃ間違いなく全滅だった。
悔しいが、今回はお前に譲るさ。
……なぁ?」
アキラが振り向いて言うと、パーティメンバーからも同意の声が上がる。
中には悔しさがにじむ声をもあったが、それを俺にぶつけようとするような未熟な人間はここにはいないらしい。
「じゃあ、行ってくる」
これ以上の問答は無粋だろう。
それに実際に調べてみて、見つけたのが俺にあまり必要のないアイテムだったら、改めてアキラたちに渡せばいい。
俺は死屍累々といった様子のアキラたちに手を上げて挨拶すると、奥の部屋へと進んでいく。
アキラたちの心遣いに感動したのも確かだが、俺がアキラの提案を断らなかった理由はもう一つある。
『魔王城』というダンジョン。
そして現れた三面六臂のモンスター。
それは否応なく『ある記憶』を思い起こさせる。
今朝の夢で見た光景は、今なお褪せずに俺の頭の中に巣食っている。
偶然、だとは思う。
けれど、何かが起こるのではと期待させられるほどの、奇妙な符合。
この奥の、恐らく魔王城最後の部屋には何があるのか。
俺は久しく忘れていた興奮を胸に、最後の部屋に踏み込んだ。
すると、
「っ! 魔法陣?!」
部屋に一歩踏み込んだ瞬間、地面に魔法陣が展開される。
退避する暇はなかった。
瞬間的に周りの景色が歪み――
「――やられたな」
目の前にそびえる『魔王城』の入り口を見つめ、俺は呟くしかなかった。
最後の部屋に入った瞬間展開された魔法陣は、その場に足を踏み入れたキャラクターを強制的にダンジョン外に排出するトラップだったらしい。
最後の最後で実に意地が悪い。
流石ギミックの性格の悪さに定評のあるDGOだ。
とはいえ、あんな単純な罠に引っかかった俺にも責任がある。
どうやら奇妙な偶然に気を取られて、肝心の周囲の警戒が疎かになっていたようだ。
あれが致死性トラップだったら俺は、いや、『ユーリ・ベルフィールド』はあっけなく殺されていた所だった。
あるいは致死性でないからこそ危機意識が働かず、トラップが発動するまで気付かなかったのかもしれないが。
嘆息しつつ空を見ると、もう暗くなっていた。
もう一度このダンジョンに潜るのは時間的に不可能だろう。
(仕方ないな。あのダンジョンの宝はアキラたちに譲ろう)
そう決めると、俺は未練を振り切って踵を返す。
町に入って、今日の探索は切り上げにするつもりだった。
夜になったためか、俺以外にも多くのプレイヤーが町に戻ってきていた。
十中八九、宿に戻って休息するつもりなのだろう。
その人の波に飲み込まれるように俺も宿を目指し、馴染みの宿屋で少し並んでチェックインをする。
部屋に入ると迷うことなくベッドに横になり、そのまま俺は……ログアウトした。
「……ふぅ」
俺はごついヘッドマウントディスプレイを外すと、数時間ぶりの現実の空気を吐いた。
「DGOも、久しぶりにやると少し疲れるな」
そういえばしっかりとした説明をしていなかったが、俺がつい先程までプレイしていた、独特のシステムと殺伐とした世界観が売りのこのゲームの通称は『DGO』。
――正式名称を、『Death Game Online』という。
このゲームの名前にも入っているデスゲームとは一体何かというと、この場合『ゲームでの死=現実世界での死という状況で、ログアウト不可能なVRMMORPGを強制的にプレイさせられる』みたいなシチュエーションを表す言葉だ。
まだVRMMOが一つもなかった時代の創作小説から生まれた単語らしいが、ようやく現実が想像に追いついたと言うべきか。
VRMMOと呼ばれるゲームが生まれてから既に十年。
大体ある一つの作品が盛り上がると、すぐにその模倣が流行って市場に粗製乱造された模造品が氾濫、その辺りでそのジャンルの人気というのは頭打ちになって、そうなると今度はコラボとかハイブリッドとかパロディとか銘打たれた変化球的な代物が出回り始めるものだが、このDGOはその中での成功例と言える。
当然ながらDGOはデスゲームなどではないが、デスゲームを模した世界観に、『死亡すると即キャラクターデータ削除』『決まった時間、場所でログアウトしないと死亡扱い』という常識を疑うようなシビアな仕様が独特の緊張感とデスゲームと呼ぶに相応しい雰囲気を生み、その話題性が多くのVRMMOファンを引き付ける結果となった。
まあそういうゲームと分かっていても、自分の愛用のキャラを失った悲しみというのは相当な物だ。
