夕焼けと友人
人間、知らぬ物というのは怖い物だ。日が落ちかけて、空が真っ赤に染まる頃、向こうにいる何者かが手招きをする。しかし光の加減から影ができ、手招きをする相手が何者であるかがわからない。相手が知人であればそれで良いが、もし見知らぬ相手であれば? いや、人間ですらないかもしれぬ。
そんな恐れを抱く時間帯を逢魔が時という。黄昏などとも表現されるその時は、もっとも魔に出会いやすい時間帯というわけだ。
「実際は柳の下の幽霊と同じで、勝手に見ている者が恐怖を抱いているだけなんだろうけどな」
日が暮れる小学校からの帰り道、僕はいつも一緒に帰る和田くんから、そんな話を聞かされた。
和田くんは来年、中学に上がる6年生で、僕と同じクラスの男子生徒だった。小学生が子どもであるのならば、和田くんは他の子どもから一歩先を歩いている大人びた子どもだった。
僕の知らない言葉を知っていて、僕よりも物事をたくさん考えている相手。そんな印象持つ友人だったのだ。
「その柳の下の幽霊って何?」
僕だって和田くんとは同じ歳のはずだが、和田くんの言っていることはちんぷんかんぷんだった。逢魔が時と言われても、それにどの様な漢字を当てるのかもわからない。和田くんが大人びた子どもなのだとしたら、僕は子どもらしい子どもだった。
「うーん。そこからの説明か? いや、ほら、家のカーテンが揺れてると、後ろに何かいるんじゃないかとか、カーテン自体が人影に見えるとかあるじゃん」
「そんなことがあるんだ?」
残念ながら、僕の家のカーテンはカーテンのままだ。人に変身したりはしない。
「怖がってる時はそう見えがちになるんだよ。でも、実際にはエアコンの風が原因だったり、寝ぼけた目で見えた錯覚だったりが殆どなんだけどさ。見たことない? 本当に?」
必死に僕に説明しようとする和田くんを見れば、さすがに僕でも話が脱線しはじめていることは理解できた。
「それで、その錯覚が逢魔が時なの?」
「だいたいはそう。人間ってさ、こう、相手の正体が分からないと警戒する生き物なんだよ。そして、こいつは危ないぞって頭が判断したら、怖いとか、逃げたいとか考える様になる」
目の上に手を上げて遠くを見たり、その場で震えたり走る真似をしながら説明する和田くんの話は、少し面白くもあったので、難しくてもなんとか理解できた。
「怖くなったら、相手をちゃんと見ることができなくなるんだよね。カーテンが人型になるんだっけ?」
「そう、それ。ただでさえ、日蔭にいる人間が見えづらいのに、頭の中で悪い方へ悪い方へと考えてしまう。向こうにいる相手が知人だったとしても、正体不明の魔物に見えちゃうんだ」
魔物と聞けばゲームのモンスターしか思い浮かべられない僕にとっては、想像が難しかったが、確かに良くわからない物は怖いかもしれない。
「それでさ、魔物に出会う場所っていうのは別に他にもあるんだよ」
急に話を変える和田くん。いや、魔物の話だから変わっていないのか。
「そんなのが幾つもあったら、そこらに魔物が沢山いることになるけど」
しかし実際に見かけたという人物はすごく少ない。話が合わないと思うのだが。
「まあ、そうなんだけどさ、でも他よりは出会いやすい場所ってことで、四ツ路がある」
「四ツ路? 地名か何か?」
テレビでやる様な心霊スポットなのだろうか。
「違う違う。道がさ、十字架みたいに四つに分かれてる場所があるじゃん。そこが四ツ路。そういう場所は、一目で全部の道を見れないだろ? 自分が見てない道から何か来てるかもっていう想像が、魔物に思えるらしい」
逢魔が時も、四ツ路も、怖がりな人が怖がりそうな場所ということだろう。僕にとっては、父親の書斎がそんな場所だ。父に叱られるのは何時もそこだから。
「それで、そんな逢魔が時と四ツ路の話を、なんで話したの?」
何時もはゲームの話や学校での出来事などを話す。怪談話はあまりしない。
「ああ、そのことなんだけどな。そのまま話を信じるなら、幽霊や魔物はみんな気のせいってことになるじゃん? でもさ、もしかしたら、本当に魔物が出るからそう言われてるのかもしれない。魔物が出るから人間が怖がって、そこが怖い場所と言われる様になったとかさ」
和田くんは止めていた足を動かして、家への帰路を進む。今からが話の本題になりそうなのに、どうしてだろう。
「でも、それって、鳥か卵が先かみたいな話じゃないの? 屁理屈で考えようとすれば、いくらでも考えられるよ?」
僕も和田くんが進むのにつられて歩き出す。
「だよな。だからさ、実際に試してみるしかないと思うんだよ。逢魔が時と四ツ路。二つくらい条件が揃えれば、本当に出会えるかもしれないだろ?」
そこまでいわれて思い出した。学校からの帰り道に、道が四つに分かれた場所がある。丁度、四ツ路と呼ばれる場所と言える。
「日も赤いし、逢魔が時っぽいよな。何かいるかもしれない」
僕は少し怖くなったが、すぐに思い直す。
「何時も帰ってる道だよ? 何かいるんなら、何度も出会ってるって」
見知った帰り道だ。今さら怖い場所かもなどとは思えない。
「いつもは意識してないだろ? 何かいるって。魔に出会える三つ目の条件を知ってるか? 相手がいるかもしれないって思う事だ。今は十分に意識してる」
和田くんの言葉は僕にではなく、道の先に向けられている様だった。僕の目にもその先にある物が映っている。四ツ路だ。
「夕日が良い感じに道を照らしてるな。ほら、あの電柱の影なんて何か居そうじゃないか」
僕を怖がらせるためだろう。そんな言葉を口にする和田くん。
「何も居ないよ。影になってても見えるもん」
虚勢が半分と実際に見ている事実が半分。そんな感情のまま、僕は意見を返した。
「そうかなあ。ここからじゃあ、道すべてを見渡せないだろ? 中央まで行ったら何か見えるかも」
「いいよ。いつもの道だし、行けば何もいないってわかるはずだ」
和田くんの挑発に乗る形で、僕は四ツ路の真ん中へと進んだ。一歩一歩、いつもの歩幅を気にしながら、なんでもない風に進む。しかし内心は心臓がドキドキと高鳴るくらいには怖がっていた。
道はそれ程長くなく、すぐに四ツ路の中心地点まで辿り着いた。何もない。何も居ない。脅かされて見ていた電柱の影にだって、怪しい物は一つも無かった。
当たり前だ。何を怖がっていたんだろう僕は。
「ねえ、もうさっさと帰ろう」
なんだか拍子抜けしてしまった僕は、後ろにいる和田くんに話し掛ける。
「本当に何も居なかったのか?」
笑いながら和田くんが脅かしてくるが、別にもう怖くもなんともない。
僕は帰る道へ向きなおして歩き出した。脅しが効かないと分かった和田くんも、小走りで僕の隣に並ぶ。
「だいたいどうしてこんな帰り道で、何かが出るかもなんて言い出したの?」
僕は横を向き、和田くんに話し掛けた。黒い影がそこにいた。
「え?」
真っ黒な影と目が合った。いや、顔の輪郭だけが辛うじて人らしい姿を見せるそれには、目も鼻も口も無い。のっぺりとした黒い顔がこちらを向いている。
「あ、あれ、和田くん?」
先程まで横にいた和田くんはどこに行ったのか。この黒い影が和田くんなのか? 黒い影から目を離せないまま、僕はゆっくりと影から距離をとる。少しずつ後ろへ、なるべく相手を刺激しない様、慎重に。
「はぁ……ふぅ……」
自分の息が妙に大きく聞こえる。夕焼けはまだ真っ赤に空間を染めていて、目の前の黒い影を強調していた。
「ひっ……」
思わず悲鳴がこぼれる。黒い影が、ユラユラとした手をこちらに伸ばしたのだ。まるで手で僕を探しているかの様に、僕の前の空間に手を振る。
これに触れては駄目だ。何故か僕の直感はそう判断する。しかし、激しく動けば相手も積極的に動いてくるかもしれない。今は僕がゆっくりとしか動いていないから、相手はこちらを探る様な動きしかできないのでは? もしかしたら、僕を見失っているのかもしれない。だから僕に触れず、僕を手で探しているのか。
「でも……どうしたら……」
影の手は少しずつ僕の顔に近づいて来る。逃げるには、素早く動かないといけない。けどもし、相手が僕の動きに気付いたらどうなる?