キャラロストしたプレイヤーから運営に脅迫状が送られたことも一度や二度ではないらしいが、大抵のプレイヤーはその事実と折り合いをつけてうまくやっている。
実際にはキャラデータが消えても倉庫のアイテムデータは残るので厳密に初めからという訳でもないのだが、DGOではリスクを分散させるためにセカンドキャラ、サードキャラを並行して育成するのがプレイの鉄則となっている。
このゲームのベテランプレイヤーである七姫=アキラなどもその一例だ。
素早さを重視した軽装備で舞うように敵を倒す軽戦士七姫と、女だてらに大剣を背負い豪快な一撃で敵を葬る重戦士のアキラ。
七姫とアキラのプレイヤーである彼女(VR系のゲームのほとんどは倫理規定によって性別の変更は不可能)は、その二つのキャラを使い分けてDGOを楽しんでいた。
特に七姫は、彼女が嫁と公言して憚らなかった一番のお気に入りのキャラで、プレイ時間や作成時期からDGOの最古参とも言われていたキャラクターなので、その七姫を失った彼女の悲嘆は想像してあまりある。
しかし七姫の例から分かる通り、そういったゲームの性質上、同じキャラクターを長く使い続けることは難しい。
DGOは他のVRMMOよりもレベルアップの速度は速いが、敵のレベルが適正レベル以下だと取得経験値がほぼ0になる鬼畜な仕様のせいで、どんな高レベルキャラクターでも死の危険は常につきまとう。
むしろ熟練者の補助やパワーレベリングが期待出来ないトッププレイヤーの方が死亡率は高いという、このゲームの独特の状況が生まれていた。
そんな中でファーストキャラを今までずっと使っている俺のような存在は希少であって、俺も自惚れでなく、自分がトッププレイヤーの一人だと自覚している。
まあ俺が強いとか弱いとかを抜きにしても、DGOは今の俺にとって最高のストレス発散法だ。
配線やらの関係で部屋のド真ん中に設置されたVRマシンは正直に言って使わない時は非常に邪魔だが、このごつい機械にはそれを補ってあまりある魅力が備わっていることは間違いない。
なんてことをVRマシンを見ながら考えていると、携帯電話のアラームが鳴った。
そろそろバイトの時間だ。
俺は慌てて服を着替え、外出の準備を整え始めた。
「りんじ、りんじ、りんじしゅーにゅー♪」
数時間後。
バイトを終えた俺は、調子っぱずれな鼻歌を歌いながら家への道を歩いていた。
男の鼻歌とか誰得だよとは思うが、そのくらい機嫌がよかったのだ。
自慢ではないが、俺はどんな国の人が来ても意思の疎通を図ることが出来る。
その特技を活かして店に来た外人の相手をしていたら、店長がバイト代に色をつけてくれたのだ。
まあ実際にその金が入るのは給料日になる訳だが、とりあえずご機嫌にもなろうという物である。
そうやってスキップなどを交えながら軽快に歩いていると、その長さと勾配の急さから、近所の人に『心臓破りの坂』と呼ばれている坂に差し掛かった。
だがまあ、行きはともかく、帰りは下り坂になっているので俺の心臓が破れる危険性はない。
特に気にせずに歩いていると、狭い坂道を塞ぐように、運送用のトラックが住宅に横づけされていた。
「狭い道だってのに……迷惑だな」
運送の途中なのだろうか。
荷台の扉が大きく開いていて、そこから中の荷物が丸見えになっていた。
何の気なしに覗き込むと、その中のひときわ大きな段ボールに書かれた文字が目を引いた。
『魔術通販 ブラックマジックス』
けったいな通信販売もあったものである。
一体あんな物誰が買うんだと呆れながら、トラックの横を通り過ぎる。
「……ん?」
妙なざわつきを感じてトラックを振り返る。
運転席には人はいない。
エンジンも完全に沈黙していて何の危険もない、はずだ。
だがそこで視線を落としてトラックのヘッドライトを見て、俺はちょっと眉をしかめた。
「魔法陣?」
目の錯覚か、あるいはただの気にしすぎか。
トラックのライトの模様が、なぜか一瞬魔法陣に見えた。
(……考え過ぎだな)
今朝あんな夢を見たせいだろうか。
どうやら自分は相当ナーバスになっているらしい。
苦笑しながら坂道を下っていく。
――異変が起こったのは、俺が坂を下りきろうという時だった。
「ちょ、待て、やべぇ!!」
坂の上から、男性の妙に切迫した叫びが聞こえてきた。
なんだろうと振り返ると、俺を目掛けてまっすぐにトラックが突っ込んできていた。
だが、運転席は無人。
もしかすると運転手がサイドブレーキをかけ忘れたのかもしれない。
(……避けるか?)
まずは、逃げることを考えた。
しかし後ろ、坂の終点を見て考えを変える。
この坂の下は人通りも車の量も多いちょっとした大通りになっている。
(逃げられない!!)
迫ってくるトラックの、まるで魔法陣のようなライトを睨み付け、俺は――
「りんじ、りんじ、りんじしゅーにゅー♪」
数分後。
俺は調子っぱずれな鼻歌を歌いながら家への道を歩いていた。
男の鼻歌とか誰得だよとは思うが、そのくらい機嫌がよかったのだ。
あの『心臓破りの坂』でトラックに轢かれそうになった俺は、覚悟を決め、迫ってくるトラックを両手で受け止めた。
トラックがいくら重いとは言っても、所詮坂道で加速がついただけ。
重量はともかく、その速度はたかが知れていた。
大した速度の出ていないトラックであれば、俺にだって簡単に止められる。
俺はトラックを受け止めて下の大通りに突っ込む前に停止させ、必死でトラックを追いかけてきた運転手に引き渡した。
すると、事故を未然に防いでくれたとしてトラックの運ちゃんは俺に何度もお礼を言い、感謝と謝罪の気持ち、として俺に数枚の紙幣を握らせてくれた。
まあ何だか口止めの匂いがしたが、実際に事故が起こらなかったのは間違いない。
これからは気を付けてくださいねと念を押して、走り去っていくトラックを俺は手を振って見送った。
二度目の思わぬ臨時収入に頬を緩めながら、俺は商店街に寄っていくつかの買い物をしてから、小さな同居人の待つ家に帰ったのだった。
「――風子、いるかぁ?」
一応ノックをしてそう呼びかけてから、俺はドアを開けた。
中を覗くと案の定だ。
パソコンの画面を前に、座りながら器用に寝こけている俺の同居人がいた。
一応この家の家主に当たるこの少女は、残念ながら生活能力がまるでない。
俺が何くれと世話を焼いてやらなければ、食事もしないし風呂にも入らない。
そもそも部屋から一歩も出ない。
子供は風の子とはよく言ったものだが、ひきこもりのあいつが風子なんて名前だっていうのは皮肉な偶然である。
ただ、日がな一日パソコンをしているか怪しげな魔法陣でも書いているかなのに、どうにかしてお金を稼いではいるらしい。
それも、俺のバイト代がスズメの涙に思えるくらいの金額を。
前にどうやって金を稼いでいるのか聞いたことがあったが、
「ユーリさんも一日中パソコンとにらめっこして、トイレにも行かずにずっと画面の前に張り付いてればきっとこのくらい稼げるよ」
と自慢げに語っていた。
感心していいんだか悪いんだか、ちょっと微妙な所である。
あと、トイレには行けと言いたい。
一時期、はっきりと言えば彼女の両親が死んだ直後は今以上に荒れていて、ろくに眠らず食事も取らずに怪しげな魔術の本だのを読みふけっていたようだが、それと比べれば今は……まあ、今だって大して変わらないかもしれない。
とにかく居候として、家主をこのまま放置しておく訳には行かない。
俺は寝こける風子に近寄って、その肩をゆすった。
「ん、うぅ」
眠り姫よろしくゆっくりと目を開いていく風子は、俺を視界に収めると驚いたように首を傾げた。
「あれ、もしかして兄ちゃま?」
「誰だよそれは!