もう少しで影の手が僕に触れる瞬間、僕の腕は何者かに引っ張られた。
「うわああああああああ!!!!」
影に腕を掴まれたと思った僕は叫び声を上げる。手を引っ張る力は強く、引き摺られそうになりながら、引かれる方向に進んでしまう。
「良いから走れって! あいつに追いつかれるぞ!」
僕の腕を引いているのは和田くんだった。和田くんはその場で固まる僕を、影から遠ざけようとしてくれているらしい。
「う、うん」
一瞬、あの影が和田くんなんじゃないかとも疑ったが、目の前にいるのは確かに和田くんだ。もうあの影の近くにいたくないという恐怖もあってか、僕は和田くんに引かれるままに走り出した。
「良かった、あいつ、動きは遅いみたいだ……」
和田くんは、僕の後ろの方を時々振り向きながら走っている。僕も釣られて振り向くと、やはり僕の立っていた場所には黒い影がいた。人型の輪郭だけで、あとはすべて黒一色。型がそうなだけで、人らしい凹凸も少ないその影が、ヌタヌタと手や足を動かしていた。
どうやら僕らを追おうとしているらしい。しかし、まるで無理矢理人の姿を取っているかのようにぎこちない動きのせいで、ノロマに見えてしまう。
「なんとか、逃げられそうだな」
和田くんの言う通り、影との距離はどんどん離れて行き、四ツ路を出る頃には影自体まるで最初から居なかった様に見えなくなっていた。
四ツ路から離れた別の道で、僕と和田くんは、さっき出会った影について話していた。
「あの影さ。俺の横を通り過ぎて、お前の横に並んだんだよ。俺、一瞬何が起こったのか分からなくなってさ。ごめんな、すぐに助けられなくて。絶対、あの影、お前を狙ってたぜ?」
平謝りする和田くんを僕は制止する。
「もう良いよ。何ともなかったんだし。それより、なんで、あんなのが出てくるような話をしたの? いつもは怖い話なんてしないのに」
僕はずっとそれが疑問だった。夕暮れの帰り道、いつもは明日の予定や、学校で流行っている遊びや物の話ばかりだった。なのに今日に限って怖い話をする。結果、あんな良くわからない物と出会う破目になった。気にならないと言えば嘘になる。
「実はさ、俺、中学は私立に通うことになりそうなんだ……」
和田くんは突然、関係の無さそうな話をする。
「私立? 普通は近くの中学に通うんだよね?」
「ああ、公立のな。でも、俺は親から私立の方に通いなさいって言われててさ。そうなると、中学になってから俺達疎遠になりそうじゃん。だから、今の内になにかイベントでもあればなあって思ったんだよ。でも、本当にあんなのが現れるなんて……」
そうか、通う学校が違う様になれば、今日の様に共に帰ることも無くなるのだ。確かにそれは寂しかった。
「忘れられない事件にはなったよね。多分、一生忘れないと思う」
世の中には自分の常識が通じない何かがいる。そのことを知るというのは、確かに忘れられぬ思い出になるだろう。
「危ない思いさせてごめんな?」
何度も謝る和田くん。怖い話をしたのは和田くんであるが、怖い体験をさせたのはあの影である。和田くんがそんなに謝る必要はないと思うのだけど。
「とりあえず、暫くはあの四ツ路に近寄らない様にしよう。また、影に会うかもしれないし……」
今日はそう話して、別の道から帰ることになった。それ以降も、何度か和田くんと一緒に下校をしたが、あの道を通ることは一度も無かった。
結局、和田くんの言うことは本当になった。僕は中学生になり、通う学校が変わったことで、和田くんとはあまり会わなくなったのだ。
けれど、あの時の体験は、今でも懐かしい思い出として僕の中に残っている。過去の記憶は綺麗に思えるのか、あの影と出会った時のことも、あまり怖いと感じなくなっている。
「だから、もう何度もこの四ツ路に来ちゃっているんだよね……」
もう一度、あの影を見たいなどとは考えていないが、あの夕焼けの日の下の情景を、目の裏に焼き付けたいと、そう思っていた。
「あれっきり、影にも遭わなかったし。もしかしたら、幻覚か何かだったのかなあ」
最近はそう思ってしまいそうになる。しかし、やはり小学生の時、この場所で出会った影は本物なのだ。だからこそ、今でも僕はここへ―――
「なあ」
「ひっ!」
背後から声を掛けられて悲鳴を上げる。あの影が現れたのか? 一瞬、そう思って振り返ったが、そこにいたのは僕と同じくらいの年齢の中学生だった。
中学生だと分かったのは、相手が僕と同じ制服だったからだ。
「え、えっと。何?」
悲鳴を上げたことが恥ずかしくなり、混乱しながら僕は相手に話し掛けた。それにしてもこの相手、どこかで見たことがある様な。
「いや、その、もしかしてさ……」
相手は僕を見て、言い難そうに何かを伝えようとしている。そして僕も、恐らく相手が何を言いたいのかに気が付いた。
「もしかして……和田くん?」
すぐに思い出した。話しかけて来た相手は、先程の思い出の中にいた、和田くんにそっくりだった。違う点を言えば、身長が伸びている点だろうか。
「おう! そうそう。やっぱりお前か。何だよ、ここは危険だから近寄らないんじゃなかったのか?」
和田くん側は僕が本人かどうか半信半疑だったらしい。こちらから和田くんの名前を言ったことで、確証が持てたらしい。
「あれ以来、影と出会ったりもしてないからね。和田くんの方こそ、なんでここに?」
お互い、この場所には近寄らないという話だった。ただ僕は、思い出を忘れたく無くて、何度も足を運んでしまっていたけど……。
「なんかさ、忘れたくないじゃん。貴重な経験だったんだからさ」
和田くんも同じだったらしい。あの日の夕暮れ、この場所で遭遇したことは、今では良い思い出となっているのだ。
「そうだね。僕もさ、なんだか忘れられなくて、この場所に来てる」
「なんだよそれ、お互い危なっかしいなあ。どうせなら、またあの四ツ路の真ん中まで行ってみないか? 今度は並ぶ相手を間違えない様に、手でも繋いでさ」
和田くんは片腕を僕に向ける。なんとなくそれも良いかもしれない。
「そうだね。一度、行って見るのも良いかもね」
僕は和田くんが伸ばす手を握り返した。
「えっ……」
手を握った瞬間、何か違和感を覚えた。何か、握手をする手の感覚が変なのだ。どうにも手ごたえが無い様な……。
違和感と言えば、和田くんの服装もそうだ。どうして和田くんは僕と同じ制服を着ているのだろう。私立の中学校に通っているのだから、違う制服のはずなのに……。
僕は恐る恐る和田くんの顔を見た。
「………」
ああ、影が僕の手を握っている。