この家にそんなおかしな名前の奴はいない!」
思わず大声で突っ込むと、風子は今度は反対側に首を傾げ、
「あれ、もしかして黒の勇者ユーリ・クリフタナス・ベルフィールド様?」
「やめろぉ! その名はもう封印したって言っただろうが!」
「ひぅ!」
俺の叫びに驚いたらしく、亀のように首を竦めた。
相変わらず外圧に弱い奴だ。
震える風子を適当に宥めすかしていると、不意に風子がおかしなことを言い出した。
「あ、そうだ。ユーリさん、ちょっと目をつぶって」
「なんだよ、いきなり」
口ではそう言いながらも素直に目をつぶる。
視界が塞がれた分、鋭敏になった他の感覚で、風子が何やら探っているような気配を感じた。
「何、やってるんだ?」
「ちょっとね」
何かを探る風子の気配はそれからも続き、顔にかすかに風を感じた瞬間、俺は耐え切れずに目を開けた。
「うわっ!」
目を開けた途端、俺の眼前には大写しになった魔法陣。
それは今朝の夢、魔王の最後の抵抗で受けたあの魔法陣と寸分違いない模様で、驚く俺の顔にその魔法陣はぶつかって―
――特に、何も起きなかった。
「はぁ。また失敗か。
今回のはさっき届いたばっかのバジリスクの粉っていうのを使ったから、うまくいくかと思ったのになぁ……」
風子のため息に、俺は我に返る。
ハッとして風子が何やらガサゴソと探っていた方向を見ると、そこには『魔術通販 ブラックマジックス』と書かれた段ボールが……。
あのトラックに積んであったのは風子の荷物だったのか。
お前のせいで俺がどんな目にあったか、と恨み言を言いかけたが、考えてみれば風子のおかげで臨時収入がもらえたとも言える。
俺は口にしかけた文句を飲み込み、代わりにたしなめるように風子に言い聞かせる。
「あのな、風子。もうこんなことはやめろ。
魔術通販だか何だか知らないが、バジリスクの粉とかある訳ないだろ?
こんな馬鹿なことをするより……」
「バカなことじゃ、ないよ。ユーリさん」
しかし、気弱な風子にしては珍しく、はっきりと俺の言葉を否定した。
だが俺だってここは譲れない。
お互いの思惑が交差して、暫し、風子と睨み合う。
「……風子」
俺が低い声で彼女の名前を呼べば、彼女も俺をはっきりと見据え、か細い声で俺の名前を……。
「ユーリさ……黒の勇者ユーリ・クリフタナス・ベルフィールド様」
「何でわざわざ言い直したよ!」
封印したと言っているのにどうしてその名で呼ぶのか。
しかも頭に『黒の勇者』とつける所に風子の悪意を感じた。
「……はぁぁ」
大きく息を吐き出す。
間の抜けたやりとりですっかり気勢が削がれた。
俺は立ち上がった。
「俺は夕飯の支度をしてくる。
あと一時間くらいで出来るから、寝るなよ」
そう声を掛けて部屋を出ようとする。
だがそんな俺を、風子の声が引き留めた。
「ユーリさん」
振り向かず、ただ足を止める。
一瞬の逡巡の気配。
だが結局、風子はその言葉を口にした。
「わたしのこと、恨んでる?」
迷った末に口にされたのは、俺の想像以上にとてつもなく、とほうもなく、馬鹿な質問だった。
俺の中に、ふつふつと怒りが湧いてきた。
俺は勢いよく振り返ると、大股で風子の所まで歩み寄る。
「ご、ごめんなさ――」
怯えて顔をかばう風子の頭に、俺は、
「そんな訳、ないだろ」
出来るだけ優しく、手の平を重ねた。
安心させるように、そのぼさぼさの髪を撫でて整える。
「ユーリ、さん?」
まだ怯えたように俺を見上げる風子。
何でこいつは、こんなにも物分かりが悪いんだろう。
俺は馬鹿なこいつにも分かりやすいように、必死に言葉を選んでから口を開く。
「そりゃあ昔の俺だったら分からないけどな。
俺はもう、そういうことからは『卒業』したんだよ」
「でも……」
何か言おうとした風子を、頭を撫でて鎮める。
「今の俺にとっちゃ、他の何より、お前のことが一番心配なんだよ。
だから、今更お前のいない世界に飛ばされたりしたら、俺が困る」
俺の言葉に、手の下の風子の顔が、涙でぐしゃっと崩れた。
「あ、ぅ……」
言葉を忘れた様子の風子は、慌てて俺の手から逃げるように後ろを向き、ぐずっとすすり上げて、か細い声で尋ねてくる。
「ユーリ、さん。わがまま、言ってもいい?」
「ん? なんだ?」
穏やかに、そう返事をする。
今日に限っては、風子の願いは何でも聞いてやるつもりだった。
そして風子は、後ろを向いていてその表情が見えない今でも、照れていると分かるような声色で、
「また、ユーリさんのホットミルク、飲みたい」
そんな小さなワガママを言った。
だから、当然俺はこう答えた。
「――二十秒だけ、待ってろ」
ゆっくりと風子の部屋のドアを閉め、俺は速度を上げて動き出した。
格好をつけて二十秒なんて言った以上、それを守るつもりだった。
普通に走るだけだと間に合わない。
俺は風子の部屋から台所までを『次元走破』して、牛乳とマグカップを素早く取り出す。
(……そうだ。『あれ』を使うか)
思いついて、俺の部屋までをやはり『次元走破』。
部屋に入った瞬間、嫌でも目に入るVRマシン……をスルーして、部屋の隅に転がっている『ある物』、抜き身のまま寝かせてあった神剣『アルティヘイト』を手に取る。
台所に戻りながら、神剣の補助を受けて空間魔術を起動。
倉庫代わりに使用していた次元の異なる空間を開くと、そこからジャイアントビーのはちみつを取り出し、それを牛乳の入ったマグカップに投入。
俺が初めて覚えた初級魔法『ホット』を使って湯気が立つくらいまで温度を上げ、はちみつを溶かすため、仕上げに水系魔法で軽く撹拌すれば完成だ。
(そういえば、初めて俺がこの世界に来た時も、風子にこれを飲ませたんだよな)
今よりも散らかっていた風子の部屋。
みすぼらしい魔法陣を前に、途方に暮れた自分と呆然とした風子の映像が脳裏に蘇る。
魔王の全ての腕を切り落とし、更にはその胸に神剣を突き立てて、俺は完全に魔王を殺したと思った。
だが、勝利を確信して油断しきった瞬間、魔王の最後の魔法が発動した。
俺の頭上には見たことのない魔法陣が生まれ、その部屋にあった全ての物が、いや、視界に映る全ての物が歪み、よじれ、溶けていった。
そして視界の歪みが直ったと思った時には、もう魔王城のおどろおどろしい光景は影も形もなく、俺は目をまんまるに見開いたガリガリに痩せた少女と至近距離で見つめ合っていた。
――それが、風子だった。
俺の身に何が起こったのか、それをはっきりと知る者はいないので勝手に想像するしかないが、恐らくは風子が作った魔法陣と魔王の最後の魔法が呼応して、俺は風子の許に召喚されてしまったのだと思う。
当時の風子は両親の死を受け入れられず、家にこもって黒魔術の本を読んで、両親を生き返らせる方法を探していたと後から話してくれた。
信じ難いことだが俺は、俺の生まれ育った、力ある言葉から生まれたという世界『ワードアース』から、魔法の代わりに科学という技術が発達したこの『地球』へと世界移動を果たしたらしい。
幸い俺に施された『万能の翻訳魔法』の効果はこの世界でも有効だったので、人との意思の疎通に困ることはなかったが、この世界のことを何も知らない勇者と、両親の遺産だけを頼りにひたすら黒魔術に傾倒するだけの引きこもりの少女に、この事態を治める力はなかった。
それでも互いの不足を補うようになし崩しに同居生活が始まり、互いに衝突しながらその妥協点を探していった。
その結果、風子はひきこもりこそ改善されないものの、少しずつ外への関心を取り戻し、今では家にいながらにして、お金まで稼いでいるようである。
俺を元の世界に戻すために怪しげな物を買い漁ることさえなくなれば、随分とまともになってきたと言えると思う。
それは俺も同じだ。
初めの頃、俺は元の世界に戻ることばかり考えていたが、今では俺もこの世界にも慣れ、日本の常識もほぼ完璧。
戸籍なんかも持ってないため、あまりちゃんとした仕事は出来ないが、バイトで日銭を稼ぎ、VRMMOなんて物をやるまでにこの世界に馴染んでいる。
元の世界への未練がない、と言えば嘘になる。
だけどいつしか、元の世界に帰りたいと考えている時間より、風子のことを心配している時間の方が長くなっている自分に気付いた。
それを自覚した時、俺は決めたのだ。
――俺はこの世界で、この女の子と一緒に生きて行こうと。
「……おっと」
俺は掻き混ぜすぎて溢れそうになったホットミルクを手に、風子の部屋へと向かう。
あの時、あの魔法陣で風子が呼び出そうとしたのが何だったのか。
両親そのものだったのか、天使や悪魔、その他の超常的な存在だったのか、あるいは本当に勇者でも呼ぼうとしていたのか、俺はまだ教えてもらっていない。
だが風子が俺に『あの時わたしの前に出て来たのがユーリさんでよかった』と言ってくれてから、それはもう俺の中ではどうでもいいことになった。
「風子、出来たぞ」
前に部屋を出てからきっかり二十秒で、風子の部屋をノックする。
この世界の創作物では、召喚された勇者というものは自分を召喚した女の子のために戦うらしい。
だったら……。
「一秒遅刻だよ、勇者様」
――こんな平和な世界で、ひきこもりの少女と戦う勇者がいたって、構わないんじゃないだろうか。
初めて出会ったあの日のように、少女のその細い手にミルクのカップを握らせながら、俺はそんなことを考えたのだった。